第17話 廉二郎 二

 梅が準備をしている間、廉二郎と雷蔵は綿密に打ち合わせをしている。

 初音は、一人、縁側に出た。

 夕日の差し込む庭を眺めながら、屋敷から逃げ出した日のことを思い返す。必死で追っ手から逃げ、橋から落ちたこと。雷蔵に救われ、そして、はじめて見た海。窮奇。そして、傷ついた父……。

「もう、戻れないのね」

 雷蔵は進むことを決めた。もちろん、初音もそうすべきだと思う。だが、それは、結果がどうなるにせよ、全てが変わってしまうということだ。何も知らず、ただ剣術のことだけを考えていた昔には戻れない。

 雷蔵とともに未来が勝ち取れたとして。初音はーー四谷の家はどうなるのだろう。

 父、左門は回復するのであろうか。杉浦廉二郎は、かねてからの約束通り、初音の夫になるのだろうか。

ーーわからない。

 初音は大きくため息をついた。

 初めて会った許嫁との出会いは、心にさざ波をつくった。

 悪印象があるわけではない。ただ、違うのだ。そして、そう思ってしまう自分に罪悪感を感じてしまう。廉二郎に問題があるわけではない。初音が勝手に、別の人間を心に住まわせてしまっただけなのだ。

「初音さま」

「誰?」

 しんと静まり返った中庭に、小さな声が響いた。茂助だ。

 いつの間に現れたのか。茂助は、植え込みの陰に隠れるようにして控えていた。

「父上の様子は?」

 初音は、呟くような声で訊ねる。

「未だ、意識はありません。熱は少し下がったようですが」

「……そう」

 たとえ意識が戻ったとしても、今すぐに、雷蔵の補佐をすることはできないだろう。

 父がいれば、剣術指南役としての広い人脈もアテにすることができただろう。そう思うと、少々歯がゆい。

「光念さまを鷺へとお送りし、雷蔵さまの心づもりについて、お話はしました」

「それで?」

「我らは、いつでも雷蔵さまとともに動くと。たとえ、この国のすべてに逆らうこととなっても」

 茂助の声は低く小さいものだが、初音の胸に大きくずんと響く。

 たくさんの命をのせて、全てが動き出す。失敗は許されない。

「現在、城に探りを入れておりますが、どうにも様子がおかしいのです」

 茂助は辺りをうかがうかのように言葉を切った。

 片隅の落ち葉が、風で微かに音を立てる。

「どのように?」

 人の気配がないのを確認して、初音は先を促した。

「人の出入りが激しく、計都どのが城に呼ばれました」

 茂助はさらに声を潜めた。

「ひょっとしたら、お館さまが、病に倒れられたのかもしれません」

「……可能性はあるわね」

 渇きの病から逃れるのに、命緋刀で他人の血を得る必要があるという仮説が正しいのであれば、刀なき今、病が再発しても不思議では無い。渇きの病は、当主の座にいる限り癒えることのない病だと、了安は言っていた。

 するり

 障子戸を開く音がして、茂助はそっと陰に潜んだ。

「ん?」

 出てきたのは、廉二郎だ。いぶかしげに茂助の潜んだ辺りに目をやっている。

 茂助自身は反射で隠れたのだろうが、かえって怪しまれる。そもそも玄関から入ってきても良いのに、忍んでくるからややこしくなるのだ。初音は苦笑した。

「杉浦さま、怪しいものではありません。茂助、出てきて」

 初音は口を開いた。

「私の家の者です」

 茂助がそっと陰から顔を出す。廉二郎は、茂助の姿を認めると、ほっとして力を抜いたようだった。

「茂助、こちら、杉浦廉二郎さま」

「え?」

 茂助が目を見開いた。四谷の使用人であった茂助は、当然、廉二郎が初音の許嫁だということを知っている。

「驚いたでしょう? 私も驚いたもの」

 初音はくすりと廉二郎に笑いかけた。

「まさか、こんなところで、こんな形で杉浦さまにお会いするとは思っておりませんでしたから」

「……私もです」

 廉二郎も、小さく頷いた。

 仮にも許嫁であるのだけれど、ふみどころか似姿すら交わしたことはなかった。お互いに何かを期待していた間ではなく、親同士が決めた縁談だ。そこにときめきがないのは当然なのかもしれないが、普通に縁談が進んでいれば、好感は持てた相手だとは思う。

