第3話 港から島へ
潮の香は嫌いではない。甲板のベンチにぐったりもたれてイツキは天をあおいだ。
最初は自分に何がおこったのかわからなかった。病気になったのかと思った。船酔いというものだと教えてくれたのは、漁村出身の一等航海士の青年だった。ゆらゆらと長くゆられると慣れない者はそうなるのだという。船を動かしているのは彼とその父親の船長と、自動操縦装置とその端末である五台のさまざまな形態の半自律デバイスたち。
「大丈夫? 」
二つ名をつけるなら白の淑女とでもつけたくなる美女が覗き込んできた。顔色一つかえないその体が、イツキと同じ生身でないことはもう知っている。しかし、その体はこの世のものとは思えない優雅さと、人を魅了してやまない笑みをむけることができる。
アレクサンドラ・チャン。もう一人の補佐官である。彼女は何やら難しい交渉ごとのために旧都におもむいた帰りなのだという。
「こうしてると少し楽です。風邪をひきそうですが」
この人も、九十九やワットのように人間の一部や作られたものから生まれたのだろうか。イツキは判じかねた。あまりにも魅力的で、それが人間離れしているのだ。
「わたしも、初めて船に乗ったときはバランスがうまくとれなくってたぶんこれが目眩と思う経験をしたわ」
「あなたもですか」
「もっとずっと長周期のものとか、ずっと短周期のゆれは経験があるけど、このくらいのは初めてだったから」
アレクサンドラは彼女の横に腰を下ろした。
「素敵な眺めね」
今は比較的穏やかな波の海しか見えない。空は晴れ、きらきらとすべてが輝いている。
「とても長い年月をかけて、この海は作られたものだってことはご存知? 」
「ええ」
村の伝承にもあるし、グレートライブラリから引き出した情報でこのミドガルドが遥か昔に送り出された自動機械たちによって大気を整え、水を招来して海を作り、生き物を放たれ、人間の到来するその日をまっていたこと、イツキももう知っていた。少しがっかりしたことには、ミドガルドと同じか同意の名前をつけられた世界は非常にたくさんあることも知ってしまったものだ。
「ただ作られただけじゃない、似てはいても、ここの海にはここだけの形があるの。素敵だと思うわ」
「海は初めてなのでよくわかりません。アレクサンドラさんはそんなにたくさんの海を? 」
「そうね、今はもうなくなってしまったものも含めてたくさん」
「なくなってしまった? 」
「記録にしかないものもあるの。同じように海を作られた世界で、海を失い、残った大気をドームに密閉して暮らす世界もあったわ。彼らはかつての海や川や森を愛してそれは詳細な記録を残していた。中央世界の一つ、概念世界にいけばかつてのそれを肌で感じるように体験することができるの」
「それは気が遠くなるほど素敵ですね。わたしもその概念世界にいってみたいです」
「いつか、いらっしゃい」
にこりと笑むのを見ると、吐き気も忘れるほどイツキはのぼせてしまった。
「あの、失礼なことを聞いていいですか? 」
「どうぞ。かわりに後でわたしにも質問させてね」
「はい、ありがとうございます。中央世界人ってあたしたちのような生身の人間じゃない人もたくさんいるみたいですが、そのアレクサンドラさんは? 」
「そうねぇ」
どう答えたものか、ちょっと指でほほをおさえて思案しているようだ。
「九十九博士は中央世界草創期のとても偉大な学者さんの思いのかけらから生まれたけど、その学者さんは赤ちゃんから大人になるまで生身の人だった。ワットは遭難、不時着した宇宙戦艦の統合制御システムだったけれど、帰るために亡くなったクルーのミームを多重焼き付けてして自分を拡張し、修理と離昇のための都市を築き上げたわ。どこまでさかのぼれば生身由来と数えていいかははっきりさせないと判断できない複雑な由来の中央世界人は多いわ」
質問の仕方があいまいだったと気づいてイツキは頭をめぐらせた。
「えと、あの、じゃあ」
「大丈夫、何を聞きたいかはわかってるから。あなたかわいいから、ちょっと意地悪いってみたくなったの」
アレクサンドラはウィンクした。からかわれたと知ってイツキは真っ赤になった。
「さて、真面目に答えるわね。わたしは実在した人々の情報をもとに人間を模したものとして生まれました。だからあなたの質問への答えは、はい、になります」
「中央世界はあなたを人間と認めたんですよね」
「生まれたばかりだったら、きっと認められなかったでしょう。でも、私は人間以上の人間になるべく生み出されました。とてもとても長い年月、自己研鑽し、時には自己改造もして気づいたらあなたの目の前にいる私になっていたの。同じような人がほかにもたくさんいて、中央世界と接触するまであなたたちでいう委員長の地位にもいたわ」
「偉かったんですね」
「みんな海千山千だからしんどかったわ。知ってる? 偉い人って損な役回りなのよ。だから許されることも多いの。そこんとこ勘違いするとあっというまに何もかも失うのよ」
