後書きまとめ、壱*


*後書き兼コラム(記載の無い回もあります)だけを抜き出して纏めた回になります。



- 手古と藤紋の入った唐鏡 -

手古生年〜11歳 掲載分


*基経(手古)の誕生日について

この頃はまだ公的な性格をもつ日記も無いため、また、記録は何かしら残っていても紛失や焼失してしまったのか…

残念ながら、836年生まれということしか史書などの公式記録では分かっていません。

ただし、この小説では基経のイメージやお話の雰囲気にあわせて、誕生日を3月6日未の刻にしています。

因みに、誕生した日が分かっている人も含めて、当時は年明け元旦に皆一斉に歳をとります。なので、年齢は『数え年』で表示しています。






- 養嗣子契約の悲しみと初夜 -

手古14歳 掲載分


*このお話よりも前世の胡桃の年齢(胡桃の本体の身体の年齢)は、基経(手古)との15歳の歳の差があります。

これは、彼女の父である人康親王の生年から推測して設定しています。

少なくとも、基経と10歳以上は離れていると思われますが、このお話では、人康親王20歳の時の子、850年生まれとしています。


因みに、唐鏡から出てくる現段階の胡桃は霊のような存在であり、基経(手古)以外の人には見えない存在です。

霊体の胡桃は、前世からの因縁と塗籠の中にあった不思議な藤紋の入った唐鏡の力によって2人の魂が同化したため、基経(手古)と同い年になっています。






- 仁明帝の思い - 橘皮と鸚鵡と -

手古14〜15歳 掲載分


*鸚鵡

入唐求法僧慧雲が孔雀1羽、狗3頭とともに帝に献上したもの。帝が臨終の際、他の動物はすべて放ったのに対し、

『鸚鵡のみは留めた』との記述が続日本後紀に見られることから、かなり愛着があったと思われる。


*橘皮

基経が幼少期に、仁明帝から賜ったと伝わる笙の笛。楽家録には、橘丸と記載されているそうだが、同一のものかは不明だそう。

このお話の中では、橘皮という名称から推測し、仁明帝の母后の橘嘉智子から伝承された橘家の家宝として記述している。





- 元服の儀 - 経を基にして織り成す未来 -

手古16歳のとき、基経になる -掲載分


*元服(初冠、初元結とも呼ばれた)

年齢は一定では無いが、大体、数え年で11〜20歳くらいで行われ、帝、東宮、親王の場合には少し早目で11〜17歳の間に行われることが多かった。

また、帝の場合は正月1日〜7日に行われ、臣下もそれに習い、正月中に行うことが多かった。尚、時間帯は概ね夜の戌の刻(19〜21時に相当)に行われることが多かった。


しかし、特に臣下の場合には、

実際は、その家の経済状況、父母や周りの意向に左右され、何歳で行うかも個人によってまちまちであったし、また、この時代の後の摂関家の元服式の日程の記録を調べたところ、正月以外もかなりあり、時間帯も昼に行われたこともあった。

要は、占いの結果の吉凶に左右されるため、日程、時間帯ともに結局まちまちになってしまうのかと推測される。


このお話の手古が基経になる元服式は、史実の記録としては、851年(仁寿元年)に東宮内殿にて文徳帝に加冠して貰ったことのみしか残っておりません。

そのため、お話を描くにあたり、まず、この年の改元(嘉祥→仁寿)に着目し、仁寿に変わったのが4月28日のため、嘉祥と仁寿の記載間違いなどが無ければ、元服式はそれ以降の期日となります。

大雨による水害のあった5月と8月、大嘗会のあった11月とその準備や後処理に追われているであろう前後の月(10月と12月)を除くと、6月、7月、9月が残ります。6月と9月はまだ大雨による水害の影響を引きずっていると思われるため、比較的平穏な7月と推測して描きました。


名字勘申も後の記録が多く残る平安中期〜院政期のものを見ると、有能な儒者や懇意にしている儒者に候補を出して貰っていることから、この頃に儒者として活躍し、在朝の通儒と呼ばれた春澄善縄がこの役目を担ったと推測し描いております。





- さぁ、裳着と婚姻の練習をすることよ -

月草を搗けば露宿りて初秋の夜 -掲載分


*月草=露草の古名。

小さな儚い露草の花に宿る露は、前夜の雫を宿したかのように思えるが、実際の露草に付いている露は、自らの水孔から排出した水だそうです。

吸い込まれそうな瑞々しい露草の神秘的で綺麗な色合いは古来から好まれ、その花の汁を染料として使用したことから、搗き草、着き草が転じて月草と呼ばれました。

しかし、この色は染まりやすい一方で、水に溶け、移ろいやすい色でもあり、露草が朝に咲き夜には萎んでしまうことや朝露は儚く消えてしまうため、儚さの象徴として万葉集の歌にも詠まれました。


*平安時代初期〜中期の装束について

794年の平安京に移りたての頃は、奈良時代に引き続き、唐から伝わった古来の装束を身に付けていたと考えられますし、現代から見て、誰もが平安時代と聞いて思い描く清少納言や紫式部の時代は十二単(唐衣裳姿、女房装束)が主流であることは貴族の日記や残されている資料で推測されます。ところが、このお話の主人公の基経や胡桃子が生きた時代は記録として後世に残るような貴族の日記も無く、装束について書かれた資料がほとんどありません。この頃は、唐風文化隆盛の嵯峨朝から国風文化が華開いたと一般的に言われている宇多 - 醍醐朝のちょうど中間、変遷期真っ只中(色々なものや事が日に日に移り変わっていった時代。尚、左近の梅が桜に植え替えされたことを始め、国風文化の土台的なものは既に仁明朝に出来上がっていたと推測しています)であるため、普段着などでいち早く、既に十二単に通ずる衣や襲の色目が流行っていたと考え、

さらに、変遷期ということで、色々と旧と新の装束が混じっていそう…と推測し、以前の唐風の装束の特徴的な飾り布でもある領巾も着せて、描きました。

挿頭の花についても、宮中の行事などで男子が付ける以外にも、普段、邸の中にいる女子がそれに憧れて付けることや、夫や家族から貰って付けることもあったのでは、と推測し、工夫して描いております。

また、男子の装束についても、時代の変遷期だと言うことを加味し、物語の雰囲気にも合う様、柔軟に考え、同じように工夫して描いております。

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