「好奇心が猫だけを殺す」(中編)
しばらくの間があって、くつくつくつ、と女騎士の低い笑い声が暗闇から響いた。愉快そうな笑いではない。自嘲めいた、泣き笑いのような奇妙な笑い声だ。
じじ、とランタンが焦げた音を出す。
「違う、と言ったらどうする?」
「わたしは、人の声を覚えるのが得意なんだ。好感を持っている相手なら特にね。君の声なら混んでる酒場でもきっと聞き分けられる。自信あるよ」
「つまり」
「違わない。暗いところからわたしを見ているのは、フランチェスカ・ピンストライプで間違いないよ。片角を賭けてもいい。ていうか、このやりとりって意味ある?」
長い沈黙。
「私にとっては重要な問題なんだ」
絞り出すように呟いたフランチェスカの声は、確かに苦しそうだった。ハニカムウォーカーは寝台の上で、あぐらを崩す。しばらく思案したような顔をしていたが、やがてまとめた髪をほどき、すこしかき回してから、もう一度結い始める。
「そっち、行ってもいいかな」
「駄目だ」
言い終わらないうちにフランチェスカはぴしゃりと塞いだ。その声は反射的で、そして、自分で言っておいて幾らか据わりの悪いような様子だった。もごもごと、何か言い訳めいたことを呟く。
相手が目を丸くしたのを見たのかもしれない。
まるで取り繕うように咳払いと、座り直す音が聞こえる。
「私は…少し、怪我をしていてね」
「怪我」
「そうなんだ。だからあまり、明るいところに出たくないんだ。それに、私は変わってしまった。その」
言い淀み。
「昔の私を知っている相手には、なるべく見られたくないんだ」
さっきから声が揺れている。聞こえてくるのは、ハニカムウォーカーの記憶にある、気丈な女騎士のイメージからは遠い。
二人は日常の付き合いが深いわけではなかったが、奇妙な接点があった。フランチェスカが赤襟の客分として龍の国に住まいを構えたのは、ハニカムウォーカーが流れてくるよりも幾分前になる。
二人の最初の出会いは決して良いものではなかった。
かつて、入国したてのハニカムウォーカーが巻き込まれた「泣き人形事件」の解決までの二週間。誤解によるものではあったが暗殺者と女騎士は二度激突した。真剣に争い、斬り合った。どちらが優勢とも劣勢とも言えない争いであった。一度はハニカムウォーカーが不意を衝き、一度はフランチェスカが正面から圧倒した。二度とも決着はつかなかった。
以来二人はお互いを意識して、ただ、衝突だけは避けるようにして付き合っている。深入りすればするほど、些細な違いから斬り合いに発展する可能性がある関係である。だが、
お互いに「許せない相手」ではなかった。
斬り合いといくつかの誤解を経て二人は、交わることを選んだ。
ハニカムウォーカーはいつものように軽口を叩いているが、はたして、そこにも目に見えない配慮のようなものがあるようにも見えた。
「見られたくない、か。それが、わたしであってもかい」
苦悩の色を隠さず、フランチェスカが頷く衣擦れの音。
「ねえ、フランチェスカ。ここで会ったのもなんかの縁だ。改めて仲良くしようよ。これもひとつのチャンスだと思うんだよ。お互い、牢屋にぶち込まれた身だ。そっちは何やったの?話したくないなら話さなくていいけどさ、わたしは君のことをもっと知りたいって思ってる。陳腐だけど、お互いファーストネームで呼び合ってみるところから始めてみないかい」
「…メアリ」
低く、低く名を呼んだフランチェスカに、メイド服の暗殺者は驚いた顔になった。一瞬だけ何かを言いかけては止め、それから前のめりの姿勢になる。
