第10話 - 夏引楽 - 手古の成長を見守る兄のような親王達 -
ぎゅぅ…ムニャムニャ…
『胡桃…大好き…良い匂いがする…』
『ひゃっ…手古、やめて…くすぐったいよぅ…』
『…だって、良い匂いだから、いくら胡桃の頼みでも止められない、私の至福を取り上げないでよ…』
『…ほんとは私だって、手古とずっとこうしていたいのはやまやまだけど、今日は叔父様と父宮様に笙の笛を習いに行く日でしょう、
だから、帰ってきたらご褒美にたくさんギュッてしよう』
抱き合って、お互いの髪を撫で合いながら、励まし合う
そうして、てんやわんやで身支度をして、やっとのことで、胡桃と一緒にあの不思議な唐鏡のなかに飛び込んだ
また、あのハチミツ色をした
『ねぇ、胡桃…この間からずっと気になっていたのだけれど、この心太みたいなのは食べられるの?』
手古が問う
『ふふっ…そうね、手古が心太だと思ったら、心太の味がするわ、きっと』
『…本当か、それじゃあ、これは心太だと思って、頂くよ』
手古が壁をちぎって食べようとしたら、
壁は消えてしまい、
『…心太、食べたかった…』
恨めしそうに、手古が呟いたのを親王達は聞き逃さなかった
『おやおや、心太が食べたいのかい?
楽の練習が終わったら、今日は皆で食事作りをしよう。今日は確かに暑いし、食後の菓子をひんやりとした心太にしようか。ちょうど食材もあるし』
手古が頷くと、時康親王が思い出したかのように言う
『そういえば、この間は聞き忘れちゃったけれど、君のことはなんて呼んだらいいかな?』
『…私は手古と言います。私は親王様方をどのようにお呼びすれば良いでしょうか?』
『私達は、あまり堅苦しいのは好まないから、そうだねぇ…普通に、私は時康で、弟の方は人康と呼べば良いよ。でも、名前の後ろに兄様を付けてくれたら嬉しいかなぁ…
ねぇ、人康…』
『私もそれで構わない…というか、…うん、それがいいよ』
時康親王と人康親王は穏やかに笑いながら、手古に答える
『…時康兄様と人康兄様で良いですか?』
手古が首を傾げて真面目に問い返すものだから、"ああ、なんて、可愛いらしいんだ、"と
親王達は悶えてしまった -
『大丈夫ですか?私、何か間違っていたのでしょうか…』
手古は心配になって、シュンとしてしまう
『ああ、ごめんごめん。いやあ、手古みたいな可愛い子に兄様と呼ばれるのはとても嬉しくて、感慨深くてね。それにしても、手古という名は、珍しくて可愛くて君にぴったりだねぇ』
『私もそう思う。本当の弟にしてしまいたいくらい…』
親王達にそう言われると、手古は、ホッとするのと同時に少し照れくさかった
そうして、楽の練習になると、
親王達の父である、
この曲は、帝自身が力を入れて創作した曲のためもあり、お気に入りの曲のひとつだったらしく、帝の大切にしていた橘皮を奏でるのにこの曲が最適だろうとのことで、親王達が選んだものだった
まず最初に、時康親王が和琴、人康親王が琵琶を奏でる
2人の奏でる音はぴったりと重なり合い、
親王達の優しい心持ちを表すかのような暖かく柔らかで優美な音色が室内を満たす -
手古もその音色に喚起され、そわそわとしながら、一生懸命楽譜を見て橘皮を奏でる
手古の奏でる橘皮の笙の笛の音が加わると、
邸内が清冽な空気に凛と研ぎ澄まされる -
すると、不思議なことに大きな蓮池が目の前に表れ、朝露に濡れた蓮花がポンッと音を立てて咲き出した
3人の奏でる音色は、淡い光の粒子となって天から降り注ぎ、咲き誇る蓮花の周りには美しい
ひととおり曲を演奏し終えると、親王達は感極まって手古に抱きつく
『手古、凄いじゃないか!"父上があの童の奏でる音は、とても美しく、まるで極楽浄土にいるかのような綺麗な蓮池を見せてくれるのだ"と私に言っていたのは、大袈裟な表現でも何でもなく、本当だったのだな』
『可愛くて、奏でる音も神技なんて…手古、君が私の弟になってくれたなら、父上から伝わる楽曲を全て伝授するよ』
感極まった親王達に揉みくちゃにされて困惑する手古はその場にのびてしまった
『大丈夫かい?ごめんね。ついつい…感動しすぎてしまってね。
…手古、これは、念のための確認で知っておいた方が良いかなと思って聞くことだけれど、
