第10話
花屋を後にした僕たちは、朝比奈奈緒さんが一昨日行ったという配達先に、実際に行ってみることにした。
「明宏君、出発前に、時計を2時40分に合わせておいて。その方が、分かりやすいから」
と、明日香さんが言った。
「分かりました」
『自分の時計を、合わせればいいのに』と、思ったけど、黙っておいた。
「朝比奈さんや店の人の証言によると、朝比奈さんは午後2時40分くらいに店を出て、午後4時ちょうどに店に戻ってきたということですよね。っていうことは、配達先三軒と春香さんの家をまわって、1時間20分で花屋に戻ることができれば、朝比奈さんに犯行が可能なんですよね?」
と、僕は言った。
「確かに、そうなんだが――」
と、鞘師警部は言ったが、車のミラーに映る鞘師警部の表情は、少し険しかった。
「鞘師警部、どうかしましたか?」
「鞘師警部、犯行時刻ですよね?」
と、明日香さんが言った。
「ああ、そうだな。防犯カメラの映像からも、犯行時刻は3時過ぎからの数分から十数分しかないだろう。朝比奈さんが店を出てから30分くらいだ。ということは、朝比奈さんが犯人だったら、配達を全部終えてから向かったのではないことになる。とりあえず、朝比奈さんが行ったという順番通りに行ってみるか」
「この家が店に一番近い、
と、鞘師警部が言った。
家の前に、60代くらいの女性が立っていた。
「店を出てから、約3分くらいですね」
と、僕は腕時計を見ながら言った。
「すみません、安達さんですか?」
と、鞘師警部が聞いた。
「はい、そうですけど」
「警察の者ですが。一昨日、花が配達されてきましたか?」
と、鞘師警部が、警察手帳を見せながら聞いた。
「ええ、近くのお花屋さんで。自分で行ければいいんですけど、足が悪くて、それで配達してもらったんですけど。それが、何か?」
「配達に来られたのは、こちらの女性ですか?」
と、鞘師警部が、朝比奈奈緒さんの写真を見せた(花屋を出る前に、朝比奈さんの写真も借りてきていた)。
「ええ、この人です」
「何時頃だったか、覚えていますか?」
「確か、2時45分にここを出られたんで。来たのは、2分くらい前です」
「ずいぶん、はっきりと覚えていらっしゃいますね」
と、明日香さんが聞いた。
「ええ、ちょうど見たいテレビ番組が2時45分からあって、その番組が始まる直前だったので」
「そうですか。花屋が、こちらを出た後に、どっちに走って行ったか分かりますか」
と、鞘師警部が聞いた。
「分からないですね」
「そうですか。ありがとうございました」
「鞘師警部、とりあえず次に行きましょうか。明宏君、時計を2時45分に合わせておいてね」
と、明日香さんが言った。
「明日香さん、朝比奈さんの証言通りに次の家に行くと、春香さんの家に間に合わないですよ」
と、僕は腕時計を見ながら言った。
「そうね……。鞘師警部、このまま春香さんの家に向かってもらえますか?」
と、明日香さんが言った。
「分かった」
鞘師警部は、車を春香さんの家に向かって走らせた。
「ちょうど、3時ですね」
と、僕は腕時計を見ながら言った。
鞘師警部の車は、春香さんの家の近くの公園の駐車場に停まっていた。
「防犯カメラの時刻と、だいたい一致するわね」
と、明日香さんが言った。
「安達さんの家から、ここまで15分か。3時20分過ぎまで現場にいたとしたら、この後二件まわるのは、無理だろうな」
と、鞘師警部が言った。
「鞘師警部、一度、安達さんの家に戻りましょう。そこから、朝比奈さんの証言通りに、次のお宅に行ってみましょう。明宏君、安達さんの家に戻ったら、また時計を2時45分に合わせておいてね」
僕たちは、一度、安達さんの家に戻ると、次の家に向かった。
二件目の
「明日香さん、時計は3時10分になっていますよ。本当に、ここに先に来たんだとしたら、朝比奈さんには犯行は無理ですね」
と、僕は腕時計を見ながら言った。
「とりあえず、話を聞いてみよう」
と、鞘師警部が言った。
鞘師警部が、玄関のチャイムを押した。
チャイムは鳴っているけど、誰も出てこない。
「留守かしら?」
と、明日香さんが言った。
明日香さんが、もう一度チャイムを押したけど、やはり誰も出てこなかった。
「仕方がないな。次に行こうか」
と、鞘師警部が言った。
僕は念のために、玄関のドアを開けてみた。すると、普通にドアは開いた。
「鞘師警部、開きましたけど」
「明宏君、いくら私が一緒だからといって、勝手に開けないでくれよ」
と、鞘師警部が言った。
「すみません」
まあ、こういうときは、いつも勝手に開けているのだが……。
おそらく鞘師警部も、それは分かっているだろう。
「馬場さん、いらっしゃいますか?」
鞘師警部が、声を掛けた。
玄関に靴があるので、誰かいるとは思うのだが。
「聞こえないのかしら?」
と、明日香さんが言った。
「馬場さん! いらっしゃいますか!」
鞘師警部が、もう一度大声で呼び掛けた。
「やっぱり、留守でしょうかね?」
と、僕は言った。
僕たちが諦めようとしたとき、背後から声を掛けられた。
「あんたたち、馬場のババアに、何か用かね?」
僕たちに声を掛けてきたのは、60代くらいの男性だった。
「ええ、警察の者ですが、留守のようで」
と、鞘師警部が、警察手帳を見せながら言った。
「そんな蚊の鳴くような小さな声じゃ、馬場のババアには聞こえんよ」
そんな小さな声じゃ、なかったと思うけど……。
「すみません、あなたは?」
と、明日香さんが聞いた。
「俺は、向かいの家のもんだ。お嬢ちゃん、ちょっと待ってな」
と、男性は言うと、玄関のドアを開けた。
そして、大きく息を吸うと――
「おーーーいっ!! 馬場のババア!! いるかーーーっ!!!!」
と、男性は大声で叫んだ。
僕たちは、びっくりして、思わず耳をふさいだ。
「少し待ってれば、出てくるだろう」
「あ、ありがとうございます。でも、馬場のババアって、ちょっと失礼じゃないですか?」
と、僕は言った。
だじゃれの、つもりだろうか?