「こいつは驚くな。いや、気を悪くしたらごめんよ。でも、すごく意外だった。嬉しいよ。わたしも君のこと、ニックネームで呼んでもいい?」
「好きに呼んでくれて構わない。ただ、フランカ、とは呼ばないでほしい」
「勿論。意思を一番に尊重するよ。なんて呼ぼうかな。そうだね。あんまり捻ると訳が分からなくなるからな。チェスカ、チェッカ、その辺でどうだい」
「……構わない」
おしゃべりな暗殺者が言葉を切ると、重苦しい沈黙が上書きされる。
そこにあるのは、灯りと暗闇という以上の隔たりのようだった。手を伸ばしてもまるで届かない水の底のように、暗闇は静けさをたたえている。
「ねえ、ひとつ、約束をしよう。わたしは今夜、君に嘘をつかない。今夜に限っては一切の嘘をやめるよ。君がそれに応えるかどうかは任せるけど、これがわたしの出せる一番の誠意だと思ってほしい」
ハニカムウォーカーは先程の紙片をひらひらと振った。
「さっき言ったのは勿論嘘だよ。手紙の話は嘘だ。君の名前なんてどこにも書いてない。君のびっくりした声を聞きたかっただけなんだよ、チェッカ。これは、ただのわたしのお守りみたいな手紙だ。ここにぶち込まれる時に取り上げられなくてよかったって心から思ってる。枕元から取り出したように見えたろうけど、元々持っていたものだ。看破した通り、芝居だよ。」
「そうか」
「踏まえて、正直な話だ。わたしは一秒でも早くここを出たい。外で約束があるんだよ。君はどう?」
「……」
沈黙。
「嘘だろ?もしかしてそれって、わたしとここで一秒でもいいから、少しでも長く一緒に居たいってこと?」
くるりと首を回して暗殺者は寝台から足を下ろした。少し高い位置で結い直した髪。スカートの裾を直すと、そのエプロンドレスに点々とついた血の跡と傷が痛々しく目立った。
中身である本人は、気にした風でもない。とんとんとつま先を床に打ちつけ、体の感覚を確認しているようだ。
「まあ、そんなわけないよな。となると、可能性が絞られてくるんだけど、チェッカ。君の口から聞きたいな。答えてくれないか」
真剣な顔。
「わたしは、一体、何の罪でここにぶち込まれたんだろう?そして、君は?」
長い沈黙。
「その話の前に、少し別の話をしてもいいか」
何度か躊躇い、女騎士はようやく声を出した。困惑が漂っている。ハニカムウォーカーは軽く目を瞑り、黙って続きを促した。
「ありがとう。必ず、後でそちらの質問には答えるよ、メアリ」
「こちらこそ。今のわたしは、自分の疑問より君の話を聞きたい気分になってきた。嘘じゃないよ」
「突飛な話なんだが、貴女は、魂、というものの存在を信じるだろうか」
フランチェスカの声は、慎重に言葉を選び、決してふざけている調子ではない。暗殺者は、話が長くなりそうだと判断したのか、再び寝台に腰を下ろし、ゆったりと足を組んだ。
「定義によるけど、わたしは概ね、“信じない”という立場だね」
「私もだ」
ぽつりと彼女は付け足す。
“私も、だった”。
それを聞いて暗殺者は膝を立てる。
「どうしたんだい。なんか神秘的な体験でもしたのかい。騎士様はよく回心というやつを経験するとか聞くけど」
「神秘的な体験…と呼べるものではない。もっと、おぞましく、なるべくなら思い出したくもないような、それは」
「それは、その怪我の原因と関係があるのかな」
「……」
フランチェスカはまた、長く黙る。ハニカムウォーカーは両手を大きく振った。
「ごめんごめん、よほど触れられたくないみたいだね。謝るよ。もう怪我の話はしない。そっちが話す気になるまでもう何も言わないよ」
「いや、そうじゃない。なんと言ったらいいものか、分からないんだ」
「何が」
