生獣語 (ikemonogatari)
佐野心眼
山は明け野は黎明の狸かな
俺は狸だ。何の因果か、武蔵野台地の一隅に住むことになった。噂によると先達は都心にまで進出しているらしいが、俺はここが気に入っている。ここには航空公園や
俺の
森の北には広大な墓場がある。墓場があるということはお
森の東にはゴミ処理場がそびえ立ち、その周囲には畑が広がっている。この辺は何もないから俺にとってはどうでもいい。
森の西には『こぶし町』の住宅街があり、さらにその奥には航空公園がある。以前航空公園に散歩に行ったとき、飼い犬に吠えられたり猫に追われたりしたから、もうこの辺りには足を運ばなくなった。
森の南には『
俺のささやかな
俺は最初に墓場へ行き、明け方近くにパン屋へ行く。さて、どこへ行こうかなどと迷ったことはない。ただ淡々と日課をこなすだけだ。
しかし、ここに住んで困難がないわけではない。ライバルがいるからだ。こぶし町にはタマと呼ばれる白黒ブチのパンダ模様のボス猫がいて、縄張りを広げようとあちこちうろついているのだ。猫のくせに体重はゆうに十五キロを超えている。あいつは山猫だ、いや、化け猫だ。あいつに出くわしたら、一目散に逃げるしかない。
タマ以外にも忘れちゃならない奴らがいる。烏だ。墓場のお供物はほとんど奴らに取られてしまう。ただ、あいつらにも弱点がある。夜は活動できないのだ。俺は夜中にこっそりと墓場に忍び込んで、残ったお供物を
ところがそんな初夏のある日、桜木神社に珍客が現れた。
「おい、勝手に俺の家に入るな」
白鼻芯はギョッとして、申し訳なさそうに巣穴から出て来た。
「これは失礼。あんまり住み心地が良さそうだったんで、つい…」
悪い奴じゃなさそうだ。俺は隣の小さな祠を指差した。
「あそこにも巣穴がある。よかったらあそこを使え」
「ああ、そうだったんだ。恩に着るよ」
そして俺はこの辺りの地理について大まかに白鼻芯に教えてやった。あのパン屋以外は。お供物は分けてやってもいいが、あのパンの美味だけは譲れなかったのだ。
それからというもの、俺達は夜な夜な墓場へと向かい、その後は別行動することにした。そんな日が、何日も続いた。
すると不思議なもので、あの白鼻芯は俺と別れた後一体どうしているのかと気になり始めた。俺はある夜、月の光が森の梢に砕ける頃に、あいつの後をこっそりとつけてみることにした。
あいつは下新井の森に入ると、木に登って虫を獲ったりトカゲを捕まえたりしていた。あいつは、あのパンの美味を知らないのだ。そう思うと、俺は自然と笑いが込み上げてきた。必死に笑いを噛み殺して、俺はいつものようにパン屋へと向かった。
浦所街道を越えて松郷橋に差し掛かったところで、突然「ワ〜オォ〜」という声が聞こえてきた。声の主を見ると、あの白黒パンダ模様のタマと黒猫だった。タマは大きな体をさらに大きく見せて相手を
と、その時だった。いきなりタマと黒猫が取っ組み合いを始めた。二秒ほどで黒猫が逃げ出したと思ったら、あろうことか俺の方に向かって来た。しかもその背後にはあの大きなタマを引き連れて!
