第9話 - 移りゆく時 - 胡桃の秘密 - 手古15歳
葬送の日だったが、
寂しい気持ちは簡単には消えないだろうけれど…少しでも前向きにと、
手古は毎日欠かさず、帝から賜った"橘皮"を
練習していた
新緑の萌え出る青々しい薫りが目の前の壺庭から漂ってきて手古の鼻先をくすぐる
遠くで、鳥のさえずりが聞こえる
雲間から時折差し込む陽の強さに、
もう、夏が近づいているのだなぁ…と思った
目を閉じ、深呼吸して、あふれる緑の息吹きを胸いっぱいに吸い込む -
そうすると不思議と、
身体の毒素や悪い気、心のモヤモヤがスッと
出ていくように感じられる
手古が壺庭に出てのんびりと枇杷の木を眺めていると、数人の話し声や忙しなくバタバタとしている音が聞こえてきた
『これは、めでたい』
『ほら、忙しいんだから、そんなところで
休んでないで』
小径を挟んで真向かいにある
手古の暮らす
騒がしさの理由が気になって仕方がなかったというか、静けさを好む手古にとってはざわつきが連日続くと不快だったため、その晩、手古は父の
『近頃、真向かいにある東一条の邸が騒がしいですが、一体何があったのでしょうか?』
『…ああ!あれは、弟の
昨年の冬から帝が体調を崩すことも多くなり、先日崩御されて…邸では娘の出産のこともあって、かなり忙しいらしくてね。
だから、この間の手古を養嗣子にという話もそれきりだろう。
もうちょっと落ち着いてから、また具体的な話をすると良房から聞いたよ。』
父はいつものように朗らかに、のんびりとしているが、帝が崩御されてからずっと哀泣し続けて、涙ばかり流しているためか、
痛々しく目が腫れている
手古は、そんな父長良を慰めようと、
腰にぎゅっと抱きついた
これはつい最近、父本人から告げられて知ったことだが、
父は私の部屋を塗籠と決めているのも、
幼い頃から人と一緒に過ごすよりも、静かにひとり過ごすのを好む私の性質を見抜いての配慮だったのだと知った
また、私がずっと悩んでいた女子でも男子でもない特異な身体のことについては、
『まあ、衣を着ていればわからないから、
大丈夫。気に病むな』と言ってくれた
叔父である良房の養嗣子に、という件については良房から懇願されたのもあるし、私の将来のためには私の特異な身体のことも話した上でその方が良いのかもしれないと思い、
判断してのこと、だったのだと知った
ただ、私が最近、橘皮を一生懸命練習しているのが父のいる母屋まで聞こえていたらしく、漢詩の本についても、他の本も、もっと読みたいとねだると、懇意にしている学者の家から取り寄せてくれた時に、
『手古は弟の養嗣子になって、出世の道を進むよりも、本当は笙の笛や漢詩の道を極める方が向いているのかもしれないね…何だか申し訳ないね』
父がしんみりとそんなことを言ったので、
私は『…本当は許されるなら、私はそうしたいです』と本音を話した
そのやりとりのあった日から、父のことを
誤解していたのだなと反省し、寧ろ少し感謝するようになった
因みに、母は妹に溺愛して付きっきりで、
会うことがほとんどないため、邸のことや
童殿上についての相談等は父か乳母にしている
しかし、おかげで良房の稚児教育の初回日は延期されることになり、ひとまずはホッとする
もう、一生延期で良いのに…私は穏やかに慎ましく地味に過ごしたいのだ
私の身体は玩具ではないし、それに大好きな胡桃を愛するためだけに使いたい…
そう、心の中でひとりごちる
仁明帝から賜った橘皮を吹くと、最初のうちは、あの日の夕陽に照らされた小瓶に入った真っ赤な丹薬の液体と哀しげな帝に対して何もできなかったことを思い出して、無念を感じて、ひどく悲しくなってしまったが、
胡桃が鏡の中から琵琶を取り出してきて、
手古の橘皮を奏でる音に合わせて一緒に奏でたり、橘皮を練習する前後に睦み合ったりしていたせいか、
いつのまにか、悲しい思い出や無念は自然と和らいで、橘皮を吹くたびに、胡桃への愛しくてたまらない気持ちや、だいぶ恥ずかしいが…肌を重ねている時のことを想起させるようになっていた -
胡桃は本当に不思議な存在だ
私を哀しみや魔から遠ざけて、柔らかく暖かなもので優しく包み込んで、光のあたる方へ導いてくれている - そう感じるのだ
甕をひっくり返したような大雨が間々降ることもあったが、そうして、手古は割と平穏な日々を暮らしていた
仁明帝の崩御の約一ヶ月と少し後、
帝が懸念していた通りに、仁明帝の母后である
"母子一体"と周りからも評判であった母と子であったため、都ではこんな噂で持ちきりだった
このことは、仁明帝とその母后である嘉智子様がほぼ同時に亡くなられることを暗示していたのだと
それを聞いて、手古には嘉智子様の気持ちが
痛い程に理解できた
その人を愛するあまりに、その人がいなくなってしまったら、呼吸をするのさえ息苦しくて生きていられなくなる…そんな気持ちを
手古は遠い記憶のなかでよく知っている気がした
何だか胸がキュウと締め付けられるような切ない気持ちになってきて、今すぐに胡桃を抱きしめたくて、塗籠の中の寝床の脇にある
『胡桃、睦み合いたい…』
こんなことを囁くのは恥ずかしくて今でも慣れないけれど、これが魔法の呪文みたいなものになってしまっているので、仕方ない
鏡からにゅっとでてきた胡桃は手古の腕の中にぎゅっ…とおさまる
『手古、会いたかったよぅ…』
手古の胸にスリスリして甘えてくる胡桃は
唐猫みたいでとても可愛くて、その真っ白な柔らかな頬に、手古も自分の頬をくっつけてスリスリとお返しする
しかし、あの鏡の中は一体どうなっているんだろう?