「以前の私と、今の私が、本当に同じ存在なのかどうかということについて」
「すごい哲学的な話になってきたな」
なんの色もついていない、囁くようなつぶやき声。聞こえなかったのか、闇の中で何かが蠢いた。姿勢を変えたらしい。
「脳、という器官がある。ほとんどの生物の頭蓋の中にある、薄桃色の、弱い器官だ」
「あるね」
「脳に損傷を与えると大抵、人は死ぬ。それは分かっている。死なないまでも、人間らしい機能が大きく損なわれる」
フランチェスカは慎重に言葉を選んでいるようだったが、少しずつ、その声には熱が帯び始めている。
「特に記憶は、脳にこそ宿るとされている。記憶だ。メアリ。書き付けのように、私たちが見聞きしたものは、私たちには読めない文字に変換されて、この脳の中にしまい込まれるのだという」
低い咳払い。
「では、その記憶を全て、消されてしまったら人はどうなるんだろう」
「それは、わたしの見解を聞いてるのかい」
「そうだ」
「程度によるというのが正しい答えだろうけど、完全に何もかも、それこそ口癖だとか、性格を形作るきっかけになった思い出とか、そういったものも全て消されてしまったとしたら、それは別の人間ということになるんじゃないかな」
「そうか」
「もっとも、どんな言い回しを好むとか、どうやって言葉を覚えていったかとか、人間の記憶はエピソードと切り離せない。言葉も、生活習慣も、剣の振り方とかボタンの留め方、そういうものを含めて全て剥ぎ取ってしまうレベルでなければ『全て消される』というのはちょっと現実的じゃないと、わたしは思うよ」
ハニカムウォーカーはすらすらと喋ってから、考えるような顔になった。女騎士は、一体なんの話をしているのか。
「私はさっき、魂というものを信じるかと聞いた。魂があるという考え方は、この脳というものが記録媒体だという考え方と、とても相性が悪い」
「肉体を抜け出して彷徨う魂というものがあるとしたら、一体そいつは『どこ』に記憶を保持しているのだろうか、ということだね」
「そうだ。脳のある身体から、細く長く、見えない索のようなものを伸ばしているという考え方ならぎりぎり矛盾はしない。魔術を嗜む連中は、なんだか自由なことを言うが、概ねこの考え方の範疇のようだ」
「精神体というのは、目に見えないからなんとも言えないね。わたしも魔法の素養はあんまりない」
また、フランチェスカはしばらく黙る。
「なんだい。らしくないな、チェッカ。怖がってる匂いがするぞ。まさか、オバケが怖いって話かい?」
「……死霊術というものを、聞いたことがあるか」
振り絞るように女騎士は答えた。暗殺者は足を組み替えて息を吐く。
「まあ、そりゃ、こういう仕事をしてるからね」
「あるのか」
「死体を操る連中なら時折出くわす。死人を蘇らせる連中はまだ噂だけ。実物は見たことがない」
「私は」
女騎士はまた、言いかけて止める。暗闇に奇妙な緊張が満ちる。
「私の、声を、聞き間違えないと言ったな」
「言ったよ」
「では、声が全く同じなら、それは私ということか。同じ声をして、貴女が覚えている過去の出来事を誦じられたらそれは私という条件を満たすか。私の心臓が、もはや動いていなかったとしても」
「なんだい、変なことを言う」
「私は、変わってしまった」
ため息。深く、後悔のようなため息。
ずるり、と何かを引きずるような音。
後悔のような口調とは裏腹に、鋭い、暗闇から地を這うような瘴気が漂いだす。憎しみ、復讐、絶望。形を持った負の感情が、まるで倍速で伸びる蔦のように床を這う。
ハニカムウォーカーは、しかし、それほど深刻な様子ではなかった。
