6.馬車
翌日、グレイシアはイルミナージュ王国に向かう馬車の中にいた。
通常イルミナージュの王都には馬車で数日かかるのだが、魔力を付与されているこの馬は通常の馬よりも速く駆けられるそうで半日足らずで着いてしまうらしい。
バイエベレンゼよりも魔法の技術が進んでいるイルミナージュ特有のものだった。
昨日の事を思い出すと、グレイシアは自分は守られたのだと実感するばかりだった。
国王陛下や父、そしてアメルハウザー公爵にも。あのままだと証拠もないのに、首謀者に祀り上げられて追放されていたのかもしれない。そして追放と言いながらもエーヴァントはグレイシアを手に入れようとしたかもしれない。気持ちの悪さに身震いがする。
広間での騒動の後、王都にあるアーベラインの屋敷に帰った父と長兄とグレイシアは、静かに笑みを浮かべながらも怒り狂っている母に出迎えられた。
証拠もなく、可笑しな証言だけで糾弾された娘を思いやっての事だとは理解している。しかし『謀反をおこしましょうか』と美しく笑うのは勘弁して欲しかった。美しい容姿とは裏腹に、母は血気盛んなのだ。グレイシアが剣を握るのは母に薦められてであり、共に鍛錬をすることもある。
『あの馬鹿娘が王位を賜ったら本当に出奔しましょうか。いいわよね、ベルント』
『屋敷以外でそんな事を口にしないで下さいよ。出奔も謀反も構いませんが』
『待って。そこは止めるべきよ、お兄様』
『グレイシアは黙っていなさい。あの王女に仕えるなど死んでも御免だ』
母譲りの銀髪を肩辺りで揃え、緑の瞳が銀縁眼鏡の奥で煌く長兄ベルントは、その冷静そうな外見とは異なって気性は荒い。この兄のいう事だから、アデリナ王女が女王となった暁には本当にあっさりと退職してしまいそうだ。
『落ち着きなさい、二人とも。アメルハウザー公爵に任せておけばグレイシアの身に問題はない』
静かだが威厳のある父の声に、母も長兄も口を閉ざす。
『グレイシア、お前は何も心配しなくていい。使者の大役をしっかりと果たすようにな』
『はい、お父様』
アメルハウザー公爵と父の中では何か話がついているのか、随分と打ち解けた様子なのが不思議だった。広間でグレイシアが退室する前に、公爵と父、長兄が集まって話をしている様子はそれが当然のことでもあるかのように馴染んでいた。
グレイシアは意識を昨日の事から、窓の外へと向ける。
自分の知っている馬の速度ではない。景色がとてつもない速さで過ぎ去ってゆく。
使者といいながらも、グレイシアにする事は何もない。イルミナージュ王国に条約に関する親書を持っていくのだが、それはグレイシアではなくともアメルハウザー公爵が持っていっても構わないのだ。
だとすればそう、ただ単純に。
グレイシアは守られたのだ。バイエベレンゼに渦巻く陰謀から、悪意から。
それならばそれを有難く受け入れ、自分に与えられた役目を果たすだけ。改めてそう決意したグレイシアは大きく息を吸って吐いた。
そのグレイシアの様子に、馬車に同乗している女騎士が気付いた。
「大丈夫ですか?」
グレイシアの前に座る女騎士はセレナというのだと、馬車に乗る前に教えてくれた。顎下で切り揃えられた茶色い髪が軽く揺れる。人懐こい少し垂れ気味の焦げ茶の瞳が、グレイシアを気遣ってくれていた。
「ええ、大丈夫です。ありがとう」
馬車に乗っているのはグレイシアとセレナだけ。アメルハウザー公爵は他の騎士達と一緒に騎乗して馬車の警護にあたっている。もちろん公爵達の乗る馬も魔力を付与されていて物凄く速い。こんな早い馬と馬車に悪事を働くことなどできないのではないかとグレイシアは内心で思った。
付き従う騎士達は皆、王都を助けてくれた人々だった。
その中でもセレナと、公爵の従官でもある赤髪の騎士-カイルと紹介された-が、公爵と共にグレイシアを助けてくれたのを、確りと覚えている。
馬車に乗る前に改めて騎士達にお礼を伝えたが、皆、朗らかに応えてくれてグレイシアは安堵の息をついた。他国に頼る形になったのだから、迷惑がられても蔑まれても仕方のない事だと彼女は思っていたからだ。
全て用意されているという言葉に甘える形で、グレイシアは親書だけを持ち、身一つで馬車に乗った。
すぐに終わる使者の仕事だ。自分でもそう思ったから侍女や護衛も連れていない。目の前に座るセレナがグレイシアの護衛として仕えてくれると聞いた時には大変驚いたが、まぁ一日お世話になるくらいなら彼女の負担にもそうならないだろうと、お願いしたのである。その時のセレナが余りにも嬉しそうに笑うものだから、つられてグレイシアまで笑ってしまった。
「セレナさん」
「私はグレイシア様付きの騎士ですから、セレナとお呼びください」
「では、セレナ。本当にありがとう。あなた達のお陰でわたくしも、バイエベレンゼも救われました」
「お助け出来たのは団長の魔法があったからですよ。それにグレイシア様が戦っていたから間に合ったんです。グレイシア様はどこで剣術を習われたんですか?」
「アーベライン侯爵領は辺境にある事もあって、他国からの魔獣や“忌人”が侵入することもあるのです。それに対応する為に次兄が守護団を率いているのだけれど、その訓練に混ぜて貰っているのよ」
そう言ってグレイシアはいつも身に付けている、手首までの白手袋を外した。アーベライン侯爵家の紋章が刺繍されているそれは、昨日の広間での糾弾を思い出させた。
「その訓練のおかげでほら。すっかり手が硬くなってしまったわ」
ふふ、と笑いながら手のひらをセレナに見せると、セレナは驚いたようにその焦げ茶の瞳を瞬かせた。
「それほどの鍛錬をお積みになっているのですね。とても美しい、誇り高い手です」
今度はグレイシアが驚く番だった。美しい? 令嬢の手とは掛け離れているこの手が?
手入れはしているけれど、剣ダコが出来るのは止められない。マメは潰れて手の平は硬くなるばかり。爪も伸ばせないし、綺麗な色で染めることも出来ない。女の手にしては節くれている。
でもセレナは美しいといってくれた。
家族や使用人など、近しい人はこの手を誇らしく思ってくれるけれど、でも。
初めて会ったこの騎士は、令嬢らしからぬこの手を誇り高いと褒めてくれたのだ。
「……ありがとう」
嬉しさを抑えきれずにグレイシアは笑った。
後日、セレナはこの事を思い返している。
花が綻ぶとはこの事かと。花さえ負けたとばかりに枯れてしまうのではないか。その美しさに見惚れたセレナはグレイシアの両手を取って握り締めてしまうのだが、その温もりが心地よく、馬車の中だというのに跪いたのは自分でもやりすぎたと思わなくもない。
だが、その高潔さにセレナは惚れてしまったのだ。それはもうどうしようもない事だった。
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