3.間一髪

 グレイシアはどれほどの“忌人”を斬ったのか、もう数えていなかった。


 あの姉妹は逃げられただろうか。遠くで黒煙が上がっている。あの場所も襲われているのかもしれない。

 自分がここにいて戦えば、“忌人いみびと”も魔獣も引き付けられる。そうすれば助かる人も増えるだろう。だから自分が引くわけにはいかないのだ。


 広場に残してきた騎士の身を案じたが、彼はアーべラインの護衛騎士。その力を心配する事はなかった。

 グレイシアの父が治めるアーべライン領は王国の北にある辺境で、魔獣や“忌人”が現れる。結界は王都にのみ張られるのだから、それ以外の場所に“穢れ”が立ち上るのは当然のこと。領地でその魔獣や“忌人”を討伐するのは次兄率いる守護団であり、そこに所属する騎士である彼は魔獣や“忌人”との戦いには慣れている。


(問題はわたしね……)


 息はあがり、疲れている。だけれど“忌人”は消えてくれない。

 数は減っている。しかしそれと同じくらいに周囲から集まってきているのだ。“忌人”だけでなく、魔獣も。


(死ぬわけにはいかない)


 剣を握る手に再び力を込めて、目の前に迫る“忌人”を切り倒す。横から勢いよく伸びた魔獣の爪を、その剣で弾くもその反動を使うように魔獣は鋭い牙で噛み付こうとしていた。それを剣で受け止める。そのまま顎を切り離してしまおうと力を込める。

 だからグレイシアには、自分に向かって伸ばされた“忌人”の手を止める事が出来なかった。


(捕まる……っ!)


 魔獣の顎を切り落としても間に合わなかった。

 目の前に“忌人”の手が伸びる。顔のない“忌人”が嘲笑わらった気配がした。


 その瞬間、強い風がグレイシアと“忌人”の間を駆け抜ける。その風は一陣の刃となって“忌人”の腕を切り落とした。


「え……?」


 突然の出来事にグレイシアがその紫紺の瞳を見開くと、煌めく氷粒が天から降り注いで“忌人”や魔獣を氷漬けにしていった。抗う術もなく凍り付いていく”忌人”達を目にして、もう大丈夫なのだと、グレイシアは膝から崩れ落ちた。剣を握りながらも両手を地につき大きく肩で息を吐く。



「……間に合ったようだな。怪我はないか」


 背後から聞こえるのは身を案じる声と軍靴の音。

 心地良い低音に促されるよう振り向くと、そこにいた男は一瞬だけ目を細めた。


「助けて下さって、ありがとうございます……」


 耳にかかる程度に短く整えられた黒髪が陽光に艶めいた。長めの前髪から覗くのは黒革の眼帯と琥珀色の左目。その瞳の色は深く、宝石のように美しかった。

 長身が映える詰襟の騎士姿からして、騎士団に所属しているのだろうが、それはバイエベレンゼの騎士服ではなかった。表情はなく、その美貌も相俟って、まるで精巧に作られた人形のようだった。


「礼には及ばない。貴方がここで戦っていたおかげで、この辺りの民には然程さほど被害がないようだ」

「それは――」

「お嬢様!」


よかった、と続ける筈の言葉は、護衛騎士の叫びにも似た声で掻き消された。

 広場から繋がる通りを駆けてくる彼の顔には、安堵の表情が広がっている。


「ご無事でしたか!」

「ええ、この方が助けてくださったの」


 グレイシアの言葉を受けて、護衛騎士は男に向かって跪き頭を下げる。最大級の騎士の礼だ。


「お嬢様をお助け下さり、誠にありがとうございます!」


 護衛騎士の礼に、気にするなとばかりに首を横に振る男はグレイシアに手を差し出す。素直にその手を取り立ち上がったグレイシアは、膝を折って淑女の礼を見せた。その手には未だ令嬢には似つかわしくない剣が握られたままだったが。


「あなたは貴族令嬢だろう。どうしてこんな所で戦っていた?」

「わたくしに戦う術があるからですわ」

「その身を危険に晒してもか?」

「確かに危険ではありましたが、戦える者がその力を奮う。それは力を持つ者の使命でありましょう」


 グレイシアの返答に男は目を瞬くと、面白そうにくつくつと肩を揺らした。無表情が崩れるが、それもやはり美しかった。


「面白いお嬢様だ」

「ですが、あなた様が来て下さらなければ、“忌人”の仲間入りでしたわね」

「本当に間に合って良かったと思うよ」

「わたくしはグレイシア・アーべラインと申します。アーべライン侯爵家の娘ですわ。この御恩は忘れはしません、何か必ずお礼を致します」

「あなたとはまた会えるだろう。今は名乗らぬ無礼を許したまえ。では、失礼する」


 男は胸に手を当て優雅に一礼をすると、身を翻し氷漬けになった“忌人”達へと足を向ける。彼と共に現れた騎士達によってその氷は粉砕されていて、陽光を受けるその飛沫が美しかった。


「お嬢様、帰りましょう。きっと旦那様もご心配されていますよ」

「そうね……」


 護衛騎士に声を掛けられると、グレイシアは我に返ったように頷いた。


 屋敷に帰宅したグレイシアがこの惨状を知って青褪めた両親に力任せに抱きしめられ、鍛錬が足りないと剣を握らされたのはまた別の話である。

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