ひとつだけ欲しい
美冬が目を覚ましたのはもう昼で、そこにはもう秋人は居なかった。
美冬は全身に重い鉛を背負ったような鈍痛を抱えながらもったりと起き上がり、卓上時計とエアコンと冷蔵庫を順番に見やった。
下腹の奥のほうが酷く疼いている。
時計は昼の12時30分。
エアコンはつきっぱなしで、いつも通り静かにぬるい風を吐き出している。
冷蔵庫の前には脱ぎ散らかしたパジャマと下着と、冷凍庫には、雪見だいふく。
カーテンを開けると、雪は止んでいた。
それでも、外はやはり一面に銀色の雪が降り積もって、でもそこには無数の足跡がついていた。
硝子窓の向こうで、昼の日の光に当たってキラキラと粒を零すように光っている。
美冬は、ようやくベッドから這い出し、キッチンで下着とパジャマを着て、ぼさぼさの頭のままインスタントコーヒーを淹れた。
マグカップいっぱいにお湯を注ぎ入れて、それを持って卓上時計の前に居座る。
連絡、すればいいじゃないか。
ひとくち啜りながら、美冬は自分のスマートフォンを眺める。
連絡先くらい知ってるんだし、昨晩のあれはなんだったのか、訊けばいい。
それでも美冬は、マグカップいっぱいのインスタントコーヒーを抱えたままで、スマートフォンに手を伸ばすことができなかった。
訊けないのだ。
先に身体を重ねてしまったばっかりに。
言わなければいけないことを、ずっと言わずにやってきた。
言わなくても分かってくれていると思っていたし、分かってやれると思っていた。
我が儘ばっかり言ってきた。
秋人は美冬に近すぎた。
「触りたかった」ってなんなのよ。
もっと違う言葉が欲しかった。
もっと違う言葉を、言わなければいけなかった。
もっと早く、「好きだ」って一言、伝えなければいけなかった。
そうしていれば、ただ身体を重ねるだけの日常にいつしか疑問を抱くことだってなかった。
他の子と楽しそうに話している姿を見て、やきもちを焼いているのだと素直に言えたのに。
この関係に名前がなかったから、どうすればいいのかが分からなかった。
それでも安易にこの関係に名前をつけて、いつか失くしてしまうのが怖かった。
友だちよりもずっと近くて、恋人よりもずっと遠かった。
家族みたいで、兄妹みたいで、……幼馴染みだった。
16時10分ってなんの時間なのよ。
どこ行くの。
なにで行くの。
どうして行くの。
いつ帰ってくるの。
なんにも分からない。
どういうつもりで連絡すればいいのかも分からない。
これじゃ見送りにも行けないじゃない。
美冬は夕方まで、そうやって苦いインスタントコーヒーを啜って過ごした。
そうして、時計の針が16時10分を指すのを、黙ってずっと眺めていた。
バスに乗るのを、電車に乗るのを、新幹線に乗るのを、船に乗るのを、飛行機に乗るのを、ただ想像しながら、時計を眺めた。
カチッ、とひとつ音がして、分針がひとつずれてから、美冬は立ち上がって冷凍庫に向かった。
冷凍庫から出してきた雪見だいふくをテーブルの上に置く。
かちかちに凍ったプラスチックの容器は、ことりと軽い音を立てた。
秋人は、これを一体どういうつもりで持ってきたのか。
いつもの癖で?
でもひとつしかない。
秋人はいつも、自分のぶんと一緒にふたつ買ってきていた。
美冬が半分こするのがいやだから。
それが、今ここにはこれひとつだけしかない。
自分のはもう必要ないってこと?
でも、「気が向いたら帰ってくるから」って、秋人はそう言っていた。
「忘れるなよ」って、なにを?
この脚の間の痺れるような疼きなら、しばらくは落ち着きそうにない。
美冬は少しだけ考えて、いつも裏面に優しいメッセージが書いてあるパッケージの蓋を、半分だけ開いた。
そうして、ピックを指して左のひとつだけ、
齧る。
美冬が零れてきた涙を拭おうと少し遠くのティッシュに手を伸ばして、それを引き抜いている間に、雪見だいふくはエアコンのぬるい風に吹かれて、ほんの少し溶けた。
(おしまーいっ!)
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