2ー25.黄昏星
ノックの音に、グレイシアはゆっくりとソファーから身を起こす。
力強く扉を叩く音に、どこか急いているような印象を受けたグレイシアは何かあったのかと首を傾げた。
あの強いノックは父か兄だろう。
家族が、部屋から出ない自分を心配していたのを知っている。部屋から出るように言いに来たのかもしれない。
「どうぞ」
心配を掛けるのも宜しくない。そろそろ部屋から出なければと、グレイシアはノックの主に入室を促した。
扉が開く。長身に、紺色にも似た黒い髪。不安に揺れる紅玉と琥珀の美しい瞳――リオレイルだ。
グレイシアは思わずソファーから立ち上がった。
リオレイルが急ぎ足で駆け寄ってくる。彼にしては珍しい、余裕のない眉を下げた表情で。
グレイシアも同じように駆け寄って、伸ばされた腕の中に飛び込んだ。
抱き締められるのと同じくらい強い力で、自分も背中に両腕を回した。互いの間に隙間などなく、心音さえ重なる程に腕檻の力は強い。
グレイシアはきつく抱き締められる中で、喜びに吐息を震わせた。
生きていてくれた。
無事でいてくれた。
迎えに来てくれた。
様々な感情がグレイシアの胸の内で
胸に埋めていた顔を上げたグレイシアは、美しい双眸と視線が重なった。不安と熱が絡み合った、いつもの澄んだ色ではない
何かを言い掛けたグレイシアの唇は、リオレイルのそれによって塞がれた。
グレイシアには応えるだけで精一杯だった。
背に回した指先で騎士服の布地をきつく握った。
リオレイルの手がグレイシアの後頭部を固定して、逃がさないとばかりに口付けを深くする。漏らした吐息さえ飲み込まれ、水音ばかりが耳に響く。
甘い疼きが体中を駆け巡り、その場に崩れてしまいたいのに、腰に回された力強い腕がそれを許してくれない。
視線が重なる。ゆっくりと唇が解放されて、互いを繋ぐ糸がゆっくりと切れた。
「グレイス、逢いたかった」
先に口を開いたのはリオレイルだった。熱を孕んだ低音に、またグレイシアの胸の奥がずくんと疼く。
乱れた呼吸を整えようと、深く吸い込んだ息をグレイシアは飲み込んだ。
「本当にすまなかった。君を傷付けるような――」
「違うわ。謝らないといけないのはわたしの方よ」
「どうして君が?」
「あなたの意思がそこにあったわけでもないのに、怒って、全てを投げ出して帰ってきてしまったんだもの」
「怒るのも当然だろう。自分が何をしたか、カイルに全て聞いている。……本当にすまなかった」
リオレイルの腕檻の中、グレイシアは小さく首を横に振った。その拍子に、浮かんでいた涙が白い頬を伝って落ちる。
「いいの。こうして無事でいてくれて、本当に嬉しいから」
グレイシアの目元に顔を寄せ、リオレイルは溢れる涙を唇で拭っていく。その優しい仕草に涙は留まるところを知らなかった。
落ち着きを取り戻した二人の前には、グレイシアが手ずから淹れた紅茶が用意されている。香り立つ紅茶の載るテーブルを前に、二人はソファーで身を寄せ合って座っていた。その手はしっかりと繋がれて、リオレイルの膝の上に置かれている。
「カイルが言っていたぞ。大剣を手にステンドグラスを破壊しながら舞い降りる君は、まるで女神が降臨したようだったと」
「まぁ」
「それを聞いたセレナが、羨ましいとずっと騒いでいた」
その光景が容易に目に浮かんで、グレイシアは可笑しそうに肩を揺らした。グレイシアの笑みに、リオレイルも安堵したような笑みを零す。
「……辛い思いをさせて、すまなかった」
「もう謝らないで。仕方のない事だもの」
「だが……」
「辛くなかったとは言わないけれど、それも当然の事でしょう。でもそれは、リオンだけどリオンがしたわけじゃない。あなたの意思がそこにはなかったんだもの」
「グレイス……」
繋いだ手の親指で、リオレイルはグレイシアの手を優しく撫でた。
逆手でカップを取ると、口元に寄せたリオレイルは「美味い」と小さく言葉を落とす。そんな一言にもグレイシアの表情は綻ぶばかりだ。
「分かっていたんだけど、あなたが結婚式を挙げている姿を見たら……冷静でいられなくなってしまって。元々冷静じゃなかったのかもしれないけど、余計に頭に血が昇ったというか……」
「それは怒ってくれて良かったよ。興味がないと言い捨てられなくて安心した」
「そんな事言うわけないでしょう。……あなたに嫌われてしまったかと不安だったくらいよ」
グレイシアは笑いながら、リオレイルの肩に頭を寄せた。自分の形をなぞったようにぴったりと嵌まる感覚がひどく心地よくて、甘えるように擦り寄せる。
可愛らしい仕草にリオレイルは天を仰いだ。持っていたカップをソーサーに戻し、繋いでいた手も解く。離れた温もりに不思議そうにグレイシアが目を瞬いた。
「どうして俺が君を嫌うと?」
「だって無責任に全てをあなたに投げ出して、実家に帰ってしまったから。り……離縁だなんて、そんな事まで口にして……」
「俺の”穢れ”を祓っていってくれただろう。それに、聖なる力も貸してくれた。あとは俺の仕事だ、君が気にする事ではないよ」
「それでも……」
「確かに離縁と言われたのは肝が冷えた。だが絶対に離すつもりはなかったからな、こうして二日で参上した訳だ」
リオレイルはグレイシアの頬に片手を添えた。まろい頬を指先でなぞると、擽ったそうに紫紺の瞳が細められる。逆手をグレイシアの背に回し、リオレイルの唇が掠めるようにグレイシアの口端に触れた。
「三日経ったら、わたしがアメルハウザーに帰ろうと思っていたのよ」
「それは有り難いが、迎えに来られて良かったよ」
「ふふ、迎えに来てくれてありがとう」
グレイシアはリオレイルの首に両腕を絡めた。うなじで指先を絡めるようにして引き寄せると、互いの額をこつんと合わせた。
「大好きよ、リオン」
頬を薄く朱に染めたグレイシアの囁きに、リオレイルは低く呻いた。腰に両腕を回して体を密着させると、また噛みつくように唇を奪うしか出来なかった。
夜の帳に黄昏星が煌めく夜。風も未だに熱気を孕んでいる。
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