第3話
「あ、明日香さん見てください、あそこです」
僕は、倒れている人の方を指差した。
二階の部屋の出入口から少し進んだところに、人が血を流して、うつぶせに倒れていた。
その人は、まったく動く気配もなかった。おそらく、もう亡くなっているのだろう。
スカートを履いているので、おそらく女性だろう。顔が少し見えているが、柊木春香さんだろうか?
「ねえ明日菜、あれは春香さん?」
と、明日香さんが聞いた。
「お姉ちゃん……。――もう少し、近くで確認させて」
と、明日菜ちゃんが言った。
明日菜ちゃんの声は、震えている。
「明日菜ちゃん、無理しなくてもいいよ」
と、僕は言った。
「ありがとう、明宏さん。私は、大丈夫だから――だけどお願い、ちょっと立たせて」
僕は、明日菜ちゃんの手を掴んで、明日菜ちゃんを立たせた。
「ありがとう」
明日菜ちゃんは倒れている人の方へ、ゆっくりと歩いていった。
明日菜ちゃんは、しばらく顔を覗き込んでから言った――
「お姉ちゃん……。間違いないよ、春香ちゃんだよ……。どうして、こんなことに……」
と、明日菜ちゃんが、呟くように言った。
やっぱり、そうか。
「お姉ちゃん――春香ちゃんの横に、バットが落ちてるよ」
「バット?」
「うん。野球のバットが、ここに」
と、明日菜ちゃんが、しゃがんで拾おうとすると――
「明日菜! 触っちゃ駄目よ! あなたの指紋がつくわ」
と、明日香さんが叫んで、明日菜ちゃんに駆け寄った。
明日香さんは、しばらく春香さんとバットを見てから言った。
「たぶん、この金属バットが凶器よ、血がついているわ。明宏君、警察に電話をして。それと、明日菜を下に連れていって」
「分かりました」
僕はポケットから携帯電話を取り出すと、警察に電話を掛けた。
「明日香さん、殺人――ですか?」
と、僕は聞いた。
まあ、自分で自分をバットで殴ったりしないだろうけど。
僕は明日菜ちゃんを一階の部屋に連れて下りると、すぐに二階に戻ってきていた。
そして、部屋の中にいた明日香さんに、廊下から声を掛けた。
「間違いないと思うわ。明宏君、足元を見て。血痕が、部屋の中央から廊下まで続いているわ」
部屋の中をよく見ると、部屋の中央にテーブルがあるのだが、その周辺にいくつか物が落ちていた。
あそこで、激しく争ったのだろうか。そして、血痕が廊下まで続いている。
「ここは、春香さんの部屋でしょうか?」
僕は、部屋の中を見回した。
うん? ベッドの上に、携帯電話があるな。
「ベッドやタンスもあるし、テレビや参考書もあるから、そうでしょうね。後で、明日菜に聞いてみるわ」
「春香さんは、ここで犯人に金属バットで殴られて、廊下まで這っていって力尽きたんでしょうか?」
「たぶん、そうじゃないかしら。それから一つ気になるんだけど、この辺りが濡れているのよね。ガラスの破片が散乱しているし、水でも入っていたのかしら?」
確かに、床に絨毯が敷いてあるのだが、テーブルの横に濡れた形跡がある。そして、ガラスの破片が散乱していた。
「ガラスのコップで、水でも飲んでいたんでしょうか?」
と、僕はコップで水を飲む仕草をしながら言った。
「コップねえ……。本当に、そうかしら? コップにしては、ちょっと破片が多いような気がするんだけど」
「それじゃあ、ガラスの花瓶でも置いてあったんでしょうかね? でも、花瓶だったら、花も落ちているはずか」
部屋の中を見たところ、花は落ちていないようだけど。水だけ入った花瓶を、部屋に置いておくだろうか?
「そうだ明日香さん、一階には気になるところはありましたか?」
「まだ、台所だけ見ていないけど、別に気になるところはなかったわ。それよりも明宏君、明日菜は大丈夫そう?」
「かなりショックを受けていましたけど、だいぶん落ち着いていました」
「そう。警察が来る前に、私たちも一階に下りましょうか」
僕たちは、階段を下りてきた。すると、ちょうど明日菜ちゃんが、奥の方から出てきた。
「ちょっと明日菜、何をしているの?」
と、明日香さんが聞いた。
「あっ、お姉ちゃん。ちょっと台所で水を飲もうかと思ったんだけど、やっぱりやめておいたわ。あんまり、いろんなところを触らないほうがいいかと思って」
と、明日菜ちゃんは言った。
「そうね。その方が、いいと思うわ」
まあ、いろんなところに明日菜ちゃんの指紋があったら、警察に変に疑われるかもしれない。
「それに、流しにボウルが置いてあって、お花が入れてあって邪魔だったから」
「お花?」
「うん。どうして、花瓶に入れてないんだろう? 買ってきたばかりだったのかな?」
「ちょっと、見てくるわ」
と、明日香さんは言って、台所に入っていった。
僕と明日菜ちゃんも、後を追った。
「ほら、あそこ」
と、明日菜ちゃんが流しの方を指差した。
「本当だ」
と、僕は言った。
流しに大きめのボウルが置いてあって、水を入れて、花(何の花かは、分からないけど)が数本入っていた。
「明宏君、二階のガラスの破片が花瓶だったとしたら、この花が入っていたんじゃないかしら?」
と、明日香さんが言った。
「もしもそうだとしたら、どうして花だけが台所にあるんでしょうか?」
まさか、花が勝手に移動するはずはないし。
