2ー14.魅了
「ほらほら、奥方様がいらっしゃってんだ、散った散った」
珍しい騎士団長の姿と、美しい妻の仲睦まじい様子に、騎士や高官らさえ思わず見惚れてしまっていた。
苦笑気味のアウグストがどこか間延びした声で、騎士や高官を下がらせようとする。カイルがリオレイル達を守るように背で隠しながら、空いた場所から執務室へと導こうとしていた。
「リオレイル様」
「クラッセン子爵令嬢、私の名を二度と呼ばないように」
濃桃の瞳を潤ませながら、ルルシラがリオレイルの名前を呼ぶ。何度言っても改善されない呼び方に、苛立ちを隠せないリオレイルが冷たい言葉を紡ぎ出す。それに不平を述べようとした高官の一人は、リオレイルの琥珀の瞳の凍てつきに気付いて声を失った。
不意に広がる”穢れ”の気配。
それを感じ取ったグレイシアは周囲に視線を巡らせた。リオレイルやセレナも違和感に気付いて警戒を高めている。
グレイシアは自分を抱くリオレイルに身を寄せた。騎士団でこれだけの”穢れ”を感じるなどあってはならない事で、ひどく恐ろしかったのだ。一体どこからそれが発せられているのか。王宮にも近い、この詰所にはバイエベレンゼの水晶で守られているのではなかったか。
周囲を探っていたグレイシアは、その”穢れ”の気配が
「グレイス?」
どうかしたかと、リオレイルがグレイシアの顔を覗き込む。眼帯で隠されていない琥珀の瞳が心配の色に翳っていた。
グレイシアが目にしたものをどう伝えようかと思案している間に、二人に近付いていたのはルルシラだった。にっこりと美しい笑みが口元に乗っているのに、瞳は
気配にリオレイルが振り返るのと、カイルが制しようとするのと、ほぼ同時だった。
ルルシラの手がリオレイルの背に触れる。振り払おうとリオレイルが上げた手は、何に触れる事もなく、ただだらりと力無く落ちてしまう。
グレイシアを抱いていた腕からも力が抜けて、その全身が”穢れ”に包まれていた。
「リオン?」
グレイシアの呼び掛けにも、リオレイルは反応しない。体を包んでいた”穢れ”は、リオレイルの背中に収束して消えていった。
背中。
そこには忌傷がある。昔、”忌人”に襲われたグレイシアを庇った時に出来た傷。すでにそこに”穢れ”はないが、未だに傷痕が残っているのだ。
「リオレイル様、わたくしのお屋敷に来てくださいな。一緒にお茶などいかがでしょう」
鈴が鳴るような可愛らしい声が響く。
唖然とする面々の前で、リオレイルはひとつ頷いた。
「リオン?」
「おい、リオレイル」
グレイシアやアウグストの声も届いていないようで、リオレイルが反応をする事は一切無かった。その美貌には何の表情も浮かんでいない。
見た事のない夫の姿に、グレイシアは焦燥から鼓動が早鐘を打つのを自覚していた。不安が心から広がって、指先までを震わせていく。
「さぁ、行きましょう」
ルルシラに手を引かれて、リオレイルが歩き出す。騎士や高官もリオレイルの余りの変わりように、動揺を隠せないでいるようだった。誰も口を挟むことが許されない、物々しい雰囲気の中をルルシラが動くのに合わせて人波に道が開く。
「待って!」
グレイシアの伸ばした手は、リオレイルには届かなかった。その代わりに、振り向いたルルシラの手首をぎゅっと掴んだ。
その瞬間、じゅっと不気味な音を立ててルルシラの肌が焼けた。慌ててグレイシアが手を離すも、そこにはグレイシアの手の痕がくっきりと、爛れた形で残っていた。
「きゃあぁぁぁ!」
ルルシラの悲鳴にグレイシアは身を竦める。傷つけてしまった恐ろしさに、呼吸が浅くなっていく。
「ルルシラ嬢!」
「一体何をしているんだ!」
騎士や高官が一斉に周囲を取り囲む。グレイシアへの怒声や罵声がその場を支配した。
「グレイシア様、大丈夫ですよ」
