三十八話 歌声の下に
馬が潰れることも厭わない速度で休むことなく駆け続け、ハガネが率いる軍勢は帝都へと帰還した。町は夜の静寂に沈んでいたが、大通りを北上するにつれ、眠る町は徐々にその表情を変えていった。
(――城が!)
驚愕に声を上げたのはカイトだった。帝都城の高い城壁の周囲で、赤々とした火が弾け、雷が夜闇を裂くのが遠目にもはっきりと見えた。その光景に、ハガネが率いる兵士たちの中にも微かな動揺が広がり、先陣を切るハガネの背後でざわめきが立った。
「案ずるでない! あの程度のことで帝都城は落ちぬ!」
ハガネが声を張り上げる。その心には、堅牢な城と大将軍への信頼があった。しかし、その一方で押し潰されるような倦怠感もあった。夜通し馬で駆けたことが原因では無い。帝都に入ってから、ハガネの耳には常に歌声が聞こえていた。その歌声が、ハガネの意識をゆっくりと蝕んでいた。
(く……何という力ある歌だ! 魔力と、それよりも遥かに強い神剣の力だ!)
(おい、大丈夫か!?)
(城までは保たせる! せめて状況を確認するまでは……!)
(くそっ……ていうか、ウェインの時もそうだったけど! 思えばお前しかこの神剣の力に当てられてないのな……!)
それが何故なのかと考えるどころではなく、ともかく城に着いたらどうするかという脳内会議で忙しい。ハガネには、自分の意識がもう長く保たないことは分かっていたし、カイトも後の動きを引き継ぐつもりでいた。状況次第としか言いようが無いが、この歌の根源を抑え込むという方向では意見は合致していた。
(けど……決起ってことは、そこに妖精族が集ってるってことだよな。タイタスの奴、無事でいてくれるかな)
(分からぬ。……こういう時のために色々と言い渡しておいたが、もしあの力の支配下に置かれていたならば……)
それ以上のことをハガネは考えなかった。城へと続くつづら折りの坂道を、馬たちは最後の力を振り絞るように駆け上がっていく。耳には歌声以外の音が届くようになっていた。怒号、合図の鐘や太鼓の音、そして魔法が炸裂し、火が爆ぜる轟音。火に照らされる夜空を見上げれば、空を飛ぶ人影があった。妖精族が空から攻勢をかけているのだ。
「信号弾! 魔皇帰還を知らせよ!」
ハガネが指示を出すと、すぐ後ろに控えていたエルフ族の兵が、天に向けて火を放った。高く飛翔した火花は空中で弾け、赤と黄色の光を放射する。それから三分と立たないうちに、前方で大きく旗を振る人影の姿が見えた。
(あれは、手旗信号か)
(手旗信号?)
(我に呼びかけておる……しかしいったい誰が?)
訝しみながらも、ハガネは振られる旗を見る。一音一音を転写したものではなく、軍の中で使われる命令系統を示す信号だった。信号弾以上の複雑なやり取りができる反面、その意味を知っていなければ読み取れないものだった。馬の速度を緩めつつ、ハガネはそれを読み解く。
(籠城、敵勢力は城門前に展開、死者は無し――敵は二十以下、正気にあらずか)
(正気にあらず……やっぱり操られてるのか)
それ以上の情報は無いらしい。旗を振っていた旗手は旗を降ろし、闇の中へと姿を隠した。旗を振り回していると敵に見つかりやすくなる。攻撃を危惧しての退避なのだろう。ハガネはそれ以上旗手の方を見ず、再び城を見上げた。
「全軍止まれ! 斥候は馬を下りて城門前を偵察、状況を確認せよ!」
城門が正面に見える辺りに差しかかるところで、ハガネは号令を出した。馬が並足に速度を落とし、スピードを緩めて止まっていく。完全に行軍が止まったのを見つつ、ハガネは間近に迫った戦場を見やった。城門の前に人だかりができている。一見するとそれは民衆が押しかけているだけのように見えたが、背に色とりどりの羽根を持つ妖精族の集団は、次から次へと城壁や城の中へと魔法を放っていた。
それは、城への攻勢というにはあまりにまとまりを欠いていた。まるででたらめに放たれる魔法には城門を破る力などなく、城壁を越えて城内に着弾したところで有効打にはなり得ない。空から攻撃を仕掛ける者もいるが、長時間飛び続けることができない妖精族は数発魔法を放つごとに地上へと戻り、他の者が入れ替わりでまた空へと上がることを繰り返し、やはり動きには統率が取れていない。