君の身体はこうやって抱きしめてみると柔らかくてやっぱり女子みたいだけど、本当に男子なのかい?』
『容姿も可愛らしいし、心配になってしまうよ…世には子供を稚児にしたり、囲ったりするどうしようもない人達が結構いるからね』
この人達は胡桃の叔父や父だから、私をそういう不埒な目的で扱うとは思えないけど、
それでも言いにくいな…と手古は悩む
『大丈夫よ、叔父様や父宮様のことを信じてあげて』
胡桃の声が姿が見えないのに、どこからか聴こえてきて、迷い悩む心が落ち着いて冷静になる
『…驚くかもしれませんが、私は生まれた時から男女両方のそれが備わっており、女子でも男子でもないのです、兄様達を信じているからこそ、本当のことを告げます』
手古は、意を決して答えた
『そうかぁ…いろんな人がいるからねぇ、
大唐の宮廷には宦官という男女両方のそれがない人もいて随分と活躍しているらしいし、個性を如何に活かすか、が大事だと思うよ。
言いにくいことを聞いてしまったね…
私達は誰にも言わないし、安心してね』
『本当のことを勇気を出して答えてくれて
ありがとう。男の子の格好をしているから、
単純にそのまま男の子だと思って、何か失礼や間違いがあっても君を傷つけちゃうだろうし、聞いておいてよかったよ。
でも、姫君の格好も凄く似合いそうだよね、うちの娘がもう少し成長したら、お揃いの格好をさせたいなぁ…絶対、可愛い…』
親王達の答えに手古はホッと胸を撫でおろして、安心して息を深く吸い込み深呼吸をする
緊張すると、よく息を止めてしまう癖があるのか、頭がクラクラとする…
『幼い頃は本当にこの身体のことで随分と悩みましたけれど、その悩みを乗り越えて、今は私自身それも個性だと思っていて、
結構、気に入っているんです。
それは、私のことを大切にいつも思ってくれる、私の心のなかに住んでいて、いつも励ましてくれる胡桃という女の子のおかげでそうなれたのかなと思っています。
…女の子の格好は…させてもらえるなら、
してみたいかも…可愛いのはやっぱり正義ですから…』
照れくさそうにしながら、本音を話す手古の頭を親王達が撫でている
『そうかぁ、その胡桃という手古の心のなかに住む子は、手古のことがとても好きなんだねぇ。びっくりするかもだけれど、うちの娘も胡桃という名でね、よく、てこがすき、って、言葉を喋るんだよ。私は最初、娘の言う"てこ"というのは何かお気に入りの人形か何かを気に入ってそう呼んでいるのかと思っていたのだけれど、実は君と娘は見えない縁で結ばれているのかもしれないねぇ…あの子は今、向こうの部屋でお昼寝をしているだろうけれど、食事ができたら連れてくるよ』
人康親王の言葉に、手古は、胡桃の魂が手古と一体化していて手古以外には姿が見えないと胡桃自身が以前言っていたことを思い出した
そして、今から会う子が胡桃の本体なのだと手古は直感的に感じた
そうすると、胡桃は普段は生き霊?みたいなものなのかな…
そんなことを真剣に考えていると、
『確かに、前世から結ばれた縁なのかもしれないね、手古と人康の娘さんが将来婚姻を結んだら私達3人はある意味で兄弟になれるし、そうなれたら、私もとても嬉しいし、今から凄く楽しみだな。
ところで、手古は舞はできるのかい?』
時康親王のその問いに、手古は無表情のなかにも慌ててしまう
『…私は舞は大の苦手です。あんなのは上手な人がやれば良いのです。皆がそう上手くできるものではないです、あれは…』
以前に、童殿上の時のこと、
舞の先生に教えてもらった通りに舞ったはずなのに、動きが皆より一歩遅れてしまったり、衣の裾を踏みつけて何度も転んでしまったりして、異母兄達や従兄弟の常行に散々大笑いされた
『こんな鈍臭い女みたいな奴がいると、足手まといだ』と馬鹿にされたので、
嫌な屈辱的な思いしかなく、二度と踊りたくなかった
無表情が困惑になり、むすっとした表情へ微妙に変化したのを親王達は見逃さなかったのか、
『そうだね。人それぞれ、不得意得意はあるからね。長所を伸ばすのが良いと思うよ。
私達は手古が嫌だと思うものを無理にやらせるのは本意じゃないから安心して、ねっ。
そろそろ、お腹が空いてきただろう?
