第5話

「明日香さん、おはようございます」

 僕が探偵事務所に出勤すると、明日香さんは既に来ていて、椅子に座ってゆっくりとコーヒーを飲んでいた。

 今日は土曜日で、何もなければ休みだけど、昨日の事件のことが気になって仕方がなかったので、僕は普段通りに出勤することにした。

 普通の会社だったら、『勝手に、休日出勤なんかするなよ』と、怒られるかもしれないけど。

「あら、明宏君おはよう。今日は休んでくれても、よかったのに。コーヒーが欲しければ、自分で入れてね」

 と、明日香さんは言っているけど、僕が出勤してくるだろうということは、きっと分かっていただろう。

「いえ、昨日の事件のことが、どうしても気になって。それに、明日菜ちゃんのことも――」

「そう。明日菜は、昨日は泊まっていったんだけど。今日はお昼から地方でテレビのロケがあるからって、もうちょっと前にマネージャーさんが車で迎えにきて、空港に向かったわ」

「明日菜ちゃん、落ち込んでいなかったですか?」

「そうね。表情には出さないようにしていたけど、内心はかなりショックだったでしょうね」

 まあ、それでも明日菜ちゃんもプロだ。仕事は普段通りに、きっちりとこなすだろう。

「その後、鞘師警部から何か連絡はありましたか?」

「まだ、何もないわ」

 さすがに、まだ半日では、そんなに進展もないか。

 僕は、自分の分のコーヒーを入れた。お湯が、ちょうどコーヒー一杯分だけ残っていた――


「明日香さんは、この事件のことを、現時点でどう考えていますか?」

 僕は、明日香さんがどう思っているのか気になって、意見を聞いてみた。

「昨日、明日菜と話したんだけど。柊木春香さんは、『人に恨まれるような娘じゃない』って、言っていたわ」

 僕も、いくつかの事件にかかわってきたけれど、『人に恨まれるような人じゃない』と言われても、本人も知らず知らずのうちに恨まれているということは、意外にあるものだ(その多くは、逆恨みだったりするけれど)。

「明宏君は、森久保さんの話を聞いて、どう思った?」

 と、逆に明日香さんが聞いてきた。

「森久保さんの、話ですか? どうと、言われても……。ただの、仲のいいご近所さんですかね?」

「仲のいい、ご近所ね――それだけ?」

 森久保さんの話に、特に気になるようなことはなかったと思うけれど……。

「何か、気になることでもありましたか?」

「明宏君も、まだまだね。そんなことでは一生助手のままで、探偵にはなれないわよ」

 僕は、明日香さんと一緒にいられるのなら、ずっと助手のままでも構わないのだけど。

 探偵助手だけではなく、明日香さんの人生の助手として、生きていきたいくらいだ(どういう意味だ?)。

「気になる点が、いくつかあるわ。まずは、鞘師警部が、『柊木春香さんが、亡くなっているのが見つかった』って、聞いたときよ。森久保さんは、『犯人は、捕まったのか』って、聞いてきたわ」

「それは、殺人犯が捕まらずに、うろついていたら危険だからじゃないですか?」

「私が気になっているのは、そういうことじゃないわ。どうして森久保さんは、春香さんが殺されたと思ったのかしら? 病死かもしれないし、もしかしたら事故か自殺かもしれないわ。でも森久保さんは、春香さんが殺害されたと決めつけていたわ」

「うーん……。それは、パトカーがたくさん来ていたから、そういうふうに思ったんじゃないですか?」

「そうね。そう言い訳されたら、確かめようがないわね」

「言い訳って、森久保さんが嘘をついているっていうことですか?」

「それと、もう一つ」

 明日香さんは僕の質問は無視して、話を続けた。

「森久保さんは、私たちが帰る前にこう言ったわ。『どうして、バットなんかで』って」

「それが、どうして気になるんですか? 実際に、凶器はバットで間違いないですよね?」

「現場の状況から考えても、おそらく間違いないでしょうね」

「それじゃあ、どうして――あっ、そうか」

「明宏君も、分かった?」

「どうして森久保さんが、バットが凶器っていうことが分かったのか――そういうことですね」

「ええ、そうよ。私たちは、誰もバットが凶器だっていうことは話さなかったわ」

「でも、明日香さん。森久保さんも僕たちと一緒に、防犯カメラの映像を確認しましたよね。そのときに、バットが凶器って分かったんじゃないですか?」

「明宏君。あの防犯カメラの映像を、よく思い出してみて」

「防犯カメラの、映像をですか?」

 僕は、あのとき見た防犯カメラの映像を、思い返した。

「そういえば――何か棒状のものを持っていることは分かりましたけど、あれがバットだったのかどうかは、はっきりとは断定できませんでしたよね」

「そうよ。でも、バットに見えなくもなかったから、バットだと思ったと言われたら、それまでなのよね」

「もしかして明日香さんは、森久保さんが犯人だと思っているんですか?」

「そうは、言っていないけど……」

「防犯カメラには、帰宅する春香さんと森久保さんが映っていたじゃないですか。その後は、僕たちが訪ねて行くまで、特に怪しい人物は映っていなかったですよね? きっと、偶然ですよ」

「そうね……」

 明日香さんは納得していないみたいだったけれど、僕には森久保さんには犯行は不可能に思える。


 僕はコーヒーを飲みながら、朝刊に目を通した。昨日の事件のことは、新聞に載っているだろうか?

