第15話 - 業を平らかにする男 - 好色な人達は皆、歌の名人 -




- これは、三条(左京四坊三町)にある、

とある邸の中のこと -



業平なりひら、おまえ…また途中で抜け出して女人のところへ行っただろう?

おかげでまた私がおまえの代わりに怒られたではないか、

その上この間のことで主上からも怒られて、明日から須磨すまに行くことになってしまったでないか!

もう、いつもおまえの尻拭いばかりでうんざりする…』



『兄よ、この私から女人をとったら、何も残らなくなってしまうのを兄さんは良く知っているだろう?

あらゆる女人と恋の逢瀬を楽しむことは、

私にとっては何よりも大切で生き甲斐なのだ。出仕している暇なんかないし、寸分の間も惜しくて仕方がない。

須磨…そうだなあ…須磨にも美女がいるかもしれぬ。兄さんも怒ってばかりいないで楽しんできてはどうかな?』



業平は全く反省の色も無く、兄の行平ゆきひらに対し、堂々と明け透けに自分の本音を晒す




『おまえは和歌を詠むのだって、私よりも上手いではないか?何も女人のことをとっても何も残らないということはあるまいよ。


それに、須磨に行くことになったのはおまえのせいなのに、どうして楽しむことができると思うのか?いつも思うが莫迦なのか?

私はおまえの頭の中がどうなっているのか、不思議でならぬよ…』





『…いいや、私が歌を詠むのは、女人にモテるためだ。うむ、歌が先にあるのではなく、

女人がそこにいるからこそ、歌を詠むのだ』




業平は、どや顔をして決めポーズをしながら兄の行平にそう返答し、恋の悩みを話し出した -



『数日前のことだ。

前日に、3人の女人の邸をはしごしたせいか、昼間に、もう眠くて耐えられぬ…と思って、ちょうど宇多院の裏側の森の辺りで昼寝をしようと思っていたところ、

美しい女人がここにもいるやもしれぬと興味本位で裏側から邸の中が見えないかと、覗いていたのだが、簀子すのこのところで小さな女の子を胸に抱いて、一緒に本を読んでいる美少女を見かけたのだ。


まだ、十代半端くらいに見えた。


それ以来、もう兎にも角にも、心を奪われてしまって…

あの美少女が気になって仕方がないのだ…』



頭を抱えて物憂げな色気を醸し出している弟に兄の行平が溜息をつきながら言う



『はぁ…またか、おまえのその一目惚れとやらは…私は今まで一体、何回聞いたことだろうな?


おまえと顔を合わせる度に聞いている気がするぞ…一体何人と関係を持っているんだ?』






『…そうだなぁ…頭の中でざっと数えようと試みたが、たくさんいすぎて、すぐには思いだせぬ…

そういう兄さんだって、結構好色じゃないか。人の事を言えないだろう?』



御小言ばかり言う兄の行平に対して、

業平も反撃に出ると、また、行平も反撃する -




『…ごほんっ…桁違いのおまえと一緒にするな。私は普通の範囲内だ。これくらい普通なんだ!』



『普通かぁ…普通ってそもそも何だろうなぁ。

ほら、良房よしふさ殿なんてまつりごとが恋人みたいな感じで、何かいつも『どいつもこいつも色ボケしおって…』って、歩きながら呟いているのをよく聞くぞ。

あれはどうなのだ?普通なのか?』



『…あの人はいろいろと特別というか、規格外というか…あれが普通でそういう人がたくさんいたとしたら別の意味で困るだろう…

確かに、良房殿に比べれば私だって好色なうちに入るだろうし、あの方と比べたら、

そもそも、ほとんど皆、好色になってしまうだろうよ…』



『はぁ〜しかし、あの美しい明子あきらけいこ様も入内じゅだいされてしまって…ついこの間、皇子を生んで…私とのいつかの逢瀬なんてもう忘れてしまっているだろうか…ああ、切ない。

