「鉄血」(中編)

ベティ・モーの手によって閉じられた鉄の扉が、彼女の手によって再び開いた。

元々その扉は木製だったが、かつてモーが押し入った際に破壊し、ほかならぬ彼女のアドバイスによって鉄製に代わった。扉の裏側、外からは見えない位置だが、店主のたっての希望で彼女の手形が押されている。

重く、丈夫な扉だ。

ゆっくりと、軋む音も抵抗もなく、それは開いた。

左脚亭の出発と、そしてもしかしたら終焉の両方を、ベティ・モーは見届けることになるかもしれない。


差し込む街頭の明かりがなくとも酒場の中は明るい。決して手入れが行き届いているとは呼べない照明だったが店内を見通すには十分だ。

テーブル席は八つほどあるが、ひしめくというほどではない。椅子の背がぶつからないような程度の広さだ。事件が起きた時はおそらくは満席に近い状態だったのだろう。椅子の乱雑な倒れ方からそれは推察できた。

いくつかの席は空で、いくつかの席には突っ伏したままの死体が残っていた。飛び散った血の跡。床にもいくつかの死体がそのままになっている。


ぞっとする静けさがフロアには満ちている。


ベティ・モーは、その発端を想像する。

入口から動く死体が入ってきた訳ではない。最初の騒動はおそらく店内で起きた。喧嘩か何かが発端だろう。多分、何人かは騒動に驚いて表に逃げ出した。

残っていた客たちは争い、当然のように死人が出た。

どこにも体温の残っていない店内。彼女は当時の状況を幻視する。天井まで飛んだ血の跡。ここで誰かが斬られている。走って入り口に向かおうとする客。幸運にも入り口を出ることが出来たものも居たはずだ。

しかし、どこかで、誰かが出入り口の扉を閉めた。

モーが最初に駆けつけた時、扉は閉まっていたし、表で死んでいた男は、まだ歩き出していなかった。


向かって左手には奥まで伸びる長いカウンターがあり、その内側は無人だ。少なくとも入り口からは無人に見える。初老のバーテンは無事だったのだろうか。三人の女たちは、もう動かない死体たちを避けて進む。最後尾、フランチェスカが嫌そうな顔をしながら、それでも後ろ手で扉を閉めた。


奥だ。


店内で、収拾できない騒動が起きた。そんな時、店主はどう動くだろうか。

通常の酒場であれば用心棒の出番だ。騒ぎを収めるため、腕利きの用心棒が駆けつける。彼らは争っている連中を物理的に制止し、現場の保存をはかる。だが左脚亭には、常駐の保安員は居ない。

カウンターの内側を覗き込むと、胸に短剣が刺さったまま絶命しているバーテンが見えた。左脚亭に屋号が変わってからの顔だが、それでもじゅうぶん古株のバーテンだ。元々、どこかの国で傭兵をしていたと聞いた気がするが、見事に正面から刺されている。争った跡はない。不意打ちだったのだろうか。それとも、見知った相手に刺されたのか。


もっと奥だ。


かつて、モーが店主を引きずり出したセーフルーム。セーフルームと呼ぶのは大げさな、地下収納のような狭い穴倉があるはずだった。それなりに頑丈で、人ひとりが隠れるには十分なスペース。それは奥の短いカウンターの中だ。


奥だ。


細い間口の店内である。

奥の突き当たりには手洗と、四人座ればいっぱいの短いカウンター、そして酒棚がある。

手洗いの扉に損傷の激しい死体たちが群がっていた。カウンターの内側にも、ごそごそと何かが蠢く音がしている。死体は入口を避けて奥に集まったのではないだろう。別の出口を探しているのでもなさそうだ。