顔を蒼白にするグレイシアの背をセレナが支えた。その表情もひどく固い。
「詰所内で魔法を使うとは!」
「ルルシラ嬢に嫉妬したか!」
「ち、違います。わたくしは魔法を使えません。傷つける意図もなく、どうしてそのようになったのか……!」
「言い訳などみっともないぞ!」
グレイシアの言葉は怒声に掻き消されてしまう。震えるルルシラを守るように、騎士が立ち塞がった。その目には明確な敵意が宿っている。
「待てって。アメルハウザー公爵夫人は本当に魔法が使えない。その傷が何で出来たのか、ちゃんとはっきりさせようぜ。治療もしなくちゃなんねぇだろ」
「サザーランド副団長はその夫人にたぶらかされているのだろう。ルルシラ嬢を託すわけにはいかぬ!」
「それはグレイシア様と副団長に失礼だと思わないのか」
「何が失礼なものか! そこの夫人は謝罪もしないのだぞ!」
怒りを隠せないセレナが低い声で言葉を落とす。それさえも高官達の怒りに油を注ぐようだった。
その背後ではルルシラが「怖い……」と涙ぐんでいる。
リオレイルはそんな状況にも関わらず、何も反応しなかった。
妻や部下が貶められていても、ルルシラが怪我をしたという事にも。彼の耳には何も届いておらず、その瞳には何も映っていないかのように、ただそこに立っているだけだった。
「……わたくし、分かりましたの。アメルハウザー公爵夫人は魅了を使っておりますのね」
震える声で、爛れた手首を押さえながらルルシラが一歩前に進み出る。
唐突なその発言に、目を丸くしたのはグレイシアだけではなかった。アウグスト親子もセレナも、カイルも唖然としてルルシラを見ている。
「初めてリオレイル様をお見かけした時から思っていましたの。リオレイル様は魅了の呪いに掛かっていると。それを何とかして解いてさしあげようと、こうして日参していたのですが……ご夫人を見て、分かりました。魅了をかけていたのはあなただったんですね……」
ルルシラは同情するような視線をグレイシアに向けている。予想外の言葉にグレイシアは動揺を隠せなかった。
(この人は何を言っているのかしら。リオンに誰が魅了を掛けられると言うの? それにリオンの状態を見て、この人が何かをしたと言うのは明白なのに……)
「さすがはルルシラ嬢! 聖女と言われるに相応しいお心だ」
「アメルハウザー騎士団長をお救いなさったのですね!」
「魅了の呪いは大罪だぞ。それを王弟であるアメルハウザー公爵に掛けるなど、とんでもない女だな」
「捕らえろ!」
唖然としていたグレイシア達は、その言葉で我に返った。
グレイシアを守るようにアウグスト達が立ちはだかる。
「お前ら何を言ってんのか、分かってんのか!」
「グレイシア様を捕らえるなんて、させません!」
今にも剣を抜きそうなのはアウグストとセレナだった。カイルとキャロラインがグレイシアの脇を固めている。
「グレイシア様、お気を確かに」
「ええ、大丈夫よ。リオレイルは何かに操られているように見えるんだけれど……」
「私もそう思います。クラッセン子爵令嬢が何かをしたのでしょうが、証拠が……」
「あの令嬢は”穢れ”を操るわ」
「な、っ……!」
声を潜めたやりとりで、カイルの目が驚きに見開かれる。
グレイシアには確信があった。
この場に広がった”穢れ”の気配。”穢れ”を溢れさせるルルシラ・クラッセン。
忌傷に集まっていった”穢れ”。操られたようなリオレイル。
思考は途中で中断された。
ルルシラ・クラッセンが、リオレイルの腕に手を掛けて微笑みかけたからだ。
「ご夫人を捕らえても構いませんわね、リオレイル様」
リオレイルは、空虚な瞳でひとつ頷いた。
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