30.欲望

 石造りの床に落ちる足音が、同じ石で出来た壁に反響する。無骨な造りで装飾など一欠片も施されてはいない。

 それもそうだ、ここは地下牢。華美なものなど全て削ぎ落とされている。

  エーヴァントは口に浮かぶ嗜虐の笑みを隠すこともなく、従者も連れずただ一人で地下の道を進む。



 イルミナージュのフローライン・エーデルハウト公爵令嬢から、密書が届いてすぐにエーヴァントは国を越えた。エーデルハウト公爵家付きの魔導師の力を使えば、そんな事は容易い事のようだった。


 フローラインは現在のグレイシアの状況をこと細やかに教えてくれた。彼女はアメルハウザー公爵がグレイシアに懸想している事に憤慨していたが、エーヴァントからしたらそれは当然の事だと思う。

 グレイシアほどの美貌の持ち主に惹かれないわけがないだろう。ただ、それは面白い事ではなかった。


 エーヴァントはグレイシアを手に入れたい。

 フローラインはリオレイル・アメルハウザーを手に入れたい。

 欲深い公爵令嬢フローラインはエーヴァントの為に、下位貴族の別邸を用意してくれていた。そこにグレイシアが届くように手配をして、いまに至る。彼女からしたら、グレイシアがリオレイルの側からいなくなれば何でもいいのだろう。その身が傷つけられても、死に至っても。



 本当はエーヴァントも分かっていた。

 手に入れたものを嬲るには自領に戻ってからが良い事くらい。


 彼がすべき最善はグレイシアを連れて全速力でバイエベレンゼに戻ること。グレイシアを連れての転移は流石に気付かれると魔導師が言っていたので、エーヴァントは密かに馬車を用意していた。

 王都にあるエーヴァントの屋敷に連れて行くことはできないが、領地の別邸に隠す事など容易だし、そこの地下には沢山の『道具』がある。今までも使ってきたものだが、グレイシアの為なら新しいものを用意してもいいな、なんてエーヴァントは低く笑った。


 だが彼は我慢することが出来なかった。



 辿り着いた地下の最奥。牢の入り口から中に足を踏み入れると、エーヴァントの胸は高鳴った。

 両手を拘束され高い位置から吊られたグレイシア・アーベライン。エーヴァントの持つ魔導ランプの仄かな明かりに照らされる姿は、目を閉じていても薄汚れていても美しい。

 銀髪は乱れ、纏う衣服は至る所が引き裂かれ、その顔や露わになる手足には無数の鞭傷が赤黒く残っている。彼女はそれでも神々しい程の美しさだった。


 グレイシアは彼が最も欲しがり、手に入れられなかった女である。

 恋ではない。愛しているわけでもない。


 だが欲しくてたまらなかった。その澄ました顔を苦痛で歪めさせたくて、その高潔な心を踏み躙ってやりたくて、彼女を己の支配下に置きたくて仕方なかったのだ。


 魔導ランプを壁に引っ掛け、懐から愛用の鞭を取り出す。

 つい先程までもこの鞭を思う存分ふるったのだが、彼女は小さく呻くばかりで助けを乞う事はしなかった。その紫紺の瞳が冷たくエーヴァントを睨むばかりだ。


 嗜虐心は煽られるばかりで、夢中になって鞭を肢体に叩き付けた。彼女が気を失った時には、自分も息切れをしていた程だった。畏怖を感じてくれたなら、その身の全てを奪ってやろうと思っていたのに、彼女の心はまだ折れない。


「起きろ」


 鞭で腫れた頬を平手で張る。

 覚醒した彼女は一瞬顔を顰めるも、エーヴァントを睨むばかりで何かを口にする事は無かった。


「気が強いのも自分の為にならないぞ。僕に助けを求めればいい。鎖を解いてやるから、僕の足元に平伏せよ。そうしたら優しくしてやってもいいんだ」

「………」

「くくっ、なんだ……甚振られたいのか。そういう趣味なら付き合ってやらないとな」


 何も応えないグレイシアはただエーヴァントを冷たく見据えるばかりだ。エーヴァントは可笑しそうに肩を揺らすと鞭をしならせる。

 空気を切り裂く風の音はエーヴァントをこれ以上ない程に興奮させていた。


 その鞭を再度グレイシアの体にふるおうとした時、上で争うような音がした。微かに聞こえる爆発音と、屋敷自体が揺れる感覚。


「……君を見つけたと? いや、まさか……ここが知られるわけがない」


 この屋敷はエーデルハウト公爵家お抱えの魔導師が、幻術で守っていると聞いた。エーヴァントもその幻術を一度解いてもらわないとこの屋敷に入れなかったのだから、見つかるわけがない。フローラインが裏切るわけもなかった。


 それに屋敷の場所がばれたとして、誰がこの地下牢に気付くというのか。

 応接間の暖炉が飾りで、地下に繋がっていると聞いた時はエーヴァントも従者も驚いたものだ。


 ちらりとグレイシアの様子を伺うと、彼女はその視線を石造りの天井へと向けた。その表情は希望に輝いているわけではないが、絶望に塗れているわけでもない。


 争う声は次第に小さくなり、消えた。耳を済ませても何も聞こえない。

 連れて来ている護衛は昔からエーヴァントの側にいる者達で、その強さは疑うこともない。王宮騎士にもひけをとらない彼らがいるのだ、もし何かがあっても容易に制圧出来る筈。

 エーヴァントはいつしか潜めていた息を深く吐くと、改めてグレイシアに向き直った。


「さて、続きだ」


 厭らしく笑うと鞭を振りかぶる。黒いそれをグレイシアの体に叩き付けると、しなる鞭先は彼女の肩先から胸元に走り、布地をまた引き裂いた。

 グレイシアは唇を噛み締め、その痛みに耐えるばかり。

 先程までと全く同じ。彼女は一切の悲鳴をあげない。

 エーヴァントを悦ばせるなど御免だといわんばかりに。


 悦びを隠せないエーヴァントがまた鞭を振り上げた時、彼は地下への階段を降りる足音に気が付いた。軍靴のような硬い足音。それは一人だけのものではなかった。

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