黒流

八咫鑑


 母さんが流し台の前にうずくまり「ごめんね。ごめんね。私が何もできていないのがいけないの。」と泣きじゃくっている。僕は何も言わず、どんよりと家中を漂う臭気に顔をしかめながら、ただ口呼吸をしていた。

 母さんは何も悪くない。きっと。

「…が……ごく良……リ……いね…」

 居間から流れてくるテレビの音に混じって、ドンッ……ドンッ……と何かがぶつかる音が聞こえる。

 僕は毛布を引っ張り出してくると優しく、母さんの全部を覆って、その場を離れた。

 上ろうとしていたのか、中途半端に階段に足をかけた父さんが、腕を枕にして頭を壁に押し付け、ブツブツと何かをつぶやいていた。その首筋とこぶしには血管が青黒く浮き出ている。僕は声をかけようとしたが、普段の温和で頼もしい雰囲気からは想像もつかない、見たこともないような死んだように無表情の顔を見て、喉が動かなかった。

 父さんはフラッと頭を引くと、腕ごと勢いよく、頭を壁に打ち付けた。

 ドンッという鈍い音が僕の足に、小さいけれど確かな振動となって響いてくる。

 父さんも悪くないんだ。きっと。

「今日の……スで…依然と……んと連……」

 僕はあたりのもやっとした空気の感じがうっとうしくて、蚊を払うように手を動かした。

 きっと、これのせいだ。この、じめじめと不快で苛立ちを募らせる、綿の中で呼吸している気分にさせるような、重々しい空気のせいだ。そう言い聞かすように二、三度太ももをこぶしで叩いた僕は、先ほどからやかましく音が流れてくる居間に向かった。

 居間のテレビはつけっぱなしで、色々なニュースやら何やらを映し出していた。音量が大きく、耳が痛い。このテレビは時々、音量がおかしくなる。大きすぎたり小さすぎたり。うるさく思った僕はあたりを見渡すが、リモコンもなければ電源ボタンもない。テレビを消すことは不可能なのだ。こちらが寝るくらいしかないのではないだろうか、静けさを求めるなら。

「今日のニュースです。先日、○○さんが△△の第n……」

 僕はハッと、横手に見える庭に目をやった。テレビの音の隙間を縫って、ピシピシという音がたしかに僕の耳に届いていた。

 ガラガラと掃き出し窓を開けると、もわもわとしていて、熱いとも冷たいとも、無臭とも刺激臭ともつかない空気が、ぶわっと勢いよく部屋の中に入り込んできた。

 僕はせき込みながら、なんだか薄ら冷たく薄黒いもやの中に足を踏み出し、庭に降りた。

 庭の一角にはがある。

 ぼんやりと見えたアレに目を凝らし、僕はしぶしぶそちらへ歩を進めた。次第に鮮明に、アレの姿が僕の網膜に映し出される。

「今日のニュースです。○○の研究について□□教授は、あまり……」

 今、僕は古ぼけたを前に突っ立っていた。

 もやのようなくろぐろとした空気は、すべてこの井戸から発生したものだ。そんなことは百も承知だ。今日、久しぶりに井戸に近づいた僕は、時が近いことを悟って深呼吸した。

 ゆっくりゆっくり、冬眠明けの亀が首を伸ばすような速度で、僕は井戸の中を覗いた。

 黒かった。ただただ黒かった。自らが盲目になってしまったんじゃないかと錯覚するくらい、認識することの難しい黒が、井戸の中をひたひたと満たしていた。この黒の視認のし難さは、目を閉じることで瞼の裏の色を確かめようとする愚行に匹敵すると、僕は感じる。

 忌々しく、禍々しく、汚らわしい。

 家では誰も口にしないがその井戸は確かに、常にその一角に存在していた。中のは井戸水のように、常にこんこんと湧いていて、でもその水位は決して高いものではなかった。それが今はどうだ。黒は、井戸のふち数センチ下まで迫り、風もないのにねっとりと揺れ動き、あたかも蛇のように凶暴なしたたかさを湛え、今にもあふれ出さんばかりだ。僕はその忌避されるべきにあてられすぎたのか、思わずウッっとなって背を向けると、井戸からよろよろと距離を取った。改めて井戸の姿が目に入る。井戸の側面には細かなヒビがいくつも走り、いまにも崩れてしまいそうだった。ヒビはところどころで黒々とした点となり、染み出した黒を滴らせている。

