登場人物紹介 〜平安時代編〜 *随時更新*


*主な登場人物詳細


〜現代編〜


胡桃子くるみこ(*胡桃くるみ

この物語のヒロイン。現世では歴史探索と写真を趣味に生きる根暗なオタク女子だが…

実は、基経の伴侶である人康親王の娘の生まれ変わり。

その、おとなしそうな見た目によらず、執着心が強く負けず嫌いで、向上心と達成感を生き甲斐としている。

色白で年齢よりもだいぶ幼く見える。身長は150センチ。

幼少期の複雑な環境と、もとからの性格もあり、人付き合いが苦手。



藤原基経ふじわらの もとつね(*幼名は手古てこ

この物語の主人公。平安時代前期の公卿。

名門藤原北家 長良の三男としてこの世に生を受けるが、実は半陰陽。現世では?な存在。


漢詩が大好きで趣味。とあるきっかけで、笙の笛も趣味となり、名人になる。

基本とても真面目だけど、執念深く負けず嫌いで、

心を許した相手には甘えん坊な一面も…一部の歳上男子にとても好かれる。


ポーカーフェイスで、何も理由を言わずに拗ねて引きこもったり、熱中すると止まらなくなり、その趣味のために引きこもる癖が小さい頃からあるため、とても人から誤解されやすい。

気に入った相手には恐るべき執着を持つ。


幼少期に塗籠の中で育ったせいか、とても色白かつ、半陰陽のため、ほとんど誰が見ても女子か男子か分からない見た目をしている。

年齢不詳で、まわりからは人ではなく、魔物のように思われているふしがある。身長は171センチ。



尚子なおこ

胡桃の親友。休みの日に、一緒に歴史探索や季節の写真を撮りによく出掛ける。元気いっぱいで快活であり、胡桃とは正反対の性格だが、困った時にはいつも助けてくれる、とても頼り甲斐のある親友。

本人にその意識や意図は無さそう?だが、胡桃を基経との邂逅を果たさせるための導き役になっている。




*基経の身長は当時の貴族が乗っていた牛車の大きさ、史書等に記載のある身長の高い人物(180センチ〜190センチ)から平均身長を推測。現代人の平均身長と然程変わらないか、少し低めと仮定し、基経のイメージから大体これくらいだろうという身長を記載している。基経は史書などに身長に関して記録がないため(身長に特徴がある人以外は普通記載が無い)、身長は特別に低くも高くもないと推測。




〜平安時代編〜


胡桃子くるみこ(*胡桃くるみ

この物語のヒロイン。人康親王の娘であり、

仁明帝の孫娘。

基経の寵愛の姫。黒髪美人ではなく、人形のような可愛らしい小柄な姫で、淡い色の髪と白磁のような肌を持つ。年齢よりもだいぶ幼く見える。

おとなしい見た目によらず、負けず嫌いで向上心旺盛。父である人康親王から教わり、琵琶の演奏を得意とする他に、漢詩と薬学が大好きで趣味。身長は150センチ。 


前世からの因縁により、基経(手古)だけに見えて触れることのできる生き霊のような形で存在しているが、何らかの理由で、基経の父の長良と母の乙春にもその姿が見えるように?


基経(手古)と魂が同化しているため、

生き霊年齢は基経(手古)と同い年だが、実体年齢は前世同様に基経(手古)と14歳の差がある。

前世の記憶を持っているようだが、意図的なのか、出来ないのか、前世の記憶を基経に対し、積極的に開示しない姿勢をとる。

基経の母と胡桃子の祖母が姉妹の関係にあるためか、基経と容姿が似ており、一見すると姉妹のようにも見える。

基経との愛の輪廻の過去と未来にあるものとは…



藤原基経ふじわらの もとつね(*幼名は手古てこ

この物語の主人公。平安時代前期の公卿。

名門藤原北家 長良の三男としてこの世に生を受けるが、実は半陰陽。

漢詩が大好きで趣味。仁明帝から笙の笛である橘皮を賜った日より、笙の笛も趣味となり、名人となる。


基本とても真面目だけど、執念深く負けず嫌い。

心を許した相手には甘えん坊な一面も…一部の歳上男子にとても好かれる。


ポーカーフェイスで、何も理由を言わずに拗ねて引きこもったり、熱中すると止まらなくなり、その趣味のために引きこもる癖が小さい頃からあるため、とても人から誤解されやすい。