おそらく、手洗いの奥に何かがあるのだ。


三人は顔を見合わせる。軽く首を振って、ハニカムウォーカーが片手をあげた。

細く長い口笛の音。

折り重なるようにして手洗の扉を掻いていたカリカリという音が止まった。


「お手洗い、誰か入ってるのかい」


いつもと変わらない調子の彼女の横で、ベティ・モーは低く構えた。一拍おいてフランチェスカも斜めに構えて刀の柄に手を置く。


「それとも、もう我慢できない?漏れそう?そういう時はわたしの生まれた国ではノックするんだ。引っ掻くんじゃない。ノックだ」


三人の方へ向き直った死体のひとり、背の高い冒険者の顎からぼたぼたと赤黒い血が垂れる。喉に大きな穴が開いていた。振り向いた時の拍子か、何か半固形のものが喉の穴から垂れて床に落ちた。


「なんだ、吐きそうだったのか。そうならそうと言ってくれれば…いや、言ってくれたからってなんかしてあげられたとは思わないけど、でも、そうだね。言ってくれればよかったのに」


ハニカムウォーカーの声が空虚に響く。不明瞭なゴボゴボした音が返事なのか威嚇なのか分からない音を返す。


「ねえ、チェッカ。これでも敵意の確認ってしなきゃダメっていうつもり?」

「基本的には」

「ひとりひとり丁寧に確認すんの?言いにくいけど、どう見ても全員死んでるでしょ」

「死んでいるかどうかではない。彼らの尊厳を尊重するかどうかの話だ」

「最終的にバラバラの挽肉にするかもしれないのに?」

「だからこそだ」

「あっ」


瞬間、二人の脇を抜け、弾丸のようにベティ・モーが背の高い冒険者の頬を全身のバネを使って殴った。

突風のような音がした。殴られた冒険者はまるで墜落する凧のように、ニ、三人の死体を巻き込みながら壁に激突する。顔から壁に突き刺さる、シンプルに派手な音がした。


「めんどくせえです」


振りぬいた拳の勢いのまま半回転したモーは、吹き飛ばした相手を追いかけるように壁の上、死体の脇腹に両足で着地した。ぐ、と力を込めて次の死体の前に飛び込む。三次元の機動。ベティ・モーは、壁や、人体、場合によっては天井も足場にして駆け回る。

寸隙もなく二人目の腹に正拳を叩き込み、勢いで下りてきた顎を打ち上げた。ばちん、という打撃音とは思えない音をさせて二人目の下顎が上顎にめり込む。とどめというよりは、障害物を退かすような蹴り。死体は砂袋のようにカウンター側に倒れた。


「依頼に基づく保安警備の一環なので、酔客の敵意確認は後でします」


返り血を袖で拭って、モーは二人を振り返った。その表情は相変わらず静かだったが、有無を言わせない強い意志に満ちていた。


「あと掃除屋さんには、これが終わったら営業再開できるように店内の後片付けをお願いしたいんですけど」

「いいよ。今、割と暇だから、掃除の部分から手伝っちゃう。これはサービス」


ハニカムウォーカーはフランチェスカの肩を叩いた。


「業務委託受けちゃった。しょうがないよね。これわたし悪くない」


フランチェスカは、別に寸劇をしろという意味じゃない、と首を振ったが、目線はずっと、奥の手洗いの扉に向けられている。

その少し硬い表情は、店外で感じたという「猛烈に嫌な感じ」の源がなんなのかを探っているようだ。


傍らでは壁に突き刺さった死体が、壁から頭を抜いた。下顎を喪った死体も立ち上がった。のろのろした動きではない。無駄のない、滑らかな動きだ。折り重なるように手洗いの扉を搔いていた死体は、その二体を含めて七つ。カウンターの中には二つ。それぞれに立ち上がり、お互いを邪魔しないようにか、距離をとってまるで三人を囲むようにじりじりと動いた。

観念したようにフランチェスカはため息をついた。


「手伝おう。この中には、私の探している死体は居ないようだ」

「好きなようにやっても構わないってこと?」

「メアリ、私は君の保護者じゃないし、君もいい大人だ」

「保護してよ。護衛でしょ」

「自分の行動に責任を持てるなら、何をしても」

「「構わない」」


二人の声が揃った。


ベティ・モーの短い体躯がさらに低く沈みこむ。

低い姿勢を保ったまま、彼女は死体の膝に致命的な蹴りを叩き込んて完全に粉砕した。がくん、と傾いだ上体をかちあげ、さらに蹴って壁際に押し込む。攻撃中の死体を追いながら別の死体のベルトを掴み、引き倒す。一つの動作が次の動作を生む。駆け回るモーを中心に、徐々に空間が開く。


