「鉄血」(後編)

龍は人間の言葉を解さない。

それは、人間に興味がないということではない。龍は、種としての人間には興味があるらしい。だが、それだけだ。個々を愛している訳でも、その身を削って尽くしてくれる訳でもない。龍は龍で、それでしかない。龍は判断しない。ただ選ぶ。龍の選択肢に「過ち」はない。正確には、人の理で龍を測ることはできない。龍の選択が人に災いをもたらすとしたら、龍がそれを必要としたということだ。人はそう考えるしかない。


人は、そのようにして龍と付き合うしかない。

しかし、それでも龍に惹かれるものは居たし、龍の国の門を叩く者は途絶えたことがなかった。彼らの中には、龍から時折賜ることがあるという「特別な加護」を求めるだけの者もいたが、その大半がただ、龍という存在に魅せられたものたちだった。龍は、どうしたって異才を惹きつけるものだった。


王という存在は、龍と似た性質を持つ。

王は民を愛し、統べるが個々の民をひとりひとり覚えたりはしない。多くの王にとって、民は顔と名を持つ個人の集まりではなく、いつのまにか民という概念そのものになる。王は地平に降りてはならない、というのは鷹の国だけの王訓ではない。人と並んで立つ王は、長命であればあるほど、いつか必ず過ちを犯す。

それは歴史上繰り返されてきた事実であるが、しかしその事実は、人と並ばぬ王であれば決して間違えない、ということを担保しない。


龍の国の王は、龍であり、王だった。


白亜の宮殿は広く、孤独な龍の居城だった。ごく限られた召使いだけが入城を許され、王である龍の身の回りの世話をしている。

その龍の城の門代わりとして聳える柱状墳墓のさらに手前。

柱状墳墓より一回り大きい円形の建物が調音台、いわゆる宮廷会議と呼ばれる行政府がおかれている建物である。花官、根官といった六官が務めるのもこの建物を中心とした放射状の宮廷だ。

龍の国で「宮廷」という言葉は、主にこの円卓状の建物全体のことを指す。

宮廷会議に名を連ねる強者たちが集まる議場だけを指す場合、それはしばしば『慰霊碑』と呼ばれる。


慰霊碑には、当代首席である微睡のマルスクエアがひとり、座っている。本体ではない。その精緻な彫刻にも似た人形は彼女の義体だ。本体を写し取ったような白磁の頬、金の髪。同じエルフの一族ではあったがリィンとは印象が全く違う精悍な横顔。マルスクエアに魔術の才はない。彼女は、剣の腕だけで首席を勝ち取った。『騎士』と彼女は呼ばれている。


奇しくもこの三代、首席は連続して女性であった。


先代は魔術に秀でたヒュームだったが失脚した。

バンライン・バンブーシガー。主に『大臣』と呼ばれていた彼女は、もともと龍の魔術の研究者だった。そんな彼女の失脚のきっかけは、王である龍とは別の、邪龍を崇拝しているのではないかという告発だった。

実際のところ彼女の邪龍信仰については事実だったのだが、他ならぬ龍が「追放の要なし」としたため、特に罪に問われることなくただ、自ら職を辞するのみに留まった。龍の国の法には、邪龍の刺青を背中に入れること自体を咎めるものはない。彼女は龍の国の物資、知識を使って邪龍の召喚を目論んでいるともされるが、現時点ではまだ、行動に移す様子はない。起こしていない罪では誰も彼女を裁けない。

宮廷の部屋こそ辞したが、彼女はまだ龍の国に暮らしている。


微睡のマルスクエアは、新しく首席を決めるための天覧試合の決勝において確かに大臣と対決したが既に、大臣に戦意はなかった。それよりは同じく首席の座をかけて争った鉄仮面の魔女、グラジット・ミームマルゴーの方がマルスクエアを苦しめたと言ってもいいだろう。

三つ巴の決勝戦を制したマルスクエアが主席についてから、龍の国に大きな乱れはないが、水面下で起きている政争、陰謀が消えることはない。


バンライン・バンブーシガーの、前代の首席は王母である。

この国において龍は七年ごとに人間の母体を借りて生まれ直すことを繰り返している。なぜ王母が主席に座れたのかという理由を簡単に言えば、王母は「王をニ度産んだ女」だったからであった。

王は再び産まれる先を選ばないと言われている。

龍の国の歴史でも類のないことではあるが、事実、彼女は二度、王を産んだ。


もともとヒュームの彼女にそこまで特別な才があるわけではなかったが、その意味では、その異常な「確率」が彼女の才だったのかもしれない。あるいは、確率が彼女を覚醒させたのかもしれない。

もともと慣習によって重用されたお飾りの役職のはずだったが、宮廷に入り、異常とも言える政治的な手腕を発揮した。最初の七年で彼女は、龍の国をほとんど我が物とする権勢を見せた。その末の、二度目の出産である。

王である龍と同じくひとの名を捨て、自身を「王母」と呼ばせるようになったことからも知れるかもしれないが、一時期のそれはまさに王ほどの権勢であった。だが龍はそれを頓着しない。龍による贔屓や配慮ではなかった。これまでの全ての例を見ても、龍に親子としての情があったとは思えない。


王母は、二度とも産み落とした我が子を一度だけその腕に抱き、そして二度と子に触れることはなかった。


王母は首席を務める間、上奏、儀式、勅宣、その全てで恭しく傅き、龍である王に対して完全なる臣下の礼をとった。ただ、龍がそこに絆されたとは考えにくい。それまでも、そしてそれからも、龍は何ら王母に便宜を図らなかった。妨げることもなかった。王母がのしあがったのはひとえに彼女の才覚によるものであった。


一代で宮廷会議の仕組を変えた王母は、龍の試しを経ることなく首席に収まったが、もともと龍の定めた天覧試合の開催周期までは変えられなかった。彼女はある種の怪物ではあったが、武、魔、共に特に秀でたものはなかった。

