29.拘束

 グレイシアは腕の痛みで目が覚めた。足元が酷く覚束ない。頭がぐらぐらと浮遊しているような気持ち悪さがある。幼い頃に馬車に酔った時のようだった。


「う、っ……」


 霞む視界の中で目に入ったのは、イルミナージュにいる筈のない男の姿だった。


「……エーヴァント、さま?」


 掠れた声に違和感がある。渇きを埋めるように生唾を飲むと、目の前に立つ男は人好きのするいつもの笑顔を浮かべた。


「やぁ、グレイシア。元気だったかい?」

「あなたがどうして……」


 違和感に気付いて視線を上にやると、自分の両腕が拘束されていた。石造りの天井から吊るされている。眉を顰めて自分の姿を確認するも服は乱れていないが、足先はぎりぎり床につくかつかないか。


「聞いたんだよ。アメルハウザー公爵が君に惹かれているってね。君も満更でもないんだろ?」

「……」

「君に先に目をつけたのは僕なのに、あんな公爵に持っていかれるのは許せない。確かに彼の見目はいいけれどね、僕だっていいだろう?」


 楽しげに話すエーヴァントは上下共に真黒の服を着ている。長い金髪は後ろで束ねられていて、お忍び姿のようだった。


(ここは一体どこなのかしら。イルミナージュを出ていないといいんだけれど…。そうだ、セレナは……メイサは……?)


「エーヴァント様、わたくしの侍女をどうしたのですか」

「侍女? ああ、君を捕まえた女のこと? あれは君の侍女じゃないよ。魔導師が魔法の力で成りすましてたんだって」


 では本物のメイサは無事だということだろう。お屋敷にいて危害を与えられるわけがないのだ。それに気付けずに駆け寄ってしまって、グレイシアは自責の念でいっぱいだった。


「助けは期待しないほうがいい。この屋敷はアメルハウザー公爵には見つからないらしいからね」


(そんなことない。きっとリオレイル様は助けに来てくれる)


 だがそれを目の前の男に告げるつもりはなかった。彼は満足そうにグレイシアの姿を上から下まで眺めている。


「エーヴァント様、わたくしをお放しくださいませ。わたくしは国命でイルミナージュ王国へ留学している身です。それを果たさぬままに姿を消すなど、両国の関係に傷がついてしまいます」

「そんなのどうでもいい。……あんな条約、すぐに解消される。バイエベレンゼは生まれ変わるんだ」

「……何をおっしゃっているのですか」


 エーヴァントは肩を竦めると、グレイシアの顔に手を伸ばした。その指は細く、戦う手ではなかった。頬を撫でられると背筋が震える程の嫌悪感に、淑女の仮面も捨ててグレイシアは顔を顰める。

 エーヴァントはそんなグレイシアの表情に気を悪くした素振りもなく、低く笑った。


「僕はバイエベレンゼの王となる」

「何を……次期女王はアデリナ様ですわ。エーヴァント様はアデリナ様の王配と……」

「僕が王だ」

「……まさか革命を起こすおつもりですか」


 グレイシアは不快感を隠しもせずにエーヴァントを睨みつけた。頭の中では様々な情報が思考となって巡り、繋がっていく。

 在るはずの無い結界内の魔石。聖女の裏切り。出動しない王宮騎士。蹂躙される市民。


「……あなたは、あなた方は、あの事件で国家を転覆させるつもりだったのですね」

「頭のいい女は嫌いじゃないよ」

「あなたはアデリナ様を愛していたのではないのですか……!」


 愕然とするグレイシアの顎を掴むとエーヴァントは瞳の中に狂気を揺らす。手に力が篭められるとその痛みにグレイシアが眉を寄せた。その表情を見てエーヴァントは酷く愉しげに笑うと乱暴に顎を解放する。グレイシアは全ての表情をその美しいかんばせから消し去ると、ただエーヴァントを見つめるばかり。


「……いいんだよ、泣き叫んで。泣いて喚いて、醜く、無様に、僕に助けを乞えばいい。僕はね、ずっと君を壊したかったんだよ」


 そう言うとエーヴァントはジャケットの懐から黒い鞭を取り出した。そのままジャケットも脱ぎ捨てると床に放り投げる。


 パシン、パシン……とエーヴァントが鞭をふるう度に聞こえる音に、グレイシアは息を呑んだ。しかし表情にそれは出さない。


(悦ばせてなるものか)


 小さな決意を嘲るように、エーヴァントの振るう鞭はグレイシアの胸元に打ちつけられた。

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