ハニカムウォーカーは一度戦闘不能に追い込まれたはずの死体が何度も動くのをしばらく観察していたが、モーが巻き起こす打撃音の隙間を縫って動いた。


長剣を佩いた死体が伸ばした手を躱し、相手の腰の剣を引き抜く。

迷いのない動作で身体を返し、回転しながら引き抜いたばかりの剣を刺した。バランスを崩した死体の正中、突き刺したそれはダメージを負わせる目的ではなかった。


ずぶ、と胸に刺さった剣の柄をさらに蹴って押し込む。

蹴られて死体はさらによろめく。ハニカムウォーカーは何度も蹴って剣ごと、背後の壁に縫い留めた。相手が表情を変えず緩慢にもがいているのを見て、柄頭へ最後の蹴り。

その反動を利用して逆に跳び、彼女は死体の包囲を抜けてカウンターの上に乗った。


傍らではちょうどフランチェスカが、にじり寄ってくる死体の片腕を斬り落としたところだった。

さっきモーに膝を粉砕された死体がぎごちない姿勢で起き上がろうとして一度転んだが、二度目はコツをつかんだのか、ゆっくりと立ち上がる。


「モー!」


ハニカムウォーカーはカウンターの上から小さい暴力を呼んだ。寄ろうとしていた死体の顔面を蹴る。ぱかっ、と気楽な音がして死体は仰向けに倒れた。

昆虫標本のように剣でピン留めされた死体が、剣を抜こうとして素手で掴み、右手の指をばらばらと落とした。よく手入れされた、切れ味の良い剣だったらしい。一瞬目を丸くし、ハニカムウォーカーはモーに向き直る。


「キリがない、動きを止めよう!壁に縫い付けるか、チェッカにバラッバラにしてもらおう!」

「馬鹿を言うな、死者に敬意を払え」

「たった今自分でやってたじゃんか、そいつのその腕!そこに落ちてるやつ!わたしは見たぞ!」

「これは、流れで仕方なく、だ。私の本意ではないし、消極的にだが合意の上だ」

「とにかく、不本意の結果でいいからこいつら全員、いっぺんバラバラにしてもらえないかな!あとで縫い合わせるの手伝うからさあ!」

「断る」


やり取りの中、立ち上がってきた死体の顔に二度目の蹴り。

倒れ直す死体を飛び越えて、ハニカムウォーカーはベティ・モーのそば、騒ぎの中心に着地した。モーはモーで、死体の膝を次々に破壊して回っている。


死体の群れは、言うほど緩慢ではないが、どの個体も武器を使う様子がない。意思を持って動く死体には思えない。生前のスキルを活かした個体は居ないようだ。ただ、ひたすらに強靭で、倒れても倒れても起き上がってくる。曲がらない方向に曲がった膝を、どのようにして利用しているのか分からない不自然な姿勢で立ち上がり、掴みかかってくる。


掴もうとする手をスウェイで躱したモーだったが、ぬるりとした床の血に滑った。さらに運の悪いことに伏していた死体が伸ばした手に足をとられ、バランスを崩す。

間一髪、とん、とハニカムウォーカーが支えるように転ぶ寸前の彼女の背中を押し、体勢を立て直したモーは逆の足で床の死体の首を踏み折った。


「こいつら、首を折ったくらいじゃ止まらないと思うよ、最近経験したから知ってる」

「ミス・リィンのお屋敷で掃除屋さんに恩を売っておいてよかった。私、いい選択をしました」

「ありがと」

「こちらこそです」


見ると、壁留めの死体はいまだ剣が抜けずにもがいているが、その動きは緩慢だ。それほど必死で抜け出そうとしているようには見えない。ハニカムウォーカーの視線の先に気付いたようで、モーが小さくうなずく。


