三十話 幕営にて

 グレービニ大森林は、帝国領内の他の森林地帯に比べれば決して総面積が広い方ではない。十指に入るかどうかという程度の規模だったが、それでも帝都が丸々入るほどの広さがあり、何よりも主要な街道の付近にあるため林業を支える重要な基盤となっていた。森沿いには幾つもの村が生まれ、木材の生産や輸送の他、森から流れ出る滋味豊かな水を引いた田畑による農業も盛んに行われていた。

 産業として、そもそもグレービニには大変重要な拠点である。それ故に森の中にも幾本もの道ができ、近隣の村に籍を置く帝国軍の地方組織である巡視隊も存在していた。林道を主に見回り、盗賊や不法に材木を運び出す者を監視する巡視隊は、しかし戦争を経て一時機能不全に陥っていた。地方軍であった巡視隊は一時国軍に合流し、戦後は再び元の体制に戻されたものの、金銭的にも人員的にも不足が多く充分な戦力があったとは言い難かった。


 そんな巡視隊の一番の問題は、人手不足でも資金不足でも無かった。


(……なんつーか、前途多難だよな)

(無駄な手間を取らせてくれるが、それも我が身から出た錆よ)


 殊勝な態度を取ってるな、とカイトは思いつつ、それもしょうがないかとも思った。帝都城から出発し、槍のように鋭い二本の角を持つアラケル種の軍馬を走らせたハガネを待っていたのは、各地に点在する荒れた様子の農村と、それでも立派な居を構えた役人たちの邸宅だった。帝国の政治をカイトはよく知らないが、役所や出張所が帝都以外の町の行政を仕切っているらしい。

 そこが腐敗していた。そしてそのついでのように、巡視隊も汚職や賄賂だらけだった。

 捕まえた盗賊から金をせしめるかわりに見逃したり、木材を勝手に売りさばいたりと巡視隊は好き勝手やっており、その過程で得た金をいわば上納の形で地方役人に渡して、不当な利益の黙認や職務怠慢を見逃してもらっていたらしい。


(まあ、良いわ。妖精族たちの動きを見ねばならぬし、森の中に分け入るとしても準備が必要だ。戦争以降、行政が各村落の実態調査を怠っていたせいで、村がある場所、村が森に飲まれた場所、そして森の中にある道がどの程度残っているか分からぬ。その把握からまず始めなければいけない状態だ)

(この三日で、多少はダイスがやっててくれたんだったか?)

(本当に多少だがな……地形の把握というのは存外面倒なものだ。目印がほとんど無い森の中ならなおさらだ。三日どころか一週間あっても、森の中の全容は把握できないかもしれんな)


 そういった雑務でダイスが時間を割かれているので、名目上の演習はもっぱらハガネが受け持つこととなった。戦争では負け無しとすら言われた名将である魔皇の手並みに、カイトは舌を巻くどころか、途中から無い胃袋を痛め始めた。


(い、胃が痛くなってきやがる)

(無いものは痛まぬだろう。というか、どうしたのだ。演習ごとき実戦に比べればさほどのことでも無いだろう)

(そりゃそうだけど、もしこれが実戦だったらとか考えるともう……お前と戦う時に少数で潜入、奇襲しかけたときは無茶やってると自分でも思ったけど、これと戦うよりも無茶なことはねーよな……)


 小高くなった丘に陣取ったハガネは、軍を二つに分けて指揮を出した。片方は防戦、もう片方が攻勢に出る形での演習だったが、そのどちらの動きも乱れがほとんど無い見事なものだった。部隊の中はさらに細かく分けられ、五人から十五人という単位の小さな隊が鱗のように寄り集まり、それらが一度に動くことによって軍隊としての動きを成している。隊の人数を少なくして部隊数を増やせば各隊ごとの足並みが揃わなくなり、隊の人数を増やせば情報伝達の遅れから隊の動きが鈍る。ハガネは最も効率良く、そして素早く動かせる隊の形をよく知っていた。

 カイトはいつも、四人一組で戦っていた。勇者として各地を巡る間、魔族の軍と戦う国の軍と戦線を共にすることもあったが、大きな組織の中に組み込まれることは無かった。戦線は軍に任せ、指揮官や主力部隊を狙って襲撃することが多かったのだ。軍というものと、正面からぶつかり合ったことはほとんど無かった。


(もし……最終決戦の時、あんな量の軍隊と真正面からぶつかり合ってたら……)

(問答無用で死んでいただろうな。お前は並の軍人より遙かに強いが、四方八方から絶え間なく攻撃されては適わぬだろう。万夫不当の力を持つ勇者と言えど、本当に万の兵に攻められればひとたまりも無い)

(魔皇のお前でもか?)