足を組んだまま前傾し、自分の腿に頬杖をついて暗闇の奥を見る。その目は少しだけ暗い。
「髪の毛を切った程度で、変わってしまったっていわれてもなあ」
「!」
息を飲む気配。同時に瘴気がゆっくりと薄れてゆく。まるで、風船が爆ぜたように感情の塊だけが圧を下げた。
それは完全に消えたわけではないが、もはや暗く張り詰めてはいない。不穏な空気はあるが、緊張と呼べるものの範疇だ。暗殺者は別に瘴気を制するつもりではなかったのか、つまらなそうな口調のままだ。
「別に慌てないでいい。完全に見えてるわけじゃないんだ。ただ、こちらもそういう仕事をしているからね。聞こえてくる音である程度の見当はつく。そんなモゾモゾ動いてばかりいたら尚更だ。髪の毛はいま、肩くらいまでかな。ずいぶん切ったみたいだね。綺麗なお団子だったのにもったいない。失恋かな。結んでもいないし、毛先もなんか荒れてるみたい」
「……驚いたな。本当に見えていないのか」
「これくらい、そんなに難しい技術じゃない。他にも幾つかはわかる。なんか棒みたいな、まあ剣かな、剣だろ、とにかくなんか長いものを抱えて座っているね。地べた。そっちの部屋には寝台はないの?あまり地面に直ってのはお勧めしない。お尻、冷えちゃうよ」
面白くなさそうに解説しながら、不意に言葉を切って暗殺者はため息をついた。
「敵意、ともちょっと違うんだよな。感じるのはさ」
今度は体を反らして、天井を仰ぐ。女騎士は喋らない。
「怯えて、不安がっている。そして、多分、何かを言って欲しがっている。撫でてほしいの?そりゃ、確かに以前の君らしくはない」
「…分かるのか」
「分かるよ。何度も斬りあった仲だ。そういうものだろ。わたしだって、以前と比べたら少しは変わったはずだ」
「また斬りあえば、もっと、分かるだろうか」
ほらきた、と天井を向いたままハニカムウォーカーは首を振った。
「本音を言うよ。今は特に、誰とも戦いたくない」
「……」
「相手が君だからとか、武器がないからとかじゃなくて、とにかくそういう気分じゃないんだ。今夜はちょっと疲れた。今夜…まだ夜だよね。昼まで寝てたのかな、わたしは。ここは窓がないから時間が分からないけどさ。でも…そうだね」
茫洋とした口調で、初めてハニカムウォーカーが言いよどんだ。ほんの少し、溜めてから体を起こす。
「単刀直入に言うよ。ほのめかしとか、匂わせたりするのはもうやめないか。もっと具体的に話そう。笑ったりはしないよ。何が君に起きたんだい。力になれるようなら力になる。できないことはできないけどさ」
逡巡。沈黙。
「ハッキリ言って、今のわたしは普段のキャパシティを越えるくらい色んな依頼を受けてしまっているんだけど、ここから出るのを手伝ってくれるなら少しくらいの残業、超過勤務、多重労働くらいはなんとかしようって気持ちはある。何より、君が苦しんでいて、秘密を打ち明けたいって言うなら半端な味方よりわたしくらいの距離の他人の方が都合がいいんじゃないかな。ちょうどいい距離間って、自分で言うなって話だけど」
闇の奥で再び女騎士が動いた。そろりと立ち上がり、そして部屋の境、壁の裂け目に向かう。ずる、と何かを引きずる音は恐らくはその剣の鞘だ。片刃の、少しだけ湾曲した鞘。一歩ごとに瘴気のようなものが薄れてゆく。
眩しそうに手をかざし、裂け目を潜ったフランチェスカは暗殺者の指摘通り、長かった髪をばっさりと切っていた。肩にかからない長さ。前髪は頬にかかっている。金色だった髪は今、左側半分だけが黒い。染めたのだろうか。
そしてその黒髪のかかる左側の眼には、紺の眼帯だ。残った一つの眼が、ハニカムウォーカーを見つめている。光を返さない、表情のない目であった。