「でも、今もそんな仕事をなさってますよね」
「補佐官は気楽よ。それに嫌いじゃないしね」
何が、とは言わなかった。アレクサンドラはイツキの手を包み込むようにとる。暖かい。これが生身でないと誰が信じよう。
「さて、こちらからそろそろ質問してもいい? 」
「あ、はい、どうぞ」
「禁忌なら無理に答えなくてもいいからね」
アレクサンドラはイツキの瞳を覗き込んだ。瑞々しく、底の知れぬ深さを秘めた瞳だった。なぜと知らず彼女はどきりとした。
「常世について教えて」
ミドガルドでは死者は樹上に葬られる。墓所はつるのからまる巨大な樹木が枝を広げる鬱蒼とした場所で、死者は背中に板をいれられ、ぐるぐるに巻かれてこの枝の上に置かれ、落ちないようにさらに念入りに縛り付けられる。このときしばるのに使うのは幹にからまるつるとされている。最後に死者の口にひこばえの枝を一つ切り取ってさす。これらの行為の意味については村で解釈が違っているようだが、手順は旧都をふくめほぼ同じである。
「そうやって送られた死者の住まう国が常世です。人とともに失われた知識が保存されていて、大事な決めごとのあるときにご意見を伺いに行くのがわたしの仕事です」
「その相談する相手は、日頃は常世で何かしてるのかしら」
「さあ、いつもはそんなに長居しないのでわかりません」
「どう思います。博士」
アレクサンドラが呼びかけたので、いつのまにか九十九がそこにきていたことにイツキは気づいた。
「見解はありますが、今はまだまとめきれませんな」
そしてひょこっと会釈するように体を傾ける。
「失礼、立ち聞きする気はなかったのですが、興味深い話だったので」
「お葬式の話が? 」
「葬式の社会的異議について、説明いたしましょうか? 」
イツキは九十九の顔がわりのお面を眺め、何か察して笑ってかぶりをふった。
「いいわ、長くなりそうだし、退屈そう」
「ご理解感謝します。そうですな、かわりに私のことでも少し話しましょうか」
「どのようなお話でしょう」
「この、奇妙な体ですよ。アレクサンドラ補佐官も、ワット補佐官もそれぞれに機能的な体を使っているのに、なぜこんな不自然な体か、というお話です」
「あなたの元となった方の研究対象と以前うかがいましたが」
「はい、その研究対象の話です。あまり長くかからないのでご安心を」
九十九はでるはずもない咳払いをまねてみせた。
「えぇ、まずは結晶世界のこと。中央世界が生まれるはるかに昔、結晶世界とよばれた異文明が広がっていました。彼らがどうなったかはわかりませんが、たくさんの遺物が見つかっています。宇宙船、通信センター、元の姿は見当もつかない崩落した都市。しかし結晶世界の主を生物としてみた場合、統一されたイメージはまったく持てなかったのです。一つの遺物から建てた推測を、別の遺物が否定していることはざらでした。唯一共通しているのは、結晶素子とよばれるものが使われていること。そこからはいくばくかのデータを抽出することができましたが、恐ろしく正確な天文データや宇宙船の姿勢制御のシステムといったものは取り出せても、彼らの姿そのものはわかりませんでした。記録類は無味乾燥な事実の羅列しかなく、しかもそこに個体に関する言及はまるっきりないのです。結晶世界は滅びた文明の残した暴走するシステム群ではないかという説をやけになって唱える人もおりました」
「長いじゃない」
アレクサンドラがぼそっといったが九十九は気にしなかった。
「彼は崩落した都市で巨大な結晶素子を見つけました。結晶世界人の謎が解けるかもしれない。彼は入滅の前までそれは熱心にそれを研究しました。データの入力、取り出し、あげくに中央世界の基礎技術を応用して自らをこれに接続しようとまで。狂気の沙汰ですね」
「ひとごとなの? 」
「とんでもない。良き事も悪しき事も大きなことをなす時には狂気じみた情熱が必要です。彼の狂気は、結晶素子との接続を劇的に進めています。彼はこれが結晶世界人の体、義体なのではないかと思うようになりました。数学的定義による人格の設定可能な構成が十分以上にそろっていたからです。そうだとしても持ち主はとっくにいなくなっています。彼は最後まで情報を追い求めていましたが、引き継いだ私は結論を得ています。これは未使用だったのです。何も個人情報が出てこなくて当たり前ですね。そして接続していた彼の執着から私が生まれました。つまり、これは私にとっての生身であり、不可分なのです。ほら、手短かだったでしょう」
「そ、そうね」
イツキはアレクサンドラの顔を見た。あきれた顔をしていた。
「このお話には」
ひらめくままに彼女は言った。
「今じゃないいつか、続きがありそうね」
「はい」
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