(然りだ。軍はただ百人、千人の兵が寄り集まったものではない。人が増えれば増えるほど取れる戦法は増え、それと相対する者は多様な力に襲われることになる。たとえばだ、カイト。お前がもし正面から我が麾下に戦いを挑んだとしたら、単純な力押しの戦法でも、四方から魔法による炎や雷、風の刃に氷のつぶてが襲いかかるのだ。仲間が四人揃っていたとしても、どうしようもないだろうな)


 想像したくも無い光景に、カイトは冗談じゃ無いと呟いた。そして、一つ思ったことをハガネにぶつけた。


(……数の力が分かってるなら、数の力を軽視するようなことしてたんだよ)

(軽視していたつもりはない。もし帝都の民が結束して巨大な力を生み、何か事を起こすのならそれは当然の摂理と考えていた)

(もうそんなこと考えてねーよな? 何か最近ちゃんと仕事してるし)

(いや? いまもまだその考えは変わっておらぬ。力こそ全てというのは真理だ、個にしろ集団にしろ、そこにある力が世を動かすのだ。だからこそ我は魔族を従え、強大な力を手に入れた……つもりになっていた。結果、意に従わぬ者が大量に出て、勇者に縋るという無様な有様になったわけだ)


 俺に協力関係を申し込むのがそんなに無様かとカイトは思ったが、殺した相手の魂をわざわざ引っ張ってきてまで頼んだのから、確かに相当無様な状態かもしれなかった。



 演習が終わる頃には日暮れになり、兵たちはそれぞれ設営された幕舎に戻っていた。木と布でできた幕舎は、しかし魔法による加護を与えられて強い強度を持つ。幕舎の回りには馬除けの柵や塹壕が作られている。戦時中にもかかわらずそこまでするのかとカイトは思ったが、もし戦いが起こった時にいつでもそれができるようにするための訓練だ、とハガネは説明した。


(……でも、人族のやり方とはだいぶ違うんだな。魔法が使えるせいで、塹壕なんてあっという間じゃないか)

(今回はできる者を連れてきたからこそそうさせたが、それを魔法でできぬ者とている。有事の際は誰でも人力で同じことができるように、別日にまたそういった訓練は行うことになるだろうな)


 説明するハガネの様子は少し気怠げだった。ハガネは、自分の幕舎を自分で建てていた。十数人という数が押し込まれる他の幕舎と違い、ハガネの幕舎は一人用だ。大きさこそ小さいが、柱には金属を使い、布の上を鎖で編んだ幕で覆い、矢が通らないようになっている。頑丈な造りの幕舎を、ハガネは魔法を使って作ったのだった。


(大丈夫か? 魔法、使いすぎたら倒れるんだろ)

(食事まで少し休む。もし動きたくば許可するぞ、カイト)

(いや、別に用事無いしいいよ。でも何か急にあったら対応遅れそうだし、俺は起きとく)

(ふむ……殊勝な心がけだ。ならば頼んだぞ……)


 ハガネの声がふっと途切れ、その意識が急速に遠ざかっていくのをカイトは感じた。眠りまではあっという間だった。カイトは手を握ったり閉じたりという意識を持った。するとその通りにハガネの、華奢な少女の手指が動いた。体は完全に自分のものになったようだが、本当にすることが無いので、有事に備えてひとまず精神だけでなく体も休めておくかと簡易寝台に横になる。


 すると、ものの五分ほどで誰かが幕舎の外で鈴を鳴らした。扉ではなく布の幕で内外を仕切る幕舎ではドアをノックして魔皇に謁見を求めることはできない。かといって、魔皇に直接声をかけるのも畏れ多いことなので、出入り口の前には、風が吹いた程度では鳴らない重い鉄の鈴が吊されているのだった。

 その音を聞いたカイトは起きるべきかと逡巡したが、その迷いの内に、許可もしていないのに天幕が払われた。

 驚いたカイトは寝台の上で身を硬くする。起きた方がいいとは分かっているのだが、魔皇として麾下の兵と接すると、いらぬ誤解を受けたり、最悪自分が――勇者の魂が魔皇の体の中にあることがバレてしまうかもしれない。こうなれば寝たふりを決め込んでしまった方が気が楽だ、と思ったことをカイトはすぐ後悔することになった。


「……姉上」


 囁くような静かな声が上から降ってくる。カイトは悲鳴に喉を鳴らしそうになった。ダイスが寝台の傍らに立っている。いや何でだよ、と声を出すことができるならカイトはそう言っていただろう。


(お前、いくら弟でも魔皇の幕舎に勝手に入って良いのか!? しかもこんなちんちくりんとはいえ、女の部屋に普通に入ってくるのもどうなんだ!? てか、気配が近っ……!?)


 半ば混乱しかかっているところにさらに追い打ちをかけるように、ダイスが動く気配がした。かと思うと、体に何かが触れたような感触が伝わり、カイトはいよいよもってぞっとした。


(ねっ、寝てる間に……って、も、もしかしてこの野郎弟のくせに――!?)