何度も試してみたが、手古が鏡に触れても何も起こらないし、中には入れなかった
それに、胡桃はとても琵琶を弾くのが上手かった、いつのまにどこで練習したのか、
それとも前世の記憶で弾いているのだろうか-?
『胡桃、あの鏡の中は一体どうなっているのだ?
気になって私が何回か触ってみたのだが、
普通の鏡と大差なく、何も起こらないし、
中には入れなかった』
『気になるの?だったら…連れて行ってあげる!』
胡桃は手古の手を取って握り締め、再び鏡に飛び込んだ
『わっ…! ちょっと〜〜〜〜』
凄い勢いで鏡に吸い込まれたと思ったら、
あたり一面ハチミツ色でプルプルとしていて、手古の大好物である
すると、ハチミツ色をした壁の向こう側から誰かの話す声が聞こえてきた -
『これからは、いかに地味に目立たないように暮らすか、だな。8年前に起きた
『兄上の言うとおり、今まで以上に目立たず、地味に、を心掛けた方が良いね。
ところで、この若菜のなかには、近頃噂になっている
『…うん。入っているよ。
例年通りに、道端にも山にも普通に生えていた。
あの噂は、父上とお祖母様の行き過ぎた母子一体ぶりを母子草に
お祖母様は父上がこの世で一番で、自分の命に替えても父上のことが大切な気持ちがあふれ出ているような…本当にべったりだったから、そう言われても仕方無いかな…
承和の廃太子事件だって、父上の血筋を受け継ぐ皇子を春宮に立てて、即位するのを見届けたかったからなのだろう。そのためには、あの良房殿に協力するしか他に方法もなかった。
お祖母様は良房殿のことを気に入って随分と信頼していたようだし。
ただ、お祖母様もあそこまで多くの人が犠牲になるとは思っていなかったし、望んでもいなかったのだと思う。
お祖母様の従兄弟で、童の頃は一緒に暮らしていた
だからこそ、お祖母様も父上も本心では複雑な気持ちだったに違いないけれど、起こってしまったことを元に戻すことはできないから、罪の気持ちを抱えたまま、懸命に生きるより他になかったのだと思っているよ』
『そういや、兄上もお祖母様に随分気に入られていたよね。もし、兄上が藤原北家でも良房殿の親類の皇子として生まれていたら、
今頃、春宮になっていたのかもね』
『…それは、そうかもしれぬが、私はそんな地位は望んでいないから、今のこの生活で良いかな、うん。』
地味な衣を着ている割には上品そうな若い公達たちが粥のようなものを煮炊きしたり、
若菜を洗っていたりしながら、仲良さげに話をしていた
どうやら、痩せていて若菜を洗っている方が弟らしい
粥を煮ている兄が弟に言う
『ここだけの話なのだが、母上(仁明帝の寵妃である
母上の突然の死を不審に思った父上は、母上の暮らしていた
調べ尽くしても特段怪しいものはなかったため、
床にこぼれていた液体の上にとまったトンボがその場で死んでしまったらしい。
自身の持病との闘いと趣味により、誰よりも薬に詳しかった父上はそれをすぐに見抜いた。
母上が急死して以来、父上は頻繁に病に
そして、ただでさえ、多く飲んでいた薬の量が倍以上になっていたのだ。
私が"そんなに飲んでは身体に毒ですよ"、と言っても一向に耳を貸さなかった、
私だって、母上の死はもの凄く悲しかったけれど、その上、毒殺だったなんて…でも、薬ばかりに頼っていても何も解決しないと思うのだよ。
結果的に、父上は心身を
『母上のあの突然の死は、当時幼いながらも私も不自然には思っていたけれど、
そんな陰湿なことが裏にはあったのだね…
宮中は本当に嫌なところだ。煌びやかな飾りで真実を偽ってばかりで…
それにしても、父上は薬のことになると、
兄の話に対して、苦々しい顔で弟が呟くと、
思い出したかのように兄がまた話し出した
『そういや、父上が亡くなられる少し前、
私を呼び寄せて宮中で話したときに、
"余が昔、母后様から賜った橘家に伝わる家宝の笙の笛である橘皮を、女子に見えると評判の長良の子に授けたから、余の代わりに、
弟の人康と2人で協力してその子に教えてやってくれ、頼む"と、仰られていたな…』
手古は、2人の公達たちの穏やかに煮炊きしているなかで交わされている訳ありげな話に聴き入っていた -