俺は思わず橋の欄干を越えて東川へと跳躍してしまった。三メートルほど落下したが、幸い怪我はなかった。ここしばらく雨が降らなかったおかげで水深は浅く、流される心配もなかった。タマと黒猫はそのままどこかへ行ってしまったらしい。川のせせらぎだけが月明かりの夜空に響いていた。
さて、これからどうしたものだろう。猫の脅威は去ったが、ここから脱出できるのだろうか。川の両岸はコンクリートの壁で護岸されている。ほぼ垂直だから登ることはできまい。
途方に暮れていると、橋の上から白い鼻筋の顔が
「大丈夫かい?」
俺はそれには答えずに怒りと疑念をぶつけた。
「お前がここにいるということは、俺の後をつけてきたな⁉︎」
「君だって、僕の後をつけたじゃないか。木の上から尻尾が見えていたよ」
俺の怒りは一瞬にして羞恥心へと変わった。
「………バレてたのか。すまなかった」
「気にしなくていいよ。お互い様だ」
そう言うと、白鼻芯はコンクリートの壁を滑るように川に下りてきた。俺にはこいつの行動の意味が分からなかった。
「お、おい、ここからは登れないぞ。どうするつもりだ?」
「これで僕と君は運命共同体だ。こうなったら川を上るか下るしか道はないよ。とにかく前へ進もう」
その言葉を聞いて、俺は自分が恥ずかしくなった。自分だけいい思いをしようとした
「取り敢えず、川を下ってみよう」
そう促されて、俺は黙ったまま白鼻芯の後に続いた。
暗い川をしばらく下ると、東川よりも少し大きい柳瀬川に合流した。ここまで来るとコンクリートの壁はなかった。
「ここからなら陸に上がれそうだね」と白鼻芯が言った。
俺は少し考えを巡らせた。
「いや、陸路よりもこのまま川を上った方がいい。また猫に出くわすかもしれないからな。猫は水が苦手だ。川にいれば奴らも手出しはできないだろう」
「なるほど、名案だね。だけど柳瀬川もコンクリートで護岸されていたらどうする?」
「大丈夫だ。今東川を下ったのと同じくらい柳瀬川を上ると清瀬金山公園がある。あそこからなら上陸できる」
白鼻芯のおかげで冷静さを取り戻した俺は偉そうにそう答えた。
「さすがだね。この辺りの地理に詳しい」
「生き抜く知恵だよ」
俺達は互いを見ながら「ふふふ…」と笑い合った。
だが、柳瀬川を上るのはそう
「このルートを選んですまなかったな」
浅瀬にたどり着いたところで俺はそう言った。すると、白鼻芯はこう応えた。
「いや、どっちが正解かなんて、誰にも分からないさ。とにかく、どんなに困難でも今はこの川を進むしかないよ」
俺は無言で
それを何度も繰り返すと、やがて茜色の金山橋が見えてきた。俺は安堵の表情とともに指差した。
「あの橋のたもとが清瀬金山公園だ」
「どうやら目的地にたどり着いたね」白鼻芯もほっとしたようだった。
「いや、ここは目的地じゃない。まだ途中だ」
そう言うと、白鼻芯は疲労と落胆と
「大丈夫だ、ここからは陸路だ。あともう一息だよ」
俺はそう言って微笑んだ。
清瀬金山公園に着いた頃には東の空が赤みを帯びていた。北の方を見ると、公園から続く道の先には東福寺の白くて大きな観音像が丘の上にそびえ立っていた。観音像の穏やかなお顔は俺達を祝福するかのようだった。
俺達は観音像の立つ丘を目指して歩き始めた。
「あの丘の向こうに目的地がある。人間が動き出す前に急ごう」
そう言うと俺はいきなり駆け出した。
「一体何があるんだい?」白鼻芯は息を切らせながら訊いた。
「そいつは着いてからのお楽しみだ」俺は意地悪そうな笑みを浮かべた。
パン屋に着くと、店の駐車場の隅にパンが一つ置いてあった。
「これが俺の目的だ。お前にやるよ」
俺がニヤッと笑うと、白鼻芯は目を丸くして驚いた。
「これが君の目的だったのか⁉︎なんて
「…じゃ、半分ずつってことにしようぜ」
「…ありがとう」
俺達は五秒ほどでパンを飲み込むと桜木神社へと急いだ。何とか人目に付かずに巣穴へ戻ると、疲れが一気に襲ってきて深い眠りに落ちた。それは今までで一番心地いい眠りだった。
次の明け方から、俺達がパン屋を訪れると何故かパンが二つ置かれるようになっていた。
生獣語 (ikemonogatari) 佐野心眼 @shingan-sano
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