もう、この切なくなってしまってどうしようもない行きどころのない思いを慰めるためにも、時康ときやす殿にあの美少女のことを聞いてみるとするか、うむ、それが良いな!』



落ち込んでいたかと思えば、またすぐに、

嬉しそうな生き生きとしたどや顔に戻り、

女人とのアレコレを独りごちて自分の世界に入り込んで、兄の行平の存在なんかまるでどうでも良いというようなその弟の態度に、

行平はいつものことながら呆れて怒っていた



『おまえは…全く反省してないな…

別におまえがあらゆる女人と逢瀬をしても、それ自体は構わないが、相手の立場を考えてから関係を持て。

断じて、私にはもう迷惑かけるなよ!』



行平は怒って足早に出て行くが、

業平は兄の返事なんか、全く聞いてはいなかった -

もう、彼の頭の中は良房の娘である明子とのいつかの逢瀬を思い出して、その記憶の中に魂が飛んでいた



明子様、貴方はもう私の手の届かないところに行ってしまった…

その上、彼女の生んだ皇子(惟仁これひと親王)の存在が、私が懇意にしていた惟喬これたか親王の東宮になる未来を閉ざしてしまった…

ああ、この世はどうしてこうも残酷で複雑なのだかなあ…




承和の変に連なる業平の父、阿保あぼ親王の突然死に関して、大体において事の察しはついていたが、業平はそのことで良房に恨みを抱いたり、仕返しをしてやりたい、と考えたことは無かった



それは何故かと言えば、業平自身、そのような事をしても何の解決にもならない、と、

よくわかっていたからでもあった


ただ、私たち子の将来のために命がけで身を挺した父のために、長生きして存分に楽しく過ごしてやろうと思った



そして、そんな修羅のような良房の家に生まれた明子という、自分と歳も近く美しい女人が何を考え、何を好み、その美しくたおやかな身のうちに、どれ程の大きな悩みや闇を抱えているのか、近くで知りたい…或いは自分が癒してやりたい…と興味が湧いたがため、彼女に近付いたのであった



『…業平様、私は最近、自分の背負うものが苦しう思う時があるのです…

そして、苦しいが限界に達すると、いつも気を失ってしまい、目が覚めた時には何も覚えていないのです。けれど、起きた時に鏡を覗き込むと首に絞め跡のようなものがついていて…もう、恐ろしうて恐ろしうてなりませぬ…』



泣きながら、私に必死にしがみついて、

苦しさを訴える明子が痛々しくて哀れで…

それでいて、甘美な程に美しかった -


彼女は、雨に濡れる桜花のような女人





そして、最近、文徳もんとく帝に拝謁し、内密に賜った勅を思い出す



『明子との過去から今に至るまでの密通は

よくよく反省して貰いたいが…

惟喬がそなたのことを信頼し、たいそう気に入っているのは惟喬や静子しずこから話を聞いてよくわかるし、あの子に及ぶ身の危険がまだまだ安心ならぬため、惟喬の側にいてあの子を守り続けてくれ。

そのことは、そなたにしか任せられぬ。

どうか、頼む…


そなたの兄の行平に事情を話し、"明子の父である良房の面子を立てるために"という理由で、誠に申し訳ないが、行平には須磨に行ってもらうように頼んだゆえ

そなたは惟喬のために都に残れ』




難しいものだなあ…

帝は、惟喬親王を心底溺愛しているため、

心の底ではまだ惟喬親王が東宮になるのを諦めていない

確かに、惟喬親王は親孝行で優しく、そのよわいよりも考えもしっかりとしており、才も抜群の凛とした真っ直ぐな心根の皇子である -

そんな皇子に期待する気持ちも愛して止まない気持ちも、惟喬親王を側で見てきた私には痛い程に分かるのだが…

ただ、東宮を経て帝になることが皇族や親王として生まれてきた者の皆にとって、

果たして真の幸せになりうるのだろうか - ?