「驚いたかい」
「……まあ、ある程度ね」
剣姫、フランチェスカ・ピンストライプは隻眼の剣士として姿を見せた。
以前から愛用していた銀色の軽鎧ではない。弓兵の使うような、半身だけを覆う奇妙な鎧の新しい色は、黒だ。差し色として、黄金と赤の曙光の刺繍が腰から胸に伸びている。
彼女の象徴でもあった、堅牢なる城門の籠手はその両手に鈍色に光っているが、印象はまるで違う。
以前、首元まできちんと釦を留めていた白い女騎士は今や、ゆったりした袖の、暗く闇に紛れるような剣士として暗殺者の前に立つ。
「失恋かな?」
片眉をあげてハニカムウォーカーが眼帯を指すと、意外にもフランチェスカは暗い笑顔を見せた。
「失恋でこうはならんだろう」
「どうしたの」
「一言で説明するのは難しい。ただ、私は変わってしまった。変えられてしまった」
「それは一体なんだい、さっきからその繰り返しだ。具体的に何なのかが全然見えてこない」
「信じられないだろうが…私の中に、他人の記憶が埋め込まれてしまった」
ひゅう、と息を吐く音。沈黙。肯定でも否定でもない。
女剣士は続ける。
「私の記憶と、見知らぬ他人の記憶、今の私の中には別々の人生が混じってしまっている。今の自分が過去の自分と本当に同じ人間なのか、もう自信がない。こちらの目は、見たことのない記憶が、亡霊のような幻覚が見えるようになったから、こうした」
フランチェスカはまるで痛みを思い出すように、そっと左目の眼帯を押さえる。
「それはひどく痛めつけられて死んだ女の記憶だ。彼女の記憶が、私を苛む。偽物じゃない。この記憶の主は確かに存在していたし、もう死んだ。だが、私の中にはもう一人の私としてまだ、生きている。死ぬ寸前のまま、私の中に生きている。どこまでが私の記憶で、どこまでが彼女の、私の記憶なのか自信がない」
「チェッカ」
「記憶が同じなら、同じ人間なのかと聞いたな。では、私の肉体に宿るこの記憶の主は、私は、果たして死んでいるのか。それとも、まだ生きているのか」
左目を押さえたまま、残った眼が痛々しい。ハニカムウォーカーの顔を見つめてはいるが、本当に彼女を見ているのだろうか。
「剣を振るにも、勝手が変わってしまった。時々私の意志と関係なく体が竦む。その時によって、片手がうまく動かないことがある」
ふう、と割り込むように暗殺者が大きく息を吐いた。空気がまた少し変わる。
「でも、それでも戦えるようにもう一度鍛錬したんだろ」
「……まあな」
「チェッカ。君のそういうとこ、わたしは嫌いじゃない」
まるで半身が不自由なような口ぶりだったが、その立ち姿の圧は以前と同じ強者のそれだ。剣を腰に刷かずに持っているのはもしかしたらどちらの腕でも抜けるにようにかもしれない。柄に手をかけてはいないが、その剣の間合いはまるで物理的な壁のように、その間合いの範囲の空気を支配している。
すっと立ち上がったハニカムウォーカーは無造作に彼女のその間合いの中に踏み込んだ。
「そら、斬りたくなったかい」
まるで囁くような声。それで十分聞こえる、抱き合うような距離。
親しげに、頬をつけるようにしてハニカムウォーカーは薄く笑った。
フランチェスカは動けなかった。
間合いの内側すぎて反応できなかったのとも違う。敵意も何もない、暗殺者はまるでそうするのが当たり前のように致死の間合いに入った。私は相手が丸腰だったから油断したのか。違う。もっと異次元の何かだ。フランチェスカは残る目をつぶった。
「君はわたしを斬らないよ。君は昔の君と同じだ。わたしが保証するよ」
悪戯っぽく笑って、暗殺者は身体を離した。
