そういったきつい事実の

@a123456789

詰め合わせ

「待ちなよ」


 少女の視線を背中に感じ、息を切らしながら少年は呟く。

「なに、なんで追いかけて、くんの」


「先生に言われたから、だけど。あのさ、もうやめたら?プールの授業のたびにこっそり学校を抜け出すの。疲れるでしょ」


「この前髪は、何があっても守り抜く。俺の額は、繊細なんだよ。水浴びなんて論外だ」

生まれたばかりの赤子に優しく触れるように、額にかかった長い前髪の存在を確かめる。おれにとってこの前髪は今着ている制服よりも大事なのだ。どちらかを選べと言われたら、おれはズボンを脱ぐだろう。なぜなら―――


「ニキビって、扱いが大変そうだよね。私はそんなの無いからわかんないけど」


「言うなッ!」

思わず振り返る。少女を睨むその顔には、しかし、怒りの色は見受けられない。少女はなに、といった表情(マスクをしているので目から上しか見えないが)で見つめ返す。ささやかな沈黙。


 小鳥がとまりそうなほど穏やかな沈黙が流れていたが、俺の声で小鳥はどこかへ飛んでいく。

「というか君、授業は出なくて大丈夫なのか?プール。まさか、俺のために欠席までして…」


「まあ、私いつも見学してるしね。プールの授業」


「なんで?」


「マスク取りたくないから」


「なんで?」


「出っ歯だから」


「く、くだらない…」


「君が言う?」

この世界のルールをまだ何も知らない、新人の天使のような目で、彼女は俺を不思議そうに見つめる。


「……俺だって、授業を抜け出すのがいけないってことぐらいわかってる。そこにある代償が、帰り道に蹴飛ばせるほど小さなものでないことも。」

少女は黙っている。ぼくは喋る。


「たまに、嫌になる。プールの話に限ったことじゃない。なんていうか、俺は、必死になれないんだよ」

必死、ひっし。舌に馴染まない。自分にとっては、どこまでも多義的な意味を持つ難しい単語だった。


「こんなに体育を欠席してたら、進級だって危ないかもしれない。なのに、俺はなぜか危機感というものを全く感じない。俺の周りにあるはずの、そういう類のあぶない事実はみんな、厚いもやに覆われてる。真っ白で、何も見えない。だけどその奥になにか、自分にとってまずいものがあることだけは分かる。考えずにはいられない。もし、このもやが晴れたら、おれは一体どうなってしまうのだろう、と。同時に、そこに立っている人間が自分なのかという確証もない。何が言いたいかっていうと、つまり、その、生きてる感じがしないんだよ。ふわふわと、死んだ池のヘドロの上をさまよってるみたいで、異臭に耐えられない。俺がいつか死ぬとしたら、それは自然死じゃなくて自殺なんじゃないか、と怖くなる」


少女は黙っている。


「て、ごめん、長々と。こんなに喋ったの久しぶりだ。その、聞き上手だね、君」


 この会話に台本でも用意されているかのように、俺は黙って彼女の言葉を待った。そして、もちろん彼女は口を開く。


「まあ、分かるよ。君の言ってること」


僕は黙る。彼女は続ける。


「私も、たまに嫌になる。こんなところで燻ってる私が。本能が、なにかをしなきゃ、こんなことしてる場合じゃない、って理性に訴えかけてくる。同年代で活躍してるアイドルやタレントなんかを見ると特にね。だけどこの本能君は、肝心の自分がどんな種類の人間か見たことがないときた。びりびりと、胸が痛む。自分に才能がないことを自覚すればするほど、本能は私に訴える。お願い、お願い、なんとかしてよ、こんなのは嫌だ、ってね。マスクの箱が大量に積まれてる商品棚の前で、ふと思う。もう、死にたい。箱の中にあるのは私を守ってくれるマスクなんかじゃなくて、そういったきつい事実の詰め合わせ。皮肉なものだよね」


「と、まあこんなところかな。ごめんごめん、ずいぶん長々と」

言う彼女の目に、かすかな憂いの色が浮かぶ。それは同じ種類の人間にしか分からない色であり、同じ種類の人間にしか向けられない色でもあった。


「ねえ、田中君」

俺の名前、田中だった。


「私はなにも、君を連れ戻そうとして追いかけてきた訳じゃないんだ。なんだかおもしろそうだったから。学校なんかよりもよっぽどね」


「ねえ、田中君。嫌なことがあれば逃げればいいと思うよ、私は。どこまで追ってきても、どこまでも逃げ続ければいい。逃げて逃げて、ようやく見えなくなったら、そのあとのことは、そのあとで考えればいい。別に、ずっと、考えなくていいとも思うけどね」


 なんとなく、前髪に触れてみた。安心した。安心すると、言葉は自然と漏れ出てくる。

「別に、そこまで悩んでねえよ。ニキビなんか、いつか治るし」

照れ隠しをするように、俯く。


少女はおかしそうに笑う。

「うん、そうだね。わたしも、大人になったら矯正でもしようかな」


授業の終わりを知らせるチャイムの音が聞こえてきた。かなり遠くまで来たつもりだったが、すぐ近くにある音のように聞こえた。




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