それは、業平も自身の境遇と重なることもあり、今日まで考え、悩んできたことであったが、

未だに自身の中でその答えを出せていないことでもあった



庭に目を見遣ると、艶やかな芙蓉ふようが夏の名残を惜しむかのように咲き誇っており、秋を告げる萩の花が池の水面に枝垂れてしとやかな風情ふぜいを醸し出している


一雨ごとに、そして、野分のわきの度に、水面に花を散らす萩の花 -

散りゆく花もまた、趣深いもの -


一難去ってまた一難 、人生もまたそのようなものであるのだから

それもまた一興だと、業平は思うのである




妻戸つまどを開け放っているため、

業平のいる母屋おもやまで、時折、ひんやりとした

秋の空気が流れ込んで来る



業平は脇息きょうそくにもたれ掛かり、それを見たら、ほとんどの女人がうっとりと見惚れて心此処にあらずになってしまいそうな、物憂い溜め息を吐き、色香を放出させていた



 



夕暮れ時になって、業平は網代車あじろぐるまで枇杷殿に向かった

さっきまでの物憂い雰囲気など雲散霧消で、

お気に入りの二藍ふたあい狩衣かりぎぬを着て、機嫌良さそうに催馬楽さいばらか何かと思われる鼻歌を歌いながら男前の美貌を輝かせていた



最近は陽が落ちてくると、だいぶ涼しくなることが多く、日が暮れるのも早くなったものだなあ…と、茜色に染まる夕陽を見ながら何とは無しに思いつつ、枇杷殿に到着する





『…逢いたかったわ!業平様…』


ギュウッ…


室に入るやいなや、業平に抱きついてきて

その逞しい身体に身をしっかりと寄せるのは

黒髪の艶やかで美しい、まだ年端も行かぬ

美少女 -



『私も貴方に逢いたくて、逢いたくて、この身を毎夜焦がしていたのですよ…高子たかいこ様…

また、しばらく見ぬうちに、こんなに美しくなられて…逢う度に美しく成長する貴方を見る度に、私、業平は、いつ他の男に捕られてしまうかと気が気でないのです』



『それはこちらの台詞ですわ。業平様は何処にいても華やかで容貌が目立ちますし、たいそうおモテになるそうですから。

ついこの間まで、明子様とも仲良くしていたそうで…

そんな業平様を恋しく慕う私にとっては、

私など子供で物足りないんじゃないかしら…でも、すぐには、大人になれないし…と、日々悩んでいるのですわ!』



美しい珠のような頬を膨らまして、焼き餅を妬いている高子に、業平がその艶やかな黒髪をそっと掬いとって口付ける -



『貴方はこんなにまだ幼いのに、私を魅了して止まない…これから先、どんどん美しくなる貴方がしおれていくばかりの花などに妬かなくても良いでしょう、

私は、寝ても覚めても、唐紅からくれない薔薇そうびの花のような可憐な貴方に夢中なのですよ』



業平の女心を刺激して鷲掴みするような言葉に、高子は照れ隠しをする



『…そうね、私はまだまだこれからだわ。

これから、ますます美しくなって、私以外、業平様の目に映らぬように、それほどに、

美しくなってみせますわ』



不敵な笑みを浮かべてうっとりと誇らしげにそう宣言する高子は、10歳の女子が持ち得ないような妖艶な大人の女の色香を漂わせている -



『高子様の成長が、とても楽しみだな。

来年の高子様の裳着の後に、私達は夫婦になるのだから、今日はいつもの和歌の手習いの後に、その大切な初めての日のための手解きをしよう』



婚姻の日が待ち遠し過ぎて待ちきれない業平と高子は、婚姻前だというのに、この日を境に男女の関係になってしまい、熱く燃えるような目眩めくるめく逢瀬の日々を繰り広げることになるのであった -



だが、こういったことは高子の両親も乳母も黙認しており、

愛娘の高子が風流で優美な貴公子 - 業平と結ばれることを、高子の母の乙春おとはるも父の長良ながらもとても喜んでいる



業平と長良は、そのおおらかな気質が共通するところでお互いに気が合うのか、以前から交流があり、特に和歌のことで、『ぜひ、愛娘の高子の師になってくれないか』との長良からの依頼で業平は枇杷殿に通っていた