その裏にバンライン・バンブーシガーとの政争があったという噂もあるが、禅譲、という形で天覧試合を待たずして彼女は退いた。表舞台から姿を消して尚、彼女の影響を受けるものは多く、彼女自身もまた、依然として宮廷に部屋を持っていた。


そして今。

微睡のマルスクエアは鉄でできた甲冑を身につけ、首席に座っている。今の時間の慰霊碑には、彼女の他に誰も居ない。彼女は椅子の背に軽く体を預け、眠っているように見える。人形だからだろうか。その胸は上下していない。そう。それはまるで死んでいるかのように静かだ。

天窓から、わずかに曙光が差し込んでいる。壁で柔らかく反射した光が、わずかに彼女の頬に影を作っていた。不思議なまでに荘厳な美しさがそこにはあった。


マルスクエアの本体は、遠征の地にある。

遠く離れた地で彼女は異界の神を殺すために剣を振るっている。もう半年になろうか。定期的な連絡だけが彼女と龍の国を繋ぐ。宮廷の銀細工師が義体を作った。魔術的な繋がりを作った。


龍は首席の不在を許した。


それがどんなことを引き起こすかについても、頓着しなかっただけなのか、それとも考えもつかなかったのか、それは誰にも分からない。


*


左脚亭の鉄の扉が、三度開かれた。


事切れたばかりの年若いエルフの前の、厳粛とも言える静謐はその重々しい振動によって破られる。店主の痕跡を探していたベティ・モーがカウンターの中から顔を出した。


彼女が見たのは、象徴的な真っ赤な襟だった。

短く刈り込んだ白髪。深い皺が刻まれているが、精悍という言葉以外では形容のできない立姿だ。壮年をとうに過ぎているはずなのに、鋼のようなみっちりとした肩、盛り上がった上腕。大きな顎。鎧のような上半身を包む深い赤のドレスシャツだ。真っ白のスラックスにサスペンダー。到底戦闘服には見えないが、それが彼の戦場での正装だった。


闇と静寂を割って入ってきたのは、赤襟傭兵団筆頭、ザーグ・アンデレックその人である。彼を本名であるフェザーグラップと呼ぶ者は今や殆どいない。

続いて彼の配下の傭兵たちが4人、影のようにしなやかに店内に滑り込む。まちまちな格好をしているが、一様に襟まわりだけは赤い。

すん、と鼻を鳴らしてザーグは眉間の皺を深くした。


「めちゃくちゃじゃねえか」


その声には確かな嫌悪感があった。大きな声ではなかったが、聞くもの全員が彼の次の言葉を待ってしまう。しんとした舞台に響く主演俳優の独白のような、圧倒的な誘因力があった。カリスマと呼ぶのが近いのかも知れないが、それは「魅力」とは全く別の力だった。ただ、立つだけで場を完全に支配している。場の空気が完全に変わっていた。


「赤襟屋さん」


カウンターを飛び越えてベティ・モーが歩み寄ろうとする。


「動くな」


短く、小さい声だったが、彼女は思わず反射的にびたっと動きを止める。


「わざわざ俺が出張って来たんだ。俺がいいって言うまで『誰も』『何も』するな」


それは威圧的な言い方ではなかったが、生来、王のように振る舞って来た者特有の問答無用感があった。息をするように、他人に命令することに慣れたものの呼吸だった。左右に付き従う傭兵たちも、まるで彫像のように動かない。


「クソッタレめ」


赤襟の当主は、吐き捨てながら無人の舞台を歩くようにゆうゆうと店内を横切った。傭兵たちも、モーも動かない。動けない。


「皆殺しにしてパズル遊びか、正気の仕事とは思えねえな」


テーブル席に乗った誰かの「手首」をつまみ上げてザーグは、ようやくベティ・モーに視線を合わせた。


「これは、お前さんの仕業じゃねえよな」


モーは無言で頷く。だよな、と納得したように手首をテーブルに戻し、肩越しに顔を向けると傭兵たちが音を立てずに奥へと展開する。気付けばモーは呼吸音さえ止めてしまっていた。


「赤襟屋さん、死体が」


気を付けて、と傭兵たちに警告をしようとして、彼女はなぜ自分がたった今まで「動く死体」のことを失念していたのかを理解した。

いつのまにか、蠢いていたはずの死体はひとつ残らず動きを止めていた。


壁に剣で留められた死体は項垂れたまま、もう何時間も前からそのままだったように見える。両手首のない死体も、這いずるように手洗いに向かっていた死体も、ねっとりと、音もなくただ死んでいた。手洗いの扉に挟まるように、片足のない死体が倒れている。撒き散らされた指、下顎、内臓。


彼女は自身の、返り血に汚れた両手を見る。


「あの、これは」

「両手を上げろ、なんて言わねえよ。別に暴れてもいい」

「違うんです、赤襟屋さん」

「みんな最初はそう言う」


ベティ・モーの両側、死角に傭兵が滑り込む。

2人とも武器を抜いている。刃物ではない。鈍器だ。警棒のようだが警棒にしては尖った形状をしている。

彼女は短く息を吸い、手洗いの中に居る2人に警告を発しようと振り返った。


残りの二人の傭兵が手洗いの扉を開けようとしていた。


まるでスローモーションのようにベティ・モーはその光景を目撃する。


重力に逆らう勢い。半開きだった手洗いの扉の「内側」へ横向きに着地したハニカムウォーカーが、一瞬、時を止めたように静止した。ほんの一瞬だ。彼女は爆発するように傭兵を巻き込んで扉ごと店内に飛び出す。弾け飛ぶ蝶番、火のない花火のように木片が舞った。傭兵が声を立てる間もなく扉の下敷きになって倒れる。


彼の昏倒を待たずに暗殺者は扉から壁に飛び移り、もうひとりの傭兵に襲い掛かる。彼女の手には短剣がきらめいていた。宮廷の地下でベティ・モーが見せたのと同じ三次元の機動だ。