視界の端で今度はフランチェスカが死体の右足を、膝の部分で斬り飛ばした。さすがに直立できなくなって倒れる死体は、立ち上がることが出来ずにもがく。断面からは大量の血が流れる。


「チェッカ!」

「なんだ」

「きみさ!さっきから言ってることと!やってることが!違う!」

「同意見です」

「私は、きちんと手順を、踏んでいる」


手洗い前のスペースは、ちょっとした大惨事だ。もう血に汚れていないタイルはない。指だか、腕だか、誰のものかもよくわからない肉体の部品がそこかしこに転がっている。

こりゃあ掃除するの骨が折れるぞ、と首を振ってハニカムウォーカーは天井を仰いだ。


「ねえ、モー。この壁紙は掃除じゃどうにもならないよ。取り替えないと多分ダメだ」

「仕方ないですね…」

「わたし、貼替は専門外。その道のプロに頼んだ方がいい」


まだ立っている死体は四つ。

モーと背中合わせに立ちながらハニカムウォーカーの声は、少し弾んだ。


「そういえば、おじさんの死体いないね」

「……少なくとも動いてはいないみたいですね。ちょっと安心してます」

「セーフルーム、あるんでしょ?」

「ええ、まあ」

「どこ?」


ベティ・モーは構えた左手の先で、ちょい、とカウンターの内側を指した。会話の途中でもお構いなしに向かってくる死体を捌く。ガラ空きになった死体の背中に肘を打ち下ろす。踏みつけ、体勢を入れ替える。


「トイレの中じゃない?」

「ここのトイレ、立て籠るには向かない気がしますけど」

「汚いもんね」


立ち上がりかける死体の腕を取り、きちんと立たせてから押す。死体はフランチェスカの方に三歩進んで再び倒れた。


「トイレとカウンター、両方、確認しよっか。もうこいつらはチェッカに任せようよ」

「いいですね」

「聞こえてるぞ」


ハニカムウォーカーはモーの背中から離れ、奥に移動している。


「いやいやチェッカ、わたしたちは自分たちがルール上、正しいことをしているか、ちょっと自信がないんだよ。死んだ暴徒の扱い、添削と見本を見せてほしい」

「私も、さっきは勢いで啖呵切りましたけど、今になって急に自信がなくなってきました」

「白々しい寸劇をするな」


女剣士が刀をふりあげた。その表情はうんざりしているようにも見えるし、ただひたすらに疲労しているようにも見える。その頬には三つだけ、返り血の跡が見えた。


「もう全員伏せろ!伏せないものは敵対するものとみなして、手首から先を全部切り落とすぞ!」

「全員?わたしたちも?」

「壁に刺さってる人は?」

「茶化すな!!」


旋風のように、怒鳴ったフランチェスカが二度回転した。

寄ろうとした二体の死体。彼女の宣言通り四つの手首が床に転がる。断面からは噴き出すというよりは、粘度の高い液体を詰めた栓が抜けたように、ぼだぼだと血が垂れる。


「なんだか血のにおいでムカムカしてきたな」


呟くフランチェスカを置いて、ベティ・モーはカウンターを乗り越えて内側に降りた。

一拍。表情の少ない顔に僅かな緊張を浮かべ、彼女は左手のブラスナックルを持ちかえる。武器の角の部分をこじ入れ、隠し扉を引き起こした。指がかかる隙間を作って、一息で蓋を持ち上げる。


中は空だった。


「掃除屋さん、こっちには居ない!」


ベティ・モーが叫ぶのとほとんど同時にハニカムウォーカーは、さっきまで死体たちが群がって搔いていた手洗いの扉に手をかけていた。引くと、当然かかっているはずの錠の抵抗がない。拍子抜けするくらい抵抗なく、片開きの扉は開いた。

扉を引き開けながら、彼女は内側からの攻撃を避けるように一歩横へ跳んだ。


彼女が警戒した攻撃はない。手洗いの中はうす暗い。ホールと同じく、中には死のにおいだけがある。いつの間にか抜いていた短剣を構え、ハニカムウォーカーは再び扉の前に立つ。