気に入った相手には恐るべき執着を持つ。


幼少期に塗籠の中で育ったせいか、とても色白かつ、半陰陽のため、ほとんど誰が見ても女子か男子か分からない見た目をしている。

年齢不詳で、まわりからは人ではなく、魔物のように思われているふしがある。身長は171センチ。

基経の母と胡桃子の祖母が姉妹の関係にあるためか、胡桃子と容姿が似ており、一見すると姉妹のようにも見える。

胡桃(胡桃子)に触れている時や眠っている時にお互いの考えていることを共有できたり、前世の記憶を見る事があり、その都度思い出すが、普段は前世の記憶は無い。

胡桃子との愛の輪廻の過去と未来にあるものとは…



仁明にんみょう帝(別名:承和じょうわ天皇、後に陵墓の場所から深草ふかくさ帝とも呼ばれる、諱は正良まさら


弘仁元年9月24日(810年10月25日)〜嘉祥3年3月21日(850年5月6日)*宝算41


嵯峨さが帝の皇子。嵯峨帝とその寵妃である橘嘉智子たちばなの かちことの間に生まれる。姉の正子内親王まさこないしんのう淳和じゅんな帝の后)とは双子。

幼い頃からとても聡明で学問好き。儒教の経典や史書に詳しく、漢音の区別にも練達。また、漢詩や琴等の楽の演奏も得意で自身で『夏引楽』『拾翠楽』などの作曲も手掛ける。

生まれつき体が弱く、それを克服するために、医薬についても熱心に学び、そこら辺の医師を負かす程の医薬の知識を持っていたため、医師の反対にも関わらず、丹薬(金液丹)や白石英等を自身で調合して飲む。

晩年、唐から献上された3羽の鸚鵡をとても気に入って肌身離さず可愛がっていた。

特に寵愛の女御、沢子さわこが早逝して以後、気落ちして病に伏せることが増えて行く。

そんな中、寵妃沢子の妹である乙春の子 -

どこか、沢子の面影がある手古に興味を持つ。

芹川せりかわの行幸に手古も参加させ、わざと手古に失くした琴の爪を探すように命じ、それをきっかけに、橘家伝来の笙の笛、橘皮を手古に託す。

だが、聡明な帝が手古に託したものは、橘皮だけではなかったようで…



時康ときやす親王

仁明帝の第三皇子、仁明帝とその寵妃である藤原沢子ふじわらの さわことの間に生まれる。

祖母である嘉智子のお気に入りの孫で、とても可愛がられて育つ。

和歌や和琴、料理が大好きでとっても得意。

いろいろな料理を作っては食べるのが好きな食通のため、割と恰幅かっぷくが良い。

優しく穏やかで人当たりが良く、朗らかな性格のため、分け隔てなく大体誰からも信頼され、好かれる。

和歌が上手な上に、優しく雅な人柄や容貌のためか、結構、女人にモテる。

また、仕事も出来る有能な人でもある。 

父帝の遺言のとおりに、弟の人康親王と一緒に手古(基経)に楽の演奏を教える。

手古のことを弟のようにとても可愛がり、毎度美味しいご飯を食べさせることや、頭をなでなでしたり、女の子の格好をさせるのが趣味。

*兄弟水入らずで、長閑のどか宇多院うだいんに暮らす。



人康さねやす親王

仁明帝の第四皇子、仁明帝とその寵妃である藤原沢子との間に生まれる。時康親王のひとつ年下の同母弟。

胡桃(胡桃子)の父。

時康親王に比べ、痩せている。物心ついた時から出家願望が強く、本音では宮中に出仕するのを苦痛に思っている。

琵琶の演奏が大好きでとっても得意。

出家後は琵琶の名人になるのが密かな夢。

消極的でオタク気質との自覚あり。

父帝の遺言のとおりに、時康親王と一緒に手古に楽の演奏を教える。兄の時康同様、手古のことを弟のようにとても可愛がり、頭をなでなでしたり、女の子の格好をさせるのが趣味。