「大丈夫さ。この辺りの近所のもん、みんなそう呼んでるさ。そうそう馬場のババアは、まだ70過ぎだが、耳が遠いだけじゃなくて、ちょっとボケてきてるからな。あんたたちが、何を聞きたいのか知らんが。調子のいいときは、ましだが、そうじゃないときは、話が通じるかは分からんぞ。おっ、来たぞ」
「どちらさんかね?」
と、言いながら、馬場のババア――いや、馬場さんがやって来た。
「こんにちは!!!!」
僕は、大声で話し掛けた。
「うるさい兄ちゃんだね。そんな大きな声を出さんでも、聞こえるわっ!」
と、馬場さんに怒られた。
話が違うじゃないかという目で、僕は男性の顔を見た。
「明宏君、距離を考えなさいよ」
と、明日香さんに、冷たい目で見られた……。
「馬場のババア、こちらの刑事さんが、あんたに何か聞きたいそうだ!」
と、男性が馬場さんに言った。
「刑事? 警察が、こんなババアに何の用事かね?」
と、馬場さんが言った。
「おっ、刑事さん。今日は、調子がよさそうだぞ。ちゃんと、俺の言うことを理解しとる」
と、男性が笑った。
「何を、余計なことを言っとる。私は、まだボケてなんかおらん」
「はいはい、分かった分かった。自分がボケてきてることは、忘れているみたいだ」
と、男性が小声で言った。
「それで、あんたたちは誰かね?」
と、馬場さんは言った。
「警察の者です」
鞘師警部は、警察手帳を見せながら言った。
「警察が、こんなババアに何の用事かね?」
と、馬場さんが聞いた。
「一昨日の金曜日のことですが、花屋の配達を頼まれましたか?」
「一昨日ねぇ……。どうじゃったかな」
しばらく考えていたけど、馬場さんは思い出せないようだ。
「馬場のババア。あんた、毎年今頃に花を頼んどるだろう」
と、男性が言った。
「そういえば、来たな。忘れとったわ」
「この人が、配達に来ませんでしたか?」
と、鞘師警部は、朝比奈さんの写真を見せた。
「どれどれ。おお、このお嬢さんじゃな。毎年、持ってきてもらっとるから、間違いない」
「時間は、何時頃でしたか?」
「時間ねぇ……。昼の、3時過ぎじゃったかなぁ」
「明日香さん、やっぱり朝比奈さんは、犯人じゃないんですかね? 3時過ぎにここにいたら、春香さんを殺すのは無理ですよ」
と、僕は言った。
「いや……。4時過ぎじゃったかなぁ。いや、2時過ぎじゃな。いや、違うな。やっぱり、3時過ぎじゃな。うん、間違いない。3時過ぎじゃった」
「は、はぁ……」
鞘師警部も、困っている。
「毎日、3時にお茶を飲んどるからな。その頃に来たから、間違いない」
「分かりました。それで、何時頃に帰られたか覚えていますか?」
「10分くらい、おったんじゃなかったかな? 雨が降る中、ご苦労なことです」
「雨? 何を言っとるんだ、馬場のババア。雨が降っていたのは、金曜日じゃなくて、木曜日だろうが。やっぱり、ボケてるわ」
鞘師警部と馬場さんの話を聞いていた男性が、ぼそっと言った。
「馬場さん、そのとき配達されたお花は、どうされましたか?」
と、明日香さんが聞いた。
「仏壇に、供えてあるぞ。じいさんの命日の前に、じいさんが好きじゃった花を、毎年持ってきてもらっとるんじゃ」
「じいさんというのは?」
と、僕は男性に聞いた。
「馬場のババアの旦那だ。もう亡くなってから、5、6年経つかな」
「馬場さんは、今は一人暮らしなんですか?」
「ああ、そうだ。たまに、子供たちも様子を見に帰ってくるがな」
「一人で、大丈夫なんですか?」
「まあ、今のところは大丈夫だ。俺たち近所の者も、注意して見とるからな」
この男性は見かけによらず、いい人のようだ。
「馬場さん、その花を見せていただいても、よろしいでしょうか?」
と、鞘師警部が聞いた。
「見たきゃ見てもいいけど、普通の花だぞ」
「鞘師警部、どうでしたか?」
と、僕は、花を見て戻ってきた鞘師警部に聞いた。
「ああ、確かに花はあったよ。まあ、あの店で買ったかどうかは分からないがな。だが、馬場さんが嘘をつく理由はないだろう」
やっぱり、朝比奈さんは犯人ではないのだろうか?
「それでは、私たちはこれで失礼します。もしかしたら、またお話を聞かせていただくかもしれませんが」
僕たちは、最後の配達先に向かうことにした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます