第1話 九十九
中央世界人とは中央世界と呼ばれる広大無辺の情報、物流組織に属する人間である。中央世界がどういうものかピンとくるものは誰もおらず、その前に長年便利な道具やよくきく薬を売りにきていた貿易商人の最大の仕入れもとというだけの理解だった。最高責任者である委員長だけはよくわかっているらしいし、委員を構成する村長たちも語らないだけである程度はわかっていた、
貿易商人の勧めで今日の惑星ミドガルドは中央世界に所属することになったらしい。所属といっても中央世界側の責任者である星令と補佐官二名、それに何人かが派遣されてきただけでものごとは委員長と委員会にはかってすすめている。それでも鉄道が敷設され、神聖な森におおわれていない島と海洋の開発がすすみ、生活の便も少しずつ向上し、そのことに不満を覚えるものはいない。
しかし、変化は望まれないものも含む。イツキの「おつとめ」は頻度がさがっているし、それは求められることが減っているということで、さらにその数をあきらかにされていないが、隣家のように神職を勤めるものもどうも減ってきているようだ。その理由は、よりよい仕事をもとめての転居であり村にはちらほら空き家も目立ってきている。隣家の娘は結婚後はその一つに移り住むことにして時々鼻歌まじりに片付けや手入れをやっていた。
時代の新しさに反発する者は、中央世界人に奇天烈な姿の者があることもあげている。中央世界は高度な技術を持ち、生身でないものも少なくない。
古い時代に愛着するものは、それが嫌悪感となって味方してくれると思っていたが、意外やミドガルドの人々はそれになれてしまったのである。理由はいくつも考えられるが、彼らがどこか人間らしいものをもっているのも寄与しているのであろう。
そして、今彼女たちの村にやってきたのは一等奇天烈な中央世界人であった。
細長いつるつるの卵にたがを二つはめ、そこに手と足をつけた姿。少しでも人間に近くと思ったのか、シルクハットをかぶり、にこにこと笑う翁の面をつけている。最初に見たときはイツキも隣家の娘もさすがに凍りついた。しかし、その動きはユーモラスで、本当にすぐに彼女たちは慣れてしまった。
その中央世界人は村の古老をあつめて伝説、伝承を聞きとっているようだった。録音機とおぼしき機械をおき、ユーモラスな仕草と言葉で競うように伝わる話を引き出していく。
「あれ、昔聞いた話と違う」
集まった村人の輪の外で隣家の少女が眉をひそめた。
「あのばあちゃん、忘れるから作っちゃってるみたいね」
イツキは苦笑し、熱心に聞き入っているように見える中央世界人に同情した。今日彼の集めている話の半分は今ここで脚色されたり、作り足されたものなのだ。
しばらく眺めてから彼女たちはうなずきあってそこを離れた。寄り道した分、帰れば忙しい。
「中央世界人って、あんな姿で恋とかするのかしら」
隣家の娘がそんなことを聞く。
「ものすごく長生きだって話だから、あの人も中身はお爺ちゃんなんじゃないかしら」
「そっか、孫のいる年かも」
「体がきかなくなったから、あんな姿なのかも知れないね」
「そんなにまでして長生きしたいかな」
「あの人はなんだか楽しそうだったからいいんじゃない」
「そうね」
家の前につくと、隣家の娘は急にあらたまって深々とお辞儀した。
「それでは媛巫女様、またあした」
イツキは会釈で「ごきげんよう」と返す。あまりなれなれしくするなと彼女が家人にいわれていることは忘れていなかった。
イツキの家には養父である伯父しか住人はいない。伯父は鉄道で働いているので、家にいないことが多く、おつとめの翌朝のような特別な時を除いて家内を整えるのは彼女の仕事だった。
いろいろやることを頭の中で整理しながらさあやるぞ、と彼女は玄関をはいった。
「いやです」
それから二時間後、彼女は激昂していた。
「そんな私的な理由でおつとめするなんて許されるはずがありません」
食って掛かる相手は立派な髭、どっしりしたたたずまいの村長。この威厳ある人物に突っかかるなど、昨日の彼女にいっても信じはしなかっただろう。
「あまつさえ、外からとはいえよそものが機械で覗き見するなど」