ハニカムウォーカーの、牙のような短剣は傭兵の左腕のバックラーで寸前、防がれる。がちん、と殺意の高い音が鳴った。


防がれたバックラーを起点に、鞭のようにハニカムウォーカーは回転する。傭兵は流石によろめいたが、体幹が強い。捕まれそうになるのを防ぎ、膝蹴りをひとつ喰らわせてハニカムウォーカーが飛び退いた。


その背後では扉の下敷きになった傭兵の上、しっかりと踏みつける形でフランチェスカも手洗いから姿を現していた。こちらも臨戦体制、刀を抜いている。


二人を見ながらベティ・モーは、死角から自身に伸びてくる手を感じた。

しゃがんで躱し、地面に這う体勢になる。そのまま回転した彼女は傭兵の脛を蹴り、そのままザーグ・アンデレックの方に飛び出した。そのまま殴りかかるのかと思われたが、モーはザーグとの間合いに入る寸前、急角度で方向転換して距離を取る。彼女の想像通りだ。当主は構えもせず、追いもしてこない。

とりあえずは距離を稼げればいい。モーは体を捻りながらテーブルを蹴って壁際、ハニカムウォーカーの隣に飛び退る。


奥から順に、フランチェスカ、扉の下敷きの傭兵、ハニカムウォーカーとベティ・モー。

ちょうど三人の女と残った傭兵三人、そして赤襟の当主が向かい合う形になった。一層不機嫌そうな顔になって、ザーグは女たちを見る。

ハニカムウォーカーに蹴られた傭兵が脇腹を押さえている。警棒の二人は武器を握り直した。下敷きの傭兵は呻き声を上げる。


「そっちの人、ごめんね。アバラ折れてると思うから今日はおうちに帰った方がいいよ」


ハニカムウォーカーがリズムをとるようにとんとん跳びながら指をさす。ザーグがちら、と指された傭兵の方を見たが、すぐに目線を暗殺者に戻す。低く、渋みのある声。


「折れてない」

「違う違う、今見たでしょ、分かるでしょ」

「ダイス、どうなんだ。折れてるのか」

「折れてません」


肋を折られた傭兵は間髪を入れずに返事をしてメイスを構え直した。ザーグは再び呟く。


「聞いたか。折れてない」


ひゅう、と息を吐いてハニカムウォーカーは眉を上げる。


「チェッカ。驚いた、この人たちゾンビじゃないけど、もっとややこしいぞ。わたし、こういうとこに就職しなくてよかったって今心底思ってる。ギルド抜けてよかった。フリーランス最ッ高。モーもそう思わないかい、ねえ」


モーもフランチェスカも、軽口に返事をしない。ザーグの圧がそこかしこに満ちている。彼は何も言わずに、フランチェスカを見ている。明らかに、咎めているような目。しばらくザーグと見つめ合って、フランチェスカはようやく口を開く。


「証言します。この者たちはこの場において法を犯してはいません」

「この血の風呂を見せられて、それを信じろってのか?」

「……私が、証言しているんですが」


答えたフランチェスカの声質が、低く変わった。そこに暴力の気配を感じたのか、ちら、とハニカムウォーカーが眉を顰める。彼女は横のモーの肩をつつく。


「そういやこの人も蛮族さんの一派だったっけ」

「掃除屋さん、そうやって煽るのやめましょうよ」

「失礼な。煽ってないよ」

「ねえ赤襟屋さん、まずは話を聞いてください」


ザーグは不機嫌そうな顔のまま腕組みをする。


「俺ァな、ここでろくでなしどもがズコバコ乱行してるってんで観に来たんだ。断じて死体パズルじゃねえ。それが見ろ、どの穴にどの棒を突っ込んだらこうなるんだ。あ?」


モーの眉間にも皺が寄った。文字通りの意味でないのは明確だったが、彼女はその手のジョークが好きではないらしい。


「本来は俺が出るような話じゃあねえんだが、聞いたらお前、うちの行方不明のバカ息子も参加してるってんでな、いっぺんぶちのめして目を覚ましてやらなきゃならねえと思ってな」


静かな怒気と、それだけでは説明のつかない何かを孕んだ声。三人の女の反応を眺めて、赤襟傭兵一族当主が指をさす。


「どした、黒ツノ。急に顔色悪くなったぞ」

「そういうわけでは、ないけど」

「いい、ぶちのめしてから後で聞く」


とん、と軽い音を立てて徒手の赤襟のザーグが構えた。真っ直ぐにハニカムウォーカーを見据える目にこもるのは明らかな怒気だ。むしろ静かな声だった。場を支配する圧が一段階、はっきりと増す。


「お前、なんか知ってんな」


ザーグ・アンデレックの構えは奇妙だ。

少し腰を落としてはいるが、両の踵も接地しているし、ただ無造作に半身になっただけのようにも見える。正面の右手は開いたまま、ゆるく握った左拳だけが平時と違う。

彼の戦闘スタイルは基本的に無手、つまり武器を持たずに始めることが多いが、それは相手の初撃を待ってから始めることを意味しない。超攻撃的。彼の戦闘を目撃したものは誰しもが「攻撃的」という言葉の定義を再編する。


大きな顎の、頑固そうな口元がへの字に曲がる。ふ、と息を吐く音と共に一歩、たった一歩踏み出すとハニカムウォーカーとベティ・モーが大きく飛び退いた。


「黒ツノォ!」


ザーグが大声で呼ぶ。びりびりと床が鳴るようだ。

大声を受けたせいか、珍しくよろけてからハニカムウォーカーが口元だけを笑顔の形につくる。表情は決して愉快そうではない。


「失礼だけど、名前も聞かずに女殴りそうな顔してる」

「一度も言われたこと、ねえなァ!」


二歩目はまるで瞬間移動のようだった。少し遠い間合い、開いた右手を前にした構えだったはずが、次の瞬間には目の前に居て、しかも左の拳が当たっている。

一拍遅れて、ど、とハニカムウォーカーが壁際に飛んだ。壁の血が、当たった肩の形に伸びる。ずる、という音と共に彼女は、乱れた髪の合間からザーグを見る。実質的なダメージはそれほどないようだが、何か言いたげな表情だ。