この通常より少々幼い年齢での婚姻の約束の背景には、愛娘の高子の気持ちを大事にしたい両親の意向の他に、父である長良と母の乙春も業平のことをかなり気に入って、

尚且なおかつ、その人柄を信頼していることがあった

何よりも、母の乙春は、姉の沢子さわこが後宮に入内後、帝の寵愛を一身に受けたがために、

執拗で悪質な嫌がらせを受け、遂には急死してしまったことに大きな怒りや恐怖を抱いており、加えて、父の長良も皆無と言って良いほどに出世に興味が無く、両親共に、愛娘の高子を入内させる気がまるで無かったのであった



この日、長良はちょうど良い機会だと思い、業平のことを高子の兄の基経にも紹介するため、塗籠にいる基経をどうにか説得して呼び出した


『業平殿は基経の将来のためにもきっと助けになってくれる人だろうから、ねっ』


父の長良に散々説得され、嫌々渋りながら

基経は父について高子と業平のいる西の対に向かう



西の対に着くやいなや、

ムスッとした不機嫌を隠そうともしない基経に、高子が嫌味を言う

和歌の手習いが終わって、これから良い雰囲気…というところだったらしい…



『あら、やだ。どうして、兄とも呼びたくない気色悪い男女おとこおんながここにいるのかしら。

良い雰囲気が台無しになるから、さっさと出て行ってよ!』



基経がそれに対し、心底嫌そうに溜め息を吐きながら言う



『…父上がどうしてもと言うからここに来ただけだ。こっちこそ、そなたみたいな耳年増の阿婆擦れを妹なんて思いたくも無い。

…ふんっ』




『こらこら、2人とも。今日は業平殿を基経にも紹介しようと思っていたのだから、喧嘩は無しだ』



長良が2人を一生懸命宥めている



業平は基経を興味深くしげしげと眺めていた


何だかこの間、宇多院の簀子にいた、

あの美しい少女に似ているなぁ…

第一、あの方はそもそも

女子なのか?男子なのか?



『長良殿…この方は高子様のお兄様でしょうか、それともお姉様?』



業平が気になって、長良に小声で訊ねた



『…ああ、あの子は高子の同母の兄なんだ。

高子は私の妻の乙春似なのだけど、あの子は

妻の姉である沢子様似なのだよ。

私には、あまり似ていないかなぁ…うん…』




『なるほど、兄上は兄上でまた違った雰囲気の美人さんですな。

今まで、男にはてんで興味がなかったが、

あれは中々、そそられるものがある…

長良殿、あの方も私に頂けないでしょうか?』



貪欲な業平は高子だけでは飽き足らず、

その兄の基経も欲しいと言い出した



『この間も、また、女の格好して出歩いていたでしょう?本当に気持ち悪い!男だったら男らしくしなさいよ!』


『私の好きな格好を私がしたい時にするのは、私の勝手だろう?それのどこがそなたの迷惑なのだ?

そういう、そなたこそ、見た目だけでは無く、中身も姫君らしく淑やかにしたらどうだ?』



『…何よっ!和歌のひとつも満足に詠めないくせにっ。

漢詩ばかりに気をとられているから、モテないし、頭が固くなるのよ!』



『モテ…?私は今まで一度もモテたい等と思ったことが無い。寧ろ、そんなことになったら、私にとっては迷惑でしかない、モテることに意義があるとは到底思えない』




その間にも高子と基経は、やんやかんやと

口喧嘩している -




『う〜ん、それはちょっと…見ての通り、

2人は仲がかなり悪いからね。

水と油というかね…

それに、基経は先日、弟の良房に養嗣子ようししとして迎えられたし、少し前から将来を固く約束した姫君もいるみたいだから、いろいろ難しいかな…

でも、基経は気難しくて友達を作るのが不得手で辛いことも我慢して言わない不器用な子だから少し心配でね…。

だから、友人としてあの子を見守ってくれないか?』




業平は長良の発言に大きな衝撃を喰らった




あの良房の養嗣子だと?