「ねえ、明日菜。二階の部屋は、春香さんの部屋よね?」
「うん、そうだけど」
「春香さんは、自分の部屋に花を飾っていたの?」
「どうかな……。私も、家に来るのは久しぶりだから。まだ、ご両親が生きていた頃だったけど、その頃は花なんて飾っていなかったと思うけど……」
「花瓶の水でも、かえていたんでしょうか?」
と、僕は言った。
「それなら、花だけがここにあるのは変よ。普通は、花を入れたまま持って下りるか、花瓶だけ持って下りるかの、どちらかでしょう」
と、明日香さんが言った。
確かに、そうか。僕だったら、花は濡れているから一緒に持って下りるかな。
それで水をかえて、花だけ忘れて部屋に戻る――って、さすがにそれはないか。
「それじゃあ、犯人が花を持って下りたんでしょうか?」
「そういうことになるわね」
「どうして、わざわざそんなことをしたんでしょうかね? そのまま、逃げればいいのに」
「きっと犯人が、お花が可哀想って思ったんだよ」
と、明日菜ちゃんが言った。
そんなことを思う犯人なんて、いないだろう。殺された柊木春香さんの方が、よっぽど可哀想だ。
そのとき、遠くからパトカーのサイレンの音が聞こえてきた――
僕たちは、家の外に出てきた。
ちょうど家の前に数台の警察車両が停まって、数人の警察官が下りてきた。
その中に、僕たちのよく知っている長身の警察官の姿を見つけた。
「
と、明日香さんが声を掛けた。
鞘師警部は警視庁の警部で、明日香さんのお父さんの大学時代の後輩の息子だ。身長185センチの、35歳の独身イケメン警部だ。
鞘師警部はとても優しくて、僕たちの調査にも協力してくれたことも、一度や二度ではない。
どうして鞘師警部のような人が今まで独身なのか、不思議なくらいだ。
僕は、鞘師警部は明日香さんのことを好きなんじゃないかと疑っている。しかし、いくら相手が鞘師警部でも、明日香さんだけは譲れないのだ。
「やあ、明日香ちゃんじゃないか。まさか、君たちが通報したのかい?」
「はい。明宏君が」
「そうか。珍しく、明日菜ちゃんも一緒か」
「殺害されたのは、明日菜の友達なんです。今日は、何か相談したいことがあったらしくて」
「明日菜ちゃんの!? そうか、それは大変なことになったな。明日菜ちゃん、大丈夫かい?」
「鞘師さん、ありがとう。正直、大丈夫じゃないけど、何か聞きたいことがあったら、なんでも話すよ」
と、明日菜ちゃんは言った。
「そうか、分かった。それじゃあ、聞かせてもらえるかい。明日香ちゃんと明宏君も一緒に」
僕たちは、春香さんの家に来ることになった経緯から、春香さんの遺体を発見して警察に電話をするまでのことや花のことを、鞘師警部に話した。
鞘師警部も、ガラスの破片や台所にあった花の件は、かなり気になったみたいだった。
「三人とも、ありがとう。今日は、これで帰ってもらっても構わないよ。また何か聞きたいことがあったら、明日香ちゃんに連絡をするから」
と、鞘師警部が言った。
「分かりました。それじゃあ明日香さん、僕たちは帰りましょうか」
と、僕は言った。
「明日香さん?」
明日香さんは、春香さんの向かいの家の玄関の方を見ている。
僕もそちらに目をやると、
「鞘師警部、向かいの家の玄関に防犯カメラがついていませんか?」
と、明日香さんが、指差しながら言った。
「防犯カメラ? 確かに、そうみたいだな。角度的に、こっちの玄関も映っているかもしれないな」
と、鞘師警部が言った。
「鞘師警部、もしかしたら、春香さんを殺害した犯人が映っているかもしれません。これから行って、確認させてもらいましょうか?」
どうやら明日香さんは、鞘師警部と一緒に防犯カメラの映像を見たいようだ。
「ああ、もちろんだ。だが、これは我々警察の仕事だから、明日香ちゃんたちは本当に帰ってもらっても構わないぞ」
まあ、そうだろうな。いくら鞘師警部が優しいとはいえ、『それじゃあ、一緒に』とは、ならないだろう。
「鞘師警部。被害者は、明日菜の友達です」
「ああ、それは先ほど聞いたが」
「もしも、春香さんの顔見知りの犯行だった場合、もしかしたら明日菜も顔見知りかもしれません。私たちにも、防犯カメラの映像を見せてもらえませんか?」
すごく、強引な理屈だ。
「なんだって?」
鞘師警部は、少し考えていたが――
「分かった。それじゃあ、一緒に行こうか」
と、鞘師警部は頷いた。
「ありがとうございます」
と、明日香さんが頭を下げた。
僕たちは、鞘師警部と一緒に向かいの家に向かった。
「鞘師警部、明日香さんが無理を言ってすみません」
と、僕は言った。
「いや、構わないよ。こうなったら明日香ちゃんは、絶対に映像を見るまで帰らないだろう。それは明宏君の方が、よく分かっているだろう? まあ何か問題があったら、私が
と、鞘師警部は微笑んだ。
真田課長とは、捜査一課の課長だ。
真田課長は、何故か明日香さんの大ファンで、真田課長が明日香さんのことで怒るなんていうことは、まずあり得ない(それで警視庁的に、問題はないのだろうか?)。鞘師警部も、それは分かっているはずだ。
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