「訂正、男女差別なしの、ごほっ、真のジェンダーレス時代が待ち望んでいたクソの化石だ。他に形容詞が見つからない。ああ、褒めてるんだよ、これ」

「そりゃ、どうも」


二撃目。ザーグはまた瞬時に距離を詰め、今度は暗殺者の髪を掴んだ。

モーが止めようと腕を掴んだが、振りほどくというよりは弾かれるような音がして、尻餅をつかされる。


「一度にひとりずつだ、大人しくそこで待ってろ。後で相手してやる」


暗殺者の髪を掴んだまま、太い人差し指を突きつけるとモーの目の色が変わった。


「今、私のこと、指さしました?」


口調こそ丁寧だが、モーから放たれるゾッとするような殺気。

その隙を突くように、掴まれた自分の髪ごと斬り落とす勢いでハニカムウォーカーの短剣が走った。掴んでいた手が離れ、何本かの毛筋がぱらぱらと舞った。掴んでいた手こそ離したがザーグはすぐには避けない。ハニカムウォーカーが逆手から順手に短剣を持ち替えて、初めて少し距離を取る。


「おじさんさ、あんまり血が昇ってるなら、ちょっと血を流した方が話聞けるようになるかな」

「あんまりナメられてるのもムカつきますしね」


モーが立ち上がり、ハニカムウォーカーが正面に短剣を構える。ハニカムウォーカーの表情は相変わらず読めないが、モーの目には明らかな殺気が見える。


「フラ子ォ!」


ザーグが吠えると、後ろで渋い顔をしていたフランチェスカはその顔のまま首を振った。


「個人的には、ザーグ。冷静になるべき、という彼女の意見に賛成だ。腹が立つとは思うが彼女らの話を聞いてやってほしい」

「うるせェ!てめえは、今すぐその足を退けろ!」

「これか?」


フランチェスカがとんとんと扉の下敷きになっている傭兵を刀の先で差した。


「あんまり意地悪するんじゃねえ、そいつは宮廷からの借りもんだ。怪我するのは勝手だが、死なれると後で面倒く」


言い終わる前に、その正面にモーが飛び込んだ。


「うおっ」


ザーグはその初撃をいなすが、そのままラッシュだ。モーの勢いも止まらない。


「おい、人が話してる途中だろうが」

「うるっせえです」

「後で相手してやるって言って」


受け止められた拳を起点に、浴びせるようなモーの蹴りがザーグの肩口を掠める。び、とドレスシャツが破れた。ザーグは掴んだ拳ごと、モーを振り回して床に叩きつけた。びたん、と痛そうな音がしたが、モーはすぐに起き上がって距離を取った。片手で鼻血を拭く。


「もう一人は」


見回すザーグの視界の端で、肋を折られた部下が見えた。背後に、影のようにハニカムウォーカーが忍び寄っている。警告の声を発する間もなかった。

がっ、と動物が吠えるような音がするのと同時に暗殺者は傭兵の片手をねじり上げ、喉元に短剣をしっかりと当てていた。


「おじさん」


暗殺者の静かな声。


「この人、やっぱり肋折れてるよ。念のために今、反対側も折った。もう折れてないなんて言わせない」


ザーグは動かない。モーとハニカムウォーカーは、ほとんどザーグを挟んで対角線上にいる。警棒の傭兵二人が予備動作のように大きく息を吸ったが、ザーグが制した。拘束された傭兵の苦しそうな咳。


「すぐに殺さねえのは、理由があるよな」

「思ったより話がわかる人で嬉しい」

「俺もだ」


ハニカムウォーカーは、拘束した相手の喉に薄く刃物を食い込ませた。呻き声。


「わたしは今からここから出てゆくし、おじさんの部下もひとり、連れてくけど、にこやかに見送ってほしい。あと、モーにもひとこと謝ってほしい」

「メアリ!」


フランチェスカが大きな声を出した。彼女はまだ戸板から動いてはいない。ザーグがフランチェスカも手で制する。


「黒ツノ、どうして俺に人質が効くと思った」

「知ってるよ」


ハニカムウォーカーは微かに笑顔を見せた。少し悲しそうな笑顔だ。


「赤襟には、弟が入団してるんだ」

「……嘘だろ」

「ンフ。そうだよ。たしかにそれは嘘なんだけど、赤襟の傭兵たちの死亡率とか離職率の低さは知ってる。赤襟は蛮族みたいに見えるかもしれないけど、メイドから番犬まで全員が家族なんだって、羨ましいって、そこのチェッカが泣きながら寝言で言ってた」

「言ってない」

「ああ、ああ、そうだ。ごめん。言ってなかったっけ。でも、無駄にメンバーを死なせるような組織じゃないってのは本当でしょ。血が繋がってなくても、家族みたいな傭兵団。ねえ、フェザーグラップ・アンデレック」


ぐう、とザーグは唸る。

その顔に浮かぶのは怒りか含羞か、彼は複雑な表情を見せる。


「別に貴方たちは、元々このわたしを追ってきたわけじゃない。そうだね」


返事はない。ハニカムウォーカーが急に真面目な顔を見せた。


「だったらこんなところで意地張って喧嘩して死ぬのなんて、まさに無駄死にだ。わたし相手に手加減してみせた貴方が、部下にそんなことを許す訳がない。足し算引き算は出来るし、拾える命なら拾う方でしょ、分かってんだ。それに、信じてもらえないかもしれないけどわたしたちが来た時にはすでに半分くらいこんな感じになってた」