「それより約束だ。わたしが君の存在を保証する。君はわたしの質問に答える。そういう約束だったね」
間合いに踏み込んだ時の、意識の隙間を刺すような動きとは全く違う空気。くるりと無防備に背中をさらし、ハニカムウォーカーは自分の寝台に戻る。その背中には、いくつかの傷。血の跡。少なくともリィンとの戦闘で受けたダメージは跡となって彼女に傷を残している。フランチェスカは片方の目を少しだけ細めてその跡を見る。
「わたしは一体、どの罪でここに放り込まれてるんだい」
「まず、伝えておこう」
フランチェスカは低い声で、彼女の背中に声をかけた。語るのは、意外な事実だ。
「貴女の罪状に、明確なものは今のところ何もない」
「なんだって?」
「貴女をここに収容したのは、宮廷会議の暫定的な結論だ。告訴人は貴族の屋敷への、不法侵入と暴行、器物損壊、それからなにか、些末な罪状も喚いていた気がするが、すまん。興味がなかったので私はあまり聞いていなかった」
「侮辱行為かな」
「ああ、そうだったかも知れん」
剣姫が、ちら、と扉を見た。
「例のエルフ様はとにかく、貴女を牢獄に放り込むか国外に追放してやりたいみたいだったが、どれも要件を満たしていない。彼女の話自体に不審な点が多すぎたのだな。宮廷会議はエルフの私的機関ではない。収監せよと喚く者がいたとて、規約に沿って手続きを踏まねば何事も為されない」
「だったらなんで」
「これは、保護だと思ってもらって構わない。私は罪人でもないし、看守でもない。貴女の警護だ。隣の部屋は、正確には牢獄の房ではない。問題があって、こう、今や繋がってしまっているが元々は倉庫だった」
「問題、ねえ!誰か脱獄しようとしたのかい?」
ハニカムウォーカーは一瞬、笑い出すような声を上げたが、すぐに黙る。思い出したように、彼女は首をかしげた。
「警護、ってことはチェッカ。これは『赤襟傭兵団の仕事』って解釈でいいのかな」
「そうなるな」
「自分から志願した?わたしに会いたかったのかい?」
「そう言って欲しいのか?」
返事をせず、また少し黙る。ハニカムウォーカーの声のトーンが少し変わった。
「いや、存外これは重要な点になるかも知れない。君がここに居るってのが、君の意思なのか、それとも誰かが、そうなるように仕向けたのかってのがさ」
「言っている意味がよく分からんが、私から志願したわけではない」
「そう。指示されたんだね。それは誰から」
「赤襟の傭兵のことは、家長が決めるのが掟だ」
「ザーグ。フェザーグラップ・アンデリックか。君は家族じゃないだろ。それとも赤襟の誰かに嫁入りしたの?」
軽口に首を振って剣姫がため息をつく。
「…そうではないが、仕事内容に関しては、一族も、客分の私も例外ではない」
何かを考えているようだったハニカムウォーカーも、やがてまた、フランチェスカと同じように首を振った。話題を変えるように、肩越しに声をかける。
「で、さっき、扉を見たのは?これから誰か来る予定なのかな?」
寝台に荒く腰掛けたハニカムウォーカーは、肩越しに振り返ったのも不満そうな表情だ。フランチェスカが話の途中に扉を見たのは確かだが、大仰な動きではなかった。背中に目がついているような暗殺者の問いに、剣姫はやはり首を振って答える。
「いや、その予定はないはずだが、少し、嫌な感じがした」
「そういうの信じるタイプだったっけか?」
「まあな」
「奇遇だね。わたしもさ。わたしの武器はどこだい?」
「表に置いてある」
「なんてことだ」
そういってハニカムウォーカーがフランチェスカの方へ身体を向けるのと、牢獄の扉がガチャガチャと音を立てるのは同時だった。誰かが、扉を開こうとしている。扉は重く、覗き窓もない。