「まあ、そういうな。このことは委員長もわしも許しておることだし、長老衆もしぶしぶだが受け入れた。そなたに何も言わずに進めてもよかったのだ」
イツキはぐっと飲み込んだ。なるほど断りをいれるだけでも誠実といえよう。
「なぜ、お許しになったのです。これは冒涜ですよ」
「そうだな、少し長いが話を聞くかね」
「はい、是非にも聞かせていただきます」
「先日、最初の世代のころの記録が再現されたのだ。そなたは知るまいが、委員会議事堂の地下には祖先の記録装置が眠っていたのだ」
「あの技師の人ですか」
村から村へ巡回し、いろんなものを修理して回る中央世界派遣の技師がいる。朴訥だが誠実善良な人柄で、イツキも伯父よりもらった先祖伝来のオルゴールを直してもらったことがある。そのオルゴールははるかなる世界より星の世界をわたってきた彼女の先祖が持参したものだという。
「彼と、あと何人かがかりだったそうだ」
「その記録がなにか? 」
「のうイツキよ。われらは森とともに生き、森の許しのある所の木だけを使い、死ねば樹上に葬られる。それが当たり前よな」
「ええ、それが? 」
「その記録には森を焼き払い、あるいは機械で乱暴に伐採する先祖の姿があったのだ」
「まさか。何か間違ったものをご覧になったのでは」
「それはありえぬ。人は伝承と、建物は今も残るものと一致する」
「見てないものを信じることはできません」
「わしが確かめたのだ。嘘ではない。わしだけではない。皆同じだ。それを信じたかったものなど誰もおらん」
イツキは口をつぐんだ。
「その記録の最後の日付の翌々日から委員会の手書き記録が残っているのだが逆算すると二十年ほどあわないらしい。その間、村も町も無人であった痕跡も彼らはみつけたといっている」
「誰もいなかった? じゃあどこから戻ったと」
「なにがあったか、わしらは知りたい」
イツキは村長の顔を見た。答えはもう知っていると彼女は思った。
自分と同じだ。森から戻ってきたのだ。
イツキの母は夫の暴力に堪え兼ねて乳飲み子の彼女を連れて森にはいった。森にはいるとはミドガルドの者にとっては自殺を意味する。自分で自分を葬ってしまうのだ。
だが、彼女は森から返された。取り替え子と呼ばれる。
だから彼女は特別なのだ。媛巫女などと呼ばれる所以である。
「わかりました」
「すまない」
「一つだけ教えてください」
「なにかね」
「おつとめのこと、誰が彼らに教えたのです」
「そうだな、これからうちにこんか? 」
「なぜです」
「中央世界人を款待する晩餐を行うのだが、やつは食事はいらんらしい。わし一人で食べながら話すのも面白くないのでな、そなたにも相伴してほしいのだ。その席で中央世界人にたずねるが良い」
「九十九ともうします。中央世界の一つ、球殻世界の大学に所属する研究者です」
中央世界人はシルクハットを手にとって、倒れない程度に体を傾けた。腰がないのでいろいろ不便なようだ。
「はじめまして。イツキです」
どこから声がでているのだろう。ほがらかでよくとおる声に少し警戒感を覚えながら彼女はお辞儀した。この異形の人間、とよんでいいのかわからない者は距離をつめるのがうまい。彼女は一度だけあった実父を連想して固くなった。母を森にはいるほど追い込んだ暴力の主は、意外にもこんな感じだった。母は騙されたのだ。
「ささ、座って」
主である村長が席をすすめる。隣室で待ち構えていた村長の家族が、それぞれの座に善をすえた。イツキのところに置いてくれたのは村長の下の娘だ。イツキより五つほど若い小さな娘には織り方や編み方などいろいろ教えたことがある。神妙な顔をしているが、去り際に「ごちそうよ、たのしんでね」とささやいていった。
食事は確かにごちそうだった。内陸の村で海産物はたいていごちそうなのだが、そういうときに出る小魚の干物ではなく、おおぶりの魚のひらきだった。森のハーブと煮込んである。匂いだけでおなかがなる思いだ。
幸い、会話は村長と中央世界人の九十九で進められ、海洋開発の話から農産物の価格、作柄のはなしなど如才がなく、イツキはしばし食事に夢中になれた。
「ところで、このイツキが九十九さんに聞きたい事があうそうです」
