七話 隣国の魔王
広い城内を大股で行き――といってもハガネの肉体は幼い少女のものなので半ば駆け足になっても中々の時間がかかってしまったが――ハガネは白石の間の前にようやくたどり着いた。警備の近衛兵が扉の前に二人立っており、ハガネが来ると驚いたように目を丸くした。
「魔皇様……! こ、こちらへはどういったご用向きで?」
「中に魔王クロロペルルがいると聞いたが、事実か」
「はい、あの、しかし……」
近衛兵の返事は歯切れが悪い。苛立ちに兵士を睨み上げながらハガネは、
「何か魔皇たる我に具申したいことでもあるのか?」
「い、いいえそんな! 畏れ多い……しかし、」
ハガネへの応対をしていた兵士は、隣に立っているだけの兵をちらりと見た。お前も何とかしろよ――という咎める意図があったのをカイトは読み取った。もちろんこんな状況に対応したくないからこそもう一人の兵士は黙って立っていたのであり、目を向けられれば露骨に嫌そうな顔をした。が、ハガネに視線を向けられると流石に、黙っているわけにもいかなくなったのだろう。
「……宰相閣下が、この部屋には誰もお通しするなとおっしゃっていました」
言いにくそう、というより言いたくなさそうにそう言った。
(宰相? アマルガムが何で魔皇より先に会って……まあ魔皇が城にいなかったからってのもあるんだろうけど)
(アマルガムとクロロペルルは以前から、協議や会談の場のみならず電信や手紙などでのやり取りもあったほどだ。その内容は知るところでは無いが……独自の通信で先んじてクロロペルルの来訪を知っていた可能性はあるな)
だとすれば出し抜かれたことになる。もっともカイトは、ハガネの疑心は行き過ぎているとも思っていた。それでなくとも、いきなり城を飛び出したハガネの方が今回は非があるだろう。
だが、カイトがそう思ったところでハガネは悪びれた様子も無い。
「アマルガムが命じたか。ではその命を取り消し、我を通すがよい。アマルガムめの誤った命による行いだ、我が前をさえぎったことを責める者は誰もおらぬ」
「はっ、その命承りました。どうぞお通りになってください」
あっさりと言ってのけたその兵に、初めに対応していた方の兵がぎょっとした視線を送る。が、これ以上の話は聞くものかと言わんばかりにもう一人の兵は敬礼をしたまま動かない。
(この二人、すっげぇ板挟みだけどもしかしてこれが日常になってんのか……?)
(アマルガムが出した命を我が取り消すこともあれば、我の命の裏でアマルガムが何かをしていることもある。板挟みと言えばそうだろうな)
(……ハガネ、気が向いたらあいつらの給料上げてやれよ。精神疲労分乗せとけって)
ハガネはカイトの考えを黙殺しつつ目の前のドアを開けた。
その部屋は、一面が鈍い光沢を放つ白い石でできていた。
床も壁も白いためにそれまでの城内の景色よりも明るく見え、ハガネはほんの数秒目をすがめたまま室内を歩かなければならなかった。細めた目に映るのは、白い部屋に置かれた黒い革張りの二脚のソファと、それに腰かける二人の男だった。一人はハガネやダイス同様、尖った耳や高い身長をした、彫りの深い顔にしわが刻まれた老境のエルフ族。もう一人の方は全身に翡翠色の鱗を生やし、のっぺりとした魚のような顔つきをしている。水辺に住む魔族、メロウと呼ばれる種族だった。二人の他には警護のためか、部屋の隅に大将軍ダイス他四、五人が控えている。
突然現れたハガネに、一番の驚きを見せたのは老境のエルフ族の男だった。思わず、と言った様子でソファから腰を浮かせ、すぐに座り直す。それから二度三度と口を開きかけ、何かを言おうとしていたが――その前に部屋の隅にいたダイスが動いた。一瞬驚きに瞠目したかと思うとすぐに険しい顔つきになり、ハガネの前に歩み寄る。明らかに怒っている様子にカイトは竦み上がる思いだったが、ハガネの方は平然と、腕を組んで目の前に来た弟を見上げた。
「大将軍ダイス。これはいかなることか? 魔王クロロペルルの謁見は明日の予定だったはずだが」
「こちらに向かわれる船で、良い風の巡り合わせとなられたために旅程が予定よりも早まったご様子です。しかし残念なことに、その報告を私めが兵より受けたものの魔皇陛下のお姿が城内にあらず。ご報告が遅れてしまったことは
うわ、メチャクチャ怒ってる――とカイトは思った。何を言っているのかは難しすぎて分からない部分もあるが、身内に――カイトの身内では無いが――ここまで回りくどく言われるとどうにも本気で怒られているような気分にしかならない。しかしハガネは怒られようが堪えた素振りを見せない。
「なるほど、それは悪かった。所用で城を開けていたのでな。しかし旅程が早まろうとも予定は変わらぬ。こうしてアマルガム宰相と会うのは予定に入っていないはずだが?」
「明日の会談の段取りを今日中に済ませておこうとしたまでです。此度の会談につきましては議事録も作成してあり、魔皇陛下がお戻りになった際に奏上することになっておりました」
「そういった物事を決める権限は、宰相には無い。もちろんお前にもだ、ダイスよ」
