「鉄血」(前編)

階段を駆け上がるにもベティ・モーは壁を蹴り、まるで稲妻のようだ。狭い室内において彼女の機動は恐ろしいものだろうと思う。階段での乱戦となった場合、無傷で勝てるイメージはフランチェスカには浮かばなかった。

背が低いと勢いつけた方がラクなんです、と彼女は言うが、蹴られる壁もたまったものではないし、そもそも決して楽ではないだろうとも思う。

ただ、身体のギアを上げたままにしておきたいというのはわかる気もした。階段の先で待ち伏せするというのは、素人相手には有効なセオリーではある。今の宮廷内にわかりやすい敵意はなかったが、先ほどの襲撃者の例もある。フランチェスカだけでなく、モーもまた今晩、戦闘体制にあるのだ。


道すがらベティ・モーが語ったのは簡単な状況説明だ。

市中に、歩く死体が現れた。

どう見ても致命傷を負った人間が手当てもせず、そのままよたよたと歩いていたのだという。

時刻は真夜中を過ぎていた。近隣の住人にはまだこれといって被害はなく、商店もすでにほとんどが閉まっていて今のところほとんど騒ぎにはなっていないという。というよりも、まだ気付いている者が少ない、という状態だ。

そんな夜中、死体が歩いているというのをどうして知ったのだと尋ねるとモーは曖昧に言葉を濁した。では、動きだしたのはモーが殺した相手なのかと問うとそうではないという。直接見たのか、と問うと、直接見たわけではないともいう。


どうも奇妙だ、という感触はあった。


フランチェスカが同業者や冒険者たちに募った情報提供依頼、『歩く死体を見たら教えてくれ』は、実はそこまで異常なものではない。

龍の国でなくとも戦闘職にあれば、通常のアンデッドの類、ゾンビだのスケルトンだのといったものと対峙するというのはそこまで特異な体験ではない。地下迷宮探索などを生業にしているケイブランナーであれば尚更だ。

ただ、『街中で』とフランチェスカは注釈をつけた。動く死体自体はそれほど珍しくはないが、街中で、となると途端に難度が上がる。


野良のアンデッドがどのように発生しているのかについては、諸説あってはっきりしない。

あるものは超常のものが憑依して動かしているというし、別のものは悪意のある神が人の死体をそのように作り変えるという。面白いところでは「人間の死体のように見えるだけの、まったく別の新種の生き物だ」という説などもある。この説の根拠としては、迷宮に現れるゾンビ、グールたちの「生前の記録」を特定できるものがないというものにあった。どのアンデッドも、いつ頃に生まれ、いつ頃に死んだのかはっきりしない。名のない存在だというのが論拠だ。名前と過去を持つものがアンデッドとして死後に歩き回るという話は確かに聞いたことがない。


しかし、そんな異端の説を採らずとも、街中にアンデッドが出現しないのは当然の理由があった。

龍の国においてもヒュームは火葬が基本である。通常、街中で死んだ者は公衆衛生上の問題もあって基本的には腐敗する前に荼毘に付され、そのまま埋葬される。身寄りがあれば誰かが引取り、出自の宗教に対応した葬儀や埋葬を行われる。宗教によっては土葬されることもあるが、身寄りがなければ問答無用で火葬だ。基本的に市民の死体は、「死後に動きだす余地」がないのだ。

龍の国は、無政府状態というほど無法ではない。大陸にある国の中では文明的な社会を構築できている方だ。確かに日常的な争いで人死にが出ることは多いが、そういった事件も、言うほど日常茶飯事に、頻繁に起こるわけではない。


フランチェスカが過去に体験したおぞましい死霊術、死体を使役する邪法については、実はそこまで実社会への脅威として認識されている訳ではない。実際のところ、その実在を疑う者もいる。

もっとも死体を「もの」として考えれば、人形遣いとそれほどの差があるものではない。倫理的な問題を抜きにすれば、技術的に解決すべき課題が幾らあるとしても原理的に不可能、というほどのものではない。

物言わぬ有機物のゴーレム。簡単な動作を繰り返す人に似たもの。生前のポテンシャルどおりの「動く死体」。その意味では、死霊術否定論者たちの認識どおりの「まやかし」は存在する。