 などとカイトが非情に不埒なことを考えた直後、腕の辺りに触れた指先が動くのと同時に、中途半端な位置にあったシーツが胸元まで引き上げられた。ほっとしたのも束の間、今度は嫌に近くに呼気を感じる。微かだが頬に息が当たるということは、とんでもなく近くに顔があるということだ。ほとんど真上から見下ろされているような形を想像して、カイトは再びぞっとした。さっきよりも怖気が酷いのは錯覚では無い。


「姉上……」


 囁かれたカイトは本気で身の危険を感じた。自分の体ではないが、それでも危機的状況にあると思考が判断して、ひたすらに焦りを募らせていた。が――


「……何を企んで狸寝入りなどしているんだ。からかっているのか?」


 間近に吐かれた言葉は冷静だった。その冷ややかさすら感じる声に、カイトの思考の暴走がようやく止まる。と同時に、諦めの感情も湧いてきた。もう起きるしかない。嫌々ながらに目を開き、取りあえずハガネが言いそうな言葉を絞り出す。


「姉の顔を至近距離から覗き込む者がいるか」


 目を開けると、


「呼気や眼球の動きを見ようとすると、どうしてもそうなる。……それにしても姉上、以前よりも狸寝入りが下手になったな」

「……そ、そうか?」

「以前ならば、仮死状態かと見まごうほどの出来だった」


 どういう寝方だ、というかなんでそんな特技なんか持ってるんだとカイトは寝ているハガネにツッコミを入れつつ、寝台の前に跪いているダイスをじっと見た。ダイスは数秒ハガネの目を見つめた後、口を開いた。


「やはり、魔法を使うと体調が悪くなるのか」

「え? いや。悪くなると言うほどでも無い……な。ただ眠くなるという程度だ」

「それならばいいのだが。出立前、白痴も……ミュリエルから話を聞いた。いまの姉上の体に魔法は負荷が強いと」

「知らなかったのか?」


 カイトはうっかりそう口を滑らせていた。すると、ダイスの表情が瞬間苦渋に歪んだ。指摘されたくもないことを言われたと言わんばかりの顔にカイトは、何かフォローを入れた方が良いと思った。が、カイトが口を開く前に、ダイスが話し出していた。


「何故、もっと早く言ってくれなかった。そういうことをどうして自らの口で、俺に語らなかった。そんなにも俺が信用ならないのか?」

「違う!」


 とっさの発言だった。不味い、とカイトも頭のどこかでは分かっている。その場の情に流されて、ハガネが言いそうも無いことを言い出そうとしている。ハガネは確かにダイスに対しても不信を抱いていたのだ。ダイスは宰相アマルガムと通じているかもしれない。そう疑わせるようなことが事実としてあった。魔皇の椅子にただ座っていればいいと言われたこともあった。だが、それでもこの場でダイスにハガネへの不信感を募らせるのは駄目だとカイトは思ってしまったのだ。政治や権力がどうのという理由ではなく、姉弟だからという単純すぎる理由で。


「し、心配を……かけたく、なかったのだ。ただでさえこの見た目になった挙げ句、不調が周囲に知れると、その……色々と不都合が起きるだろう?」


 しかし、二人の仲を取り持とうにも気の利いた言い訳は出てこない。微妙すぎる距離感な上に、弟の前で姉のフリをするというのが極めつけに難しいのだ。もしかしたらこれで、何かを感付かれるかもしれない――


「姉上……!」

「ひぇ……っ!?」


 情けない悲鳴はどうやら大声にならず、喉の奥で鳴るに留まったらしい。が、そんなことに注意を払っていられる余裕などカイトには一切無い。ダイスがいきなりハガネの体を抱き締めてきたのだ。まさかそんな行動に出るタイプだとも思っていなかったため、カイトの思考は再び混乱をきたした。


「分かっている、俺は不遜な態度を取った。姉上に剣を向けたことさえあった。いまさら信じろ、頼れと言ったところで、一時の感情に任せた暴挙が許されるとは思っていない。俺とて未だに、姉上の失策に対する失望や怒りが拭えたわけではない。そんな状態で、姉上が妖精族に対して真摯な対応をしようとしているから、というだけの理由で『姉上を認め直した、自分が悪かった』などと言ったところで信頼など寄せられないだろう」


 堰を切ったような感情の発露に、カイトは戸惑うしかない。それほどに、ダイスが姉を想っているようには見えなかったのだ。ダイス自身も言うように、姉に対してはかなり反抗的な態度を取っていた。もちろんそんな態度を取らせた原因はハガネにあるのだが。


「それでも……ここは戦地になる可能性がある。その身に危険が及ぶかもしれない。なるべく状態は万全に整えてくれ。幕舎の設営など、俺に一言命じれば良かっただろう。戦が起こらずとも、姉上に不平不満を抱く者は臣下や兵の中にいるんだ。……いや、その不満を持つ者の筆頭である俺が言ったところで、という話か」

「クィンシー、お前は……」


 純粋に、ただ姉を慕っているだけなのだろうか? 確かに唐突ではあったが、その言動が演技だともカイトには思えない。何かを尋ねたいような気もしたが、しかし、結局部外者でしかないカイトは何も言うことができなかった。臣下を従わせる力を、とハガネに請われてはいたが、こんなことは想定外だったし、対処のしようがなかった。


「……悪かった、休息の邪魔をして」


 ダイスは、言うだけ言うと腕に抱いていたハガネの体を離して、寝台にそっと寝かせ直した。カイトが「気にするな」というと、鉄面皮のようだった顔がほんの少しだけ緩んだ気がした。

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