くい、と人質の顎をあげさせる。刃物から滲む血が、彼の喉を伝う。


「貴方、野蛮人みたいだけど馬鹿じゃない。あんな暴君みたいなこと言っておいて、合図して彼だけ後ろに下げたの、わたし見てたよ」


ハニカムウォーカーは、にっと唇の端を吊り上げた。


「まあ、見てたからこの人襲ったんだけど」

「黒ツノ、てめえ」

「ハニカムウォーカー。ハニカムウォーカーだよ。おじさん。よく知らない男性からあんまり親しげに呼ばれたいとは思わないけど、どうしてもって言うなら、メアリさん、って呼んでもらっても構わない」


暗殺者はようやく親しげに微笑む。


「ミスタ・ザーグ。交渉を、始めようか」


フェザーグラップ・アンデレックは自分の奥歯を噛み割ろうとしているような、わかりやすい「怒りの表情」を見せた。


「交渉だと?」

「そうだよ。貴方と、貴方の傭兵団は割合、話が通じるよなって感じてるんだ。アマブルーダのアサシンギルドより一千倍マシ。ああ、ゼロには何をかけてもゼロだから、こういう時はなんて言えばいいのかな」

「舐めるな」


低く、傭兵団の当主が息を吐く。シンプルな怒りの色から、声が硬く、冷たく変わる。


「いいか、俺が条件を出す。お前はそれを聞く。それ以外の選択肢はねえんだ」

「ンッフ!マッチョだなあ!」


ハニカムウォーカーは愉快そうに笑って彼から目線を外す。

人質の喉に、また少し刃が食い込んだ。


「まあ、確かにミスタ・ザーグ、貴方がこの人を見捨てるとしたらわたしの勝ち目は多分ゼロだ。わたしと貴方は、ちょっと、あんまりにも相性が悪い。わたしだって弱いわけじゃあないが、今、現時点に関しては、たしかに対等の関係とは言えないね」

「分かってるじゃねえか」

「でも、わたしはどうにかして話を聞いてほしいんだよ」

「知ったこっちゃねえな」

「オーケー。じゃあ、こうしよう」


不意に手を離し、暗殺者は人質を解放した。

よろけて、膝をつきかけた人質はなんとか踏みとどまり、折れた肋骨の痛みに顔をしかめた。全員の目が彼に向いた瞬間、ハニカムウォーカーは再び姿を消す。ザーグですら一瞬、彼女を見失った。

暗殺者の行方に全員の意識が奪われた瞬間、声はザーグの死角から聞こえてきた。


「一発だけだよ、モー」


言い終わるのを待たなかった。

ザーグの脇腹にベティ・モーの渾身の拳がめり込む。めぎ、と太い繊維が軋むような音がする。モーはそのまま振り抜くつもりだったが、ザーグの異常な体幹がそれを阻んだ。モーは拳の軸を僅かにずらし、自ら回転することで手首が折れるのを防いだ。

傍目からはとうとう一撃を喰らわせたモーが、反撃を避けて離脱したように見えたかもしれないが、当事者である二人にだけはわかる。不意打ちは成功したし、それなりの手応えもあったが、深いダメージを負わせるまでには至っていない。むしろ、その異様なタフネスが次の一手の選択肢を奪う。どう攻めるべきか。

体勢を立て直そうとしたモーの方に向き直り、ザーグが両手を広げた。


「小さいのに、やるな、お前」


その表情は嘲りではない。凄烈な、純粋戦士のそれだ。不意打ちを喰わされた怒りはそこにない。闘争の沸き立つ喜びもない。相手の膂力と技術を認め、そしてそれを上回る己への信頼が、瞬きの間にまるで彼を何歳も若返ったように見せた。


それは歴戦の戦士の凄みだ。


小さく身震いしてベティ・モーは再び拳を構えた。片側を下げ、ナックルを水平にして相手に向ける。彼女の唇の端にも、少しだけ笑みが浮かんでいた。

彼女も長らく、本当の闘争に身を投じていなかった。自分より弱いもの、覚悟のないものを相手にするのはただの蹂躙だ。決して闘争ではない。圧倒的な暴力のもたらす、恐怖や畏敬といった副次効果を狙って振るうのは、到底闘争と呼べるものではない。


彼女が好きなのは蹂躙ではない。ただ、それが最も得意なことだったから暴力の世界に身を置いただけだ。彼女がはたして何を本当に「好き」なのかは彼女以外の誰にも分からない。


両手の届く範囲、蹴りの届く範囲。構えから形成される「武の領域」が少しずつ輪郭を持ち、そしてザーグが応えるように構える。

二人それぞれの領域がじりじりと広がってゆき、張り詰め、触れそうになる刹那、不思議なほど平静な声でザーグはモーを見た。


「さっきは指さして悪かったな。俺は今から」

「二人とも、やめろ!」


今度は、フランチェスカがよく通る声で割って入った。

それは怒声ではない。単純に地声が大きいだけだ。どんな場面でも一切の空気を読まない。おそろしく通る声が二人の緊張を破った。彼女は自分の介入が二人の戦闘気配を消散させたことを確認し、首を振った。


「もうやめろ。腕試しをしたいなら次の機会にしてくれ。ザーグ、了承を取った上で彼女の連絡先を教える、何か問題は?」

「……こういうタイプの人に連絡先とか、教えたくないんですけど」

「モー。先に手を出したのはそちらだし、今、フェザーグラップ・アンデレックは珍しく自身の無礼について詫びたぞ。それでも続けるのか。身軽の民の社会人は、そういうのでいいのか」

