第11話 - 手古の憂鬱と怒り - その先にある決意 -


最近は、笙の笛を習う他に親王達と好きな漢詩についても話をするようになり、

ますます毎日が充実したものとなっていた


毎回、一緒に料理をしたり、美味しい御飯を親王達や小さな胡桃くるみと一緒に食べると、それが良い栄養になっているらしく、

なかなか伸びずにいた身長がメキメキと伸びていった



最も可愛らしい幼い顔立ちはそのままであったが…




そうして、親王達や胡桃と一緒に、手古てこは楽しく過ごしていた -



その日は童殿上も親王達との約束も無いため、朝から漢詩の本を熟読していたところ、

夕方頃になって、父が急ぎ足で手古の部屋である塗籠ぬりごめまでやってきた



良房よしふさ養嗣子ようししになる件で、今から東一条第に来て欲しいという旨の文をもらったらしい



叔父からの突然の呼び出しに緊張すると同時に、

嫌だな、行きたくないな、もう忘れてくれれば良いのに…と憂鬱な気分になってくる -



御守り代わりに部屋の奥でまだ漢詩の本を読んでいる胡桃を覆い被さるように、ギュッと抱きしめて…

大好きな胡桃の胸に顔を埋めて…心地良い香りを嗅いで勇気を補充する



『…ああ、ずっとこうしていたい…

でも、いかないといけない、嫌だな…。

帰ってきたら、また続きをさせて』


『あの人の養嗣子になるのは、悲しいけれど、

前世も今も変えられない固定の運命みたいね…

でも、私の魂は手古の側にいつも寄り添って手古を守っているから大丈夫よ。

うん…帰ってきたら、…たくさん続きをしよう…私、手古を包み込んで癒したいの』 



『…胡桃、嬉しい、大好き…』



ああ、このままこうしていると、身体が熱くなってくる…胡桃の可愛さに我慢ができなくなってしまいそうで…危うい…



叔父を待たせるとまずいため、

急ぎ足で枇杷殿びわどのを出た



東一条第に着くと、邸の使用人に良房のいる部屋まで案内をしてもらう


『叔父様、お待たせしております。手古です』


室に入る前に拱手し、礼をする


『よい、入れ』



『そなた、随分と身長が伸びたな、私よりも背の高いのを稚児にする気にもなれぬ。

まあ、稚児にするというのはそなたの度胸を試しただけで、冗談みたいなものだ。』



良房がにやりと笑って手古に告げる



その言葉に、手古は稚児にならずに済んで心底ホッとする気持ちと同時に、人が傷付くようなことを軽々しく冗談で言う叔父に強い怒りと嫌悪感を抱いた



どれ程、私がそのことで日々悩んでいたと思っているのか…この人は…!


そんな無表情の下に怒りを抱いてる手古の気持ちを知ってか、知らずか、良房は話し続ける



長良ながらから聞いて、そなたも知っているとは思うが、新しい帝になり、邸では娘の明子あきらけいこが皇子を産んでまだ数ヶ月…とにかくいろいろと忙しくてな…

だから、正式に養子にするのはそれらが落ち着いてからの来年の夏以降、そなたの元服の時にしようと思うておる。

先日、元服について、帝とそなたの父の長良に話を取り付けた。

それについては、詳しい日程が決まり次第、長良に伝える。



ただ、それまでに、今出ている国史、令義解りょうのぎげを全て読み、丁寧に書写しておけ。

今までにどういうことがあって、今日に繋がっているのかをよく知り、よく考え、今後の戒めにし、政の方針に役立てねばならぬことはそなたでもわかるだろう。

その他に、この薬物に関する本も読んでおけ。後々、そなたに薬の調合と薬物を保管する薬庫の管理を任せようと思うておる。』



『…はい。しっかりと読み込み、書写します。』


手古は、この叔父に何か意見を言うのは得策ではないと判断し、ただ、そう返事のみをした

 


『今日はそれだけだ。よい、さがれ。』



来た時と同様に、良房の前で拱手し、

深々と礼をする



手古は重たい本数冊をやっとのことで持ち上げて、両手一杯に抱えて去ろうとした


一刻も早くこんな場所から立ち去りたかった





『そうだ、…そなた、最近は、笙の笛を練習しているそうだな。何の足しにもならぬものを。

我が藤原の家にとっては楽など必要ない。


そんなものは、親王や源氏ども、雅楽寮の奴らに任せておけば良いのだ。


漢詩にしても、そなたは随分と熱心だそうだが、学者連中に任せておけば良いことだ。

そんな暇があったら、今日渡したそれらに書いてあることを学べ。

それから、そなたの兄達や従兄弟の常行ときつら、他の藤原の家のものとも交流を深めるために、元服式までの暫くの間、週に一度は必ず勧学院かんがくいんに通え。

邸で独学で学に励むのとはまた違った知識を得るために必要なことだ。


それとも、そなたは笙の笛を吹いて、親王や雅楽寮の奴らに媚びを売ってその身体をもって贔屓されているのか?

