2ー27.聖女
流星群の夜に、リオレイルの転移でアメルハウザー家に戻ったグレイシアは、その翌日には第一騎士団の詰所に居た。
慌ただしさも仕方がない。そう分かっているグレイシアは、意識をして明るい色のドレスを選んだ。メイサに頼んで化粧も明るくして貰っている。
帰宅したグレイシアを出迎えたメイサは、うっすらと涙を浮かべながら「次にこの家を離れるような事があれば、メイサをお側に置いてください」と言っていた。それを聞いていた執事のリヒトにはその場で叱られていたが、リオレイルもグレイシアも笑みを浮かべるだけで叱責などはもちろんしなかった。
それだけグレイシアがアメルハウザー家に受け入れられているという事でもある。自分の支度を楽しそうに行ってくれるメイサを思って、グレイシアの唇が弧を描いた。
――コンコンコン
団長執務室の扉が、軽やかにノックされる。
応えたのは部屋の主であるリオレイルで、扉を開けたのは団長補佐官でもあるカイルだ。グレイシアもソファーから立ち上がって、その人物を出迎えた。
「お久しぶりね、アメルハウザー公爵夫人。お元気だった?」
白地に黒の刺繍が施されたローブを纏う、年嵩の美しい女性――神聖女。背筋を正し毅然としたその姿は、今も尚、グレイシアの憧れだった。
「ご無沙汰しております。此度は神聖女様にご足労頂きまして、誠にありがとうございます」
「堅苦しいのはよして。呼んで貰って良かったもの」
神聖女がくすくすと笑うと、目元に薄く皺が出来る。それはどことなく可愛らしくて、その場の雰囲気を明るく和ませるようだった。
「どうぞ掛けて下さい」
「ありがとう、アメルハウザー公爵。ご夫人が戻ってきて良かったわね」
揶揄うような言葉に、リオレイルが気まずそうに眉を下げる。神聖女がソファーに座ってから、リオレイルとグレイシアもソファーに腰を下ろした。相変わらず二人の距離は近く、リオレイルはグレイシアの腰に手を回す。仲睦まじい姿に神聖女が目を細めた。
「今回の件は、あなたも大変だったわね。
「そうですか……。あの……彼女のような存在が、この先に生まれる事はあるのでしょうか」
「ないとは言えないわね。未来は誰にも分からないし、わたくし達は良くも悪くも無数の可能性を秘めているもの」
カイルがテーブルに紅茶を出して、一礼してから執務机へと戻った。
早速カップを手にした神聖女は、その香りを楽しんでから口をつけた。
「美味しい。この茶葉はイルミナージュのもの?」
「私の領地の特産品です。用意させますので、宜しければお持ちください」
「いいの? それでは遠慮なく」
嬉しそうに神聖女が笑う。
神聖女とリオレイルのやりとりも、グレイシアの耳には入らなかった。
また、ルルシラ・クラッセンのような存在が生まれたら。
彼女のように”穢れ”や”忌人”を操る人が生まれたら。
この世界はどうなってしまうのか。
グレイシアは背筋が震えるのを感じた。窓からは熱気にも似た陽光が射し込んでいるのに、グレイシアの周りだけ凍てついてしまったようだ。
忘れていた呼吸を、意識して細く吐き出した時だった。
グレイシアの手に、温もりが触れる――リオレイルだ。
「大丈夫だ、グレイス」
触れる場所から彼の温もりが広がっていく。力強い言葉に、纏っていた氷が溶けていくのをグレイシアは感じていた。
「ええ、大丈夫。それを防ぐために最善を尽くすだけの話。そしてもしそんな事態が起こってしまったら、被害を抑える為に最善を尽くすの。その時に出来る事をしていくしかないのよ」
神聖女の声は穏やかだった。
ゆっくりと頷いたグレイシアは、気恥ずかしそうに顔を伏せた。触れるままのリオレイルの手が、宥めるようにぎゅっとグレイシアの手を握った。
「大変な思いをしたもの、心配するのも仕方がないわ」
「すみません。でもこんなにも早く、まさか神聖女様がお出でになるとは思いませんでした」
「そこの公爵に急かされたのよ」
悪戯に片目を閉じて見せる神聖女に、グレイシアは固まった。ゆっくりと傍らのリオレイルに目を向けると、夫は肩を竦めている。
「急を要する案件だったのは間違いないからな」
「それにしたって……!」
自分が期限をつけたせいで。
それを自覚したグレイシアは申し訳なさに身を縮こませるばかりだった。
「申し訳ありません。神聖女様にこれだけのご迷惑を……」
「いいのよ。急を要するのは確かだったし、それに――前に言ったでしょう? わたくし、あなたの事は気に入っているって」
顔色を悪くするグレイシアに、神聖女は首を横に振って見せる。また紅茶を楽しむと、柔らかな手付きでカップをソーサーに戻した。
「ルルシラ・クラッセンはその殆どを浄化されていたとはいえ、またいつ復活するか分からなかったもの。それに、クラッセン領の浄化も急がなければならなかったし」
「……ありがとうございます」
「これから先、【聖女】はバイエベレンゼだけに留まらず、各地へ出向する事になるかもしれない。上の方達がどんな采配をするか、それはわたくしには分からないけれど……もしそうなった場合、イルミナージュの聖女にはあなたを推薦しようと思うの」
「……わたしを?」
予想外の話の展開に、グレイシアは目を瞬いた。
聖女になれなかった自分が、イルミナージュの聖女になるかもしれない。愛する人と暮らす、この国を守る聖女に。
「まだ確定事項ではないけれど、きっと遠くない話に。少し心に留めておいて」
神聖女は何でもない事のように言葉を紡ぐが、グレイシアは動揺を隠せない。困ったようにリオレイルに目を向けると、彼は琥珀の瞳でにっこりと笑うばかりだった。
「ではわたくしはそろそろ国に戻るとしましょうか。アメルハウザー公爵夫人、いえ、グレイシア様。お会いできて嬉しかったわ」
「わたしもです、神聖女様。昔も今も、あなたはわたしの憧れですもの」
「嬉しい事を言ってくれるのね。次に家出をするなら神殿にいらっしゃいな。そこの公爵だって簡単には入れないわよ」
「家出なんてさせません」
リオレイルが片腕をグレイシアの前に出す。守るようなその仕草に、グレイシアは嬉しそうに表情を綻ばせた。
「家出の前に夫婦でよく話し合おうと思います。ですが神聖女様、何かあればご相談させて下さい」
「もちろんよ」
立ち上がった神聖女は、同じく立ち上がったリオレイルと握手を交わす。グレイシアも立ち上がって、膝を折った。
「またね、皆様。ごきげんよう」
朗らかに笑った神聖女はカイルのエスコートで執務室を後にする。
それを見送ったグレイシアは、小さく吐息を漏らした。神聖女からの情報が多すぎて、少しばかり混乱しているようだ。
不安と高揚と期待、そんな感情が胸の奥で入り交じっている。
「君の力は、手の届くものの為にあると思っていたが……こうなれば、俺が君の翼になるしかないようだな。どこにでも連れていってやる。行く先で、手を届かせればいい」
「……騎士団長様を足扱い?」
「君の為なら喜んで」
銀髪を指に絡ませたリオレイルは、ゆっくりとそれを解き、また絡ませる。
琥珀色の瞳が恋慕に染まって、色を濃くしていく様にグレイシアの鼓動は早まるばかり。それを簡単に見抜いてしまうリオレイルは、低く笑った。
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