では、死霊術師は死んだ人間を、本当の意味でよみがえらせることができるのか。

「魂」というものは存在するのか。


根源的な問題はそこだ。殆どの国での見解は、死霊術は「死体を素材にした傀儡師」あるいは「疑似アンデッドを作り出す法」だ。つまり、外連味で味付けされた傀儡術である。

不死者の扱いも「死から遠いもの」であって「死から戻ってくるもの」ではない。それは、生と死の境界を曖昧にしてしまうことを恐れる生物の本能的な忌避といってもよい。

生と死は、踏み越えられない境目として厳然と存在している。


しかし、フランチェスカの中には彼女のものではない記憶が宿っている。アスタミラ・チェイニー。フランチェスカではない彼女。死霊術師の手により、凄惨な拷問を受けて「道具」にされた、どこにでもいる彼女の記憶だ。

死後も尚、残響のように響き続ける死んだ女の声を、もう一人の自分の声を、フランチェスカは脳内で聞き続けている。

殆どがまやかしであったとしても、たしかに死者を使役する死霊術は存在するのだ。そして、死者の魂も。おそらく。


隻眼の剣姫、掃除屋、用心棒。

三人の女が立っているのは、暗い酒場通りの外れだ。


「居ないな」


フランチェスカが腕組みをする。右手は、刀の柄まで一掴みの距離だった。鼻をうごめかして、居ないが確かに血の臭いはする、と彼女は呟く。腐った血ではない。比較的新しい血だ。

ベティ・モーは壁面に何かを引きずったような跡を見つけ、無言で示してみせる。血の痕だ。いましたよ、という表情。


「だが今は居ない」


まるで強情な子供のようにフランチェスカは首を振った。その横では、道中で着替えたハニカムウォーカーがとんとんと軽く跳びながら靴の具合を確かめている。

深い赤色のスーツ。上着を脱いでいるので両肩はむき出しだが、肘から先に包帯のような何かを巻いている。今回は手甲はない。身体の線がぴったり出る上半身に対して、腰から下にはゆったりしたパンツだ。腰のところに横向きのナイフホルダーと、道具袋のようなものを巻き付けている。使い慣れたものなのだろう、その所作には一体感がある。

ベティ・モーは口を尖らせた。


「掃除屋さんが寄り道するからです」

「してない」

「しただろう」

「わたしのせいだって言うのか?ゾンビも生き物なんだ。移動くらいするだろ。ああ、この場合、死んでるから生きてるわけではないんだっけ。ともかくわたしは悪くない。たしかにアパートには寄ったが、シャワーだって我慢したんだ」


口調こそ不満そうだが、ハニカムウォーカーは周囲、建物の上の方を眺めていて、非難にも弁解にも気持ちがこもっている様子はない。


「あの格好のままでいれば良かったじゃないか。なかなか似合っていたぞ」

「そうかい?じゃあ君の結婚式とか葬式にはあの、召使いの服で行くことにするよ。まあ、スカートの裾はもう少し長くするけど」

「今のところ葬式も祝言も、どちらも予定はないな」

「招待はしてあげるんですね」

「忘れていた。招待する予定もない」

「ひどい」


軽口を叩きながら、一行は血の跡をたどる。

引き摺った跡の向きからして、おそらくは死体が進んでいる方向へ向かう。血の跡は少なくはない。その乾き具合からして、出血はある程度止まっているか、あるいは「出し尽くした」という可能性もあった。


ベティ・モーはまるで散歩をするように、小さい身体でのしのしと先頭を歩く。その拳には、臨戦態勢を示す金属のブラスナックルが嵌められている。

フランチェスカ・ピンストライプもまた、束に手をかけてはいるがリラックスした様子で歩いている。

メアリ・ハニカムウォーカーは何故だか建物の屋根の方を気にしながら、やはり二人の少し後をついて歩く。


ぴた、とモーが足を止めた。

即席のパーティーだったが、連携は素早かった。


無言のモーが踏み出す舗装路の、逆側からフランチェスカは歩を進めた。背後でハニカムウォーカーはいつのまにか姿を消している。

今宵、フランチェスカから離れるつもりはないと語った言葉に嘘はないだろう。どこかに潜んでいるだけで、逃げたわけではないという、信頼に近いものがあった。

顔を向けた先の人影。隻眼のフランチェスカは前髪の隙間で目を細めた。


死体が、立っていた。


「たしかに」


死体、と表現するしかなかった。

明らかに折れた首、顎下から垂れる血は半ば乾いているが、古いものではない。死んだ男は冒険者のような風体だ。

だが、どう見ても立っていられるような怪我ではない。傾いた首と、ゆらゆらと揺れる影。だが、それはフランチェスカが探している死体ではない。彼女の知る人物ではない。

そっと息を吐き、彼女はそれを幸運と呼ぶべきか、それとも残念だと思うべきか、また少し考えた。何れにせよ詮のないことだ。


戦闘の景気づけか、ぱん、と拳を打ち合わせたモーを、待て、と制止してフランチェスカは一歩踏み出した。死体がゆっくりと振り向き、その顔を見たフランチェスカの動きが少し止まる。


