第2章 - 平安時代編 - 基経の記憶と回想 -
第6話 - 手古と藤紋の入った唐鏡 - 手古生年〜11歳
実体化した
身体に力が入らなくなり、意識がだんだんと遠のいてゆく
フワフワした感じに何だろうと思い、
ハッと眼を開けたら、
私は基経の背中にしがみつきながら、
空を飛んでいた -
『わぁ…!夢みたいな景色…』
右手には
『これは、どこに向かっているの?』
私が基経に問うと、
『私の実家である
『それじゃあ、平安京の方に向かっているのね』
しばらくは、まるで鳥になったかのような気分で景色を楽しんでいたのだが、
平安京の
まるでフリーホール型の絶叫マシンみたいに、真っ逆さまに落ちてゆく -
『っ…ひゃぁあぁぁぁあああ〜』
眼をぎゅっとつむって、基経にぎゅっ…と、強くしがみつく
もう景色を見る余裕も話す余裕もいっさい全てが吹き飛んで、ただただ必死に基経にしがみつく
プルッ…
どこかに着地したと思ったら、
寒天の様な膜にプルリと触れた -
そこは、ハチミツ色をしたゼリー状の粘性のある液体で満たされており、いつのまにか、
私は寒天状の
基経はとても嬉しそうに微笑みながら、
私の頭を撫でている
それがとても心地良くて、まどろみの中に意識が揺蕩う -
遠くには、琵琶を奏でる懐かしい音色が聴こえてきて、ハチミツ色の透明な壁の向こう側で若い法師が小さな姫君に琵琶を教えている
あの小さな姫君は私だ、
あの人は、よく知っている人…私の父宮様
意識が凛と研ぎ澄まされて、
前世の記憶が滝の急流の如く流れ込み、蘇ってゆく
今度は琵琶の音色に気持ちが癒され、
すっかり安心して眠気が襲う
そうこうしているうちに、
まどろみの中に意識がまた遠のいていった -
それは、弘法大師空海の入滅から約1年後、
あの小野篁も副使に選ばれた承和の遣唐使の話題で賑わっていた頃、
承和3年2月16日(836年3月6日)の未の刻、平安京-
しかし、その赤子は産声も上げず、泣きもせず、笑いもしないため、大体の人は薄気味悪いと思ってしまうような赤子だった
その上、男とも女とも判別がつきかねた
というのは、その赤子には男子に付いているそれも女子の持つそれも両方付いていたのだ
ただ、両親は赤子を男子として育てることにしたようなので、便宜的に『彼』または、
名付けられた名である『
奇形の赤子の存在は名門である我が藤原の家の恥になると考えたのか、母の
そこから決して外に出たり人目に触れたりしないよう、乳母にまかせきりだった
乳母も仕事と割り切って、彼を事務的に育てているだけで、必要最低限しか彼に接することはなかった
なので、彼、すなわち手古は愛情を注がれることもなく、感情が芽生える機会もほとんど持たずに育ったのだった
そんな中、彼が7歳になった時、妹が生まれた
妹は生まれた時から、誰からも可愛いと言われる程の愛敬があり、しかも容貌美しいので両親にとっては自慢の娘だった
両親や親戚、周りの大人達にチヤホヤされている妹の噂を聞き、通りすがりに横目に見る機会があると、手古は何だかチクチクと胸が痛み、苛立ちを覚えるようになった
- 彼が生まれて初めて覚えた感情は痛みと苛立ちだった -
幼いながらに聡明な彼は気付いてしまった
自分は要らない子で、生まれない方が良かったと両親から思われている、と -
塗籠の中にある、舶載品と思われる唐の書物に描かれている漢詩をただひたすら読み耽ることが辛い現実を忘れさせてくれる唯一の楽しみだった
そして、そんな辛い時には決まって、
何だか懐かしい声がいつも聞こえてきた
その声にどれほど癒され、励まされ、勇気づけられ、元気をたくさんもらったことだろう
手古はそれが誰なのか、何者なのか、知りたくてたまらなかった
そう思いながら、今日も塗籠のなかで
彼は漢詩を読んでいた
晋の太元中、武陵の人魚を捕らふるを業と為す。
渓に縁りて行き、路の遠近を忘る。
忽ち桃花の林に逢ふ。
岸を夾むこと数百歩、中に雑樹無し。
芳草鮮美、落英繽紛たり。
漁人甚だ之を異しむ。復た前行して、其の林を窮めんと欲す。
林水源に尽き、便ち一山を得たり。
山に小口有り、髣髴として光有るがごとし。
桃源郷をテーマにした漢詩を読んでいると、いつのまにか、桃の花があたり一面に
花びらを散らしている桃の園にいた -
よく見ると、桃の花に混じって薄紅色の桜も咲いている
花びらの向こう側には、手古よりもちょっと年下くらいにみえる色白の少女が舞っていた
彼女の顔はよく見えなくて、色白で夕日に透ける陽だまりのような色をした長い髪と裳のようなふわりとした薄桃色の衣だけがかろうじて見えた
-いつのまにか、転寝をしていたようだ
漢詩の本が顔の斜め上に被さっていた-
視線を感じてその方を向くと
傍にある藤紋の入った唐鏡の中には、
自身とよく似た少女がこちらを見つめていた
『そなたは誰だ?』
『さっき、私の夢の中にいた者か?』
手古がそう問うと、
少女は
『私に気付いてくれたんだ、嬉しい…』と
恥ずかしげに微笑む
『私の名前は胡桃、私が何者かという質問に答えるのは長くなっちゃうし、説明がかなり難しいけれど、簡単に言えば、もうひとりの貴方自身とでも思って』
もうひとりの自分 - 確かに、目の前の鏡に映っているし、自分とよく似た顔をしているが…
手古はびっくりして呆然としていたが、少女 - 胡桃のことが気になったのか、
『そなた…胡桃はそこから出られないのか?』
そう問うと、
『今はね…今はまだ出られないわ。
どんなに、出たいと思っても』
悲しげに彼女が言うので
その悲しみにつられたのか、何だかしんみりとしてきた
『でも、また逢えるのだろう?』
その問いに、
『それは貴方が願えば、いつでも逢えるわ』と彼女は返した
その日以来、鏡越しに2人は漢詩についてや季節の好きな花だとか、日常の様々なことを語り合い、毎日を過ごしていた
塗籠から出ると前面に広がる壺庭に、
背が低い枇杷の木や桃の木がたくさんあり、
なっている枇杷や桃を手古が取ってきて
鏡の中にヒョイと入れて、 2人で仲良く食べたりもした
この頃になると、
毎日ではないが宮中に出仕するようになり、
兄である
会うと『女みたいなやつ』揶揄され嘲笑されていた
だから、手古は煌びやかな宮中よりも、
塗籠の中で胡桃子と過ごす方が好きだった
*基経(手古)の誕生日について
この頃はまだ公的な性格をもつ日記も無いため、また、記録は何かしら残っていても紛失や焼失してしまったのか…
残念ながら、836年生まれということしか、
史書などの公式記録では分かっていません。
ただし、この小説では基経のイメージやお話の雰囲気にあわせて、誕生日を3月6日未の刻(旧暦2月16日)にしています。
因みに、誕生した日が分かっている人も含めて、当時は年明け元旦に皆一斉に歳をとります。
なので、年齢は『数え年』で表示しています。
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