近い将来、愛娘である胡桃(胡桃子)を手古(基経)に嫁がせたいと切望している。

*兄弟水入らずで長閑な宇多院に暮らす。



文徳もんとく帝(*諱は道康みちやす

仁明帝の第一皇子(母は長良ながら(基経父)と良房よしふさの同母妹である藤原順子ふじわらの のぶこ

時康親王、人康親王の異母兄にあたる。

真面目で純粋な性格の持ち主。

人の本質を見抜く能力にけているため、良くも悪くも、人の考えの裏にある様々が見えてしまう。

幼少期は伯父である良房のことを尊敬し、信頼していたが、承和の変をきっかけとして、良房に対して大きな不信感を抱いてしまう。

更衣である紀静子きの しずこと、その子である惟喬これたか親王を寵愛しており、良房の娘である明子あきらけいこ所生の惟仁これひと親王(生後8ヶ月)が良房によって強引に東宮とされてからは、

"惟喬をまず最初に東宮に"と、望んでいたこともあって、その強引さに嫌気がさし、ますます良房を嫌悪してしまうようになる。

内裏に入らない帝の真意とは…?



藤原良縄ふじわらの よしただ

文徳帝の腹心。帝がまだ東宮であった少年時代より苦楽を共にする。帝にとって、兄のようでもあり、友人のようでもあるかけがえのない存在。

姿形から立ち振る舞いに至るまで、とにかく淑やかで優雅。

穏やかで優しく、孝行心と忠義心にあつい誠実な人。

真面目で仕事をきっちりと正確にこなす基経のことをとても尊敬しているが、一見、女子に見えてしまう基経を可愛い妹のように思っている。

文徳帝と基経の従叔父いとこおじにあたる(良縄の父である藤原大津ふじわらの おおつ藤原冬嗣ふじわらの ふゆつぐの異母弟。※藤原冬嗣は、文徳帝と基経の祖父。)



紀静子きの しずこ

*実家の邸宅のある場所から三条町さんじょうのまちとも呼ばれる。

文徳帝の最愛の寵妃。紀名虎きの なとらの娘であり、仁明にんみょう帝の更衣こういである紀種子きの たねこの妹。

幼い頃、姉の種子のつぼねに遊びに行った時に、後宮の庭で道康みちやす親王(後の文徳帝)と偶然出逢い、お互いに一目惚れ。そのような経緯があったゆえ、道康親王が東宮になると、親王の方から入内の要請があり、一番最初に入内した。

文徳帝のことを"帝"としてではなく、

ただ一人の愛しい"道康親王"として真っ直ぐ、一途に慕っている。

帝との間に、惟喬これたか親王、惟条これえだ親王、恬子やすこ内親王、述子内親王、珍子内親王のニ男三女を授かる。

慎ましやかで優しい清純な色香を持つ白梅の花のような女人。



惟喬これたか親王

* 乳母の名称および、その邸宅名称より小野宮おののみや小野おの親王)とも呼ばれる。


文徳帝の第一皇子。帝の最愛の寵妃である

紀静子の所生。


その年齢よりも、凛々しく立派で、

とても聡明な皇子。

幼い頃より、姿形と才能に優れ、

また、文徳帝の寵妃である静子の最初の子であることもあり、文徳帝は惟喬親王をこの上なく鍾愛しょうあいする。

小野篁おのの たかむらの娘である小野小町おのの こまちこと小野吉子おのの よしこ

乳母であるため、小野宮または、小野親王とも呼ばれる。  


*小町の父である小野篁は、惟喬親王の生まれる2年前より、その時、東宮だった道康親王(後の文徳帝)の東宮学士を勤め、道康親王に、とても信頼されていた。

尚、文徳帝の篁への絶大な信頼を物語る話として、小町がすでに惟喬親王の乳母となっていた時のことだが、篁が晩年、病床に伏せっていた際に、文徳帝は篁をとても心配し、何度も使者を遣わせて病の原因を調べさせ、治療の足しとするために金銭や食料の手厚い贈り物をした。


篁への絶大な信頼を背景に、文徳帝は、篁に似て才気に溢れ、宮中の中臈ちゅうろう女房として働いていた小町を抜擢し、惟喬親王の乳母として迎える。その関係で、小町の夫である良岑宗貞よしみねの むねさだ(出家後は、遍昭へんじょう)も教育係として親王に仕えた。