良房のやつ、私から明子様も奪っていき、

今日この場で気になった基経殿も既に手中に収めているとは…ぐぬぅっ…許せぬぞ、

それに、姫君とはどのような姫なのだ?

あんなに本人が姫君みたいなのに、姫君と契りを結ぶのか?



『…そのようなことに。なるほど。

残念ではありますが、仕方ありませんね。

基経殿の良き友人として生涯その美しさを私、業平が守りましょう。

友人として見守っているうちに、基経殿も私のことが気になってくるかもしれませんし。そもそも、まだ何も始まっていませんからね。』



業平の発言に、長良は楽しそうに笑い、

心からの御礼を述べた



『業平殿、ありがとう。助かるよ。

高子のことも基経のことも今後とも宜しく頼みます。』




この日は結局、高子に基経が追い出されるような形になってしまったため、業平と基経の間では形式的な挨拶以外に話ができなかった




数日後、業平は宮中で時康ときやす親王と顔を合わせた際に、和歌について語りたいという名目で宇多院に伺う約束を取り付けた




そして、早速翌日、時康親王の暮らす宇多院に今日も愛用の網代車で向かう -



『おお、業平殿、良くぞ来てくれました。

昔から貴方のようになりたいと、ずっと憧れていたのですよ! どうぞ、中に。』



時康親王自ら、邸の入り口で出迎えてくれた


業平を大歓迎で迎え、ご満悦な時康親王は

業平を庭の見える母屋おもやへと案内した  



『業平殿、その男前な美貌は生まれ持ったもののため、私には到底真似できませんが、

ずばり、女人にモテる秘訣とは何でしょうか?

やはり、気配りと和歌の上手でしょうか?


私は、私を好いてくれる女人に本当に答えられているか、たまに、心配になるのです。

それで、その道の神とも言える、業平殿にご教授頂きたく…』




そんな、時康親王の言葉に業平は笑って答える



『はははっ…時康殿は既に随分な数の女人と逢瀬を重ねているそうではないか。

優しくて柔らかい物腰と素朴で落ち着く人柄が一緒にいると心が和らいで安心できると女房達や宮中の女官達の間で、噂になっているよ。

私のそれとはまた異なった新しいモテる男像を既に立派に確立しているのでは?』


そんな業平の褒め言葉に対して、時康親王は



『いやあ、私などまだまだ業平殿に遠く及ばない冴えない男だと、自分では思っています。

戸が真っ黒になる程に毎日料理しているから、料理の腕前に関してはかなり自信があるのだけれど、

女人や和歌の道に関してはまだまだ青二才です、私は。 


業平殿は、あの明子様とも関係を持たれていたとか、兄帝からこっそりと聞きましたよ…

そういったかなり際どい方との逢瀬を遂げ、

さらには、ある意味でそれを許されてしまう、その人柄が凄いと私は思うのです。


貴方は、

見事鮮やかに、ごうたいらかにしてしまう男 - なのだなぁと。


何て言いましょうか。つくづく名は体を表しておりますな、と、思うのですよ。



そうそう、業平殿、夕餉ゆうげを食べていきませんか?

さっき言った通り、料理の腕には自信があるのです。』


時康親王は、黒戸のある部屋に向かい、

予め用意しておいた材料で手際良く料理を始めた

暫くして、山椒と蓴菜じゅんさいの和え物と、きのこと茄子と鴨の入ったあつもの、小豆汁の中に餺飥はくたく(ほうとう)の入ったもの、甘瓜(マクワウリ)を切ったものが目の前に置かれた



『おお、これは、あの深泥池みどろがいけ巨椋池おぐらいけで獲れるという蓴菜…!これを食べると母と暮らしていた時のことを思い出すなあ。


茸や甘瓜、茄子も季節のもので風流ですな。


それにしても、本当に美味い!