 だからこそ、初音は、どこか後ろめたさを感じてしまう。自分の心はこの男を裏切っている。

 もちろん、それは初音の心だけの問題で、時がたてば消えるものなのかもしれないが。

「お初におめにかかります。私めは四谷さまの影とお見知りおきを」

 茂助は小さく頭を下げた。

「杉浦さま、ご実家の方は、四谷の親戚ということで、かなり監視が酷うございます」

「ご迷惑をおかけして申し訳ございません」

 初音も頭を下げる。

「いえ。うちの実家に目が向いているのなら、まだしばらく猶予があるという証拠。それに、親父も兄貴も、簡単に後れを取るような人間ではありません」

 杉浦家はいずれも剣の達人。父が、四谷の家を託すのに選んだ武門の家だ。その辺は間違いはないだろう。

「では、初音さま。くれぐれもご無理なさいませんように」

「わかっているわ」

 茂助は二人に頭を下げて、ひょいと、塀を越えていった。

「縁は異なものと申しますが、まさか、雷蔵さまと初音さまが行動をともにされていらっしゃるとは」

 茂助を見送り、廉二郎は初音の方を見る。

 二人きりで言葉を交わすのは、初めてで、それでも長い間の許嫁ではあったのだから、廉二郎としてもどう接してよいのか、わからないようだった。

「屋敷から逃げた時、助けていただきました。その後、父を探していらっしゃることを知り、私がお願いして一緒に行動させていただいたのです」

 本当の事なのに、言い訳じみているなと思う。父の居所がわかった今、そのことは、雷蔵のそばにいる理由にならない。雷蔵に頼まれたのは事実だが、何よりも初音がそうしたかったからだ。

「本来ならば、私があなたを守り、左門どのを捜さねばならぬ身だというのに、四谷の家のいざという時に、お役に立てず、申し訳ない」

 廉二郎が頭を下げた。生真面目な優しい言葉が、初音には心苦しかった。

「我が家より、国の大事のほうが大切なお役目。お気になさいませんように」

 初音は微かに笑んだ。

「むしろ、この国の大事に、雷蔵さまを四谷の家のことで振り回してしまいました。父はともかく、私の事でもお手間をかけさせることになって。杉浦さまにもご迷惑をおかけして申し訳ございません」

「いえ、私はただ身代わりとして、この屋敷に留まっていただけですから」

 廉二郎は苦笑した。

 雷蔵の代わりに、城からの使者と直接対峙していたのは、梅の方で、廉二郎はもっぱら、雷蔵配下の者たちの『つなぎ』の役割が大きかったらしい。とはいえ、屋敷は常に外から見はられており、緊張感は尋常でなかったであろうと思う。

「雷蔵さまは、随分と初音さまをご信頼なさっているようですね」

「私が四谷左門の娘ということで、少々、買いかぶっておいでかもしれません」

 初音は肩をすくめた。

 初音の剣は、父には遠く及ばない。いざという時、雷蔵を守り切ることができるかどうか、正直言えば、自信はない。

「実は、梅さまの護衛をあなたにおまかせし、私が、雷蔵さまと行動してはどうかと先ほど提案しましたら、それはダメだと言われてしまいました」

 くすりと廉二郎が笑った。

「それは、私では梅さまをお守り出来ぬというご判断なのかもしれません」

 初音では、剣の腕はともかく、どこへ連れて行ったら安全なのかという判断力が乏しい。それに、会ったばかりの初音より、廉二郎のほうが梅としても安心であろう。

「なるほど。初音さまは、どうやら、気づいておられない」

 廉二郎は大きくため息をついた。

「しかし、私が話す事ではないでしょうな。立場上、口惜しくもありますし」

「口惜しい?」

 何を言っているのかよくわからず、初音は廉二郎に問い返す。

「おわかりにならないのなら、それはそれでよろしいのです」

 廉二郎はにやりと口の端をあげた。

「つまり雷蔵さまは、四谷さまの回復を待って、話さねばならぬことがたくさんあるということです」

「……それは、そうでしょうけれど」

 初音はますます意味が分からず、首を傾げたが、廉二郎はそれ以上、そのことについて話すつもりはないようだった。



 ある程度、覚悟の上だったのであろう。

 日が沈むころ、早い夕餉の膳が、座敷に並んだ。

 梅は男装をし、大小の刀を腰に差して現れ、代わりに初音が髪をおろして、梅の着物をまとう。

 雷蔵を訪ねてきた、杉浦と連れが、食事を済ませて帰っていく、という筋書きだ。

 帰りは、本物の杉浦と梅が、屋敷を出ていけば、屋敷にいる人数的に変化はない。

 初音は雷蔵とともに、二人を玄関まで見送る。梅と初音は全く似ていないが、暗闇の中、遠目で見れば、梅が見送っているように見えるであろう。

「姉上、どうかご無事で。杉浦、頼んだぞ」

「承知」

 雷蔵に廉二郎が頷く。初音は、廉二郎に灯のついた提灯を手渡した。

「初音さん」

 梅が、手甲をつけながら声を掛ける。

「雷蔵を頼みます。いたずらに死に急がぬようにお願いしますね」

「命に変えましても」

 初音の答えに、梅は苦笑した。

「それはいけません」

 ちろりと、梅は雷蔵に目をやって、それから再び、初音に視線を戻す。

「左門さまもあなたも……杉浦さまも、雷蔵と出会ったことで人生を変えてしまったこと、姉としてなんと言ったらよいかわかりませんけど……ご無事でね」

「梅さまも……杉浦さまもご無事で」

 二人はすげかさをかぶり、玄関の戸を開いた。夜の帳はすっかり降りて、星がきらめいている。

 しんと鎮まりかえった道を、提灯の明かりがゆっくりと進んでいくのを、初音は雷蔵とともに見送る。

「……もう、戻れませんね」

 灯りが遠ざかる。まるで日常が遠ざかるかのように、やがて闇に消えた。

「賽は投げられた。やるしかない」

 雷蔵が呟く。

 初音は思わず姿勢を正し、小さく頷いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る