手洗いの突き当り、奥に何かが見えた。


扉が開くと、まるで中から何か、吹き出したものに当てられたかのようにフランチェスカがよろめいた。その表情は驚きに近い。発作だろうか。左手が、再び震えるように眼帯を押さえている。一転して表情はつよく、きつく、手洗いの扉に向けられている。

回転して踏み留まり、彼女は刀を逆手に持ち替えた。右側を前にしての体当たり。死体の一つを突き飛ばしながら斬り、彼女はハニカムウォーカーを追う。


雑音が消えた。


吸い寄せられるようにハニカムウォーカーは手洗いの中に足を踏み入れた。

血塗れの店内とまた違う、奇妙な静けさが手洗いに満ちている。それほど衛生的とは言えない床、壁。薄暗い。ぺた、と足音が響く。


奥の壁に、誰かがまるでそこにしつらえたオブジェのように、年若いエルフが座り込んでいた。ハニカムウォーカーはまるで魅入られたように、ぺた、ぺたと近づく。彼女は一言も声を発さない。


エルフの片耳は過去の戦闘か、あるいは追放の印か、随分昔に欠けたようだった。彼の身体は血に汚れていた。グラスホーンではない。勿論店主でもない。ハニカムウォーカーが会ったことのないエルフだ。どこかで見た記憶もない。まだ年若く見える、軽装のエルフ。魔術職ではない。レンジャーかなにか。軽鎧だ。肩の紐がひとつ、ちぎれて下がっている。


足を投げ出し、便器の横の壁にもたれている。その鎧の隙間を突いた攻撃でであろう幾つかの傷跡。綺麗なままの左手と対照的に、折られて、めちゃくちゃになった右手の指。


うつろだったエルフの瞳が、僅かに動いた。視界に、彼女のつま先が入ったのだ。彼は、僅かに視線を上げ、そして微かにゆっくり、まばたきをした。


死体たちは、生命の匂いを鋭敏に感じ取る。体温に群がる。外で戸をひっかいていた指たちは、この微かな、消えかけている生命を求めていたのだ。


エルフは顔を上げようとした。喉の傷が見えた。どう見ても致命傷だった。横に平たく、裂くように突き刺した特徴的な傷。それは剣によるものではない。

傷を見て、息を呑むようにハニカムウォーカーは彼に手を伸ばしかけ、そして止めた。


「誰だ」


掠れるような声で、ハニカムウォーカーは唇を震わせる。


「誰にやられた」


それは不意に訪れた激情の色だ。さっきまでの軽口からは想像できない、猛烈な怒りの色が彼女の目にあった。

さらに一歩、近寄ろうとすると、最後、ゆっくりとしたまばたきの途中でエルフは事切れた。もう、その目には光がない。白いまつ毛は動かない。


「クソッ!」


ハニカムウォーカーは傍の扉を強く殴りつけた。

遅れてフランチェスカが足を踏み入れる。立ち尽くす暗殺者と、事切れたばかりのエルフを見て彼女も動きを止めた。左目の眼帯を押さえていた手がゆっくりと降りる。


「…彼に見覚えは?」


絞り出すような声での問いかけ。

死んだエルフに近寄り、しゃがみ込んで傷を調べていたハニカムウォーカーは、ないよ、と冷たい声で背中越しに返す。

しばらくの沈黙。躊躇うような間があり、彼女は再び口を開いた。


「表にいる連中の中にも、似た傷をつけられたやつがいた」


音なく立ち上がり、肩を落とした彼女の背中には形容し難い凄みがある。タイルの壁をもう一度、どん、と殴り、ハニカムウォーカーは天井を仰ぐ。


「わたしは、この傷をつけたやつを、探さないといけない」


一瞬だけ垣間見せた感情の爆発は、彼女の意志の力によるものか、完全に蓋をされていた。それはなんの感情も感じさせない、ささやきのような声だ。


「追っているのと同じ傷だ」


ハニカムウォーカーは振り返る。静かな表情だった。

それは彼女の記憶から決して消えない傷だ。屈託なく笑う少年。汚れた弟の頬を拭う、騎士試験を受けた少年の姿。窓から、通りを眺める彼女に手を振った姿。

それは世界から永遠に失われた微笑みだ。


天気雨が降った日の午後。冷たく、床を見つめる虚な目。

両足を投げ出した姿勢、喉に残された特徴的な傷。

たった今死んだエルフと同じ姿勢だった。宮廷で殺された少年騎士、ヴァレイ。彼の背中にも傷はなかった。エルフの身体を詳しく調べるまでもない。同じ傷だ。おそらくは、貫手か、棒状の何か。ある程度弄び、そして最後に付けられた、とどめの傷。


