9.名前
穏やかな、月映える夜だった。
重ねられたカーテンの隙間から、目映い月がちらりと見え隠れする。グレイシアはそれを眺めながら、与えられた自室で寛いでいた。
公爵との夕食は思っていた以上に楽しいものだった。口数が多いわけではないが、その言葉は優しい。心地良い低音からは気遣いが伝わってくる。
食事もとても美味しいもので、アメルハウザー公爵家の使用人は一流の人材が揃っているのだと思えた。屋敷の雰囲気も柔らかく、使用人が皆、当主を慕っているのが分かる。
楽しい時間を過ごして、グレイシアの心にほんの少し残っていた不安は綺麗に流れていったようだった。
あとは迷惑をかけないように過ごせばいいのだと思う。短い間でも、グレイシアはこの屋敷が、働く人々が好きになっていたのだから。
湯浴みも済ませ、メイサは寝支度を整えてくれると就寝の挨拶をして下がっていった。枕元にはベルがあって、それを鳴らすとメイサがすぐに部屋に来ると言っていた。どんな仕組みになっているのか分からないが、これも魔法の一種らしい。
バイエベレンゼでは魔道具で魔法を使えていたけれど、この国ほど魔法が身近なものではなかった。使えるようになるとは当然思っていないが、色々学んで帰りたいと思う。
メイサが退室前に入れてくれたお茶を飲み終えると、テーブルにカップとソーサーを戻す。安眠効果のあるハーブを使っていると教えてくれた。
そろそろ休もうかと立ち上がると、静かな部屋にドアをノックする音が響いた。
「はい」
「こんな時間にすまない。少しいいだろうか」
扉に近付きながら応えると、ノックの主はアメルハウザー公爵だった。確かに女性の部屋に訪れる時間ではないし、グレイシアは既に湯浴みも済ませ化粧も落としている。しかし話さなければならない何かがあるという事だし、この屋敷の主である公爵の話を聞かないわけにもいかない。
長々と自分に言い訳をしたけれど、化粧も落とした無防備な姿を見せるのが多少気恥ずかしいだけでもあった。
「構いませんわ。どうぞお入り下さい」
扉を開けると、公爵の琥珀色の瞳に動揺が浮かんだ。しっかりとガウンを羽織っているとはいえ、夜着姿に気付いたのだろう。
「すまない、休むところだったのだろう」
「大丈夫ですわ、お茶を頂いていたのです。わたくしが淹れるものになりますが、お飲みになりますか?」
「いや……時間も時間だからな、長居はしない。あなたのお茶は次の機会の楽しみにしよう」
グレイシアは部屋に案内して、ソファを勧める。そこに公爵が腰を下ろしたのを見て、隣の一人掛けの椅子に座ろうとしたのだがそれは叶わなかった。彼に手首を掴まれてその場に縫い止められたのだ。軽く引かれるままに公爵の隣に座り込んでしまった。
「……公爵様?」
掴まれたままの手首が熱い。
「私の名はリオレイル・アメルハウザーだ。名前で呼んでくれないか」
「……リオレイル様」
乞われるままに名前を口にすると、それは不思議なほどにグレイシアに馴染んだ。その感覚に鼓動が跳ねることを自覚するも、リオレイルの顔を見て更に鼓動は早鐘をたててしまう。
リオレイルの口元が綻んでいた。琥珀色の瞳も眇められ彼が喜んでいる事が伝わってくる。無表情で瞳から感情を読み取るどころではない。嬉しそうに笑っている。
(……嘘でしょう。こんな表情をするなんて)
早まる鼓動は収まりを知らない。グレイシアは自分の顔に熱が集うことを感じた。頬が熱い。
「私はグレイシアと呼んでも構わないだろうか」
「ええ、もちろんですわ」
先程のような綻ぶ程の笑顔ではないが、今もリオレイルの口元には笑みが浮かんでいる。
(この人は意外と表情が豊かなんじゃないかしら)
「用意していたもので、何か不都合はないか」
「そんな事はありませんわ。充分過ぎる程に用意して下さって、有難く思っております」
これは本当の事だった。
居室から繋がる寝室には衣裳部屋も併設されていて、そこには華やかながらも品のいいドレスが並んでいた。それに合わせる小物や装飾品も。
どれもグレイシアの好みのもので、どうしてここまでぴったりと好みが分かったのか、グレイシアには不思議な程だった。
居室の飾り棚には可愛らしい小物や、香りのよいポプリが並んでいる。
その隣の本棚には様々な分野の本が並べられていた。恋物語から冒険譚、旅行記などイルミナージュで流行っているものだとメイサが教えてくれた。本を読むのも好きなグレイシアはそれを手にするのを楽しみにしている。
「それならば良かった。何か困った事があれば、いつでも言うといい」
「ありがとうございます。……リオレイル様にはお世話になってばかりで、何かお礼をしたいとは思っているのですが」
グレイシアの言葉が意外だとばかりに、リオレイルは形のいい眉を上げた。
「礼をされるような事は何もしていない」
「命も助けて頂いて、こうしてイルミナージュ王国まで連れてきて下さいましたわ」
「……気にする事ではない。君にはただ、ここでゆっくり過ごして貰えればいいんだ」
“君”
確かにリオレイルはそう言った。
いつもは“あなた”と言っている筈とグレイシアは思ったけれど、それを指摘する事はなかった。その響きが、それだけ心地よかったからだ。
礼を言おうと口を開くも、言葉を紡ぐよりも先に、手首に触れる温もりに力が篭った。それでグレイシアは漸く、触れられたままだという事に気付いたのだった。
「グレイシア」
「……何でございましょう」
自分の名前はこんなにも美しかったのか。
リオレイルが紡ぐ名前は、とても美しく響くようだった。だからそれだけでグレイシアの胸は高鳴ってしまう。その声が余りにも真剣だったから、余計に。
「明朝は早くから出仕しなければならなくてな、こんな時間にすまなかった」
「いえ……」
「……おやすみ、いい夢を」
どこかぼんやりとしてしまったグレイシアは、はっとしたように笑みを浮かべる。
リオレイルは手首を掴んでいた手を離すと、その手で拳を握りしめた。ふ、と笑っては就寝の挨拶をして、そのまま扉に真直ぐ向かうと振り返ることなく部屋を出て行った。
触れられた手首が未だに熱い。
(わたし、どうしてしまったのかしら。おやすみなさいも返せなかった)
今夜は眠れないかもしれない。グレイシアは小さく溜息をついた。
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