それで、そなたの中の半分の女を使って、

父の長良みたいにたくさん子を作るつもりか?』




後ろ背に叔父の言葉が鋭い矢のように放たれる


この人は私から楽しみや趣味を奪った上で、わざわざ私が苦手で嫌なことをさせて痛ぶって、生まれ持った身体を侮辱して、

それを楽しんでいるようにしか思えない…


悔しくて怒りで唇を強く噛み締めると、痛いようで痛くなくて- それでいて鉄の味がした




『…』




良房の東一条第を出ると、

疲れと緊張と怒りと悔しさと、本の重さも加わって頭痛がする…クラクラとしてきた…


それでも、小径を一生懸命歩いて、やっとのことで自邸の枇杷殿に着いた


重い…とにかく、いろいろな意味で重苦しかった…


『手古様、これらの本は自室まで私が運んでおきますから』


枇杷殿の入り口に着くと、積もった枯れ葉の掃除をしていた邸の使用人が見兼ねて、本を運ぶのを手伝ってくれた


『ありがとうございます。とても助かりました』


使用人にお礼を言うと、一気に緊張が解けて気が抜けてしまい、塗籠の奥にある寝床に気絶するように倒れ込んだ




知らない大きな邸が見えた

邸の一室では、お喋りな女達が人の噂に花を咲かせている


『皇孫のくせに、あんな男か女かわからない何考えているかわからない奴に嫁ぐなんて、

恥ずかしいと思わないのかしら』


『母親は亡くなっていて、父親も出家して行くあてがないし、生活に困るから、藤原の財を目当てに嫁いだに違いないわ、世の女は実家の財力で男を支援するのが常なのに、本当に恥だわ』



『あの男女が好きなんて悪趣味にも程がありますわ。あんなのに嫁いでいずれ子を産むなんて考えただけで気持ち悪い』



『それにあの子、髪の色は黒髪でさえないし、裳着もぎを済ませても見た目が幼過ぎて色香のかけらもないし、おまけに、男みたいに漢詩の本を読み耽っているらしいよ』



胡桃が塗籠のなかで膝を抱いて泣いていた

 


『ひどい、手古はそんなんじゃないわ、私も手古もお互いに心から好きあって愛しているから、婚姻を結ぶのに…

私のことを悪くいうのは構わないし、慣れているけれど、手古のことを悪く言わないで…』


『こんなところから一日も早く出て行って、

手古のところに行きたいよ……手古、会いたい…』



思わず、見ていられなくなって、 


『胡桃、すぐに迎えに行く』


と呼びかけた



ハッと目が覚めて、手古は自分が疲れて気絶したまま寝てしまったのだと気付く



あれは、前世の夢か…?

人康さねやす兄様は確かに出家したいとかよく言っているから、出家したとしても不思議はないが、何故か一時的に大きなあの邸に胡桃は預けられていたということか…

胡桃があの大きな邸に行くことになり、悪く言われるのを事前に阻止するためにも、父や親王達、大切な人達が悪く言われたり、非難の対象にならないためにも、

誰も口を出せないように、早く出世して貯めた財で自分の邸宅を建てて、あの夢のようなことにならないうちに胡桃をそこに住ませよう


そのためには、叔父良房の下で出世の恩恵に預かるのが一番の早道ではある


叔父のことは本音では苦手で大嫌いだし、

出来る限り関わりたくないし、心底嫌だけれど…

守りたいものを守るためにも、それしか道もないのだろう



そう思うと、あれこれと悩んでいる場合ではなく、

さっき叔父から渡された本を書写しながら、読み始める

没頭して書写を進めていたら、夜明け近くになっていたらしく、朝を告げる小鳥の鳴き声が遠くに聞こえてきた -



さすがに、疲れてきたな…

今日も外出の用事はなかったので、

とりあえず、少し横になって休むことにした



微睡まどろんでいると、



今度は成長した自分が、

優雅な中の島のある大きな池の水面に紫色の藤の花がたくさん咲き誇る大きな邸で、

美しく成長した胡桃の髪を撫でてめでている夢をみた -



目が覚めてしまうと、もう少しあの夢の続きを見ていたかったな…と残念な気持ちになる


けれど、努力を積み重ねたその先には、

あの夢のような未来があると信じて -

今は今で、二度とは訪れない日々を大事にしたいと、そう思った




胡桃を抱きしめたくなってきた

…さっきの続きをしたい


『胡桃、睦み合いたい…』


いつもの如く、恥ずかしい呪文めいたそれを唱える



鏡の中から胡桃が出てきて、手古に抱きつき、柔らかい身体を摺り寄せた


『…手古が欲しいの…』


抱きあって肌と肌をぴったりと重ねた


手古は胡桃の柔らかい身体と良い匂いに堪らずに、真っ白な身体に口付ける


胡桃の反応に嬉しさがあふれ出して、幸せな気持ちになり、下腹部が熱い…痛くなる程に張り詰めて苦しかった…胡桃が欲しくて堪らない…



恥ずかしそうに薄紅色に染まる耳朶をみ、耳元で『胡桃、愛しい…』と囁くと、

はにかんで胡桃がそれに応える



『…手古…愛してる…手古の私を思う真っ直ぐな気持ちがとても幸せで心地良いの…』



胡桃を私で満たしたくて、

なかなか火照ほてりがひかない身体を持て余していた



胡桃をただ全身で感じたかった

彼女が今は生き霊みたいな不確かな存在であっても、確かにこうして触れられるのだから


胡桃の全てを自分のものにしたくて…


胡桃の本体ごと娶って本当の意味で結ばれたなら、私だけの胡桃になるのだろうか-?



愛しくて、愛しいと思えば思う程、どうしようもない程に切なくなってくる…





叔父の養嗣子になるのも、まつりごとを学んで出世するのも、ただ、愛しい胡桃が安心して暮らせるように、

誰にも二人で過ごす時間を邪魔されないために、私は頑張りたいのだ





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