第7話
鞘師警部と小田桐航太を見送った僕と明日香さんは、携帯電話で調べた近くのバス停に向かって歩いていた。
「明日香さんは、さっきの小田桐航太の話を、どう思いますか?」
と、僕は歩きながら聞いた。
「そうね。私には、彼が嘘を言っているようには、思えなかったわね」
「そうですか? メールの件とか、友達以上恋人未満だとか。本当なんですかね? 死人に口無しで、適当なことを言っているだけなんじゃないですかね?」
「少なくとも、彼はストーカーなんかじゃないと思うわ」
「えっ? どうしてですか?」
「春香さんの部屋で割れていた花瓶は、十中八九、彼が渡した花瓶で間違いないでしょう。だから、彼はストーカーなんかじゃないわ」
なるほど――って、いったい、どういう理屈だ?
どうして、それで小田桐航太がストーカーなんかじゃないと、言い切れるんだろうか?
「いい明宏君、もしもあなただったら、ストーカーからもらった花瓶をどうする? もしかして、使うの?」
「えっ? ストーカーから、もらった花瓶ですか? うーん……、他に花瓶がなくて、どうしても必要だったら使うかもしれませんけど」
「――明宏君に聞いた、私がバカだったわ」
明日香さんは、深くため息をついた。
「相手は、ストーカーなのよ。私だったら、ストーカーからもらった花瓶なんて、気持ち悪くて絶対に使わないわ。っていうか、そもそもストーカーからのプレゼントなんて、絶対に受け取ったりしないわ。もう一度言うけど、相手はストーカーなのよ。断固として、受け取り拒否よ」
と、明日香さんは、強い口調で宣言した。
「な、なるほど。確かに、そう言われてみれば」
もしも、小田桐航太が本当にストーカーだったら、柊木春香さんは花瓶を受け取るはずがないだろう――ということか。
「でも、あくまでも小田桐航太がストーカーではないというだけで。春香さんを殺した犯人ではないと、決まったわけではないですよね?」
「そうね。現時点では、それを肯定も否定もできないわね」
僕たちは、バス停にやって来た。バス停には、数人の人たちが並んでいた。
明日香さんが、バスの時刻表を確認している。
「1分後に、ちょうどバスが来るわね」
と、明日香さんが腕時計を見ながら言った。
僕も、明日香さんの後ろから覗き込んだ。どうやら、このバス停からは、行き先の違うバスが二種類出ているみたいだ。
「明日香さん、1分後に来るバスは、違う方面に向かうバスですよ。駅の方に向かうバスは、10分後ですね」
と、僕も腕時計を見ながら言った。
「明宏君、バスが来たわよ。乗りましょう」
「明日香さん、僕の話を聞いていました? このバスじゃなくて、次のバスですよ」
バスがバス停に停まると、ドアが開いた。
「まだ帰るには、少し早いでしょう。それとも、何か用事でもあるの? 明宏君。休日出勤だから、用事があるのなら帰ってもいいわよ」
「えっ? 用事なんて、別にないですけど――」
それって、どういう意味だろう?
「それじゃあ、乗りましょう」
ま、まさか……。
こ、こ、これは! 明日香さんからの、デートのお誘いなのか?
「明宏君、何してるの?」
僕が我に返ると、明日香さんはバスに乗っていた。
「あっ、の、乗ります!」
僕は、ドアが閉まりかけたバスに、慌てて飛び乗ったのだった。
「明日香さん、ここって――」
僕たちはバスから降りて、バス停に立っていた。
「柊木春香さんの家に、一番近いバス停よ。さっき携帯電話で調べたときに、バス1本で、ここまで来れるって気づいたから。まだ3時半だし、ちょっと寄ってみようかと思ったのよ」
「そ、そうですか……。小田桐航太も、このバスで行ったんですかね?」
デートの、お誘いじゃなかったのか……。
まあ、普通に考えれば、そうだよな。
「ちょっと、公園の方まで行ってみましょうか」
僕たちは、昨日車を停めた公園に向かって歩き出した。
「明日香さん、この公園に何かあるんですか?」
「別に、特に何かあるわけじゃないけど。春香さんの家に行く、ついでよ」
僕たちは、午後3時35分に公園にやって来た。
「ここには、防犯カメラはないんですかね?」
僕は、キョロキョロと辺りを見回してみた。
防犯カメラらしきものは、どこにも見当たらない。
公園の中にも、人っこ一人いないようだ――と思ったら、奥のベンチに誰か座っている。80代くらいの、お婆さんだろうか。
「明日香さん、ベンチにお婆さんが一人、座っていますね」
「そうね。ちょっと、話を聞いてみましょうか」
明日香さんは、公園の中に入っていった。
「お婆さん、こんにちは」
明日香さんが、笑顔で声を掛けた。
「はい、こんにちは」
お婆さんも、笑顔でこたえた。
「こんなところで、何をされているんですか?」
「別に、何もしとらんよ。イスに腰掛けて、休んでいるだけよ。あんたたち、見掛けない顔だね。どこの人?」
「私たちは、この近所に住んでいた、柊木春香さんの知り合いの者です」
「柊木春香? ああ、柊木さんのところの娘さんは、春香という名前だったか。この度は、大変なことになられましたな。かわいらしい、お嬢さんだったのに」
「春香さんを、ご存じなんです?」
「毎日、柊木さんの家の前を通るんですけど、たまに会うと元気に挨拶してくれる、いいお嬢さんですよ」
