第8話 - 仁明帝の想い - 橘皮と鸚鵡と - 手古14〜15歳
叔父である
誰もいないほうが気が散らず、捗るため、
今日は既にいつもの倍以上の書写を終えていた
いつも誰もいないほうが気が楽だ、
作業も捗るし…
そんなことを思っていたが、かなりの量を
こなしたため、腕も疲れてきた
ちょっと疲れたから休みたいなと思い、
立ち上がり、簀子に出る
高欄に頬杖をついて、何とは無しにボーッと前庭に広がる景色の中に、ポツンとそこだけ緑色をした右近の橘の方を眺めていた
『以前、今日のような冬の日、芹川への行幸の時、余が落としてしまった愛用の琴の爪を探し出してくれた女子みたいな童とはそなたのことか?』
『…ソナタノコトカ?』
背後から誰かの問いかけが聞こえてきた、
何か変な声も聞こえたような…
振り向くと、スラリとして背が高く、
繊細そうな整った容姿の高貴な壮年の男性が手古を興味津々な様子で眺めていた
この袍の色と紋様は…もしや帝…
帝をこんなに間近で見るのは初めてのため、
手古は慌てる
さすがは、スラリとして手足が長く、美人で有名な
ただ、こうして間近で見ると、嘉智子様や
嵯峨太上天皇よりもだいぶ控えめな雰囲気だ
よく見ると帝は、中に鳥を入れた籠を手に
持っている
手古が籠の中の鳥の、真っ白な中に処々に黄色の部分がある不思議な見た目に物珍しがっていると、
『そうそう、これはとても珍しい鳥なのだ。
人の話す言葉を真似してそっくりそのまま返す、とても頭の良い鳥で
入唐求法僧である慧雲が3羽もたらしたもののうちの1羽で、余はこれに"橘皮"と名付けて
呼んでいる。
試しに、そなたも何か話しかけてみよ。』
ええと、そうだなぁ…何を話しかけようか…
手古は慌てて考えた
『…そなたは何故、人の話す言葉を真似できるのか?』
『ソナタハナゼ、ヒトノハナスコトバヲマネデキルノカ?』
手古は絶句した…まさか帝のお茶目な冗談だと思っていたからだ
『凄いですね、本当に私の言った言葉そのままを返してくる…このような鳥は初めてみました…』
『そうであろう、それだけ珍しいものなのだそうだ。3羽いる鸚鵡のうちでも、
この"橘皮"は余のお気に入りであるため、
肩身離さず、一緒にいる。
勿論、枕元にも置いていて寝る時は他の2羽とも一緒なのだ。』
鸚鵡は帝の言葉に頷くかのように、
嬉しそうに『イッショ、イッショ!』と言葉真似をする
『そうだ、そなた、これを試しに吹いてみよ-』
帝は懐から細長い袋を取り出し、さらにその袋の紐を解いて、笙の笛を取り出した
そして、手古にそれを渡す
帝に言われたとおりに笙の笛を手古が吹いてみると、
身も心も洗われるかの様な、透きとおる清冽な音色があたり一面を満たした
『そなたの奏でる音は、何と美しいことだろう- まるで、朝露に濡れる蓮花が咲き誇る極楽浄土にいるかのようだ。
そなたに、その笛をあげよう。』
その後、短い時間だが、手古は帝から笙の笛についての手解きを受けた
宮中に伝わる秘伝の曲までも、
帝は何故か手古に懇意に教えてくれたのだった
『そなたがその笙の笛の大成者となる時には、そなたはきっと誰よりも高い位につき、後の世の担い手となっているであろう。
その時には、余の子である親王達の助けとなって欲しい。
特に、
笙の笛や琵琶もかなりの腕前のため、習うと良い。
しっかりと今日の日のことを思い出しながら、よく修練するのだぞ』
宮中の時報を告げる鐘鼓が7つ鳴り響く -
『そろそろ、戻らなくてはならぬ、
最近はだいぶ日が短くなってきたな…』
帝が急ぎ立ち上がると、着ている袍の内側から小瓶が落ちる
手古は目の前に転がってきたそれを手に取り、驚く -
その小瓶の中身の独特の色合いの液体は、
自分の部屋である塗籠の中にある書に載っていた『金液丹』の特徴に当てはまっていた
それは、不老長寿の薬と言われているが、
実際の効果はその真逆である
現に、大唐の帝はそれが原因で何人も崩御されているらしかった
『…帝、これを飲んではなりませぬ』
『余もそれはよくよく承知のことだ。
そなた、よく知っているな…』
『承知とは、…なぜ、』
『余は昔から身体が弱くて、いつも母后様に
心配ばかりかけていた。
植物性の生姜や紫根も最初は良く効き目があったのだが、毎日飲んでいたせいか服用量を増やしても次第に効かなくなり、ある日、