その後、惟喬親王の母である静子の親戚となっていた在原業平ありわらの なりひらも惟喬親王の教育係に加わる。

幼少期より、静子、小町、遍昭、業平などの和歌を詠むのが上手な者たちに囲まれて育ったため、それに感化されて、惟喬親王も和歌を好んで詠むようになる。



藤原長良ふじわらの ながら

冬嗣の長男。基経(手古)の実父。のんびりと穏やかで寛容だが、真面目で一途な性格。出世にはまるで興味がなく、まつりごとは弟の良房や良相よしみに任せている。

子沢山?な事を良房にたまに揶揄やゆされるが、

本人はニコニコと笑っているだけで全く気にしていない。


自邸の庭に果物の木を植えるのが趣味のため、どんどん増えていき、果樹園のごとく…になっている。

桃や栗などもあるが、

特に枇杷の木がたくさんあるため、この邸を枇杷殿びわどのと呼ぶようになる。


特殊な身体に生まれた手古のことを気づかって、他の兄弟達の居所と離れた塗籠ぬりごめを手古の部屋にしたり、学問が好きな手古のために知り合いの学者から漢詩の本を借りたり貰ったりして、密かに塗籠にある本棚に補充している。手古が親王達と仲良くしていることを知り、安心し、嬉しく思っている。

基経のことを殊更に寵愛し、過保護な一面や情熱的な一面も…

美丈夫でもなく、不細工でもなく、平凡で地味な印象であるが、半分は女人である基経よりも背は高く、それなりに肩幅もある。

弟の良房や良相よりも若くみえる容姿をしている。

仁明帝とは幼馴染の親友であり、まるで本物の兄弟のような関係。



藤原良房ふじわらの よしふさ

冬嗣の次男。長良の同母弟。幼い頃から子供らしからぬ貫禄があり、しっかりとして、どっしりと構えて落ち着いて物事を見据える能力に長けていた。その若い年齢の割に鋭い才や貫禄、並々ならぬ風貌に嵯峨帝が感心し、娘である源潔姫みなもとの きよひめを降嫁させる。

色恋や女人に対して、基本的に興味がなく、政が恋人のような良房にとっては、潔姫の存在は皇女を貰ったという権威付けや飾りでしかなく、美しいが身体の弱い潔姫は、美しい姫、明子をひとり産んだのみであった。

嵯峨帝に対抗する面もあり、子沢山を良いものとは思わない良房は無意味な子沢山?の兄、長良が殊更に寵愛している風変わりな

三男に目を付ける。

基経(手古)を養子にする真意とは…



藤原明子ふじわらの あきらけいこ

*実家の染殿そめどのの邸宅名称から、染殿后とも呼ばれている。


良房の一人娘。父である良房に似ず、繊細な心の持ち主。雨に濡れた桜花のような美貌の女人。

文徳帝に入内後、惟仁親王(後の清和せいわ帝)を生む。

業平と思い合っていたのに、紀静子を寵愛して止まない帝の後宮へ入内しければならないことに気鬱に陥る。また、入内後も後宮の煌びやかさの裏にあるドロドロとした確執に心が耐えられず、今度はノイローゼに陥ってしまう。

皇子惟仁を生んだ後も、自身が悩み苦労して生んだ皇子のことで、文徳帝と父である良房が険悪な雰囲気になっており、今まで以上に板ばさみに苦しみ、寝ている間やひとりきりになった時に発狂することもしばしば。

自身を慰めてくれる母の潔姫、後宮に入る前からたまに忍んでやって来る業平の前では、本音を話せる。

業平が訪れなくなった最近では、燃え尽きたように塞ぎ込んでいる。



藤原高子ふじわらの たかいこ

基経(手古)の同母妹。気が強く、耳年増。

母である乙春に似て幼い頃から容貌が美しく、唐紅からくれない薔薇そうびのような妖艶さを持つ黒髪艶やかな美少女。

男なのか女なのか、はたまた、無表情で何を考えているかわからない基経(手古)のことが苦手で、気持ちの悪い兄とも思いたくない存在と思っている。

9歳の時に、父の長良を訪ねてくる業平に一目惚れする。和歌の上手な業平を思い慕ううちに、自身も和歌の腕前が上達する。

業平との将来を夢見るが…



在原業平ありわらの なりひら

祖父は平城へいぜい帝、父は阿保あぼ親王、母は伊都いと内親王という見事な血筋だが、2歳の時に父の阿保親王の意向で在原性を賜り臣下に降る。

自他ともに認める、都で一番の色男かつプレイボーイ。モテるのは女人にだけでなく、

恐れ多い事も何故か許されてしまう、ひとたらし。

和歌の贈答を記載した女人遍歴日記?みたいなものを付けている。(削除修正加筆などの編纂を経て、後世、伊勢物語と呼ばれるもの)

密かに恋愛の神と呼ばれている、のらりくらりと思う存分楽しく生きることがモットーで、数々の女人を渡り歩くのが毎日の日課。


長良とは以前から親交があり、長良の娘の高子の婚約者だが、それ以前から明子とも関係を持っており、

藤原の姫を全制覇するつもりでいるらしい。

最近は、姫君のような基経にも興味津々な様子。

本人にもはっきりとは自覚が無いらしいが、

高子と基経には特別な感情を抱いているらしく…?

だが、明子のこともまだ未練たらたらで、気になっており…



在原行平ありわらの ゆきひら

業平の異母兄。業平と同じ時期に、臣下に降る。

実直真面目な官吏だが、好色な一面も併せ持つ。

業平のお目付役&尻拭い役。

業平同様、和歌の名人だが、女人のことでも和歌のことでも、見た目的にも、業平より見劣りしてしまうことにコンプレックスを抱いているため、結局は業平より優れている日々の実直さや学問的な部分で勝負をしている。後に藤原氏の勧学院かんがくいんに対抗して、在原氏や源氏、皇親、諸王などの王氏の子弟ための大学別曹 奨学院しょうがくいんを設立する。



藤原乙春ふじわらの おとはる

藤原北家の従五位上 紀伊守 藤原総継ふじわらの ふさつぐと、桓武帝の御世より女官を務める藤原数子ふじわらの かずこの娘。

同母姉は、仁明帝の寵妃である藤原沢子ふじわらの さわこ

沢子とは、姉妹の仲がとても良く、年子の

美人姉妹。

*記録上、生年が判明していないが、

このお話では、沢子と一歳違いの年子の姉妹810年生まれとした。


細かいことは気にしない陽気な人柄。

勝気で明るい美人で、華やかな躑躅つつじの花のような女人。


とある経緯で、長良と結婚し、基経と高子の他、子を生むが、実は、想い人は別にいて…



藤原沢子ふじわらの さわこ

藤原北家の従五位上 紀伊守 藤原総継ふじわらの ふさつぐと、桓武帝の御世より女官を務める藤原数子ふじわらの かずこの娘。


基経の母である乙春おとはるの同母姉。

仁明にんみょう帝の女御。仁明帝最愛の寵姫であり、

時康ときやす親王と人康さねやす親王の母で、胡桃子くるみこの祖母。


容姿端麗で才色兼備。清楚でお淑やかな美人で、純白の蓮花のような女人。


妹の乙春とは、仲の良い美人姉妹で評判だった。

桓武帝時代からの女官である母の数子かずこから支援されて、仁明帝がまだ東宮だった頃に入内。帝の寵愛を一身に受け、第二皇子宗康親王、第三皇子時康親王、第四皇子人康親王、新子内親王の三男一女を生む。


第三皇子時康親王は、幼い頃より、仁明帝の母である太皇太后 橘嘉智子たちばなの かちこにも寵愛されており、沢子やその母数子は、仁明帝だけでなく、嘉智子の信頼や支援も得ていた。


家柄に比べて、高待遇な女御にまで上がれたのは、仁明帝の並々ならぬ寵愛と嘉智子の後押しのためだった。


基経が4歳の頃に、宮中にて俄に病となり、

実家の小松殿こまつどのに運ばれた直後に卒去そっきょしてしまう。

若くして、謎の突然死を遂げたが…


*記録上、没年のみ分かっており、生年は判明していないが、文徳もんとく帝の母である順子のぶこや仁明帝とほぼ同年と思われる。

この話では、順子と同い年の809年生まれ〜839年8月12日没(承和6年6月30日)とした。享年31歳。



藤原数子ふじわらの かずこ

藤原南家の出身で、藤原雄友ふじわらの おともの娘。


雅やかで懐かしい想いのする杜若かきつばたのような女人。


藤原北家の従五位上 紀伊守 藤原総継ふじわらの ふさつぐの妻であり、桓武帝時代からの有能な女官。沢子と乙春の母。

少し歳をとってから生まれた子だったこともあり、沢子と乙春の年子の姉妹をとても大切にしていた。


すでに亡くなっていた夫である総継の意思を引き継ぎ、類い稀なる美しさと才能を兼ね備える愛娘の沢子を当時の東宮 正良まさら親王(後の仁明帝)に入内させる。


小松殿(沢子、乙春、宗康親王、時康親王、人康親王、新子内親王の実家)に暮らしていたが、愛娘である沢子の死後、ショックのあまり、幾らも経たないうちに、その跡を追うように亡くなってしまった。


