竜之歯刷子
糸川まる
竜之歯刷子
と、だいたいその人は夜半過ぎに訪れる。
笠を被り、笠の上からすっぽりと黒衣を重ねているものだから、こちらからすれば小さな一人分の天蓋が歩いているような印象だ。店はとうに閉めた時間ではあるが、その人が訪ねてくるとあってはそう言ってもいられない。その人は、天蓋の合わせの隙間から手を出して、私にお代を渡す。これで、
くだんの職人は私の父ほどの年齢で、先祖代々、この店にぶらし類を卸してくれている。もちろん
◇
昔、祖父から聞いたことがある。
祖父がまだ小僧だったころにも、同じように黒い天蓋の女がそれを買いにきていたのだそうだ。祖父はどうしてもその女が買った
それは女が抱えるには重い。私とて持てないことはないが、軽々持ち歩けはしない。女はゆっくりゆっくり、体を左右に揺らしながら、歯ぶらしを抱えて小道を歩く。畑と畑の間を抜けるときに、こわいほど真っ赤な彼岸花が道いっぱいに咲いていたから、それは秋のことだったと思う、と祖父は言っていた。
女は、そのまま通りを抜けて、お鎮守さまの森に入っていった。祖父はさすがにそこで暗い夜の森に怖気づき、女のあとをつけるのをやめたそうで、結局女が歯ぶらしをどこに運んでいたのかは、わからずじまいだったと笑った。「お鎮守さまが歯ぶらしを使うておられたんかもしらん」と、そういえば祖父は冗談めかして言っていた。
◇
「昨晩な、
私たちは、その人のことをいつからか「
「へえ、また
妻は、はたと顔を上げた。腹がふくらんでくるにつれ、顔にもいくぶん肉がついて、丸くなってきた。
「おん。ほんでいつものように、ゆったりゆったり帰られたわ」
「ほんにまあ、私がここへ嫁いでから毎月のこと。重かろうに」
妻は
次の月にも、またその次の月にも
◇
その年の夏、ひと月も止まず続く長雨が村を
「もし」
とっぷりと暮れた晩のこと。妻の寝汗を
「
「あす、河が溢れますから、正午までに、山へ逃げてくださいませね」
いつものように
私ははっとして、顔を上げる。
村のわきを流れる河が、どうどうと岩を砕くような音を立てて決壊したのは、確かに正午を過ぎてしばらくたってのことだった。
「
「なんもかんも」
「
年寄りたちは、高台から見下ろしながら震える声でめいめい呟いては、戦慄く。子どもらよりも、よほど年寄りのほうが怯えていた。
子どもらが木に登る。落雷があるからやめろと言うが、聞きもせず、ゆっくりと田畑を
「――へびじゃ――」
それを聞いた大人たちがわっと崖に寄った。どこじゃ、あそこじゃ、あの先じゃと子どもらが指を指す。そして、それの姿を見た年寄り衆が、がたがたと震えながらその名を叫んだ。
「――
「ありゃあ
そこの河は、国に名を轟かす
子どもらの指の先を伝って見遣れば、濃緑の山やまの間からもったりともやがなだれ込み、その白い煙の中から悶えるように踊るように噴き出してきたのは、まさしく巨大な白い蛇、
「
年寄りが愕然と呟く。
絶えず耳の底を打つ雨音と河の流れる音、それを引き裂くように
ドン、と大きな音とともに
「上がった」と、子どもらが叫んだ。
「おかへ上がった」
「お鎮守さまのほうに、すべってる!」
年寄りのひとりが、「御神体をお持ちし損ねた」と悲鳴をあげる。「お鎮守さまが食われてしまう」「鍵屋、おまえがこんどの宮司係だったろう、なんで……」「まさか
「お鎮守さま、食われてしまうの?」
子どもらが不安げに尋ねる。彼らも異様な光景に怯え、樹から降りてそれぞれの父母にしがみついた。子どもらのずぶぬれの頭を、母親がぎゅうと胸に抱え込んだ。肺を悪くしている母親は、空咳を繰り返しながら、ずぶぬれの胸に子をかき抱いた。お鎮守さま食われてしまったら、どうなるの? 子どもは、容赦なく問う。
東のほうの空が一瞬またたいて、白い閃光が走った。
「お鎮守さまを食ったら、あれはここに棲むやもしれん」
「あの化け物が、お鎮守さまの森に棲むの?」
「ああ、でも、何もかんもほんとのところはわからん、わからんよ……」
騒動を静かに見ていた妻が、ふいに烈しく咳込んだ。妻を背に負った私は、慌てて大丈夫か、と声を掛ける。うう、と妻は唸った。その体は、子どもほどに軽い。
「
思い出したようにひとりの年寄りが言う。あれは
とうとう
「アッ、」
若いのの一人が、声を上げた。その声色の示すところの吉凶が読めず、私たちはぞろぞろと若いのの視線の先をたどった。見遣れば、土砂を啜って黒く濁り始めた
「――
「狗ではなかろう、見ろあんなに、巨きい」
「なれば、巨きい狗か」
私たちは呆けてそれを見つめた。
山が震えるほどの衝撃が走り、どうやら
また地鳴りが響く。狗が唸りながらその白銀の牙を剥き出しにして、
「お鎮守さまやね……」
ふいに、妻が呻くように言った。わが村のお鎮守さまは、お狗様であったのやね。妻の声は私にしか聞こえないほどか細いものであったが、やけにはっきりと断定する口調だった。
私ははっとして、獣と
瞬間、千切られた
◇
恐らく河の流域一帯、
「ご免ー」
すっかり気力を取り戻した妻が、店先からかけられた声にはあい、と歌うような調子で返事をして、よたよたと出ていく。いっときは子どものように痩せ細っていた彼女の背中やふくらはぎは、今いくぶんふっくらと肉が戻ってきていた。
「あんれ! どうも!」
そして妻の素っ頓狂な声に、私もいそいそと店先へ出た。見れば、いつもの
「これな、」
妻は、こらえきれぬ様子で職人に話しかける。
「たぶんうちのお鎮守さまがお使いになるんですよ」
なぜかほこらしげにそう言った。職人は、へえ、と目を丸くした。「そいつは、すごい。お鎮守さまを、見たかい。名前通り、竜だったかい」職人は続けて問う。
「いんや、きれいな、真っ白のお狗様」
「お狗様かあ」
妻は、ほくほくと先日の大水の日のできごとを語りはじめる。長雨と病を連れて、とうとう
「なるほどなあ」
そして、妻が語り終えると、得心した様子で目を閉じる。
「儂の家もな、もうずいぶん長いこと、
職人はそこで、妻が出したお茶をすい、と飲む。長雨が払われてから、すっかりいつも通りの蒸し暑い夏になっていた。職人の汗ばんだ額に、髪の毛が張り付いている。
「奥方さんのお話を聞いて、ようやっとわかった。わが村はここより川下だもん。
そう言って職人は、その筋張った手で傍らの
竜之歯刷子 糸川まる @i_to_ka_wa_
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