ひとよだけ

小余綾香

青の交わり

 元蓮華レンゲ畑は水を張られ、稲の浅い緑が行儀良く並ぶ。

 その細い一株一株は歳の違う子供の葉同士、抱き合って立つ様にさゆには見えた。曇天どんてん破れて光差し込む先、跳馬アメンボが「こうするんだ」と言うかの如く水面みなもを滑る。光沢のわずかな文様もんようが移ろう。


 戸が開いた瞬間、冴は先頭切って土手を駆け下りた。廃材木で土留どどめした十一段。緩急いちじるしい足場を体は自ずととらえて動く。

 広いくろに点々と大葉子オオバコを辿り、ささらぐ水を跳び越え、彼女は溝畔こうはんに降り立った。立ちめの地息と滴る湿気、泥臭さが渦を巻く。匂いが体を騒がせる。衝動に抗って踏張り、冴は谷戸やとを見晴らした。


 灰茶の泥を沈ませて水田は真澄鏡まそかがみと照る。堤のエノコログサが己と見合いながらふちを飾った。潤むチガヤの綿毛が宿を借りる。

 その対面で続く擁壁ようへきの垣。上は茂る麻が芝に代わられ、更に根笹がはだかる。やがて樹木が深緑をぎ、高々と果てを隠していた。

 田面たのもに黒みがちに映る枝葉を潜り、重い雲と青い切れ間はぬめる大地と重なる。


 梢、葉末がささめいた。足下の空が揺らぐ。


 靴底は石積みを押し、冴の体は水路を越えた。右足が雀の帷子スズメノカタビラを踏む。柔らかな突上つきあげを足裏で味わうと、また地を蹴り、左足が畔に降りた。

 それを追い越す青い野球帽が冴の数歩先に飛び込む。ひろは俊敏に同じ動きをり返してみせた。次々、年少の子達が冴の前に、後に現れる。一人が拓を追いかけ、その妹が遅れた。背後には両膝を曲げ、全身で跳ぼうとする子がいる。

 冴は身をおどらせ溝を大きく逸れた。


――危ない!


 眼前で小さな運動靴が土羽際に乗った。瞬間、泥が崩れて足を巻き込む。咄嗟に冴は女の子を抱き締めた。デニムの膝がぐちゃと土に食い込み、湿りがにじんで肌を濡らす。

 少女は目を丸くした後、母を呼びながら走り去った。


「ほーら、中学生。皆が真似するぞ」


 冴の胸が強く弾んだ。テノールの振動は体内をくすぐって走る。それは冴が初めて知った『男の人の声』だった。冴は髪で表情を隠しながら立ち上がる。


「平気?」


 リヤカーを引いて寄り切れない彼が屈んだ。きっと二重ふたえまなじりを下げ、眉に少しだけ心配を含ませているだろう。体に残る男の声の余韻を味わいながら、次の瞬間、冴は勢いよく首を返した。くしゃくしゃにした顔から舌が出る。

 閉じそうな目縁まぶちの間から、しかし、冴は彼の表情を確かめた。振り払う様に向き直り、背中で彼の気配を探って歩き出す。


糸蜻蛉イトトンボ! 繋がってる」

「卵産む所だね」

「交尾?」

「交尾はハートっぽい形」


 子供の歓声に、ついこの間までその中にいた冴は横目で田をのぞくも、水鏡の彼には顔がない。

 冴は足を放りながら敢えて草々伸びる切岸近くを行った。くさむらを蹴る度、羽虫が湧き、踏む毎に雨蛙アマガエル金蛇カナヘビが逃げ出す。冴は時折、虫を捕まえて背後をうかがい、あきらめ気味にそれを逃がすと先へ進んだ。

 斜面で東根笹アズマネザサが藪を広げ、白粉花オシロイバナと攻め合う。青葉輝く鼠糯ネズミモチが甘い芳香を注いだ。急に高木は混み始め、生まれた影に一輪だけ早咲きした烏瓜カラスウリしぼんでいる。


「冴ちゃん、手ぶらー」


 拓が両手に蝲蛄ザリガニを掴み、得意気にかざして来た。冴は澄まし気味に顎をもたげる。


「来月、水路掃除で捕らされるのに」

「そんなこと言って怖いんだろ?」


 揶揄からかう拓を一瞥いちべつすると冴は淡々と踏み出した。水路に江を作り、ガマの生い茂る一画。先刻そこにアレが入るのを彼女は見ていた。

 一瞬で右腕が直線を描き、引き戻した手が掴むのはぬしの様なヒキガエル。冴は足掻あがく蛙の筋力を握りで制しながら、それを拓の面前に突き出す。


「あげようか」


 思わず悔しそうに拓は蝦蟇ガマを凝視した。小型はここでは珍しくないが、大蝦蟇は見付けるのが難しい。何故か冴だけが簡単に捕えて来る大物だ。


「要らない!」


 拓は身をひるがえし、畦畔けいはんを走り去る。見返す気満々の背が遠ざかり、冴は持て余し気味に蛙を眺めた。


「まぁ、また大きなのを……リーダーさんをいじめちゃ駄目よ?」


 烏瓜に寄って来た女性がしわの美しい顔に笑い皺を寄せる。去年、冴と拓は競って蛙を捕まえては彼に悪戯したからだ。冴ははにかんで蟇を水場に近付ける。

 すかさずシャッター音が顔を返らせた。大きなレンズが下向き、駒野こまのが茶目っ気たっぷりに親指を立てる。冴はみかけてハッと蒲の中を凝視した。駒野がしゃがみ込む。


田亀たがめの卵だ」


 冴は頷いた。カメラがそっと接近するのを見ながら、彼女は少し首を傾げる。シャッター音を背に、冴は江をれた水流へ蛙を放した。

 何も知らず彼がリヤカーと辿り着き、駒野が歩み寄る。


「田圃が良い感じですね」

「分かれて僕達だけ上を点検しますか」


 彼は応えながら、法面のりめんの暗がりを覗く。程なく端まで届かせる声が響いた。


「皆、探せてるー? 下だけじゃないよ。サギが様子見てたのは気付いたかなー?」


 子供がはしゃいで走り、親達が小集団で移動する。

 しかし、冴は烏瓜の前で地面を踏み締める。大人の領域に行く、と彼女は決めていた。





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