「でもこの人」

「今、一発殴っただろう。それも見逃すと言っているのだ。それだけでは足りないというのか」

「だって」

「ザーグ!」

「なんだよ」

「ほかに何か問題は?」


こちらも完全に気が削がれている。しばらくの沈黙があり、頭を掻いて彼は、ばそぼそと何かを呟いた。フランチェスカが余計に大きな声を張り上げる。


「モー。彼はそれでいいそうだ。二人は後ほど、連絡先を交換しておけ」


見ると、ハニカムウォーカーはこのやり取りの中、入り口のそばに移動していた。


「メアリ!」


一段大きい声だった。


「私とモーを置いて、一人で逃げるのか。君の友情というのは、その程度のものだったのか」


降参、というふうに両手を上げて、ハニカムウォーカーは困ったように笑った。


「そう言われちゃうと弱いね」

「だったらこっちに戻ってこい」

「チェッカがこっちにおいでよ。わたしは蛮族の隣より、出口に近い席の方が落ち着く。それに、なんていうかそっちの床、汚れてるしさ」

「大丈夫だ。フェザーグラップは野蛮だが話がわかる。借りは必ず返す。そういう男だ。君はダイスを殺せるのに殺さずに解放した。経緯はどうであれ、これは彼にとって大きな借りだ」

「おい」

「今のが借りではないというんですか。私の知るフェザーグラップ・アンデレックは、なによりも名誉と」

「もういい、やめろやめろ」


彼は心底嫌そうにフランチェスカを遮り、血に汚れていないスツールを引いてどかっと座った。不機嫌そうに、ハニカムウォーカーを斜めに睨み、横柄に足を組む。一拍おいて、口を開く。


「フラ子がそれだけ庇うということは、つまり、そういうことなん」

「ザーグ!私の足元で動き出した奴がいる。この感触、団員ではないな。この人物をどうしたらいいのか教えてほしい。私はここからどいた方がいいのか」

「……女どもは、人の話をぜんぜん最後まで聞かねえな!」


赤襟の当主は心底うんざりしたように再び立ち上がり、馬鹿野郎、言われなくてもどけ、とフランチェスカを大きく手を振って追い払った。

踏んづけた感触で仲間を判別するんじゃねえよ、と続けて小さく呟く。案外、丁寧な性格のようだった。

不明瞭な悪態を吐きながらドアの残骸の下から這い出そうとする“宮廷からの借り物”を背中に、彼は再度、ハニカムウォーカーの方を見た。

残りの傭兵の一人は両の肋骨を折られた仲間に肩を貸し、もう一人はドアから這い出す手助けに入った。気勢を削がれたベティ・モーも、手持ち無沙汰になって手洗いの方を見ている。

一瞬前まで破裂寸前だった空気が弛緩していた。


「黒ツノ、こっちに来い」

「え」

「え、じゃねえ。条件を出すのは俺だ。お前はそれを聞く。そのことに変わりはねえ」

「……やだな」

「わざわざ聞こえる声で言うんじゃねえよ。いいか、その程度の距離は、十分“届く”んだからな」


ハニカムウォーカーは観念したように肩をすくめ、ゆっくりと店の奥に向かって踏み出す。


「お前たちは好きなところに行け。見逃してやる。そのかわり」


呼びつけたザーグは威圧する声ではない。むしろ親しみのもてる声色といってもいい。不機嫌を装っているが、既に怒りも、疑念もそこからは消えていた。そこにあるのは、冷静な戦士の落ち着き、そして。


「聞かせてもらうぞ、うちの倅のこと。……お前、何か知っているだろう」


一人の父親の声に、ハニカムウォーカーの足が、ぴた、と止まった。


「黒ツノ」

「はい?」


立ち止まったまま、ハニカムウォーカーは目をつぶってぎごちない笑顔を浮かべた。


「わざとらしい演技はやめろ」


ザーグは苛ついた様子ではない。臓物と血まみれの店内で、今はただ、彼女の人品、情報を吟味しようとしている顔だ。おそらく、彼が息子を探すためにこの酒場を訪れたというのは真実なのだろう。ひと月前、地下礼拝堂の火事翌日からザーグの息子、ゲッコーポイント・アンデレックは行方不明になっている。


“宮廷からの借り物”という口ぶりのもの、扉の下敷きになった彼の護衛か何かのついでに、不確かな情報を確認しにきたというところだろう。


本気か冗談か、彼自身が口にした呟き。酒場で乱行パーティが開かれ、そこにゲッコも参加しているなどというのは控えめに評価しても与太でしかない。そんな程度の情報の真偽を確かめるために同行したともなると、ザーグの中でゲッコ失踪の手がかりはいよいよ行き詰まっていると言わざるを得ない。


ザーグは知らない。

行方不明になった息子が、何者かによって歩く死体へと変えられていたことを知らない。彼がまるで使い捨ての駒のように扱われ、眼前の暗殺者によって首を落とされたことを知らない。そしてその首が、胡乱なダークエルフによって持ち去られてしまったことを、まだ知らない。


「つまらん情報でもいい。真偽も問わん。本当か嘘かも自分で確かめる。なんなら金もやる。お前が何か知っているなら、それだけの価値はある」


ザーグは真剣にハニカムウォーカーを見つめる。ハニカムウォーカーは作り笑顔を解いて、躊躇うように唇を動かした。


宮廷の地下牢で受けた襲撃。赤襟からロイヤルガードの鎧を支給されたという襲撃者の証言が仮に事実だったとしても、実際の赤襟傭兵一族が関与している可能性は低いと言っていいだろう。ハニカムウォーカーが龍敵に認定されていることを知っているのであれば、ザーグの一連の反応はむしろ不自然だ。

やはりそれは、誰かが赤襟を騙っているのだ。


ただ、彼女は、躊躇っている。

子を亡くした父親に、どのように伝えるべきか、どこまで伝えるべきか。


「アンデレック卿!」


またもや話を遮って、ドアの残骸からようやく這い出した男が金切り声のような高い声でザーグを呼んだ。


「この者は、私を、踏みつけに!」


男はフランチェスカを指差して、地団駄を踏みかねない怒りの形相だ。衣装は彼のものではない血に汚れ、額に二箇所、傷を負っている。歳の頃は、壮年に差し掛かるころだろうか。女たちよりは大分年上のヒュームだ。