「モー。意見を聞きたい」

「なんですか」

「彼は…この国の、市民だ」


フランチェスカの声は落ち着き、そして曇っている。


「見たことないか。彼、テクニカのメンバーだ。私が覚えているのは顔だけだが、何度か市場で見たことがある」

「言われてみれば…」

「死んでいるのに歩いているというだけでは、市民を斬っていい理由にはならん」

「えっ」

「そうだろ」

「そう…いうものなんですか」


モーの戸惑いはもっともであった。

フランチェスカから動く死体が居たら報せてくれと頼まれたのは、治安上の懸念だとばかり思っていた。

赤襟の傭兵は公式の治安維持部隊ではないが、もう何年も宮廷会議上席にいる当主、フェザーグラップ・アンデレックの方針により、龍の国における自警団の役目を担っている。彼らは精強な私兵として、怪物の討伐や暴徒の鎮圧をもう幾度もこなしている。


ゆらゆらと動く死体。


「ぶっ飛ばすんじゃ…ないんですか?」

「これは物事の手順と、ルールの問題だ」

「でも、あれ、どう見てもゾンビちゃん、ですよ」

「死んだ後に歩いたというのは、市民権や尊厳が即座に剥奪されるほどの罪だと解釈するには少し軽い。それに自分の意思で歩かされているのではないかもしれない。誰かに歩かされている、その可能性もある」

「うそでしょ」


モーは、信じられない、という顔でフランチェスカを見た。

完全に、思っていたのと違う展開だったようだ。

確かに、龍の国の法には「死体である」という罪も「死後に歩く」という罪も、どちらも存在しない。しないが、実際問題、歩く死体を前にして議論すべきことではないような気もする。


「モーは暴れたかったのか」

「いえ、その、そういう訳ではないんですけど」

「歯切れが悪いな」

「なんて言えば伝わってくれるんですかねえ」

「考えてみればさっき、ハニカムウォーカーに報酬を出す、といったのも気になる。これを私に報告するだけなら、彼女を同行させる意味がないだろう。何か隠しているな」


歩く死体の折れた首と生気のない目は、きちんと二人を捉えているのか定かではない。ただ、ずる、と足を引きずるように死体が二人に近付く。


「この程度、別に他人の手を借りるほどではないはずだ」


口ごもるモーは、どう切り出したものか迷いながら死体と、フランチェスカを交互に見る。フランチェスカは死体からモーを庇うように体を滑り込ませ、掌を相手に向けた。


「ああ、すまん、立て込んでいて貴方の名前が思い出せないのだが、拝見したところ大怪我のようだ。何か手当はご必要かな」


場違いにも聞こえる声をかけると、死体は不明瞭な声で低く唸った。それが返事かどうかは分からない。死体が手を伸ばす。


「私は医師ではないが、そちらの、手当を、ハハハ、掴むな」


フランチェスカは軽く笑いながらいなすが、死体は執拗に籠手を嵌めた彼女の手を掴もうとする。


「掴むな、止めろと言ったぞ」


その声が真剣な色に変わり、フランチェスカはモーの目を見た。意図を察したのか、モーが傍から一歩、斜めに飛んで死体の腰を突く。

鈍い音がした。

おそらく痛みではなく単純に関節の構造のせいで死体は屈む。丁度いい位置に降りてきた死体の鎖骨をモーは逆の手刀で躊躇なく折った。

間髪入れず、もう一度の強い突き。

ぼ、と風を受ける布のような音で転がった死体は、路地の壁にもたれ、動かない。

モーはあくまでも都市部での用心棒だ。殺し合いというより相手の無力化を第一目的にした戦闘のプロである。相手が痛みを感じない超戦士だったとしても、人体構造上、鎖骨を折られてはもはや片腕は上がらないはずだ。静かで、圧倒的な暴力であった。