 井戸から気が逸れたからか、またしてもあのテレビの音が聞こえてきた。いや、僕はテレビの音を

「今日のニュースです。□□さんの投稿した×××××××××」

 アナウンサーの声がビキッッという鋭い音に遮られた。僕の鼓膜を突き刺したその音を発したのは、まぎれもなく、他でもない、井戸。

 猫よりも速く振り向いた僕の目が、あり得ない動きをする井戸を捉えた。石造りの井戸は一瞬、網の上の餅のように大きく膨れたかと思うと、次の瞬間、堪えきれなくなって大きくはじけた。

 どす黒いスライムのような濁流が、轟音を立てて僕を押し流す。

 大量の黒が間欠泉のように井戸から噴きだす。噴出した黒は膨れ上がりながら怒号を上げ、すべてを押し引き裂いていく。土石流のような容赦のない圧倒的な力で黒は、僕の家に激しく衝突した。

 窓という窓が勢いよくはじけ飛び、大量の黒が家の中になだれ込む。

 ギシギシと嫌な音を立てて家全体が大きくかしぐ。

 僕は家の壁面に背中からしたたかに叩きつけられ、しばらく息ができないでいる。

 母さんは押し流されただろう。

 父さんも押し流されただろう。

 でもあのテレビだけは。

 あの消せない忌々しいテレビだけが今も大音量でニュースを読み上げ続けている。

 忌々しい。

 忌々しすぎて反吐が出る。

 だが本当に忌々しいのは、

 井戸であって、

 黒であって、

 それを管理しきれていない僕の一家全員であって、

 あふれ出した黒を受け流せない家なのではないだろうか。

 僕は歯ぎしりをしながらぐっとこぶしを固め、押し付けられている壁を殴る。

 こんな家が悪いんだ。

 井戸があふれても黒を避けられないような建ち方をしているこの家が。

 押しよせる黒の中で怒りに任せ、無理やり腕を動かす。

 流れに逆らい肘先を曲げ、流れを利用して全力で家を殴りつける。

 何度も何度も、全力でこぶしを振り下ろす。

 家がそれによって壊れることはないだろう。家は僕が建てたのではない。僕が気づいた時には既に、。だから、家は今更僕らがどうこうできるものではない。

 僕らはこの家に

 わかっている。やはり本当に忌むべきなのは、家の管理者。

 黒があふれた状況下でも、何かしらの自由意志で動ける者。

 父でもなく、母でもなく、つまりは、僕。

 黒はいまだにあの井戸からあふれ続け、僕はまだ、顔が水面に出ない。

 熱い。肉まで脱いでしまいたいと熱さを錯覚するほど、黒の勢いは激しい。まるで焼けた鉄を押し当てられているのかと思うほどの荒々しさが、僕を壁に押し付け潰し、熱いと錯覚させる。

 寒い。骨の髄までキンキンと痛くなるように冷たい黒の流れが、僕から感覚を奪う。これだけ殴って痛いはずのこぶしは、黒に呑まれ息継ぎのできない肺は、押し流されてきた木の枝や小石が当たり押しつぶされ続けているはずの体は、もう何の声も上げていない。

 どうして黒はあふれ続けるのだろうか。

 どうして家は黒に影響を受けない建ち方をしていないのだろうか。

 どうして僕は水面に上がれないのだろうか。

 どうしてはじめてじゃないはずなのにまだ黒を対処できないんだろうか。

 どうしてあのテレビを消すことができないのだろうか。

 どうして井戸はテレビに反応してしまうのだろうか。

 どうしてこんなにも黒く、

 どうしてこんなにも暗く、

 どうしてこんなにも寒く、

 どうしてこんなにも激しく、

 どうしてこんなにも重たく、

 どうしてこんなにも寂しく、

 どうして、

 どうしてこんなにも、

 どうしてこんなにも孤独に立ち向かわねばならないのだろうか。

 僕の悲鳴はあぶくとなって、「僕」のなかへと消えていく。


 僕はただ、黒くて激しくてねっとりとして冷たい、井戸の流れに頭の上まで浸かったまま、

 今はただ、歪みはすれど今後も黒によって倒れることは決してないだろう家を、

 僕はただ、遣る瀬無く、悩みながら、ひたすらに、

 今はただ、ひたすらに殴り続けることしかできない。


 僕がまだ、また、ただ、未熟である限りは。

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黒流 八咫鑑 @yatanokagami

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