仁明帝のことを父上と呼び、女御沢子様を母上と呼ぶこの公達たちは、前にこの橘皮を賜った時に帝が"琵琶や笙の笛を教えてもらいながら、仲良くなると良い"と言っていた
女御沢子様といえば、私の母の姉である
数いる藤原の一族の中でも家の身分が低いのに、帝の寵愛を一身に集めて、多くの皇子女を生んで女御にまで上がった、その人である
それに対して、周囲の女御や更衣達は強い嫉妬心を燃やしていたそうで、沢子様は『宮中では帝と周りの女房たち以外にはなかなか頼る人もいなくて悩んでいる、
母が父にどうしたら良いものかと話していたのを事件が起こる少し前に、手古はたまたま
2人が話しているのを聞いてしまい、知っていた
そんな即効性のある毒なんて、丹薬よりもずっと強い毒物、何だろうか…塗籠にある薬物の本に載っていたかな
手古が考え込んでいると、
目の前のハチミツ色をした
手古はどうしたら良いか分からず、戸惑って
立ち竦んでいると、親王たちは感慨深そうに話し始めた
『父上の言っていた女子みたいな童はこの子のことじゃないか?父上が"時が来れば、この鏡の中からその童は現れる"と言っていたのは本当だったのだな』
『しかし、この父上から賜った鏡も童も不思議な力が宿っていそうだな。こうしてよくみると、最近生まれた私の娘と顔立ちがよく似ている』
時康親王の言葉に、人康親王が考え込むように言う
『そうだ、粥がもうできたから、君も食べないか?自慢ではないが、私は料理が割と得意なんだ』
きゅるるる…
時康親王のありがたい言葉に返事をするよりも前に先にお腹が鳴ってしまい、
手古は恥ずかしくて
『なんだ、お腹を空かせているのではないか。お腹が鳴るのは人間の身体の自然のことだから恥ずかしがることはないよ』
そう
若菜の入った粥が腕にたっぷりと盛られ、
副菜として、わらびやぜんまい等の山菜を
山椒で和えた物も出してくれた
手を洗い、3人の食事の用意が整ったところで、食卓を囲み食べ始める
和え物を口に運ぶと、
山椒のピリリとした爽やかな辛味がわらびやぜんまいの山菜を引き立てていて、粥と一緒に食べたくなってくる
粥も若菜がたっぷりと入っていて、薄味で身体と心に滋養が行き届くような、とても優しい味だった
『ご馳走様でした。唐菓子や菓子以外の食べ物を美味しく感じたのは久しぶりな気がします…』
『おやおや、長良殿の邸ではもっと美味しいものをたくさん食べられるだろう?』
『…邸では雉や猪の干肉等がよく食卓に並びますが、
私は本音を言うと、そういうのはあまり好きではないのです…鮭の楚割や唐菓子や菓子は大好物なのですが…』
『そうか、ではまた、ここにおいで。
君の好きそうなものをたくさん用意しておくよ。弟の人康と協力して琵琶や笙の笛も君に教えたいからね』
ゆっくりと食べ終わって、普段あまり胡桃以外には話さない本音を話すと、お腹も心も満たされて眠くなってくる
『寝顔も可愛らしいね、とても男の童とは思えないな…こんな子を弟や子に欲しいものだな…』
親王たちの声が聞こえて、意識がまどろみに溶け込んでゆく -
目を開けると、いつもの塗籠の天井がみえる- 胡桃が腕の中ですやすやと眠っていた
- あれは夢だったのか?
でも、口の中にはっきりと山椒のピリリとした香が残っている
『夢ではないわ、父宮様や伯父様は優しくて素敵な人たちでしょう?』
いつのまに起きていたのか、
胡桃が手古の耳元で囁いた
そうか、あの親王達は胡桃の父や伯父なのか、
初対面のはずなのに、懐かしいような、自身の兄のように思って本音を話せるような気持ちになれたのにもそれを聞いて納得がいった
そうすると、胡桃は仁明帝と沢子様の孫娘に当たるのだと、ふと気付く
前世からの因縁で、
この橘皮と胡桃を私は託されたのかもしれないな
帝と直接話した日は、あの日一日だけだったけれど、
笙の笛を教えてくれた時、自身の父のようにも感じられた帝の優しい気持ちと帝の寵愛した沢子様の思いの分まで、
この橘皮をさらに極めて、胡桃を生涯大切に大切に愛して守りたいと改めて強く思った -
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