そういう話題がひとくぎりついたところで、村長が彼女に話をふった。
「ほう、なんでしょう。答えられる限りお答えしますぞ」
あわてて口元をふいて彼女は姿勢をただした。
「九十九さんは、どこで知りましたか」
違う、これじゃ何をいってるのかわかるわけがない。イツキはあわてて言葉を足した。
「その、のぞこうとしてるあれを」
いくらなんでも緊張しすぎた。軽いパニックを起こしている彼女に九十九は「なるほど」と返事した。
「では、あなたが巫女なのですね」
「九十九殿、そのことは公にはしておらぬこと」
村長が釘をさす。
「わかりました。おたずねの義、理解できますのでお答えしましょう。今日、村のご老人から話を収拾しておるのは見ましたね」
「はい」
見てたのか。イツキは九十九の「目」がどこにあるのか知らないことに気づいた。そのお面でないことは確かだ。彼女と同じような見え方ではないのかも知れない。好奇心がうずいた。
「あんな感じであちこちで話を収集、分析したのです。その場で作った話も、何もないところから出てくることはない。十分な数を集めれば見えてくるものがあります。これにいろんな観測データを重ねればおのずと」
「驚きました」
イツキは素直に感心した。ばあちゃんたちの与太まじりの話もこうして裏を読み取っていく材料としているのか。彼女の中のうずうずはまた強まった。
「おつとめ、を行うあの場所は、いくつかの村と森の中に何カ所もあります。森の中のものはほぼ均等に分布しているのが面白いですね。それに比べると村のものはやや不自然な配置です。意図を感じるところが興味深い」
「ところで」
イツキはひっかかるものを感じて言葉をあらためた。
「何がおきているかがなぜわかったかはわかりました。では言葉はどこから拾ったのです? 知らない人は使わないし、知ってる人は避けると思うのですが」
「おっと、これは」
九十九は大げさに驚いた仕草をした。わざとらしい、とイツキは眉をひそめた。
「実をもうせば、村の伝統的なくらしを嫌って離れた人たちに推論を話して補足をしてもらったのです。彼らの名誉のために言っておきますが、積極的に話すつもりは彼らにありませんでした。私が知ってることを話して無理矢理聞き出したのです」
「中央世界人ってのはそういうことばかりしているのかな」
不機嫌な声で村長がたずねた。
「申し訳ありません」
九十九は頭を下げた。もちろん体を傾けただけなのだが。
「まぁよい。わしらも知りたい。だが、知らんでもいい。知る必要もないという者も少なからずおるということを忘れんでくれ」
「心します」
村長は小さくうなずいた。イツキは小さく安堵の息をはき、九十九の顔がわりの仮面を見た。
「もう一つ聞いていい? 」
「どうぞ」
「何か調べるようだけど、外からでわかるものなの? 」
「そうですね。わからないこともあります。それを知るためにあなたの体にセンサーをはりつけ、カメラと計測機器を十ももちこむのはさすがに控えます。今回知りたいことはそこまでする必要のないことですから」
「中の様子はみないの? 」
「見えませんよ」
「ふうん」
見ない、ではなく見えないと答えたことにイツキは感心した。
「質問は以上です。機会をいただきありがとうございました」
彼女は村長にお礼を言った。村長は鷹揚にうなずいた、
「あすの夜。頼めるか」
「わかりました」
おつとめ、とは一種の降霊会である。巫女、かんなぎと呼ばれる者が祖先や故人の霊と交信し、知恵や答えを持ち帰る。重大な事案のあるときに行われることになっている。
今回は、客死した若い村人の遺言を持ちかえるという目的になるが、そんな私的な理由では通常は行われない。ただ、真相のあいまいな殺人でもあれば別ではあったが。
イツキは控えの間で薄衣一つで支度がすべて整うのを待っていた。ずいぶん昔に貿易商人から仕入れたという風呂桶にお湯が桶で満たされて行く。忙しくたちはたらいているのは二人の中年女性。一人はイツキより前に巫女を勤めていたという。交信のイメージがイツキにくらべるとぼやけていて、本人はやめたがっていたらしい。森からかえってきた取り替え子はその点、恐ろしいほどはっきりしたメッセージを持ち帰る。