自邸の料理人の作るそれよりも、宮中の宴の豪華なだけのそれよりも、ずっと美味しい。


そうだ、時康殿、この間散歩がてら、この邸の裏の森に行こうと思って道すがら歩いていたら、思わず庭が目に入ってしまって…

で、簀子のところで小さな女の子を抱きながら本を読んでいる美少女を見かけたのだが、

あの方は時康殿の妹御でしょうか?』



『…あの子は、親戚の子で私の大切な子なのだよ。あの子が何か業平殿に言伝などされたのでしょうか?』



『…い、いえっ…そういうわけではないのですが…美少女だなあと思って。

色男を自負する私としては何だか気になってしまい、放って置けなくて…』


『…はははっ。駄目ですよ。あの子は私と弟の人康さねやすが箱入り娘のように大事にしてきた子ですから…誰にもあげられません。』



なんと、大切な子…とは、時康殿の子にしてはちょうじ過ぎており、明らかに年齢が合わないところから考えると、

あの美少女は時康殿の恋人や許嫁なのか…?

でもそれとも異なるような気がするし、

妹でもなく、親戚の子と言っていたし…

ううむ、真意が掴みかねるな…





『くしゅんっ…くしゅんっ…』



その頃、基経は可愛らしいくしゃみをして

形の良い鼻をスンスンとさせていた


『風邪をひいたのか、鼻がムズムズとするな、』



そんな基経の言葉に胡桃子くるみこ


『基経、大丈夫?元服後の慣れない環境の変化で疲れが出ているのかも…

昨日もたくさん頑張っていたし…

心配だわ…』


胡桃子は基経のすべすべとした白魚のような手の甲をさすりながら、自身の頬に当てる


そして、基経に熱がないか、自身の耳や額をぴたっとくっ付けて、心配そうに基経を労る



『あれ、少し熱があるのかな…』


ふにゅっ…



衣越しに、胡桃子の身体の控えめながら柔らかい部分がフニュフニュと頬や唇に当たって、基経は多幸感を感じると同時に、下腹部が熱くなるのを今日も耐えていた



基経の耳や頬は薄紅色に上気して、少し息が上がっている -



『…いや、これはたぶん風邪による熱などでは無く、今先程起こった症状だと思う…

でも、こうしていると幸せで心地良い…

胡桃子の温もりも、心が落ち着くこの良い匂いも、この透き通る白磁のような肌も、

夕陽に透ける淡い髪の色も、胡桃子を構成する全てが愛しくて、

私だけの居場所…特等席って実感が嬉しくて…とても癒されるのだ…』



基経は胡桃子の胸に頬擦りをして、その感触に癒されている



『ふふっ、くすぐったい…

基経はいつも甘えん坊な唐猫みたい…

私も基経とこうしていると、とても幸せよ。


基経の良い匂いとサラサラとした淡い髪も、

心と身体で感じる基経の全てが愛しくて、

華奢で柔らかなのに、衣を押し上げて固く熱くなってしまう部分が同居していて…それが基経らしくて、とても可愛くて愛しい…』




胡桃子に改めてそう言われ、下腹部のそれに気付かれていたと思うと、基経は何だか照れくさくて恥ずかしくなってしまい、何も言えない




最近では、抱き合って身体を擦り寄せると、お互いの体調までわかるようになっていたため、胡桃子は基経の熱い身体が風邪等ではなく、いつものそれであることは気付いているのであった -