そこにあったのは、ただ日々の不満をそのままぶつけているような、力無い暴力の光景だった。――ただ一点を除いては。
「報告します! 敵は城門前に散開! その数二十! また、歌の根源は散開した敵陣のほぼ中央にあるようです!」
「……そうか。その者の首を取ればこの動乱は終わる……陣をこの場に張る。無用な交戦は避けよ。我がこの手で頭の首を取る」
「は……しかし、陛下。いくら敵の統率が取れていないと言えど、それは危険に過ぎるかと……」
「承知はしておる。我が前に出る際、もしこちらの陣営に攻撃が来るようならば魔法を放って撹乱せよ。無用な交戦は避けるのだ」
ハガネの指示を受けた斥候が、後方の陣へと戻っていく。ハガネは前に視線をやったままの目を細めた。日が昇り始め、白む空気の中に城壁と、そして妖精族の姿が明々と浮かび上がる。放たれる魔法の余波と羽根からこぼれ落ちる鱗粉が朝日の中で眩く輝いている。歌声の中を輝きながら舞い飛ぶその様は、神々しさとも禍々しさとも付かない美しさがあった。
もっとも、ハガネはそのようなものを感じてはいなかった。ただ、意識が蝕まれゆく感覚に焦燥を覚えていた。
(……カイトよ、どうするのが正解なのだろうな。歌声の主を見るなり殺すのが一番手っ取り早く危険も無い。しかし、いくら操られていたとはいえ、血に塗れた同族を見れば、妖精族たちは怒りや失望を覚えるだろう)
(俺に任せてくれれば、神剣を引っこ抜いて全部を終わらせられるぞ)
(そうだろう。だが、そのようにしても、神剣の欠片の持ち主は死するのではないか? ……この状況に追い込まれた時点で、全てを穏便に終わらせるなどとは夢物語に過ぎぬ)
(……だったらどうした!)
カイトは一喝した。弱気になったからこそハガネがそう言うのは分かっていたが、その言い草に同情はしなかった。むしろ怒りすら覚えていた。
(いまさら最善手なんて取れないだろ。向こうのトップを潰すだけじゃ民の不平不満が溜まるようになっちまってるってんなら、それはいままでの行いのツケだ。けど、その責任はお前だけに背負わせやしない。神剣の影響のせいで誰かが苦しむなら、それは俺の責任でもある)
(お前も責を負うというのか。魔族のことは、人族の勇者であるお前には関係無いというのに)
(勘違いするなよ。お前がちゃんと統治しないで国が乱れてると、世界が平和にならないんだ。次の戦乱なんて誰も望んじゃいない、もちろん俺もだ)
結局のところ、魔皇と勇者の決戦だけで全てが解決したわけではなかったのだ。魔皇を倒せば平和になる――カイトはそう思い続けていたが、戦いが終わった後の世界を己の目で見て、果たしてその思いは正しかったのだろうかとすら思うようになっていた。
ハガネだけに問題があるのではない。世界は、人は、いちいち問題を抱えているし、その問題が解決しないままいくらでも転がっているのが、戦争が終わった後の世界だった。
神剣などその要因の一つに過ぎないし、カイトにとっては状況に介入する口実の一つでしかなかった。
(さあ、行こうぜ。お前がぶっ倒れても、後は俺が何とかする。いい加減、中にいる将軍様が待ちくたびれてるころだろ)
(ああ。もう夜明けも来る。……行くか)
ハガネは手振りで後方の陣へと指示を出すと、馬の腹を蹴って前へと進み始めた。行く手には、城壁へと攻勢をしかけ続けている妖精族があった。背後から進み出るハガネに、誰も気付いた様子が無い。斥候どころか見張りすら立てていない陣営の中に、馬の足で蹴らないよう慎重にハガネは入り込んでいく。距離を詰めるごとに、耳に届く歌声は大きくなり、ハガネの精神を苛んだ。
距離にすればそう長くはない距離だった。ハガネには目もくれずただ城壁へと魔法を放ち続ける妖精族たちの輪の中に入ったハガネは、ついに歌声の根源を見付けた。
そこには一人の女がいた。ハガネはその女を、どこかで見たことがあるように思えた。
「……そなた、あの歌劇の歌い手だな」
そこに立って朗々と歌声を響かせ続けていたのは、あの台覧の舞台で魔皇として歌声を響かせた歌い手の女だった。
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