「チェッカが誰の死体を探しているのか知らないけど、わたしはわたしで、この傷をつけたやつを探している」


普段の、掴みどころのない笑顔ではない。彼女はフランチェスカに顔を向けているが、本当の意味では彼女を見てはいない。その瞳は過去に、過ぎ去ったものを見ている。


「こいつは見つけ次第殺す。必ずだ」


乾いた、涙の跡のような声。

そしたらチェッカ、わたしを捕まえるかい。ハニカムウォーカーは無感動に付け足した。答えを待つ声ではなかった。途方もない空間に置き捨てるように彼女は呟いた。


いいよ、その時は捕まってあげる。


フランチェスカは何も言わない。

彼女の位置からも、倒れているエルフの姿は見えた。フランチェスカもまた、その座ったまま死んでいる姿に見覚えがあった。

彼女は少年騎士とハニカムウォーカーの関係を知らないが、彼女の所属する赤襟傭兵一族は宮廷内で起きた殺人を追う立場でもある。少年騎士、ヴァレイを殺した犯人はまだ捕まっていない。


衝撃的な事件だった。

まだ年若い騎士を、大胆にも龍の宮廷の中で誰かが殺した。

いつもであれば真っ先に声高に誰かの責任を糾弾するリィン・スチュワートキャニオンスクラムキルグラスハートヨルスクリームは、完全に無関心、我関せずの姿勢を貫いている。ただ、犯人は彼女ではない。根拠を示せば長くなるが、彼女ではないことは確かだった。

彼女は、いや、宮廷会議の面々は、今、それどころではないのだ。


フランチェスカは頭を振る。


宮廷の連中のことは関係なかった。

この、死体が無秩序に蠢いては破壊されてゆく酒場にあって彼女を責め立てているのは、任務の情報でも、暴力への嫌悪でもなかった。彼女の脳の内側で彼女を責める彼女自身の声。彼女であって彼女でない声。煮えるような憎しみ、怒り、絶望。

他のことを考えて押さえ込み、その声に耳を貸さないようにするのももはや限界だった。


フランチェスカの脳に響く声。

彼女のものではなく、それでいて紛れもない彼女の記憶。


それは眼帯の下の左眼が見た、過去の景色だ。

彼女は死んだエルフの姿に見覚えがあるのではない。その傷をつけた「誰か」を知っているのだ。正確には、彼女の中にある記憶の主が、その「誰か」を知っているのだ。

彼女は涙を流す。フランチェスカはヴァレイの死骸が置かれていた現場も見た。同じように、彼女の中にいるアスタミラ・チェイニーも、ただ彼女を絶望させるためだけに殺される妹を見た。


同じ姿勢、同じ傷。

胸を押さえ、フランチェスカは大きく息を吐いた。これは本当の記憶なのか。身体が竦むほどの悍ましい記憶。嫌悪感。痛み。発作のような耐え難い恐怖。それはおそらく、死霊術師の痕跡に連動している。ここには、たしかに死霊術師の残穢が満ちている。


アスタミラは死霊術師への復讐を望むのか。

分からない。

フランチェスカは、仇と対峙した時、立っていられるのか。

分からない。

確かなのは、アスタミラを苛んで殺した死霊術師は、フランチェスカ自身にとっても仇でもあり、そしてハニカムウォーカーにとっても同じだということだ。


「メアリ」


フランチェスカはハニカムウォーカーを呼んだ。


「私は…その女を探す手伝いが出来るかも知れない」

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