*平安時代のモテる人たち

在原業平、在原行平、時康親王、3人ともに、和歌が上手で小倉百人一首にも選ばれた有名な人たちですが、

『和歌に堪能でまめで気配りができる人』が

平安朝の主なモテる男性像だったようです。


勿論、容姿端麗さもそこに加わるとさらに、モテます…


在原業平は平安きっての男前な美男子であり、武術や舞などにも堪能していたそうで。

卒伝には書かれておりませんが、業平が登場する過去から現代に至るあらゆる物語にも身長が高い人として描かれており、

実際、それなりに高身長だったと推測されます。


因みに、このお話の主人公である基経がちょうど生まれた頃に、承和の遣唐使に選ばれた小野篁も薨伝によると、身長が6尺2寸(188センチ程)だったそう。

この人も小倉百人一首に選ばれていて、

後の時代に書かれた複数の説話集に載っている閻魔大王の側近だった逸話で有名な人です。



愛嬌があってまめで気配り上手で、

情熱的なセンスのある和歌とそれに添えた花や贈り物などの数々…

容姿端麗で高身長、皇族出身だけど気さくな人柄…

在原業平がモデルとみられる伊勢物語や源氏物語からしても、モテる要素だらけの人だったのかと。


いわゆる、今で言うギネスに載るくらいの、

『たいそうモテる好色な貴公子』ですね。



『体貌閑麗、放縦不拘。略無才学、善作倭歌』(容姿端麗で、物事にこだわらずほしいままに奔放。漢詩の才は無いが和歌が上手)のように卒伝には書かれています。


3,733人の女性と交わった(和歌知顕集)とも伝わるそうですし…伊勢物語や源氏物語などの古典をパロディ化した、後の好色一代男も、源氏物語や伊勢物語を題材にしている時点で、この業平が主なモデルということになります。


ただ、和歌といういかにも平安朝的な言葉遊びを手紙やメール、LINEなどに置き換えたら、このモテの要素は現代でも十分に通ずるところがありますね。



一方、平安女性のモテる人の概念としては、

男性と同じく、

『和歌に堪能でまめで気配り上手』でモテる人としては、同じく小倉百人一首に選ばれている、伊勢、和泉式部などがそれに当たると思われますが、

彼女たちは後宮の女御に仕える女房のため、男性と顔を合わせて話す機会も多いですし、主である女御のある意味で顔ともなるサロンを作るために、そもそもが教養ある人を最初から抜擢し、寄り集めているものなので、

まめで気配りができ、教養と見目の良さを兼ね備えた人が多くいるのも十分に肯けます。


源氏物語の著者である紫式部は少し特殊な立ち位置の人だったようですが…

女御である彰子の家庭教師のような、専門的教養係かつ小説家みたいな感じですね。



また、『黒髪が身長より長く艶やかで、背が低く色白で下膨れなおかめ顔』がモテたというのは、平安時代の女性のモテ要素の話として如何にも有名な話ですが、

枕草子の記述から推測して、茶色がかった髪だったと言われる清少納言も数人の男性との恋話がありますし、

これは鎌倉時代になってしまいますが、

洞院佶子(亀山天皇皇后)はその容姿端麗ぶりに、同母の兄である公宗まで恋心を抱いてしまったほどでしたが、増鏡の記述によると、少し赤みのかかった髪をしていたそうです。


また、この話にもチラリと登場する美人で有名な檀林皇后(橘嘉智子、仁明帝の母后)は、

文徳天皇実録の薨伝によると、手足がスラリと長く、長身の方だったように推測されます。

この方の父である橘清友もやはり6尺2寸(約188センチ程)と高身長の方なので、その遺伝を受け継いでいるのでしょう。


しかし、そうなると…どう考えても、

この檀林皇后、今でいうファッションモデルのような体型の美人に思われてなりません。



詰まるところ、あの平安時代の謎の美人像の真相としては…

艶やかな黒髪が身長より長い背の低い下膨れ顔の女性が好みだった絵師(または、絵師に描くよう命じた人の好み)が描いたとある作品が大ヒットして、その描き方を真似する人がたくさん出てきた…

いわゆる、美術史的な作画上での流行りの描き方であったのかと、思われます。


そんなに、人の顔かたちや髪の色が千年少し前と大きく変わることは考えにくいため、

黒髪艶やかで、しかも、その髪が身長より長い(そんなになかなか伸びませんし…だから当時も"かもじ" - いわゆるつけ毛がありました)、下膨れ顔の人が多くいたとも思えませんから、

そういう人がごく稀だからこそ、数多くある美人像の中のひとつとなっていた可能性も考えられます。


他にも、管弦(特に、女性は琴や筝、琵琶、男性は笛)、手習い(字の上手さ)、いろいろとモテの要素を測る"ものさし"はありますが、


まぁ…何といいましょうか…結局はどの時代も『蓼食う虫も好き好き』と云うように、

好みは人それぞれなのかもしれません。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る