イツキは一度、自分と彼女の交信中の様子を聞いてみた。彼女のイメージは霧の谷で対岸と会話しているようなものだという。ずいぶん違うとイツキは思った。
「だって、里の者は死ぬまでちゃんと森にはいれないのだもの」
自分は里の者ではない、そういわれてるように感じる言葉だった。
イツキは自分が大事にされていることを知っていた。それが巫女としての能力の高さばかりでないこともわかっていた。しかし、ときどきどうしようもない疎外感を覚える。
「準備できたよ」
さめないよう風呂桶に蓋をおいて元巫女が言った。イツキは薄衣をするっと脱ぎ落とすと垂れ幕にしきられたドーム状の部屋へはいった。
それは巨大な木のウロだった。ウロというのは色々な原因でできるが、これはまるでそのように整形したように空間をのこして樹木の繊維がそとにふくらみ、中心には樹液がなみなみとわいてどういうわけかほのかに輝いている。黄金色だ、深さは膝上ほど。広さは横臥できるくらい。
イツキはその樹液のプールに身を沈めた。あまり人にみられたくない格好だ。
だから、中を覗かれるのは少しいやだった。
樹液は生暖かく、風邪をひく心配はない。つかると眠気が襲ってきて彼女は意識を失った。
どこか見覚えのある室内でイツキは目を開いた。
彼女の家、彼女の部屋だ。だが、違う。家具の配置と小物たちが同じではない。これはなんだか今の彼女より少しだけ年長の若い娘の部屋のようだ。起き上がった彼女は、自分が家でいつもきていた村の普段着をきていることに気づく。
実はここまではいつものことだ。
かたん、と音がした。扉があいている。
部屋の主らしい若い娘がはいってきた。いまのイツキより四つ五つ年長か。面影は伯父ににているし、自分にも似ている。美しい娘だった。イツキににっこり笑みを向ける。
「こんにちは。母さん」
イツキは固い声で挨拶した。母は森にはいったときの年齢のまま。違うのは夫の暴力の残した痣ややつれた顔がすっかりなおっていること。
「ここでは、いやなものは消しておけるの」
最初にあったとき、母親はそう答えた。ここは冥府だ。イツキはいつも少し憂鬱になる。
「今日、葬儀で送られてきた人がいると思うのだけど、その遺言を聞いてきてくれって」
「あらまぁ、そんなにすぐだとまだぼうっとしてるかも」
ついてきなさい、母親は手招いた。
家の外は霧深い薄明の村だった。誰の姿もないし、このほの明るさが夜明けなのか日没なのかもわからない。一軒の家の前で母親は足をとめ、彼女に中にはいるよう促した。
「外でまってるわ。相手の名前をしっかり念じてはいりなさい」
この家は訪れたことがあるが、入ると間取りがまるでちがった。いきなり子供部屋と思われる部屋に出たのである。その真ん中に呆然とした様子で青年が座り込んでいる。葬られた若者だ。
知らない仲ではないが、特に親しかったわけでもない。青年の、自分が死んだ事が理解できていない様子に彼女は悲しみを覚えた。
「イツキ、ちゃん? 」
青年は彼女に気づいた。
「僕は死んだの? 君も死んだの? 」
「あなたは死にました。わたしは生きています。巫女です」
「僕は死んだ」
青年は膝をついた。と思うとおどろくべきすばやさで彼女の手をつかんだ。
「たのむ、連れてかえってくれ。まだ死ぬには早い。ここは薄暗くていやだ」
彼女は首をふった。
「あなたはもう葬られた。あなたには帰る体もない。私はあなたの言葉だけしかもって行けない」
ごめんなさい、と言うと彼女の手をつかんだ手がそっと離れた。青年は顔をおおって泣き出した。
「伝えたい事。伝えたい相手はいませんか? 」
イツキはそう尋ねた。
しばらくたって、家を出たイツキは霧の中、母とひそひそ話をしている人影二つに気づいた。
いつもは他の人はいない。珍しいことである。
彼らは彼女に気づくと話をやめ、一斉にこちらを見た。母と、意志の強そうな三十すぎの男と、穏やか顔のなかに強い光を秘めた瞳の老人。三十男はどこかで見た覚えがある。
「巫女殿。ちとよろしいか」
老人が話しかけてきた。この冥府の住人が積極的に働きかけてくるのは珍しい。
祖先であり失われた知識を担う故人であれば巫女としてはおろそかにできない。