次は料理に取り掛かろうか』
時康親王はそう言いながら、料理をする部屋に向かう
その後をついて行くと、
すでに、料理の材料が用意してあった
『今、
その間に手を洗って、材料も軽く洗っておいておくれ』
皆で順番に手をよく洗い、人康親王と手分けして材料を洗う
しばらくして、竈の上でグツグツと米が炊けると時康親王は手際良く腕に盛り付けた
いつのまに作り終えたのか、
この蓴菜は、平安京の北にある
さすがは料理上手と自負するだけのことはある時康親王なのだった
そして、壺から鮭の
食事の用意が整ったところで、皆で卓に着き食べ始めた
『今日は、手古がこの間、好きと言っていた鮭の楚割を用意したんだ。
副菜は、季節ならではの工夫で、夏の食欲がない時でも食べやすいひんやりとした蓴菜を用意したよ。
それから、御飯は水菜と山菜を混ぜたものにしてみた』
蓴菜の瑞々しいプルリとした食感が喉越し爽やかで、食が自ずと進み、御飯の風味豊かな水菜や山菜の歯ごたえとその上に鮭の楚割をのせて食べると、とても幸せな気分になれた
『とても美味しいです。季節にぴったりな美味しい食材を工夫して調理できる時康兄様の料理の才能にはその辺の料理人も敵わないのでは、と思ってしまいます。
私が鮭の楚割が好きってことも…その、覚えててくださって嬉しくて…ありがとうございます』
『ふふっ…可愛い手古のお口に合うようで、何より嬉しいよ』
時康親王がにっこりと笑いながら言う
『そう言われると、兄さんの作る食事の恩恵に預かっている私は果報者なのだなぁと改めて感じるよ』
そんな人康親王の言葉に、
『そうだろう。これを機会に感謝することだよ、人康は』
『あっ、そうだ、さっき話したうちの娘を今連れてくるから、ちょっと待ってて…』
思い出したかのように、部屋から出て行った人康親王はしばらくして、小さな女の子を腕に抱いて戻ってきた
女の子は手古をみた途端に、手古の腕の中に飛び込むように抱きつく
『てこ、すき、あいたかったの…』
とても色白な肌も淡い色の髪も目の色も、
愛しい匂いも胡桃そのものだった -
我を忘れて、頬と頬を摺り寄せて実体のある小さな胡桃を慈しんでいると、親王達はにこにことしてこちらを見つめている
『いやぁ、可愛いねぇ、2人がこうして並んでいると、何だか、唐猫がじゃれあっているみたいで。もうこれは、裳着を迎える頃に胡桃を手古に貰ってもらうしかないね。うん。』
親王達の言葉に嬉しくなって、
手古は喜んで答える
『はい。ぜひ、宜しくお願いします。
前世からの因縁で、私は胡桃だけを生涯大切にしたいのです。
他の人のところにあげては絶対にダメですよ、約束です』
『ははっ。手古は一途で独占欲が強そうだなぁ』
そうして、お腹や心が満たされ、将来の約束まで親王達と取り付けたところで、
また、楽の練習を皆でする
夏引楽と言う曲ならではの、こうした方がいいと言う助言を時康親王から受けたりして、親王達も笙の笛を棚から出してきて一緒に吹いた
そして、食べたかった心太も皆でおやつに食べた
『これぞ、夏の風物詩だねぇ…』
親王達も心太が好きなようで心太に何をかけるかで盛り上がっていた
酢をかけたりするのが一般的ではあるのだが、手古はこれに蜜をかけて食べるのがお気にいりだ
