番外編 草間仁の場合5 一つだけ
俺は後輩である美術部員の2年生たちを呼び出して、戸川澪に謝るように指示を出した。これで、戸川澪は美術部に来るかもしれない。
そのことを聞きつけたのか、同じ3年の美術部員である来栖が俺に話しかけてきた。
「……お前の指示だろうが、お前の気持ちではないだろう」
そうボソッという来栖に俺はこみ上げる皮肉な笑いを噛みつぶした。
本当は言いたかった。
そもそも、俺の指示でもない。全ては清川先生のためだ。
本当はそのことを来栖は見抜いているかもしれない。暗い印象とは違う意外と澄んだ瞳を問いかけるように俺に向けてきた。
だけど、俺はそれ以上何も言わなかった。
それどころか、もう戸川澪が美術部に入ることは悪くないと考えていた。
清川先生の気に入ることなら、それがいいのかもしれない。
それほど俺は清川先生のことが好きなのか。
分からない。
ただ、一つだけ。
もう俺は僕に返れない。俺は俺だ。
何かそんな強さが俺に宿っていた。
逆に馬鹿で幼稚になったのかもしれない。
それでも涼しい顔で美術部部長を続けるだろう。俺は自分でも自分をそういう奴だと分かっている。清川先生の失われた手を補完するのは誰か。
それの足しになるのなら、戸川澪も悪くはない。
「先輩の絵って優しいですね」
ふっとその声がよみがえった。戸川澪の声で。
ざわっと俺の中で血が騒ぐような気がした。
本当の俺は優しさなんてなくて。
戸川澪の全てに嫉妬するくらい醜くて。
死んだウサギのことが忘れられないのは?
清川先生のことを一生懸命考えるのは?
戸川澪の顔が浮かんでは、そんな声で心の中で問いかけてくる。
優しい、が分からない。
強くなるために優しさをまとった偽善者。
こんな俺が描く絵はいつ化けの皮が剝がれるのか。
その週の内に戸川澪の入部は決まった。
俺は部内で笑顔を絶やさず馬鹿みたいに笑っていた。
清川先生に一度だけ「大丈夫か」と聞かれた。
少しだけ明るすぎたのか。
「大丈夫です」
そう言って涼しい顔で清川先生に微笑み返した。
清川先生はそれ以上、何も言わなかった。
自分が痛々しかった。
入部したての戸川澪は俺の絵を一生懸命見ていた。
こんな優しさをかぶった絵なんて習っても無駄なのに。
「草間部長は生き物を沢山描きますよね」
そう戸川澪に言われた。
「生き物を描く理由?僕は自然が好きなんだ」
そう答えて、俺は本当にそうだろうか、とぼんやり思った。
分からない。
本当のことなんて、何ひとつ分からない。
だから俺は最近、なんだかフワフワした心地で過ごしていた。
推薦で美大の進学を決めて、キリンの絵を有り得ない色で塗って。
そんな中、清川先生から呼び出された。
「仁。コンペをするぞ」
清川先生の瞳は輝いていた。サングラス越しのその瞳がたまらなく美しい。
「……はい」と俺は頷いた。
少年のような清川先生の表情。
分からない日々の中で一つだけわかったことがある。
俺はやっぱり清川先生が好きだ。
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