22.御伽噺

 ゴツン――!


 ワインがかけられたにしては重い音が響いた。

 グレイシアは唖然として、足元の物体を見つめている。それはグレイシアだけでなく、周りの令嬢達も。


 投げつけられたワイングラスが氷の塊と成り果てて、床に転がっていたからだ。ワインは一滴も漏れ出ていない。ただその塊が、この華やかな大広間の中には非常に不似合いだった。


「大丈夫か、グレイシア」


 身を案じる低音にグレイシアがそちらを向くと、フローラインを始めとする令嬢方が礼をした。

 アウグストと共にこちらに歩み寄るリオレイルは、フローライン達には目もくれず真直ぐにグレイシアへと近付いてくる。相変わらずの無表情だけれど、その琥珀の瞳の奥には怒りの炎がちらついている。


「リオレイル様、お騒がせして申し訳ありません」

「いや、間に合ってよかった。セシリア嬢、アンヌローザ嬢、キャロライン嬢、グレイシアと共に居てくれて感謝する」

「いいえ、わたくし達が望んだこと。グレイシア様をお守りするつもりが、わたくしが守られてしまいましたわね」


 リオレイルを前にしても、セシリアやアンヌローザの様子は全く変わらない。キャロラインは顔を赤くしているが、彼女はリオレイルを想っているそうだから仕方のないことだろう。

 フローラインや取り巻き令嬢達は、うっとりとリオレイルを見つめていた。公爵であり第一騎士団の団長でもあり、そしてこの美貌。令嬢方が憧れるのも無理はないのだろう。


「エーベルハウト公爵令嬢」

「は、はい」


 フローラインへ向けられる声は氷のように冷たい。

 リオレイルがグレイシアを背に庇うよう前に立つと、セシリア達がそっと後ろに下がった。アウグストは娘が可愛くて仕方ないようで、キャロラインの頭を撫でてはその手を冷たく払われている。


『なんだか、わたくし達まで公爵様に守られているみたいじゃなぁい?』

『アンヌったら。あなたは守って貰わなくても平気でしょうに』


 後ろでアンヌローザとセシリアの小声が聞こえる。この二人の神経はどれだけ太いのだろうか。この騒動もどこか楽しんでいるように感じるほどだ。


「彼女はバイエベレンゼからの大事なお客様だ。誰も彼女を辱めるような事があってはならない」

「お言葉ですが、わたくしはバイエベレンゼ王国のアデリナ王女殿下より、グレイシア様の人となりを伺っておりますの。リオレイル様が騙されているのではないかと、わたくし心配で夜も眠れず……」


 心配そうに眉を寄せるフローラインの姿は、尚も色気に溢れている。思わず支えたくなるほどの翳りを持つ瞳は濡れ光り、シャンデリアの光を映していた。

 後ろに控える取り巻き令嬢達も同意するよう頷いたり、ひそひそと小声を漏らしている。これもフローラインを主役とした演劇の舞台のようだった。


「あなたに心配されるような事はない。どんな話が伝わっているのかは想像がつくが、それが真実でない事は私が一番良く分かっているからな」


 リオレイルの様子にフローラインの瞳から涙が消えた。泣き落としが通用しないと理解したからか。それとも、無表情で無関心であるはずの男が、グレイシアの為に怒りを露にしているからか。


「陛下の御前だ、これ以上の騒動は控えて貰おうか。失礼する」


 そう短く告げるとリオレイルは踵を返し、背後のグレイシアに笑いかける。その穏やかな表情にまた大広間内にざわめきが走る。


「リオレイル様、あなた……わざとでしょう?」

「なんのことだか」


 その笑顔はわざとだと、リオレイルを軽く睨んで見せるも可笑しそうに肩を揺らすばかりだ。リオレイルはグレイシアの背に手を添えるとその場から離れて広間の中央へと向かった。

 それを見送る形になったフローラインは盛大に眉を顰める。畳んだ扇を両手で握り締めると、ミシリと不穏な音が響いた。



 セシリア達と別れたグレイシアとリオレイルは、広間の中央でシャンデリアの光を浴びながらダンスを踊っていた。

 遠くから『アメルハウザー公爵がダンスをなさるなんて……!』など声が聞こえてくるが、当の本人は素知らぬ顔だ。


「リオレイル様は、今までダンスをされなかったの?」

「踊りたい相手もいなかったものでね」

「そういう言い方は誤解されますわよ。わたくしが嫉妬の対象になってしまいますわ」

「嫉妬されているのは私の方だろう。君を慕う殿方からの視線が突き刺さるようだ」

「涼しい顔でおっしゃられても、冗談にしか聞こえませんわね」


 リオレイルのリードに身を預けてグレイシアは踊る。

 バイエベレンゼの社交に出る前にイルミナージュに来る事になったので、こうした夜会は実に一年ぶりだ。ダンスの練習は領地にいる時、たまにしていたけれど、ここまでちゃんと踊れるとは思っていなかった。

 彼のリードは非常に上手で踊りやすい。足を踏まれる心配も、踏む心配だってなかった。微笑を口元に乗せながら、会話だって楽しめる程に。


「もう少し楽しんでいたいが、そろそろ帰るとしよう。美しい君を見せびらかすのも程々にしなければ、嫉妬に食われてしまいそうだ」

「本当にお上手ですこと」


 くすくすとグレイシアが笑うと、つられるようにリオレイルが微笑んだ。無表情や鉄仮面など言われた男の姿はそこにはなく、周囲の人間を魅了するばかり。

 白銀の女神と氷の騎士。御伽噺の一場面がそこにはあった。

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