「これ…いいんですよね。さっきの、そういう意味ですよね」


少し不安げにモーが見上げると、フランチェスカは頷いた。


「そうだ。私は市民に対話を試み、その拒絶と敵対的行動を確認した。君の行いは、私を救助しようとした善意の緊急避難にあたる。助かったよ。私は証言する」


頭上から口笛が聞こえた。


「わたしはそういうの、詭弁だと思うなあ」


ハニカムウォーカーだった。姿を消していた彼女は、いつのまにか路地に並び立つ建物の屋根の上にいたようだった。するすると、ベランダを伝って降りてくる。辺りに人は居ないね、と音を立てずに着地して、彼女は腰袋から拘束用のワイヤーを取り出した。


「決闘前のマナーとしては嫌いじゃないけど、少し乱暴すぎやしないかい」

「マナーは関係ない。これはルールだ」

「解釈の違いだね」


軽く返事して、ハニカムウォーカーは倒れている死体を拘束し始めた。手近な街灯を通した輪になるよう、死体の折れていない方の左腕と右足を拘束具で繋ぐ。かわいそうだけど連れてくわけにも、バラバラにするわけにもいかないもんね、と軽いため息のように呟く。


龍の国の法律では、決闘の前には必ずお互いの合意か、あるいは「当事者間で合意が形成できないことの証明」が必要だった。つまり、話し合いの機会を持ち、平和的な和解の道を模索し、拒絶されること。

フランチェスカがしたのは、この手順を簡略化したまさに「儀式」だった。まず相手を気遣う言葉をかけ、掴みかかられるのを制止し、いずれにおいても断られたので実力行使に出たという「形式」をとっている。


「それよりチェッカ。さっきまた、わたしがいないところでわたしのことをハニカムウォーカーって呼んだだろ。まあ、たしかにハニカムウォーカーではあるんだけど、メアリって呼んでくれる約束はどうしたんだ」

「メアリ」

「そうそう、それでいいんだ。こういうのは慣れが必要なんだよ。習慣として、継続していかないと親しみというのは湧いてこない。ねえ、そう思うだろ、モー」

「彼女のことはベティとは呼ばないのか」

「私と掃除屋さんは、そんなに親しくないんですよ」

「…だってさ。モーは仕事とプライベートをきっちり分ける方なんだ」


手際良く拘束を済ませたハニカムウォーカーと、ナックルを拭いているベティ・モーを見比べてフランチェスカが目を瞑った。暗殺者はくるりと目を回す。


「モー。当ててみようか」

「なんです?」

「こういうやつがもっと沢山居るところ、見つけたんだろ」

「やはり、本命が他にあるのか」

「バレました?」


モーは表情を変えずに小さく舌を出す。


「巣、というわけではないと思いますけど、ちょっと困ったことになってるっぽい酒場があるんですよね」


しばらくの前。

ベティ・モーがその異変に気付いたのは深夜のことだった。日課のトレーニングを済ませ、さあ寝ようというタイミングだった。

パートタイムの用心棒として契約している酒場からの定時連絡、シェイドコールが「なかった」のだ。


シェイドコールというのはそれほど複雑な通信ができる仕組みではない。魔術的な繋がりのある「影」を通じて、ごく単純な内容を任意のタイミングで別の地点に一方的に「報せる」だけの仕組だ。

トークンが影を落とす地点は、魔術を通して相対的に固定する必要があるため、基本的に持ち運べるものではないが有用なシステムではある。


その特性のため、迷宮探索や旅行などには使えないが、事前に通信内容の取り決めをしておけば地点間の緊急通信としてはきわめて安価で、便利といっても良い。勿論この仕組みは、応用すれば複数の影のオンオフを利用してデジタル信号のような「意味伝達が可能な通信」の実現も可能ではある。

ただ現状、世界ではそのようなネットワークが求められてはいない。情報の多寡を、質量や物量の差を、あらゆる「優位」を、異常個体が覆しうる世界であった。


国家間の明確な戦争が失われて久しい。

他国を支配して得られる旨味はすでに世界になく、緩やかな惰性と互恵関係、いくつかの怨恨と恩讐で世の中は回っている。そのありようは、領土を切り取り合うものではなく、恒星間の距離感に似ていた。世界には未踏、未開発の土地がまだ多いが、未知の土地の全てを開発し尽くせるだけのリソースもない。


使える時間、労力には限りがある。それは国家でも、個人でも同じことだ。

あるはずの定時連絡がないことを確認したモーは、特に嫌な顔をするでも心配をするでもなく、淡々と着替え直して部屋を出た。彼女は契約通り酒場の様子を確認し、ため息をついてフランチェスカの元へ向かった。