「毎日、歩かれているんですか?」
「天気のいい日は、毎日3時頃にここに来て、4時くらいまで座って、のんびりしとるんよ」
「毎日ですか? それじゃあ昨日もその時間に、こちらにいらしたんですか?」
「ああ、おったよ」
と、お婆さんは頷いた。
「明日香さん、もしかしてお婆さんが何か見ているんじゃないですか?」
と、僕は言った。
「そのときに、誰かこちらに走ってきませんでしたか?」
と、明日香さんが聞いた。
「ええ。フードをかぶった、怪しい男です」
と、僕は言った。
「怪しい男ねぇ……。見てないなぁ」
「そうですか……」
僕は、肩を落とした。
春香さんを殺害した犯人は、こっちの方に逃げたと思ったんだけどなあ。
「明日香さん、もう行きませんか?」
もう、ここにいても意味がないだろう。
「男は見てないけど、女なら見たぞ」
「女ですか?」
と、明日香さんが聞き返した。
「3時過ぎに白い軽自動車で来て、何か細い棒のようなものを持って、向こうの方へ歩いて行った」
と、お婆さんは、春香さんの家の方を指差した。
「それから、2、30分してから手ぶらで戻ってきて、自動車で出て行ったぞ。私がここで見ているのは、気付いとらんかったようだな」
「お婆さん、それって本当に女でしたか? 男じゃなくて?」
と、僕は聞いた。
「ああ、間違いない」
と、お婆さんは、自信たっぷりに頷いた。
「明宏君、私たちが勝手に、男性と思い込んでいたのかもしれないわね。私も、探偵として、まだまだね。バットで殴るなんて、男性の犯行だろうって、先入観を持ってしまったわ」
と、明日香さんが言った。
「でも、いったい誰なんでしょうね?」
小田桐航太は、やっぱり犯人じゃないのだろうか?
しかし、その女をどうやって見つければいいのか?
明日香さんと僕が悩んでいると、お婆さんの口から衝撃的な言葉が飛び出した。
「その女なら、知っとるぞ」
「えっ? お婆さん、知っているんですか?」
と、僕は驚いて聞き返した。
「ああ、以前、柊木さんの家の前で見たからな」
「お婆さん、詳しく聞かせてください」
と、明日香さんが言った。
数ヶ月前――
私は、80歳のばばあだ。名乗るほどの者でもない。
毎日、この時間に散歩をすることが日課だ。
今日は、日曜日だっただろうか?
まあ、ばばあにとっては曜日など、どうでもいいことだ。
おや? 柊木さんの家の前に、人が二人おるな。
「あっ、お婆さん、こんにちは」
私に気付いた柊木さんの娘さんが、笑顔で挨拶してくれる。
「こんにちは」
「お婆さん、今日もお散歩ですか?」
柊木さんの娘さんは、私のことをお婆さんと呼ぶ。
きっと、私の名前など、知らないのだろう。近所の、ばばあくらいの認識しかないだろう。
そういう私も、柊木さんの娘さんの名前は、忘れてしまったが。
「ああ、他にすることもないんでね。こちらの、お嬢さんは?」
「えっと、私の――」
柊木さんの娘さんは、何故か一瞬、言葉に詰まってから言った。
「私のお友達の、
「こんにちは」
朝比奈奈緒さんが、ぶっきらぼうに言った。どうやら、柊木さんの娘さんと違って、無愛想な娘さんのようだ。
「はい、こんにちは。学校の、同級生かね?」
「うん、同じ大学なの。奈緒さんは、お花屋さんでアルバイトしているの。お婆さんもお花が必要だったら、買ってあげて。ちょっと、お店の場所は遠いけど」
と、柊木さんの娘さんが言った。
「これを、どうぞ」
と、朝比奈奈緒さんは、持っていたカバンの中からチラシを取り出して、私に渡した。
どうやら、お店のチラシのようだ。
「ありがとうございます。それじゃあ、私はこれで」
朝比奈奈緒さんから、早くどこかへ行ってほしいという雰囲気を感じたため、私は退散することにした。
そのとき私は、誰かの視線を感じて振り向いた。柊木さんの家の前の、森久保さんの息子が、玄関からこちらを覗いていた。
私の視線に気がつくと、森久保さんの息子は玄関の戸を閉めた。
私は、森久保さんの息子のことが、あまり好きではない。
あの男は離婚したのか知らんが、柊木さんの娘さんのことを好きだと、専らの噂だ。
私は、公園に向かって、歩き出した。
「間違いなく、そのときの女の子じゃったよ」
と、お婆さんが言った。
「お婆さん、警察に、その話はしましたか?」
「いや、家には警察は来とらんからな」
「お婆さん、そのときに朝比奈奈緒さんからもらったチラシは、まだお持ちですか?」
と、明日香さんが聞いた。
「さあ、どうしたかな? ずいぶん、前のことだからな。捨ててはないと思うが。たぶん、家にあるじゃろう」
「お婆さん、よろしければ、そのチラシを見せていただけませんか?」
「別に、構わんが」
「ありがとうございます。それと、先ほどのお話しの、森久保さんのことなんですけど。森久保さんが、春香さんのことを好きだというのは、本当ですか?」
「本当かどうかは、分からん。だけど、柊木さんの娘さんを見る目や態度が絶対にそうだと、近所の間ではみんな言っとるよ。もちろん、本人のおらんところでな」
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