「全てご自分でお決めになるというのなら大人しく城にいたらどうなんですか。供を付けるどころか誰にも報告することなく出奔するなどと、魔皇としてのご自覚が足りないのでは?」
段々反抗的になってきたダイスに、そろそろこの辺で言い争いを止めなければどうしようもなくなってくるなとカイトが思っていると、まるでそのタイミングを計ったようにダイスの背後から声がかかった。
「いや、はや。これは、これは、失礼しました。此度の会談、私が、無理を言って、実現したもので、ございます」
はっきりと、一言一言を相手に馴染ませるように区切って話し出したのは魔王クロロペルルだった。ソファから立ち上がり、軽く両手を広げてハガネの方へと数歩出たかと思うと、その場で膝をついて跪拝した。
「どうか、どうか、お気を鎮めください、魔皇様。全ては、私めの、不徳の致すところで、ございます」
「ふむ……そなたに頭を下げてそう言われるとなると、これ以上は言えぬな。城を空けた我にも非があることは確か。本件は不問に処す。面を上げよ」
「はっ、ありがたき、幸せにござります」
クロロペルルが顔を上げる。にっこりと笑ってみせるその魚面に、ふとカイトは心がざわめくような感覚を覚えた。
(? カイト、どうした。何かを感じ取っているようだが)
(いや……何か、違和感?)
(クロロペルルにか。面識があったのだったか?)
(前の大戦の時に、お前との決戦のとき力を貸さないよう取り引きしたりとかしたけど……)
アク・アク・リトルは貿易大国だ。売買される物品の中には当然武器もあり、そういった側面においても魔族を支援しないでほしい――という取り引きを行ったのが、カイトの仲間の一人であった魔法使いシーガルだった。クロロペルルの戦闘能力は大したことが無かったとはいえ、貿易大国の魔王に直談判をするという大仕事をやってのけたシーガルにカイトは感心するばかりだった。
(どういう話をしたのか、俺がいない場でも延々話し続けてたからよくは知らないし、だからあんまりクロロペルルのことは知らないんだけどな……それでも何か引っかかるっていうか。喋り方も完璧同じなのに、そっくりさんがものまねしてるような感じっていうか……似せすぎてる感じがするんだよな)
(……影の一つでも立てているやもしれぬな。クロロペルルは元より武芸に秀でた魔王ではない。魔力も並だ。商才だけは逞しいようだがな)
十数秒程度のカイトとハガネのやり取りの間、じっと見下ろされていたクロロペルルは笑みを浮かべたままぴくりとも動かない。ハガネもまた、その笑みに不気味なものを感じていた。
「――さて、魔皇様がおいでになったところ、大変、心苦しいのですが。明日のこともあります、そろそろ、お暇を、いただきとうございます」
「待て、クロロペルルよ。そなたに聞きたいことがある」
この場を退こうとしたクロロペルルをハガネは呼び止めた。しかし、クロロペルルが答えるよりも先に、ダイスが横から口を挟んだ。
「陛下、クロロペルル様とて長時間の会談でお疲れでしょう。ここはお控えください」
「我に下がれと言うのか、ダイスよ」
「己の職務を放棄するがごとく城を開け、クロロペルル様に会われる時間を自ら削ったのはあなたの方です。分を弁えられよ、務めから自ら背かれた身分でしょう」
丁寧な語調ではあるが恐ろしく不躾な言葉だった。ハガネも流石に鼻白む思いになったが、腹を立てることはしなかった。理はダイスの方にあった。
「致し方ない、この場は退こう」
「何から何まで、申しわけ、ございませぬ。無理に事を急いては、やはり無礼で、ございましたな。では、これにて……」
クロロペルルはハガネに深く頭を下げると、その場から退こうとした。だが、ドアの前で足を止めると、何かを思い出したように振り返った。
「……そういえば、この城の庭園は、素晴らしいと聞きます。が、特に不凍の水園の眺めは、大層幻想的で、美しいらしいですな。この後、見て回っても、よろしいでしょうか? 是非、我が国の城にも、同じ様式の庭園を、造設したいものでして」
「庭か? 庭など自由に見て回るとよい。案内の者は必要か。侍従等、こちら側が用意できるものは用意させるが」
「いえ、いえ、それには、及びませぬ。私一人で、充分でしょう。この城に、服の裾をかじるような、不躾な鼠も、いないはず。では、今晩、月の階段が表れるとき、参りましょう。月が水面に映る、その時こそ、もっとも美しい光景が見られることでしょう」
クロロペルルは今度こそ部屋を後にした。しかしクロロペルルがその場を辞しても、室内の空気は緩まず緊張感に満ちたままだった。ハガネがドアから宰相であるアマルガムの方へと目を向ける。アマルガムはいつの間にか席を立ち、ハガネに視線を向けられるや否や跪拝した。そしてそのまますぐに口を開く。
「この度は、意に添わぬ事の運びとなりましたことを、まずは謝罪させていただきたく……」
「もうよい、アマルガム。小難しい話となればお前の方が上手だ。すまぬと思うなら議事録には、全ての言葉を余さず残しておくがよい。話の内容さえ分かれば文句は言わぬ」
「はっ……承りました。寛大なお心遣いに感謝致します」
(……普通に許すのか?)
(この場においてはこれ以上の糾弾はできぬだろう)
頭の中でカイトにそう言いながら、ハガネはちらりとダイスの方へと目を向けた。氷柱のように冷たく鋭い視線が突き刺さる。痛む胸は物理的に無いのに、カイトは心臓が痛いような思いになった。
「――ところで、姉上。城を開けている間、どこをほっつき歩いておいでで?」
(こっ、こえぇぇ~……!)
いまのところどのタイミングでもダイスは恐ろしいのだが、特にこの瞬間のダイスが一番恐いとカイトは思った。何かやらかしたことを隠していて、それが親にバレた時のような、背筋が凍るような恐ろしさだ。しかもカイトの親と違い、ダイスは厳つい上に、小さくなったハガネに目線を合わせて話しかけてくるということもなく腕を組んで大上段から詰問してきているのだ。恐怖しか感じない。
――のだが、ハガネはやはり怯むこともなく平然と言い返した。
「なに、ただの視察だ。町を見て回っていた」
「町を? セトナイの方まで一人でですか」
「セトナイではなく、クレブリック通り沿いだが。そこから路地に入った方も見て回ったぞ」
「大通りまで下りたのか……!?」
包み隠さずハガネが言い切ると、ダイスは驚きに声を上げた。ハガネに聞かせるつもりはないが思わず出た声らしく、大した声量ではなく呟くような声音だった。そう言ったかと思うと、いきなりハガネの前に膝をついた。視線を合わせる――などという生易しいことをダイスはしなかった。いきなりハガネの小さな方を掴んだかと思うと、怒気も露わに口を開く。
「ならば分かるだろう、あれが、姉上の作った、ガナガルティガン帝国だ。政治についてろくに頭を働かせなかった脳筋魔皇に付き従った国民と国家の末路があれなんだ」
「脳筋とはなんだ、脳筋とは」
(よくそんな言葉で言い返せるな、お前は!)
いまこの場で喋る口を変わってくれとカイトは思った。ハガネの代わりに謝りたくてしょうがない。というより、謝らなければこのまま肩関節を粉砕されかねない。ダイスの手には思い切り力が入っており、ハガネも痛みを感じて眉間にしわを寄せていた。それでも『痛い』と声に出さないあたりが魔皇のプライドなのだろうか。そんなプライドはかなぐり捨てて素直に謝った方がいいと思う――というカイトの思いも虚しく、ハガネは言葉ではなく力でダイスの手を振り払った。
「力によって手に入れ、力によって失う。それが生命の理よ。施すか否か、それは個々人の嗜好に過ぎぬ」
「本気で、否、正気でそれを言っているのか、姉上!」
「正気ではないやもしれぬ。我とて施しの心は持っていたはずだ。……しかし我が正気を失っているというのなら、それが許せぬというのなら……クィンシー。お前がその手で我を討てばよいだろう。つい先刻もそうしようとしたようにだ」
それまで怒気を発していたダイスが、急にぐっと口をつぐんで押し黙った。ハガネは首を傾げた。城を出る前、ダイスは確かに勝負をしかけてきたはずだ。だが、いまは何故か躊躇うような気配を見せている。
「正気ではない? 正気ではないだと……? ただ愚かなだけではなく、王としての適性が無いというのではなく……」
「……クィンシー?」
急に冷静さを取り戻したように、クィンシーは膝をついた体勢から立ち上がった。そして、幾分か熱を失った瞳でハガネを見下ろした。
「姉上は勇者を討ち果たし、戦争を終わらせた。狂う理由など何も無いはずだ……しかしもし本当に正気では無いのだとしたら……」
「何を一人で呟いている? 言いたいことがあるのならはっきりと言うがよい」
問いただしたが、ダイスの返事は沈黙だった。焦れたハガネはそれ以上何かを問うことも無く、軽い溜め息一つを吐き出すと「もうよい」と切って捨てた。
「何を考えているかは知らぬが、力によって我を正すというのならいくらでもその挑戦は受けて立とう。どのような手段を用いようとも構わぬが……できることなら、正々堂々と正面から来ることを望むばかりよ」
それだけを言い残すと、ハガネはその場にダイスやアマルガムらを残して部屋を出た。
廊下に出たところで、カイトは途中からずっと息を止めていたことに気付いた。魂だけの存在なので息も何も無いが、それでもあの場に異様な緊張感が満ちていたことは確かだった。生身の肉体があれば手の平に汗が滲んでいただろう。
しかし、やはりというべきか、ハガネは動じた様子もなく、まるで何事も無かったかのような顔で廊下を歩くのだった。
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