「誰だ!」
フランチェスカの誰何の声。左に鞘を引き寄せ、束に手をかける臨戦態勢だ。彼女の半径、弧を描いて死の領域が見えるような必殺の間合いが即座に生まれる。
同時にハニカムウォーカーは、まるで液体になったようにどろりと前転しながら床を這い、扉の脇、蝶番側の隅に音もなくぴたりと収まった。
それを見て、フランチェスカは一歩下がる。扉から入ってきた相手を両断できる間合いから、わざわざ一歩、外れた。暗殺者はおどけたような顔で彼女を見て、そうそう、とでも言いたげな表情で小さく頷く。
扉の外の相手は答えず、開こうとしている。錠の外れる音がした。
「開けるな」
フランチェスカは、大きくはないが通る声で警告を発した。
ばん、と勢いよく扉が開く。そこにいたのは竜である王の警護を行うべき兵、ロイヤルガードだ。薄青く光る戦術魔法の込められた鎧、すっぽりと覆う兜。ひとりは戦斧を構え、ひとりは大楯を持つ。
ハニカムウォーカーは、開いた扉の裏にすっぽりと隠れるような形で姿が見えなくなった。
「私は開けるなと言ったぞ!何用か!」
フランチェスカは剣を抜かない。抜かないが、依然として束にかけた手を離さない。盾を持ったロイヤルガードが一歩、二歩と室内に踏み込んだ。
「話と違う、こいつ、なぜ武器を持っているんだ」
兜でくぐもった声で大楯が問う。フランチェスカが剣を構えていることに明らかに動揺していた。相手が、王である龍の儀仗兵であることに躊躇っているのか、それとも大楯相手ではさすがに分が悪いのか、フランチェスカがさらに一歩下がった。
追うように盾と戦斧が距離を詰める。
「待て、こいつ」
戦斧が兜の中から少し慌てた声を出した。
「こいつ、ハニカムウォーカーじゃない」
フランチェスカの顔をよく見ようとしたのか、大楯の傍から戦斧が身体を出した。ほんの僅か、フランチェスカの身体が低く沈む。
「私はお前たちに聞いた。何用かと、たしかに尋ねたぞ。答えなかったのはお前たちだ」
「おい女、お前、あの角つきを一体どこに」
そこまでだった。
「お前たち、二人きりだな。不用心だぞ」
フランチェスカの通る声が襲撃者の人数を明らかにした途端、扉がゆっくりと閉まり、二人の退路を絶った。扉の裏には、冷たい顔をしたメイド姿の暗殺者だ。顎を上げ、二人を見下ろす。
「殺すなよ!」
叫びながらフランチェスカが抜いた刀が、構えた戦斧の右手の四指を鮮やかに斬り飛ばした。
ほとんど同時にハニカムウォーカーが隣の大楯の膝を背後から蹴り抜く。悲鳴をあげる隙さえもなかった。膝を折った大楯の頭を掴み、勢いよくそのまま兜ごと後頭部を床に叩きつける。
フランチェスカが斬り上げた刀は翻り、今度はバランスを崩した戦斧の側面を襲う。がきん、と硬質な音がして、片手握りとなった戦斧が大きく弾かれた。
両手で大楯の頭を叩きつけた暗殺者は、そのまま、逆立ちする軽業師のように足を振り回して戦斧の脇腹を蹴る。黒いフリルのついたスカートが翻った。
完全に体勢を崩した戦斧の上に、飛び込むように倒して馬乗りになったのはフランチェスカだ。
刀は逆手になっていた。兜の隙間、喉から剣を差し込む寸前の体勢で、彼女は止まる。まるで、弓を構えるような姿勢でフランチェスカは刀を喉に突きつける。
「指を失くしただけなら、まだ話くらいはできるな?」
彼女は片方の目で、ロイヤルガードを見下ろした。
「私は、呼びかけを無視されるのが嫌いだ。わかったら返事をしろ」
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