*生没年は記録上判明していないが、長良の父である冬嗣ふゆつぐとほぼ同年と推測される。

この話では、774年生まれとした。

享年66歳。

774年生まれ〜839年10月に没(承和6年8月)



白狐(別名称: もち、もちもち)

真っ白もふもふな、不思議な力を持つ稲荷山の神の眷属けんぞく。人の言葉を解し、話せる。


藤原の先祖の鎌足公かまたりこう以来、藤原氏の選ばれた者の繁栄と幸福を支えるという。


稲荷社の縁起に因んで、"もち"という名前を

基経から付けてもらった。

時康親王と人康親王、胡桃子は、"もちもち"という名前で呼んでいる。


どうやら、その姿は皆に見えるわけではないらしい。



橘嘉智子たちばなの かちこ檀林皇后だんりんこうごう

太皇太后たいこうたいごう嵯峨太上天皇さがだいじょうてんのうの后。


美人のさらに上を行くような、世に類い稀なる麗人。絶世の美女。

永遠の美を思わせる、凛としてかぐわしい橘の花のような女人。


嘉智子の姉である安万子あまこが、

冬嗣ふゆつぐ(長良の父であり、基経の祖父)の妻である美都子みつこの弟の三守みもりと婚姻を結んでいたため、冬嗣家との縁故および抜擢により、嵯峨太上天皇がまだ、神野かみの親王だった頃に入内する。

当初、なかなか、子が生まれず、本人も周囲もため息を吐くほどに悩んでいたが、正良まさら親王(後の仁明にんみょう帝)と正子まさこ内親王(後の淳和じゅんな帝の后)の双子を授かって以来、次々と子を生み、結果的に、二男五女の母となる。


しかし、夫である嵯峨太上天皇はとても好色で旺盛であり、その後宮には数え切れない程の数多の女人がおり、同時に自分以外の女人との間にもたくさんの子女がいたことから、嘉智子は夫嵯峨に対して深い愛憎の絡んだ複雑な感情をいだいていた。


子の中でもとりわけ、身体が弱いのにも関わらず、一生懸命に生きる正良親王(仁明帝)を誰よりも溺愛しており、目に入れても痛くない程に愛しい我が子の崩御にショック悶絶し、跡を追うように崩御。


尚、孫にあたる親王の中では、道康みちやす親王(文徳もんとく帝)と時康ときやす親王を特に、可愛がって寵愛していた。

この事は、それぞれの親王の母である、冬嗣の娘であり愛息子 仁明帝の幼馴染である順子のぶこ(道康の母)や、その仁明帝の最愛の寵妃である沢子さわこ(時康の母)を支援していた関係もあった。



藤原多賀幾子ふじわらの たかきこ

文徳帝の女御。父良相の邸宅(実家)の西三条第にしさんじょうだいから、西三条女御にしさんじょうにょうごとも呼ばれる。


長良ながら良房よしふさ順子のぶこの同母弟である良相よしみの長女。名は多可幾子たかきこ(読みは同じ)とも書く。


控えめな上品さと優美さを纏う、白百合しらゆりのような女人。

母と父に良く似て、責任感が強く、博識で聡明。優しく真面目で自分にとても厳しいため、思い詰めすぎてしまうところがある。


多賀幾子の父である良相は若い頃に娶った妻である大江乙枝の娘を一途に想い、とても大切にしていた。

そして、良相と大江乙枝の娘との間に、多賀幾子は長女として生を受けた。


入内前は、父や母、弟や妹たちと同じ西三条第に暮らしていた。

しかし、多賀幾子が入内して間もなく、母である大江乙枝の娘が亡くなり、最愛の妻を亡くした父良相は後妻を娶ることはなかった。


大江乙枝の娘は、末娘の多美子たみこを出産した後、体調が優れず、850年(仁明帝とその母である檀林皇后の崩御後の時期)に亡くなってしまったため、多賀幾子は多美子の姉であり、母の代わりでもあった。


