キュンとした事件

 A先生との2時間もあっという間だった。これでZ先生に次いで2人目だ、誰かの授業で時間が経つのが早いと感じたのは。それくらい楽しく授業を受けられていたということなのだろう。


 A先生にはまだお隣の生徒への問題の解説が残っていた。そこでお礼だけ言って、私は席を立った。


「先生、今日はありがとうございました」


「ああ、いいえー。気をつけて帰ってね」


「はーい」


 教室を出るとずっと奥の方にZ先生が私の方に向かって首を伸ばしている姿が見えた。


 人だかりが出来ていたので、私は「Z先生は他の人を探しているのかな?」と思った。


 一瞬、私とZ先生の目が合った気がした。

 

 いや、でもきっと気のせい。気のせいだよね。私の単なる勘違いだよね。

 

 恥ずかしい。恥ずかしすぎる!


 なんで私は・・・自意識過剰な人間なの!?


 自意識過剰な自分が恥ずかしすぎて、Z先生に会う資格はないと思った。


 だからZ先生に気がつかれる前に早く逃げよう。


 そう思った。急いで廊下の人だかりをかき分け、受付へと突き進もうとする。

 でもなかなか人だかりは前に進もうとしない。


 早く進んでよ!早く帰りたいの!


 そう心の中で叫びながらもなんとか廊下に溜まっている人混みをかき分けた。


 そして受付の目の前まで来て、出席確認の為のカードを取り出そうとした。


 



 ーまさにその時だった。ー



 何か、ものすごい力で自分の体が受付の前から引き戻されるのを感じた。


「きゃあっ」


 あまりに驚いて変な悲鳴をあげてしまった。

 自分の足を前に進めることができない。

 なにか、強い力で自分の足が後ろへ引っ込んでいる。



 え!?なんで!?前に進めない!


 どうし・・・て!?



 慌てて後ろを振り向く。


 自分のリュックの持ち手が誰かに掴まれていた。


 大きくて、ちょっと白目でかつごつめの手。


 振り向いたまま視線だけ見上げるとZ先生が私のことを見下ろしていた。

 その瞬間、ドクンと心臓が鳴った。


 せ、先生!!


 

 真顔に見えたけど、口端は緩んでいた。


「ほら、まだ帰らないで次の国語の授業の日程決めるよー」


 そう言って私のリュックの取手を掴んだまま、離さずに私のことをずるずると引きずり始めた。


「や、やめて下さい!私、帰りたいんです!」


 引きずられながら、私は悲痛な叫びをあげた。

 Z先生の力があまりにも強すぎて、どんなに抵抗しても私はZ先生から逃げることができなかった。


 周りの視線が私に集まる。

 結構な数の人が塾を出ていったがそれでもまだ何人かの人がその場に残っていたし、授業を受けに塾に入ってくる人も少なくなかった。あの女子高生がいなかったことが唯一運が良かったことだ。


 は、恥ずかしい・・・恥ずかし過ぎる!


 

 授業を終えて帰ってきたA先生とも受付で鉢合わせた。


「D村さん、なんでこんなことになってるの?」


 苦笑いしながらA先生はZ先生に尋ねた。困惑するのも当然だろう。

 何せ、塾の生徒が塾の先生にリュックの取手を持って引きずられるという何とも奇妙すぎる絵面が目の光景として広がっているのだから。


「この子、塾の日程決めるって言ったのに帰ろうとしたから公開処刑」


「いや、今決めるってそんなの聞いてないです!」


 言われてもいないことに抗議する私。


「え?でもどうせこの後なんもないっしょ?」


 まだリュックの取手を離さずにいるZ先生。


「もう帰って寝る時間なんですーーー!!!」


 私はそれでもZ先生から逃げようと必死で抵抗していた。まあZ先生から逃れることができるはずなんてなかったのだけれど。


「お疲れ様です、頑張って」


 そう言い残して、笑いながらA先生はその場を去った。受付にいた他の先生たちも私とZ先生の奇妙すぎる光景におかしそうに笑っていた。


「じゃあ、国語の日程決めますか」

 

 混雑していた受付がようやく空き、リュックの取手からZ先生の手が離れた。


 Z先生から開放されて、ようやく自由の身になった私。

 でも、ずっとZ先生に掴まれてても良かったのにな。

 ドM思考をする私がいた。


「先生、今何時だと思ってるんですか!?」


「えっとー・・・」


 受付に置いてあるパソコンの時間を確認しようとするZ先生。

 Z先生よりもずっと早く自分の腕時計を見た私は


「9時5分ですよ!9時5分!もう寝る時間なんです!」


 と嘆いた。


「そっかあ、お姉さん家って、に寝る時間早いんだっけ?」


「8時には寝てるんです!遅くても9時にはライトが消えるのに!」



「そっか、でもあとちょっとだから、ね」


「早くしてください!」


 早く寝たくてうずうずしている私。眠気もあったが内心、意外な形でZ先生と一緒にいることが出来て嬉しいという気持ちもあった。


「えーっと、〇〇先生かあ。今いないけど、勝手に授業入れちゃっていいかなあ?」


 そう呑気に、その場にいた男の先生に話しかける。


「わからないけど・・・いんじゃない?」


「いや、でも怒られるかあ。やめとこ」


「じゃあ、なんで他の先生に聞いたんですか、先生?」


  2人の会話に思わず口を挟んだ。


「ねー、そうだよねえ」


 他の先生も同情する。


「ごめんなさい!」


 と言うZ先生の口調はわざとらしかった。




 必死に空いている先生を探すこと5分。9時10分になり、最後の授業が始まってしまった。


「先生、私、8時過ぎまで外にいるの生まれて初めてです」


「そうなんだ、やっば」


「もー、先生!早くして下さい!家の電気もう真っ暗じゃないですか!」


「じゃあ、やっぱいいです!だめだ!空いてる人見つかりそうにないや!」


 Z先生が悲鳴に近い叫び声をあげた。


「先生!なんてことしてくれるんですか!就寝時間過ぎてるんですよ!」


「ごめんごめん」


 そう謝るけど、Z先生の顔は笑っていた。

 慌てて出席確認のカードを取り出し、センサーにかざす私。

 そしていつもならその場でカードをしまうのだが、その時はそんな余裕なんてなかった。カードを片手に持ったまま、塾を飛び出した。


「もう先生!許さないですからね!おやすみなさい!!」


「はい、おやすみー」


 塾を出る時に一回、受付の方を振り返るとZ先生がにこにこ顔で私のことを見送ってくれているのが見えた。


 生まれて初めて9時過ぎまで外にいた瞬間。Z先生のせいでそうなったことが嬉しかった。


 塾を飛び出して、急いでたまたま開いていた始発の電車に乗る。

 それからずっと私のどきどきは治らなかった。


  Z先生にリュックの取手を掴まれた!


  生まれてはじめて、キュンとしたかも。


 ドキドキが治らないまま、家に入った。家には心配している両親が待っていた。


「どうしたの?なにかあったの?」


 そう心配されたが、私は


「いや国語の日程決めてて遅くなった」


 とだけ返した。


 お風呂に入って、ご飯を食べて、歯磨きをして、布団に入ってからも、ずっとあのどきどきは治りそうになかった。


 あーあ。どきどきした。


ありがとう、先生。私のこと、キュンとさせてくれて。

それにしても、反則だよ。

もっと惚れちゃったじゃん、先生のばか。



 





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