イツキはぺこりと頭をさげた。
「はい、まだ大丈夫です」
「中央世界とやらについて、わかる範囲で教えてもらえまいか」
どこでその名前を知ったのだろう。イツキはびっくりした。
「よくご存知ですね」
「聞かせていただく内容によってはお願いごとがあるのです」
「それで、こうなったのですか」
鉄道のコンパートメントで、九十九はななめにごろんともたれたまま旅装束のイツキと話をしていた。腰のまがらない彼はそのまま座面にのるとつっかえるのでそんな苦しい姿勢をしているのだが、本人はとくに苦にはしていないようだ。
彼女はおつとめでみたものを九十九に乞われて話終えたところである。
「伝言の内容は教えられません。星令さまに直にいうよう申し渡されました」
「村長はともかく、君の周りの人たちは反対したのではないですか? 」
「みんな反対でした。でも、大婆様が仕方がないと説得してくれました」
「大婆様というのは? 」
「長老は四人いるんですけど、その中で最年長の人です。村長が子供扱いですからいったいいくつなのかわかりません。さすがに足腰弱っているので滅多にでてこないのですがそのときはいらして」
「なるほど」
列車ががたんと止まった。自動制御なのですれ違いなど運転調整のためなのだろう。そのときをまっていたように通路の扉が開き、素朴な弦楽器を下げた初老の男が現れた。
「旅の慰めに一曲いかがでしょう」
よくとおる声でそう言うと、楽器をかきならし少し哀調を帯びた歌を歌いながら通路をゆっくり歩いてくる。彼のポケットに他の席の乗客がおひねりをねじこむ。男は歌はやめずにっこり微笑む。
「行きの列車ではみませんでしたが、あれはなんです? 」
「遍歴詩人です。列車で流しているのははじめてみました。だいたい村から村へ放浪してるんですが、最近はあまりみかけなくなりました。いま歌ってるのはラダ一世頌歌ですね。今の委員会制度を作った人を讃える歌で、知恵と勇気で難問奇問を乗り越えていく話です」
「ほほう。それはそれは」
詩人が彼らの席にやってきた。九十九を見てぎょっとする。少しぶれたが歌は中断しなかったのはさすがか。イツキはそのポケットに用意した小銭を落とした。なんでこんなのと一緒なんだ、と詩人の目が質問していた。
「あなたの歌は興味深い。どちらまで行かれるかわかりませんが、いつかありったけ聞かせていただけますか。もちろんお礼はします」
詩人は歌いながらかぶりをふり、次の車両へと姿を消した。
「嫌われてしまいました」
九十九はがっかりした声だった。
「こわかったんじゃないですか」
「こわかった? 」
「中央世界人ってご自分の奇天烈ぶりに無頓着だから」
「ああ」
九十九は笑ったように見えた。
「確かに私は中央世界市民の中でも一風かわっていますね」
「どうしてそんなお姿か、さしつかえなければ教えてほしいです」
「順を追えば少し長い話になりますよ」
人間の体には回復力がある。ある程度の損傷は修理してしまってほぼ元通りの機能を回復する。しかしそうでないものは代替物に置き換える。すなわち義手、義足、義眼。
最初はそれらは生きたそれのようには機能せず、つっかえ棒や見た目を異様にしないためのものでしかなかったが、技術の発展はやがて機能するものを生み出し、代替できる範囲もどんどん広がっていった。すなわち臓器、神経、感覚器である。
「背骨を折った人をみたことがありますか」
イツキはかぶりをふった。
「体を動かすための仕組みに損傷がはいると、体の半分が動かなくなったりするのです。昔のミドガルドではそう言う人は生きたまま樹上に葬ってしまうこともあったようです」
「そんな」
しかしありえない話ではない。森にはいることは安らぎにおもむくことという感覚がある。つらい生より安らかな死を選ぶことは本当にありそうだ。
「中央世界が生まれるずいぶん前にこの脊髄損傷を修復する技術が生まれました。この技術はやがて脳の損傷まで直せるようになったのです。いつの話かわかりませんが、順次入れ替えて行った結果、人間の魂がやどると思われた大脳をふくめてすべて人工物になった人物が現れました。さて、この人は人間でしょうか」
「わからないわ」