*伊勢物語においては、多賀幾子が常行ときつらの妹との記載があるが、文徳帝が即位した同年、嘉祥かしょう3年7月9日(850年8月19日)に、順子の妹である古子や良房の娘である明子(後の染殿后)と同時に女御宣下を受けて女御になったことから、この時までに入内したと考えられ、多賀幾子の入内は古子と同様に、明子に皇子が生まれなかった場合、また、生まれた皇子や明子自身が亡くなってしまうなど万が一のことがこの先起こってしまった場合に備えての保険(補欠要員)だったことが窺えることから、常行(836年生まれ)の妹とすると入内年齢が少々幼いため、常行の同母姉と考える方が自然である。そういった理由から、この物語では常行の姉とした。

没年のみ判明しており、生年は記録上判明していないが、おおよそ833〜835年生まれと思われる。

この物語では834年生まれとして、享年25歳とした。



藤原古子ふじわらの ふるこ

文徳帝の女御。

北御息所きたのみやすどころと呼ばれている。冬嗣ふゆつぐの末娘。


奥ゆかしく上品で堅実な人柄。姉思いのしっかり者、紫苑しおんの花のような女人。


*古子の父冬嗣が亡くなったのが天長てんちょう3年7月24日(826年8月30日)であり、文徳帝(天長4年(827年)8月生まれ)の年齢との釣り合いを考えると、古子は凡そ822〜827年生まれと推察される。

この物語中においては、古子を冬嗣が亡くなって間もなく生まれた子、最期の忘れ形見とし - 826年生まれとした。


冬嗣が父ということで、同時に、古子は、

長良・良房・順子・良相の妹である。

同母か異母かは判明していないが、姉順子と古子の仲の良さ(古子は順子に付き従って共に出家していることなど)、皇子を生んでいない、后にもなっていない女人に対しては破格の地位である従一位が古子に授けられていること、冬嗣と美都子の夫婦仲の良さ(当時としては珍しく、美都子が遺言にて自ら望み、夫冬嗣と同じ墓に入るなど)を考慮すると、同母妹の可能性が高い。

この場合、美都子が高齢出産して産んだ子となる。

よって、この物語では、古子の母を美都子として描いた。


古子の過去の経緯として

順子と古子の母である美都子は、高齢出産による身体の負担と、最愛の夫冬嗣の死の悲しみにより、病となり、夫の跡を追うかのように天長5年9月5日(828年10月16日)に亡くなってしまった。


姉順子は、幼くして父母を亡くした妹古子を、父母に代わって親身になって面倒をみていた。

古子は、順子の子である道康親王(文徳帝)と年が近いことから、順子は子である道康親王と末妹の古子を一緒に育て、二人は同じ乳母のもとで育った。古子と文徳帝は乳兄弟であり、最初から姉と弟のようであった。


こういった背景があったゆえに、

古子は、入内前から姉順子の暮らす後宮の殿舎、常寧殿じょうねいでんで道康親王とともに暮らしていた。

(同じく文徳帝の女御である多賀幾子に対する西三条女御、文徳帝の后である藤原明子に対する染殿后、文徳帝の寵妃である更衣の紀静子に対する三条町のように、実家の邸宅名で呼ばれていなかった(古子の名称は北御息所)ことから考えて)


また、文徳帝崩御後、姉順子が東五条院ひがしごじょういん(五条宮とも。もとは父冬嗣所有の別邸)で暮らすようになると、古子も姉に付き従った。

結局、東五条院に移り住んでも、姉順子に対する五条后の呼称と同じ"五条"を使い、五条女御などの呼称で古子のことを呼ぶのは紛らわしかった故に、古子は他の後宮の女人たちのように邸宅名で呼ばれることは無かった。



藤原順子ふじわらの のぶこ

文徳もんとく帝(道康みちやす親王)の母后。

父冬嗣から伝領し、仁明にんみょう帝崩御後の一時期、また、文徳帝崩御後にも暮らした邸宅名(東五条院ひがしごじょういん、五条宮)から五条后ごじょうのきさきとも呼ばれている。


父は藤原冬嗣ふじわらの ふゆつぐ、母は藤原美都子ふじわらの みつこ(美都子は尚侍ないしのかみという最高位の女官だった)。

長良ながら良房よしふさの妹であり、良相よしみ古子ふるこの姉。


(※長良・良房・良相は、順子と同母兄弟。美都子所生。

古子の母は記録には残っていないが、順子との親密さ、従一位という高い位を賜っていること等から、順子たちと同母兄弟と推測され、この話では、同母兄弟としている。詳細は上述の藤原古子の欄を参照。)


嵯峨さが帝と父冬嗣の取り決めにより、15歳の少女の頃に、幼馴染の正良まさら親王(後の仁明にんみょう帝)の後宮に入る。

順子はその事で様々に思い悩むこともあったが、『家のために』と心を決めて、19歳の時に道康親王(後の文徳帝)を生む。



正良親王の寵妃である藤原沢子ふじわらの さわことともに、正良親王の母后である橘嘉智子たちばなの かちこ檀林皇后だんりんこうごう)に気に入られていた。



真面目だけどおおらかで穏やか。知的で優しい、慈悲の心に溢れた人柄。


仏教への信仰心に厚く、同じく、仏教を厚く信仰する気の合う弟良相と特に仲が良く、

また、亡くなった母美都子の代わりになって面倒を見ていた歳の離れた妹古子とも特に仲が良かった。


若い頃より抱いていた仏教への憧れを、国家安寧と子(道康親王)を想う気持ちを、恵運えうん空海くうかいの孫弟子)に託して、仁明帝の御世である嘉祥かしょう元年(848年)、山科やましな安祥寺あんしょうじ建立こんりゅう


知的で穏やかな美しさを持つ、凛として涼やかな紫の桔梗ききょうの花のような女人。



藤原良相ふじわらの よしみ

多賀幾子たかきこ常行ときつら多美子たみこ行方ゆきかた忠方ただかた直方なおかたらの父。


妻は、大江乙枝の娘。


父冬嗣から伝領した西三条第にしさんじょうだいに、娘や息子たちと共に暮らしているため、西三条大臣とも呼ばれている。


この西三条第は、良相の趣味で、池水が美しく配置され、緑の中に様々な種類のたくさんの花々が咲き誇る華やかな邸宅であったため、百花亭ひゃっかていとも呼ばれ、文人や漢詩人たちのサロンとなっていた。

文人や漢詩人たちを、彼らを支援する意味を込めて呼び集め、詩情を掻き立てるこの美しい庭で詩会を開くことも度々あった。


良相の父は藤原冬嗣ふじわらの ふゆつぐ、母は藤原美都子ふじわらの みつこ(美都子は尚侍ないしのかみという最高位の女官だった)。

長良ながら良房よしふさ順子のぶこの弟であり、古子ふるこの兄。


(※長良・良房・順子は、良相と同母兄弟。美都子所生。

古子の母は記録には残っていないが、順子との親密さ、従一位という高い位を賜っていること等から、順子たちと同母兄弟と推測され、この話では、同母兄弟としている。詳細は上述の藤原古子の欄を参照。)



博識で有能であり、兄良房の補佐役として常に立ち回り、重用される。幼馴染である仁明帝や姉順子の子である文徳帝は勿論のこと、清和帝からの信頼も厚く、その人柄と政務処理能力を高く評価されていた。


若い頃より仏教への信仰心に厚く、肉食を避け、粗食ばかり食べていたため、とても痩せていた。


真面目で穏やか、慈悲の心に溢れた家族思いの優しい人柄で、姉順子や妹古子ともとても仲が良い。


父冬嗣の慈善の想いを受け継いで、数多くいる藤原の一族のために、左京六条にある私邸の一画を家なき子女のための施設である崇親院すうしんいんとし、また、藤原氏一門の病者のための医療施設である延命院えんめいいんを創設した。



藤原常行ふじわらの ときつら

良相の長男(嫡男)。母は大江乙枝の娘。

多賀幾子たかきこの弟で、多美子たみこ行方ゆきかた忠方ただかた直方なおかたらの兄。


この話の主人公である基経と同い年で従兄弟の関係にある。


女人のような容貌の基経に対して、揶揄からかったり、嫌味を言うことが多いが、基経が本当に落ち込んでいる時には励ましの言葉をかけたり、元気付けたりする。

家族思い、姉妹思い、弟思いでもあり、根は優しい人。


元気溌溂げんきはつらつとしており、明るく人懐こい性格のため、男女問わず好かれる。同じく、明るく人懐こい、その上、人たらしな業平なりひらとは盟友めいゆう





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