先帝である
くれぐれも少量のみ用いよ、と勧められて
この丹薬を飲むようになったのだが、
余は自身の弱い身体と付き合っていくためにどんな名医も及ばない程に医術を学んだその知識と実践とを活かして、自身の体調に合わせて量や配合を変えたのが、その薬なのだ。
母后様を悲しそうな顔にさせているのは
他ならぬ自身だということが余には堪らなく辛くて、心苦しくて…そんな母后様の悲しそうな顔はもう見たくなくて -
それに、この薬の原料が採れる場所の近くには
いつしか、この薬に頼るようになっていた。
そうしたら、飲まないと余計に体調が悪くなり、飲まねばならぬ身体になってしまっていたのだ…
一日でも長く生きて、母后様を喜ばせてあげたい、良き雨と国家の安寧、
それが余の願い…
それに、母后様は余が先に死んでしまったら、その衝撃で、それこそ病気になってしまいそうであるからな…』
哀愁と憂いで染まる帝の端正な横顔と
帝の手の内の小瓶の中の真っ赤な血の様な色に金砂を落としたような液体が
斜めに差し込む茜色の夕陽に照らされている -
その情景は、ひどく哀しいのに、
恐ろしく幻想的で美しかった -
そして、生涯、手古の脳裏に焼き付いて離れなかった
『長々とした話に付き合わせてしまったようだ、そなたも日が暮れぬうちに自邸に帰った方が良いぞ。
また、そなたが奏でる橘皮の音を聴かせてくれ。』
『この笙の笛は、橘皮というのですね…
その鸚鵡と同じ名前ですね…
それだけ、帝の大切なものを頂いたからには今日から頑張ってたくさん修練致します。
次にはもっと良い音を出せるように…』
だが、帝に間近でお会いするのも、
帝に賜ったこの橘皮を帝の御前で奏でるのも、その日が最初で最後となってしまった
何かの前触れかのように、
正月のある日には強い北風に白雪が舞い上がり、地震が頻発し、赤と青の光を放って
大きな流星が東山に落ちる -
帝はその後、熱病や胸の痛みに
そして、手古と話した約4ヶ月後、
嘉祥3年3月21日(850年5月6日) -
地が揺れ動き、臣下や僧侶達、鸚鵡の見守る中、常の御座所であった
他の孔雀などの動物達とは異なり、愛育していた鸚鵡3羽は最期まで帝の希望により残していたが、帝が息を引き取ると、まるでそれを追うかのように籠の中で3羽ともに息絶えてしまった
愛用の琴や書と共に、
鸚鵡も帝と一緒に山城国紀伊郡にある深草山に埋葬された -
それは、後に深草山陵と呼ばれる
その日の前後は童殿上で宮中に出仕する日がたまたま無かったため、
それを手古は父の長良から聞いて知った
その日は手古の哀しみを天も知るかのように
絶え間なく、雨が降り注いでいた
手古は生まれて初めて、哀しみの感情を知った -
やるせ無い気持ちになり、悲しくて、心が痛くなって、視界がぼやけて行く -
目から雨粒のような涙が止め処なく溢れてくる
帝はあの時既に、自身がもう長くないことを知っていたのだろう
それで、大切にしている笙の笛である橘皮を私に授けたのだと悟った
『胡桃は私のそばからずっとずっと離れないでくれ、約束だ』
懇願するように手古は胡桃に告げると、
泣き疲れて眠りに落ちた
手古の心に共鳴して、
胡桃も自身の涙で溺れてしまうかのように、
グショグショになるまで一緒に泣いた
胡桃は、本当は心根が情緒豊かで真っ直ぐな
手古を苦しくなる程に愛おしく思い、手古の色素が薄めのサラサラとした髪を優しく撫でて、真っ白な頬に流れる涙の跡に『大好き』を込めてそっと口付けた -
*鸚鵡
入唐求法僧慧雲が孔雀1羽、狗3頭とともに帝に献上したもの。帝が臨終の際、他の動物はすべて放った(放鳥の儀式:帝が崩御された際に、飼っていた鷹や水鳥等を放つ儀式)のに対し、『鸚鵡のみは留めた』との記述が続日本後紀に見られることから、かなり愛着があったものと思われます。
*橘皮
基経が幼少期に、仁明帝から賜ったと伝わる笙の笛。楽家録には、橘丸と記載されているそうですが、同一のものかは不明だそう。
このお話の中では、橘皮という名称から推測し、仁明帝の母后の橘嘉智子から伝承された橘家の家宝として記述しています。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます