第2話 死

————ピピピピピピ。


 うるさい目覚まし時計の音に俺は目覚めた。


 寝ぼけ眼で周りを見回す。

 カーテンは閉まり、薄暗い。

 微かに差してくる光で、埃が舞い散っているのが分かる。

 ゴミが至る所に散らかり、ティッシュの屑が落ちていたり、食べ終わったカップラーメンが、いくつも机の上に重なっていたりするのが目に入る。

 その光景に腐った心にさらに淀みが走った。


 ああ、また1日の始まりだ。あと何回繰り返せばこの生活に終わりが来るのだろう。あと何回繰り返せば夢は叶うのだろう。あと何回繰り返せば俺の努力は報われるのだろう。


 幾度も考えたことが、重く心に乗りかかり、さらにきつく沈んでいく。

 やりきれない想いを吐き出すようにため息をつき、時刻を確認する。

 16時27分を指す時計が目に入った。


 もうこんな時間か。早く支度しないと。


 毎日のルーティンを、今日もまた始める。

 空いた腹を埋めるように、余っていたご飯を口に入れる。

 それから服を着替えて、身なりを整えていく。

 着替えが終わると、俺は楽器を携え、外へ出た。

 

 外出する頃には、空は薄暗くなり始め、夜が訪れている。

 少しひんやりとした空気を肌に感じながら、俺は歩みを進めていく。

 見慣れた暗みがかった裏路地の景色を横目に歩き続ければ、やっと大通りへ出る。

 人混みのごった返した騒々しさは、裏路地の暗鬱な雰囲気とは相対して華やかだ。

 

 人の間を慣れた動きですり抜け、いつもの定位置にたどり着く。

 音楽機器を地面に置き、準備を進める。

 その間もチラチラと、前を通る人が興味深げにこちらに視線を送ってくる。

 ストリートライブを始めた当初こそ恥ずかしさがあったが、今ではそんな視線など気にもならない。


 準備を整え終えた俺は、ギターを持ち、置いたマイクの前に立つ。

 そしていつものように歌い始めた。


 歌い始めると一気に注目を浴び始める。大体通る人が一度はこちらを向く。

 そして時々人が立ち止まる。だが1人、また1人と去っていく。

 しまいには誰一人聞いてくれる人が居なくなってしまった。


 この光景を見るたびに俺は自分の歌声から自信を失っていく。

 いや、もう何年も続けてきて、自信など擦り切れた。

 今、失っているものは心だ。生きる気力だ。やる気だ。


 いつまで続ければいいのだろう。こんなことを続けていて何になるのか。夢を追いかけていて意味などあるのか。

 歌うのが辛い。音を出すのが苦しい。曲を奏でるのが痛い。


 出来ることはすべてやった。リップロール、腹式呼吸、横隔膜によるビブラートなどの基礎的なことからその応用まで、あらゆることを練習した。

 何度やったことか。これだけ繰り返して努力して、それなのに、成果が全く報われない。


 ふざけるな!誰もよりも歌い、何年も続け、限界まで挑戦してきた。 

 努力は必ず報われる?そんなわけがないだろ。なら、何で俺には1つも成功の兆しがないんだ。

 別に成功させろとは言わない。

 だけどこれだけのことをやってきて、一欠片も報われることがないのはおかしいだろ……。


 これだけのことをしたのに成功しない。それはつまり俺の歌声に魅力などなかったということだ。心に届ける力なんてものは持っていなかった。

 所詮俺は、井の中の蛙だった。


 確かに俺は歌が上手かった。人に褒めてもらえるだけの良さはあったのかもしれない。

 だがそれは『一般人にしては』だったのだ。

 そんなことも知らず、自惚れて歌手になるなんてバカなことを豪語して、アホすぎるにもほどがある。

 

 自分の才能に絶望した俺の心は蝕まれ、やる気は失い、歌う楽しさは奪われた。

 だがそれでも俺は歌うことをやめられない。やめるにはもう遅すぎる。後悔しても、もう何もかも手遅れなのだ。

 歌手になるなんて馬鹿な選択をするべきじゃなかった。あの選択が俺の人生をすべて狂わせたのだ。


 観客が一人もいなくなったまま、俺は今日もまた、夜遅くまで歌い続けるのだった。

 

 人の気配も少なくなり、片付けを始める。

 暗く闇に包まれた世界の中、1人でいることがとてつもなく寂しい。

 才能のない自分に、人に愛される資格などないと、突きつけられているようだ。

 歌った喉の疲労を飲み込み、俺は次の場所へ移動する。歌の時間が終われば、次はバイトだ。


 バイト先は家近くのコンビニで、店員3人で荷運びやレジ打ちをするのが仕事だ。

 俺が休憩中、扉の向こうで話し声が聞こえてきた。


「店長〜、音方さんって確か27才でしたよね?それでまだ音楽で夢を追ってるってやばくないですか〜?」


「山田くん、そんなこと言ってはいけないよ。彼だっていい大人なんだ。もうすぐ夢に見切りをつけるだろうし、気にしなくていいんだよ」


 余計なお世話だ。

 もう夢を諦めなければいけない年齢なのは自覚している。それでも俺はやめられないのだ。

 今更歌うのをやめて何になる。まともな職業になど就けやしない。

 それに今まで続けてきた努力を無駄になどできるものか。諦めるには多くのものを犠牲にし過ぎてしまった。


 これまでの俺の努力を無我にする二人の会話に、言い返したいがその言葉が見つからない。

 彼らが言うことは正論だ。

 社会的に見て、彼らの意見は正しく、俺の行動が間違っている。

 

 バイトが終わってからも、彼らの会話がずっと頭の中から離れない。

 俺がもしも、今の生き方を楽しく肯定的に捉えられていたなら、反論も出来ただろう。

 あるいは数年前だったなら。

 だが俺自身が元から今の生き方が間違っていると、認めている以上、彼らの意見は正しくあってしまうのだ。


 ああ、やっぱり歌手なんて目指すべきじゃなかった。

 

 後悔の念が心に渦巻き、収まらない。

 だんだんと気分はさらに沈みこみ、将来への絶望が重なっていく。

 重しとなったどす黒く染まった気持ちを抱えて、俺は足取り重く、帰宅の道を歩き続ける。


「……っ!?」


 横断歩道を歩いていると、目の前にトラックが迫っていた。

 ライトで照らされたせいで眩しい。

 細める目で、迫りくる鉄塊を見つめる。


 ああ、これ死ぬな。呆気ない人生だ。

 音楽の才能などなく、まったく成功することが出来なかった。

 これまで積み重ねてきた努力は、まったく意味のないまま失われてしまう。

 歌に俺の全てを費やしたのに何も残せなかった。 

 ましてやこの世に傷跡すらつけられなかった。そんな俺の人生に、意味などあったのだろうか。


 せめて、才能がないことが分かっていたなら、違う人生が歩めたのに。

 何も残すことができなくてもいい。何の意味もない人生だとしてもいい。


 ----俺は平凡に生きて、平凡な幸せを築いて、平凡に終わりたかった。


 

 



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