「そこの女も、この私に、賤しくも不意打ちを!!」


ザーグが心底うんざりしたように振り返った。当のフランチェスカは、毛ほども関心を持った様子もなく、彼の救出に手を貸した傭兵と何かを話している。

ザーグの目線から一旦逃れ、ハニカムウォーカーはあからさまにほっとした顔になった。彼の背中越しに額傷に微笑みかけ、小さく手を振る。煽られたと感じたのか、彼の顔はみるみる赤黒くなる。


額傷の、反射的で浅い敵意の相を見るに、ハニカムウォーカーが龍敵認定されたということ自体も、真実ではない可能性が高そうだった。まだ周知されていないだけという可能性も残ってはいるが、少なくともこのチームとは別の何かが彼女に刺客を送ったのだ。

ザーグがあしらうように手を振った。


「そっちの金髪はうちの客分、身内のミスだ、許してやってくれ。こっちのこいつの話は知らん。この騒ぎの犯人ではないらしい。何か文句があるなら自分で話をつけろ」

「……ッ!!」


男はむしり取るように、襟の赤い布を振り回した。


「こんなものまで着けさせて、まるで意味がないではないか!」

「意味はあったぜ。それを着けてなかったら多分、そいつはドアの下敷きになった時点でお前さんにトドメ刺してる」

「……ッ!」


ザーグは彼に対して苛ついた様子を一切隠さない。嘲るとまでは行かないが、あからさまに厄介者扱いをしているようだ。


「乱戦になるとうちの連中は見境がねえんだ。出る前に説明したはずだぜ。何もなきゃいいが、何かあった時にその布を着けてないと“間違い”が起きる可能性があるから気をつけろってな。それ、今、取っちまっていいのか」


話しながらだんだん腹が立って来たようで、ザーグの語気は尻上がりに荒くなる。


「あとな。なんか勘違いしてるみたいだが、俺がお前さんのお供にきてるんじゃねえ。お前さんが俺について来てるんだ。分かったら、俺からやれと言われたことは、やれ。やるなと言われたことは、やるな」


明確な威圧に、額傷は黙った。反論しかけ、取りやめ、額傷は射殺すような目線から逃げるように背中を向ける。


「では、私はここに来た本来の目的を、果たさせてもらう」


不満そうに、それでも彼は赤い襟飾りを巻き直した。

意外なことに、彼は酒場のこの惨状に対してそれほど衝撃を受けた様子ではない。酒場で起きた騒動の張本人をただす様子もない。では彼が何を目的としていたのか。ハニカムウォーカーが眉をひそめる。ベティ・モーも、背中で聞いているのは間違いない。


彼はフランチェスカと話していた傭兵を呼んだ。一瞬、傭兵はザーグの方を見たが、当主が頷くのを受けて手伝ってやることにしたようだった。2人は並んで手洗いに入っていった。


「昔なら、ぶっ殺してるとこだ」


呟きながらザーグは再びハニカムウォーカーに向き直った。ハニカムウォーカーは、観念したようにザーグのそばの席に浅く腰掛けている。


「ミスタ・ザーグ」

「なんだ」

「わたしは…おそらく…赤襟のゲッコ、ゲッコーポイント・アンデレックの行方を…知っている。少なくとも知らないとは言えない」

「あいつと会ったのか」


ザーグの表情が変わる。


「これは、正確な言い方を……しなければならない問題だ。正確には、そう、うん。そうだね。会ったと…言えるとは思う。そして、彼の行方を、一部は知ってる」

「勿体をつけるな」

「ミスタ・ザーグ。わたしはこういうのに慣れてないんだ。だから、気に障ったら許してほしい」


ハニカムウォーカーは大きく息を吸った。


「まず、ゲッコーポイント・アンデレックはもうこの世にいない」


ザーグの表情は変わらなかった。


「お前が、殺したのか」


ハニカムウォーカーは答えなかった。2人のやりとりは、おそらく他の誰にも届いていない。2人の間にあるのは、ただの沈黙だ。ザーグは、ハニカムウォーカーの目を、ただ見つめた。

フェザーグラップ・アンデレックは、案外何事もなかったようにハニカムウォーカーの言葉を受け入れたように見えた。傭兵を生業とする一家だ。戦っていれば死ぬこともあるし、どうしたって死ぬ。誰だって最後は必ず死ぬしかないのだ。死は彼らと常に共にあり、彼らの先と、そして後にもある。


「立派な最期だったか」


ザーグの声は、小さく、低い。背中越しにおそらく少し離れた位置にいるフランチェスカには聞こえていないだろう。


「教えてくれ」


ハニカムウォーカーはなんとも言えない表情を見せた。困ったような、無理に笑うような、飲み込めない酒を無理に飲み下すような。彼女は何度も躊躇うように歯をのぞかせ、大きく息をついた。


「知らないんだ」

「……」

「正確にいうとわたしは、貴方の息子が、きちんとした意味で生きている時に出会ってはいない。そして、その件に関連して、わたしは貴方に、貴方たちに謝らなければならないことがある」


彼女の声は真剣だった。ザーグがテーブルの上に置いた拳が、固く握られているのが見えた。それは怒りを握りしめているのではない。それは別のものだった。彼は、テーブルの一点を見つめている。


「このことについて、上手く……伝えるのは、とても難しい。実のところを言うと、何から話せばいいのか。まだ準備ができていない。ああ、でもそれを言うなら貴方の方がもっと、準備が出来ていないよね。それは、分かるんだ。分かるんだけどさ」

「黒ツノ」

「はい」

「誰が、絡んでいるんだ」


ハニカムウォーカーは黙った。


「俺は、どいつを殺せばいい」

「待って」


ザーグは怒りに我を忘れているわけではない。しかし、おそらくは完全な正気でもない。テーブルに伏せられていた目線がゆっくりと上がり、再びハニカムウォーカーを捉える。


「いいか、黒ツノ。お前に倅は殺せない。悪いが、うちのはお前程度には負けなかっただろうよ」


ザーグの声が少し大きくなる。


「お前が、本当にやつを殺すのに関わっていたなら、こうして俺にバカ正直に明かさないだろう。なぜ、二つ数える前にぶちのめされる距離で、わざわざ俺を怒らせる必要がある?理に合わねえじゃねえか。誰かを庇っているんでもねえっていうなら、別の目的がある」