 あっ! こっ、これは――

 この四コマ漫画は、いつ読んでも面白いな――って、今はそれどころじゃないか。

 あっ、今度こそあった。新聞の片隅には、とても小さな記事が載っていた。

『女子大学生の柊木春香さん(21)が、自宅で亡くなっているのが、訪ねて来た知人によって発見された。警察は、殺人事件として捜査をしている』

 凶器のことなども、一切書いていない本当に簡単な記事だった。

 まあ、僕たちが柊木春香さんの遺体を発見した時間と、新聞の記事の締め切りの時間を考えても、僕たちの知らない情報が載っている可能性は低いだろう。


 その後は特に何もすることがなく、昼休みを終えた。

 コンビニで買った唐揚げ弁当、美味しかったな。今度、また買おうかな。

 お腹がいっぱいになったら、ちょっと眠くなってきたな……。

 今日は天気もよくて、暖かい。昼寝でも、したいくらいだ。

 しかし、休日出勤までして寝ていたら、給料泥棒もいいところだ。

 そんなとき、僕の眠気を覚ますように、探偵事務所の電話が鳴り響いた。表示された電話番号は、鞘師警部の携帯電話の番号だった。

「もしもし、桜井です」

 明日香さんが、受話器を取った。

「やあ、明日香ちゃんか。鞘師だが」

「鞘師警部、電話をくれたということは、何か捜査に進展があったんでしょうか?」

「ああ、いくつか分かったことがあってね。まずは、防犯カメラの映像を検証してみたんだが、柊木春香さんの身長と、犯人と思われる人物の身長を比較してみた結果、だいたい170センチくらいだということが分かったんだ」

「そうですか。しかし、それだけでは絞りこむのは難しいですね。200センチとかなら絞りこめますけれど、170センチくらいでは――」

「ああ、身長だけでは難しいだろうな。しかし、周辺の聞き込みで、一つ興味深いことが分かったんだ」

「興味深いことですか、何でしょうか?」

「ああ、それがね――明日香ちゃん、すまない、ちょっと待ってくれ。真田課長に、呼ばれた。一度、電話を切るよ。また、すぐに掛けるから、ちょっと待っていてくれ」

 と、言って、電話は切れた。


「明日香さん、興味深いことって、何でしょうかね?」

「鞘師警部の口振りだと、何か犯人に繋がる、重要なことみたいだったわね」

 早く、電話が掛かってこないかな。

 僕の祈りが通じたのか、すぐに探偵事務所の電話が再び鳴った。

「もしもし」

 再び、明日香さんが受話器を取った。

「明日香ちゃん、さっきは、すまなかったね。話の続きだが、近所の聞き込みで、ストーカー騒ぎがあったことが分かったんだ」

「ストーカー騒ぎですか?」

「ああ、近くの交番の巡査の話では、事件の日のちょうど一週間前に、柊木春香さんの近所の家から通報があって、柊木さんの家に駆けつけたそうだ」

「それで、何があったんですか?」

「巡査が駆けつけたところ、若い男が柊木さんの家の前で騒いでいたらしい。柊木さんも家の前にいたようだが、柊木さんに向かって、『ごめんなさい』とか、『好きだよ』とか、言っていたらしい。そして、その男が柊木さんへのプレゼントだと言って、ガラスの花瓶を渡したみたいなんだ」

「ガラスの花瓶って、まさか――」

「ああ、おそらく柊木さんの部屋で割れていたのは、このときの花瓶の可能性がある。巡査は、柊木さんが『そんなに、大事にしないでください』と、言ったので、二度と柊木さんに近付かないように厳重注意をして、帰らせたそうなんだ。そこで、今からこの男に話を聞きに行くんだが、よかったら明日香ちゃんたちも一緒に行くかい?」

「私たちが行っても、よろしいんですか?」

「ああ、さっき真田課長に呼ばれたのは、このことだ。『被害者が、明日香ちゃんの妹の友達とあっては、明日香ちゃんも黙っていられないだろう。一緒に、行ってこい』ってね」

「もちろん、行かせていただけるのなら行きます」

「それじゃあ、これから迎えに行くから、待っていてくれ」

「分かりました。お待ちしています」

 明日香さんは、電話を切った。

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