「そう、わからなかったのです。人間らしさという漠然としたものに対する研究にはずいぶんながい年月と議論が費やされました。やがて、人間性というのを数学で解析しきった天才が現れました。この人の式はまだおおまかなものでしたが、人間であるかどうかのテスト方法が生まれたのです。全身人工物となった人間のほとんどが人間と認定されました。認定されなかった者は治療を加えられました。医療ミスと判断されたからです。以後、この研究は複雑怪奇に体系化し、いまでも続けられています」
ここまではいいですか、という質問にイツキはうなずいた。
「わたし、人間ってあたりまえに人間だと思ってました」
「そのあたりまえさはとても尊いものですよ。さて、ここまで来ると次になにがおきたかわかりますか」
イツキは首をふった。突拍子もない世界だ。
「まず、暫時入れ替えによらない移植技術が開発されました。事故で瀕死の人間から予備の体に緊急移植することが可能になったのです。漠然とではなく、確信をもってその人物は移植されたといえるようになりました。そしてふたたび議論が再燃したのです。見当がつきますか? 」
「え、ええと」
ぐるぐる混乱する頭でイツキは一生懸命考えた。
「間違えて二つの体に移植したらどうなるかとか? 」
「いい線です。ですが、さきほどの数学的解析がどちらが本物かを判定できるのです。しかし、問題は偽物のほうです。彼は、彼女は人間なのでしょうか」
「数学でわかるのでは? 」
「その通り。そして彼らはだいたい人間なのです。別の問題もおきています。中央世界はいくつかの特徴的な世界を核としていますが、その一つ概念空間はこのころに生まれました。実体のない世界です。ここに移り住むこともできるようになったのです。何も本物の肉体である必要はないという人たちがこぞってここに移り住みました。彼らも数学的には人間です。そして、概念空間で自分たちの数式を組み合わせて子供を作ったのです。実体をもったことのない人間です。さて彼らを人間として認めてよいか」
「あの」
イツキはふとうかんだ疑問を口にした。
「そうなると誰も彼も死ななくなるんじゃないでしょうか? だめになってくれば乗り換えていけばいいし、その概念空間とかでは朽ちるからだもありませんし」
「実はその点はあまり問題ではないのです。人間を数学的に捉えたとき、永遠に存続する事はないということがわかっています。それでも十分長命ですが、同じもののない人間という存在はそこまでということもわかっています。あとには壊れたて分裂した精神の名残が残るだけ。それも最後にはただのデータとなって動かなくなります」
「なんだか怖い話」
「普通はそのまま思いのかけらとなって飲み込まれて行くのですが、まれにそのかけらに、そう魂というべきものが宿ることがあります。人間としての完全性を獲得した、そんな人間が本当にまれに現れます。人間と証明されればその存在は市民権を得ます。しかし彼もまた概念世界のミームチャイルドと同じ実体のない人間です」
ここまで、ついてこれましたか? と九十九はきいた。イツキは正直にかぶりをふった。
「体を持たずに生まれてきた『人間』がいるらしい、ということだけ」
「自分で捨てた人ならともかく、始めから与えられなかった人間はどう思うでしょう」
すがりついてきた青年の姿が目に浮かんだ。
「自分の体をほしがるかもしれませんね」
「私は入滅したとある学者の、執念から生まれました。その学者の研究を引き継ぎ、研究対象に自分を移し替えたのです」
九十九はこんこんと自分の頭を叩いた。
「この体は人間でない種族の残した情報処理装置です。仕組みを知りつくし、勝算を得て冒険にでました。執着から生まれたのですから、当然の行動でした。いまとなっては少し狂っていたのではないかと思います」
この人はからかっているのだろうか。イツキは判断できず、押し黙っていた。
「実験は成功し、論文は学位となって戻ってきました。こうなったことを後悔はしていません」
顔のない中央世界人が微笑んだように思えて彼女は目をこすった。
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