その酒場、『左脚亭』の店主は引退した詐欺師だった。生国で悪事が露見し、両手足を手酷く折られて入国してきた。龍の国に移ってからもその性根はなかなか治らず、酒に混ぜ物を始めたのが露見して、有志のカンパによってもう一度足を折られた。

流石に二度目の制裁には彼も懲りたようである。

足を折られたその場で店主は、当初竜骨亭という名だった屋号を「左脚亭」に改名して、以降は比較的真っ当な酒場商売に目覚めたようだった。

ちなみにその時、店主の右足をポッキリやったのは依頼によって派遣されたベティ・モーで、残った左側の足を折らずに済ませてもらえるよう、交渉の仲介をしたのもモーだった。屋号の由来は無論、自身の左脚。「望外にも残った幸運」という意味だ。


店主は小狡い男だったが憎めない人物だった。


実際交渉の時、最後まで一度も謝罪せずに「誤解だ」で乗り切ったのはなかなかの胆力と話術だし、数分前に自分の右足をへし折ったモーに対して、用心棒契約を交渉して取り付けるところまで進めたのもなかなか出来ることではない。

結果、彼は加害者自身による丁寧な足の手当と、彼女を差し向けた相手との交渉に対して、有能な仲介役を手に入れた。


モーは、ある意味ではこのタフな詐欺師を気に入っていたと言ってもいい。


左脚亭との契約は、即応を謳うものではなかった。契約金額との兼ね合いで、一日に一度、定期連絡が「行われなかった場合」にのみモーが様子を見に行くというタイプのものだった。当時、モーの用心棒サービスにはまだ存在していなかったプランだ。

ケチんぼですね、とモーは微笑み、詐欺師は「こちとら治療費がかかるんだ」と嘯いて応えた。完治してからもプランが見直されたことはないが、左脚亭と同じプランを選ぶ酒場は増えた。その度に、引退した詐欺師は自分をコンサルタントとして雇うべきだとモーに説き、モーは、いいです、と毎回首を振った。


一度、この契約が左脚亭を救ったことがある。

ある晩、閉店の時間帯を狙った強盗団が店を襲った。店主は強盗たちに縛り上げられたまま、得意の話術で時間を稼いだ。結果、定時連絡の時間が過ぎた。

やがて、うっそりと登場したベティ・モーによって四人組は瞬く間に重傷を負い、そして、そのうちの一人は頭蓋を割られて死んだ。

生き残った強盗たちは、自分達が床に這いつくばった後にモーが始めた「審判の時間」を覚えている。

おそろしく淡々として、無慈悲さや残酷さですら排除したその血圧の低そうな声色を、彼らはおそらく生涯忘れないだろう。まだやりますか、と問うのと同じ調子で彼女は、地に這いつくばるものたちの言質を取った。