日が暮れて唐鏡が点滅しだすと、何とは無しにそれがもう帰宅の頃だと言う合図なのだと認識し、親王達にお礼と次回の練習日のこと等を相談してから、鏡に飛び込んだ -
ハチミツ色をした、さっき食べた心太のような壁や床が広がるあの不思議な空間をとおり抜け、眩い光の先を抜けると、
そこはいつもの手古の自室の
『胡桃、ただいま』
胡桃の頬と耳のあたりに唇を寄せて、今日あった楽しかったことや困ったこと、嬉しかったこと、美味しかった御飯のことを話す
『ふふっ、手古が楽しそうで私も幸せよ。
それに嬉しいの。こんなに早く、私を迎える約束をしてくれて』
『…前世の時はだいぶ出遅れたから…もっと早く、胡桃を娶って一緒に静かな邸で暮らせるようになんとかしたくて…頑張ったのだ』
『…うん。手古、大好き、ずっとずっと一緒よ』
ぎゅっ…
成長は止めたくても止まらないし、大人になるのは避けられない…
あの叔父から"養子にする"とあの日言われた時点で責任や背負うものが重く辛く伸し掛ってくるのはそう遠くない未来だとわかっている
でも、大人になったなら、きっとできることや楽しめることも増えるだろうから、少しでも明るい方へ考えようと努めている
『前世と同じように私の隣に胡桃がいてくれたのなら、私はそれだけで幸せだ』
手古は何かに縋るように一心に祈りながら、胡桃を抱きしめた -
口付けをして睦み合って心と身体で愛を紡ぐと鬱屈とした不安が消えて満たされていく
心地良さと温もりに包まれて、お互いの頬をぴたっとくっつけて、手を繋いで安心して
ようやく眠りに落ちる
胡桃や手古の気持ちとも関係無く、誰かの思いとも関係無しに、
日常はあるがままに、ただただ川の流れのように流れていく -
鏡の中から親王達の暮らす宇多院へ向かうことが多かったが、親王達も宮中で出仕しているため、手古の童殿上での出仕後に一緒に
半蔀車に乗って向かうと、手古の暮らす枇杷殿よりも、内裏よりもさらに北に道が拡がっているのが物見用の半蔀を覗くと見えた
枇杷殿と童殿上で出仕する内裏しかほとんど行く場所のないとても狭い世界で生きる手古にとってはそれだけで、わくわくどきどきとして新鮮に見える
それは、ちょっとした冒険にも似ていた -
『今日の楽の題目はどうしようか?』
『父帝の大嘗会の時の曲、拾翠楽はどうだろうか?』
『今日の菓子は何を食べようかね?』
『手古が目を覚ましたら、何か食べたいものがあるか聞いてみて決めよう』
騒がしいのは苦手な手古だったが、
兄のように慕う彼等は特別なのかもしれなかった
親王達の膝の上で頭を撫でられて
童殿上での書写を頑張りすぎたり、前日の夜に夜更かしして漢詩の本を読んでいたりすると、半蔀車の揺れに無意識にうとうとと、
微睡んで
そんな時は、いつも親王達が頭を撫でながら子守唄を歌ってくれる
長閑な花園の地に一台の牛車が通り過ぎる
濃い緑色に染まる森に心地良く蟬時雨が降り注ぎ、夏の木の葉がそよそよと風に揺れ、陽光に煌めいている
夏の穏やかな昼下がりは、暖かで幸せな時間で満ちていた -
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