「……」

「……だったら本当は、あいつは、生きているんじゃねえか」


突きつけるザーグの目を見て、ハニカムウォーカーは形容しがたい表情になった。


「なんの理由かは知らねえ、だが、お前は、何かの時間稼ぎを…してるんじゃねえのか。それか、誰かをかばってやがる。あいつが死んだのは知ってるが、自分で手を下したわけじゃねえ?つまり、お前はあいつがやられるところを見ていたんだ」

「ザーグ」

「構わねえ、なんで加勢しなかったなんて野暮は言わねえ。弱いから死ぬ。弱いやつは死ぬんだ。だが、だけどな、一体誰がやったんだ」

「……違うんだ。ミスタ・ザーグ。説明が…難しい」

「いいから答えろ、難しいことなんて何もねえ。お前は、何を、見たんだ。お前は確かに、何かを……見た」


ザーグが立ち上がる。その気勢は掴みかからんばかりだが、先程モーと対決しようとしていた時と比べると、明らかに違った。ちら、とフランチェスカが目を上げ、ベティ・モーが2人の方へ近寄ろうとするのを、ハニカムウォーカーが手で止めた。


「俺があいつを探すのをやめると得する奴がいるのか。つまり、俺は、もう少しのところまで辿り着いているってことじゃあねえのか」

「ザーグ、これは長い話になる」

「聞かねえよ。これまでも、これからも、俺が聞いたことに、お前が答えるだけだ。あいつは、まだ生きているんじゃないのか」


みちみちと、子を失った父親の肉体に満ちてゆくのは、彼を奮い立たせるための薄い希望だ。彼の心には穴が空いている。流れ出すものを、別のもので塞ごうとしている。何かで満たされていないと、彼の肉体から流れ出るものは、その血と同じなのだ。


「リィンか」


ぽつり、と、憑き物が落ちたようにザーグが呟いた。


「あの性悪が関わってやがんのか」


リィン・スチュワートキャニオンスクラムキルグラスハートヨルスクリーム。つい先日、プラムプラムに毒を盛り、ハニカムウォーカーと血みどろの闘争を繰り広げた相手だ。彼女にとって、明確な敵でありそして何より、得体の知れないあらゆる騒動に関与しているのは間違いのない人物ではある。


「言えよ、黒ツノ」

「冷静になってほしい。さっきわたしは、ゲッコがもう生きていないと言った。それは信用しないのに、どうしてわたしにまた質問するんだ」

「うるせえ、質問するのは俺だ。お前が答えていいのは、『はい、その通りです』だけだ」

「……そう、言ってほしいのかい」


どこかで水音が聞こえたような錯覚がした。

少し青ざめた顔でハニカムウォーカーは赤襟のザーグを見上げる。表情と裏腹にその口調には、先ほどまでの動揺とは違う、無音の水面のような決意があった。


「そう。言ってあげてもいいんだ。あのクソ女をぶっ殺すのに味方は多ければ多いほどいい。これはわたしにとっても、素晴らしくラッキーなチャンスだ。子を喪って、正気まで無くしたおっかない蛮族から逃れられるだけじゃなくて、ムカつく相手まで始末できるかも知れない。わたしにとっては一石二鳥の、得しかない選択肢だ。実際、あの女が関わっている可能性は高い。正直『ご想像の通りだと思うよ』って、答えるのはとても魅力的だ」


ガガ、と音を立てて椅子から立ち上がり、ハニカムウォーカーは息を吐いた。お互いに届く距離、身長差がある。2人の間に障害物はない。


「だけどね。そいつは、マナーが悪い」


薄く微笑む彼女の頬めがけて拳が唸る。横殴りの殴打を上半身だけで躱して、彼女は男の胸ぐらを掴みかえす。男に覇気はない。


「さっきのは、やっぱりそう何回も使えないんだね。やっぱり何かタネがある」


二発目は飛んでこなかった。ぐ、と引き寄せて老父の耳元。まるで甘く囁くようなかすれ声でハニカムウォーカーは告げる。


「その質問の答えはやっぱり、分からない、だ」


彼女は、微かに感情の色を乗せて至近距離でザーグの目を見つめた。


「わたしは、分からないことはわからないと言う。そりゃ、生きていれば時には嘘をつくことはあるけど、今夜、わたしは嘘をつかない。貴方の息子は確かに死んでいる。根拠は……今は言えないけど間違いない。貴方の、息子は、死んだんだ。そして、その背後にいるものの影を、わたしは全く解きあかせていない」

「……!」


ザーグを、ひとまわり自分より大きな男を、胸ぐらを掴んだ腕と肘とで引き寄せてハニカムウォーカーは続ける。


「受け止めるには時間がかかるかもしれない。だけど、死んだものは死んだんだ。どうしても何かに八つ当たりしたいなら自分の責任で、自分の家に帰ってからやれ」


彼女の声はがらんとした酒場に響く。


「わたしは」


何かを言いかけた彼女の声が、止まった。

手洗いから、額傷が出てきたのが見えたのだ。彼は何かを抱えて持っている。箱だ。見覚えがある。


「アンデレック卿!」


額傷は、睨み合う二人を気にしたふうもなく、大きな声で呼ぶ。


「情報通り、魔道具です!個室に隠してありましたぞ!」


フランチェスカとベティ・モーが振り返る。

ハニカムウォーカーは思わずザーグの胸から手を離した。


額傷が抱えて出てきたのは、プラムプラムの至誠亭から盗まれた試作品の、一点もののアーティファクト。


外からは中身を窺い知ることができないが、確かにザーグの息子であるゲッコーポイント・アンデレックの首が収められた箱であった。

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