受け答えに失敗して、即座にとどめを刺された仲間の死に様を全員が見た。彼らはもう、モーにも、勿論店に対してさえも決して復讐しようとは思わない。

圧倒的な暴力は、どんな交渉よりもシンプルに物事を解決する場合がある。


そしてモーは、今、同じ夜に二度目の左脚亭の前に立っている。


うっすらと明かりの漏れる窓。声はしない。しん、と静まった店内には何ものかの気配がある。蠢き、這いずる何ものか。決して少ない数ではない。


彼女は一人ではない。彼女のそばには眼帯のフランチェスカと、胡乱なハニカムウォーカーが立っている。

押し黙ったモーが指す先、左脚亭の鉄扉には、中から開かないように即席の閂が外側からかけてある。モーの仕事だった。

重苦しい、予感のような沈黙。ふう、とハニカムウォーカーが息を吐いた。


「エルエルのおじさん、馴れ馴れしくてわたし、苦手なんだよな」

「まあ、女性に好かれるタイプではないですよね」


顔も胡散臭いですし、とモーは付け足す。

レフトレッグ、頭文字を取ってエルエルというのは左脚亭の愛称だが店主の体格は小柄だ。L Lサイズではない。


「私は話しかけられたことはないぞ」

「チェッカはさ、気軽に話しかけにくいんだよ」

「なぜだ」

「赤襟屋さんは、いつも取り締まる方ですからね」

「私にだってオフの時くらいある」

「トイレとか?」


低く笑う暗殺者を押し退けて一歩、踏み出したフランチェスカが急に身をすくませた。う、と呻き、左半身を掴む。発作だ。だが、いつものそれとは少し様子が違った。


「平気かい」


ハニカムウォーカーが心配そうに肩に手をかけると、余計に女剣士は身体を硬くする。苦しそうというのとも、少し違う。


「わからん」


短く答えた彼女の、眼帯の下から涙が流れていた。自身でも驚いたように、彼女はそれを拭う。


「なんだか分からんが、とても…嫌な予感がする」

「ヤバそう?」

「うまく言えないが…一番近い感覚で言うと…『帰りたい』」

「蛮族さんでも帰りたいって思うことあるんですね」

「チェッカは赤襟だけど蛮族じゃないよ」


そっと女剣士の肩を叩いて、ハニカムウォーカーがベティ・モーと共に一歩前に出た。ひそ、とした囁き。


「ねえ、思うんだけどこれ、ちょっとだけ扉を開けて、松明投げ込んでさ、中のやつ全部まとめて焼いたらダメかな」

「ダメです」

「ダメだろ」


フランチェスカとモーの声が揃う。

ハニカムウォーカーは大袈裟に両手を上げた。


「分かってるって。冗談、冗談だよ」

「ここは市街地だ」

「まだ生きてる人がいるかも」


再び、二人の声が被る。

フランチェスカの発作は治まったようだった。彼女は相変わらず自らの左半身を抱き寄せるようにしているが、涙は止まったようだった。


「モーはちょっと怒ってるね」

「当たり前だ」

「違う、わたしにじゃないよ」

「……掃除屋さん、そういうの分かるんですか」

「まあね」

「もっと人の心とか、ないと思ってました」

「ンフ、失礼だなあ」

「ごめんですけど」


いいよ、慣れてるし、と暗殺者はゆっくりと伸びをした。その声に揶揄の色はない。


「怒るとよくない。冷静さを失くすと、途端に死が近づいてくるよ」


静かなハニカムウォーカーの声。

実際のところ、モーが少し腹を立てているのは本当だった。

ただそれはハニカムウォーカーの言う通り、彼女の提案に対してではない。

自分でも、どうしてなのかは少しよく分からない。うまく言葉にできない怒りのようなものだった。


店の前までは一度来た。中も覗いた。中では大規模な殺し合いの跡があり、そして、明らかに人のものではない呻き声が聞こえていた。助けを呼ぶ声は聞こえなかった。ずるずると這いずる、死体だったもの。あるいは、腕自慢だったものたち。生きているものの気配は感じない。呼気、きざし、そういった生物特有のものが、酒場の中にはなかった。そこには死が満ちていた。


この数は、自分の手には余る。


彼女はそう判断した。左脚亭にはセーフルームがある。カウンターの下、身を隠すだけの小さなスペースだ。かつて、彼女はそこから店主を引きずり出して右足をへし折った。店主が無事だとすればその中に隠れているはずだった。そこに逃げ込むのが間に合っていたのでなければ、店主が生きている可能性はないと彼女は判断した。そして、逃げ込めてさえいればまだ時間的な余裕はある、とも。


現時点で彼女にできることは、この死の箱から、歩く死体達が這い出るのを阻止することだけだ。彼女は、外から酒場を封じた。この店に裏口はない。どこにも、死者には、そしてもし生存者がいたとしても逃げ場はない。


もしこれが、緊急対応付きの用心棒契約であったなら、彼女はどれだけ未知のシチュエーションであっても、たとえ自分が死ぬ結果になることが明らかであっても、単身、店主の生死を確認するために即座に突入しただろう。

彼女にとって、契約は自身の命よりも重い。しかし、それは裏を返せば契約は、彼女が好ましく思っている人物の生死よりも重いということでもある。


そうか、と彼女は少し考える。


自分が腹を立てているのは、そういうことなのだ。

モーは冷徹に、店主の生死の可能性を判別して合理的な行動をとった。だが、本当のところは彼女は、この死の酒場に飛び込みたかったのだ。旧知の店主の生死を確認するため、危険を冒してでも即座に向かいたかったのだ。

店主は、強盗に遭った後もプランを変えなかった。けちんぼ、と彼女は店主をもう一度心の中で罵る。高い契約にしておいてくれさえ居れば、私は、あなたの為に命をかけられたのに。


命をかける理由が、そこに存在できたはずなのに。


「生きてるといいね、エルエルのおじさん」

「……そうですね」


ベティ・モーは両の拳を打ち付けた。

やってやろう。大暴れの時間だ。


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