33.答合

 目元に触れる優しい温もりに促されるよう、グレイシアの意識は浮上していく。意識はあるのに体が重くて動かせない。指先に少しずつ力を込めると漸く目を開く事が出来た。

 滲む視界をはっきりさせようと瞬きを繰り返すと涙が零れた。触れてくれていた温もりがそれを拭っていく。


「……大丈夫か」


 彼は心配そうに表情を曇らせて、グレイシアを見つめていた。グレイシアの思い出にある幼い少年と、いま目の前にいる男の姿が重なった。


「……リオン……」


 紡いだ声は自分でも驚くくらいに、か細かった。それでもリオレイルにはしっかりと届いたようで、その琥珀色の瞳をこれでもかと見開いてグレイシアを見つめていた。


「……思い出したのか? 俺の事も、あの日のことも……」


 どこか泣き出しそうに表情を歪める彼の姿が、グレイシアの中でまた少年の姿と重なった。自分は彼にずっと辛い思いをさせていたのだと、そうグレイシアが自覚すると胸の奥が痛むほどに軋んだ。


 リオレイルの問いに小さく頷き、ゆっくりと上体を起こすと彼がそれを手伝ってくれる。背中にクッションを入れて体を休めやすくしてくれて、そこで漸く周囲を見回す余裕が出来たグレイシアは、リオレイルの屋敷に借りた自室に居るのだと理解した。



「ごめんなさい、ずっと忘れていて。いくら封じられていたとはいえ、こんなに時が経ったのだから思い出しても良かったのに」

「それだけ辛い記憶だったんだ。君が謝ることではない」


 リオレイルは椅子から立ち上がると、グレイシアの休むベッドに腰を掛けた。そっと両腕の中に彼女を包むと安心したように吐息を漏らす。どこまでも優しいその仕草に、グレイシアも両手をリオレイルの背に回した。


「ねぇ、あの時のわたしには分からなかったけれど、今なら分かるわ。あなたは……イルミナージュ王家の血を引いているのね」


 記憶の中の彼は、両目とも赤かった。赤い瞳は王家の血統。


「そうだ。俺の本当の名はリオレイル・ディルク・イルミナージュ。陛下の弟にあたる。十二年前、あの事件が起きた後に前アメルハウザー公爵の養子となって、王位継承権も返上しているがな」

「だから、あなたを見る陛下の眼差しは優しいのね」

揶揄からかっているだけだろう。……俺の臣籍降下と王位継承権の返上に陛下は納得されていない。だからいまも王弟の『ディルク・イルミナージュ』は体が弱く、離宮に篭っている事になっている。いつでも俺を表舞台に戻せるようにとの、陛下のお考えだ」

「あなたにそのつもりは無さそうね」

「火種など最初から無いほうがいいんだ。俺は今の在り方に満足している」


 溜息交じりの言葉は、兄である国王陛下を慮っているのがよく伝わる。グレイシアを抱く腕に力が篭ったのを感じて、グレイシアは宥めるように彼の背を優しく撫でた。それだけで強張っていた力が抜けてくれる。


「グレイス、エーデルハウトの娘が言っていた婚約者の件だが……」

「そうね、それをわたしもお聞きしたいわ」

「君が俺の婚約者だ。陛下には以前から伝えてあって書類も提出してあるんだが、それがどこからか漏れたんだろう。極秘扱いのはずだったんだがな」

「待って。わたしが……婚約者?」


 はっきりと紡がれる言葉に、グレイシアは混乱していた。

 彼には婚約者がいて、それが自分? やっぱり意味が分からない。


「約束したろう? 君が俺のお嫁さんだと」

「そん、な……それは、小さい時の……」


 顔に熱が集っていくのを自覚して、その顔を見られないよう俯くもそれは逆効果のようだった。リオレイルは抱きしめる腕から力を抜くと、片手はグレイシアの背に回したまま、逆手を頬に添えて顔を覗き込んでくる。琥珀色の瞳に、困ったような自分が映った。


「俺はずっと君を想っていたよ。だから君に相応しくなる為に、守る力をつける為に努力をしたつもりだ。アメルハウザー公爵となって、第一騎士団団長という地位にも就いた。これなら君に相応しくなれたかと、君の家を訪ねたのは四年前だ」

「そんな話知らないわ」

「君が留守の時を狙って行ったからな。……君の家が君を大事にしているのは幼い頃から知ってはいたが、一応俺は君や義兄上あにうえ達の幼馴染にあたるわけだろう。あの日以降も叔父上と共にアーベライン侯爵と連絡を取り合っていたし、会ってもいた。それなのに君の家族は全員で俺に斬りかかってきたぞ」

「待って。もう話についていけないんだけれど」


 大袈裟に肩を竦め、呆れたような様子を見せるもリオレイルの声音はどことなく楽しそうだ。


「言葉通りだ。結婚を申し出て、君に会いたいと願ったんだが……庭に連れ出されて全員に囲まれた。義父上、義母上、義兄上たちにだ。君の長兄は文官になっても鍛練を欠かさないんだな。そこらの騎士より強いぞ」

「うちは全員、剣を握るのはあなたも知っているでしょう。……あなたは大丈夫だったの?」

「大丈夫だからこそ、君の婚約者の座を手に入れたんだ。もちろん魔法は使っていない」


 リオレイルは得意げに言うと、愛しくて堪らないというようにグレイシアの髪に頬を擦り寄せてくる。無表情は一体どこに行ったのか。

 小さく息をつくグレイシアは脳裏によぎる記憶に、合点がいったように頷いた。


「そういえば、わたしに縁談話が来る度に『他の男に嫁がせるわけにはいかない』って兄様たちが言っていた事があるの。一体なんのことかと思っていたけれど、あなたが居たからなのね」

「それは義兄上達に感謝しなければならないな。……君が成人になって初めての社交シーズンに、アーベライン侯爵に招かれる予定だったんだ。そこで君と顔を合わせて、全力で口説くつもりでいた。君は約束の記憶を封じられているから、改めて俺を好きになって貰わなければならなかった。それが婚約を結ぶにあたって、君の母上から出された条件だ」


 成人十八歳になってから初めての社交シーズンといえば、今回だ。王都での事件が無くても彼とこうして巡りあえていたのだと思うと、グレイシアは表情を綻ばせた。


「ずっとわたしを想ってくれていたのね」

「ああ、君だけをずっと。だから改めて言うよ。……俺と結婚して欲しい」

「幼い時の約束を思い出さなくても、わたしはあなたと結婚していたわ。記憶が無くてもわたしはやっぱり、あなたに恋をしてしまったんだもの」


 頬に添えられた手に自分のそれを重ねると、グレイシアはゆっくりと自分の想いを口にした。ここに来てからずっと彼に惹かれていた。無表情だけれど、グレイシアの前ではそんな事もなかった。優しくて穏やかで、グレイシアを守ってくれる人。惹かれないわけがなかったのだ。

 もう迷うことはない。


 グレイシアの言葉に嬉しそうにリオレイルは笑った。誰も見たことの無い、幸せそうな少年のような笑みだった。

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