「好奇心が猫だけを殺す」(前編)
混雑する酒場を、背の低いフード姿がゆく。
あまり柄のよくない酒場だ。諍い、笑い声。皿の割れる音が目立たないほどの喧騒。賑やかといえば聞こえはいいが、無秩序というのが一番ぴったりくる形容詞だ。広間の壁に沿ってカウンターが続く。フード姿は少し急ぎ足で、人の間を縫って奥へ奥へと進んでいる。
奥のカウンター付近には、冒険者のパーティだろうか。数人が一塊になっている。バーテンは彼らから距離をとっている。グループは並んで座っているという感じではない。近くのテーブルから椅子を拝借し、ばらばらに座っている。よく見ると、一人分だけ椅子に座っていない。立っているのは、左耳の先が欠けているエルフだった。断面には肉が盛り上がっている。古い傷らしい。格好からみて魔術職ではない。軽装、おそらくは弓職でもなく、探索者、あるいは盗賊といった後方支援職のようだった。
耳欠けのエルフは、おそらくはグループの中で一番若く、そして何かの失敗の責任を詰められているようであった。
奥では、半分彼に背を向けた格好でリーダーがカウンターに肘をついている。その表情は、髭のせいもあって何を考えているのか、不機嫌なのかどうかさえも読み取れない。カウンターには小さな短剣が鞘の留め金に帯封をしたまま、無造作に置かれている。その横に銀貨が数枚積んで置いてある。
この店に限らず、龍の国の酒場は基本的にキャッシュオンデリバリー、自分が飲み食いする分だけの前払いだ。
先程の小柄なフード姿が、どん、と椅子に座っている男にぶつかった。結構な勢いだ。立ち尽くすエルフに対して、ねちねちと文句を言いながら首を振っていた男だ。
「おい、気をつけろ!」
威嚇するような声がぶつけられ、フード姿が振り向いた。拍子に、今度は持っていた荷物が別のメンバーにぶつかる。
「うぐっ」
低く、みっしりした打撃音が響く。ぶつかられたメンバーが、唸って脇腹を押さえた。フード姿は小柄だったが、抱えている何かは相当に重量のある金属かなにかのようだ。
「おい!」
椅子の男はフードの肩を掴み、自分の方を向かせる。掴んだ肩口の感触は華奢だ。相手は女か、少年で間違いない。
「てめえ、気をつけろって言ったんだ」
「き、気をつけてました、ごめんなさい」
若い女性の声だ。震えている訳ではないが、おどおどした調子である。椅子の男は唇を舐めた。
「気をつけてたら荷物は当たらねえんだよ」
「すみません、あの」
「おい、謝るときは相手の顔を見て、って習わなかったのか」
どの国も同じだ。龍の国にも粗暴なものは居る。喧嘩になることは稀だが、相手が自分より弱そうと見るや横柄な態度になるものは少なくない。
問題は、特にこの国においては見た目で戦闘力の強弱が計りにくいということなのだが、それはそれとして誰が来ても負けないという腕自慢の者や、他の国での振舞い方をそのまま続ける者も、少なくはない。
「いえ、あの」
フード姿は言い淀み、そしてそのままの怯えた調子で続けた。
「習いませんでした、本当にごめんなさい」
椅子の男が呆気に取られて一瞬、絡みに行く台詞を落とした。女はフードを取る気配はない。
横にいた仲間たちが吹き出す。
立たされていたエルフだけが硬い表情のままだ。慌ててフォローするようにフードは続ける。声のトーンは真摯な謝罪のトーンのままだ。
「私、これまで謝ることがそんなに多くなかったので…」
一団から乾いた笑いが起きる。
椅子の男が無表情になって椅子から降りた。随分と背が高い。がっしりした体つきである。入店時の決まりとして、白紙による帯封で剣と鞘を封じてあるが、そんなもの、いつでも抜こうと思えば抜けるただの印である。濃密な暴力の気配が漂う。
彼を手で制して、荷物をぶつけられた男が語りかけた。
「それはそれとしてさ、痛かったぜ、おい」
「ごめんなさい」
「その荷物、何が入ってんだ」
「言えません。ごめんなさい」
フードのまま、ぴょこん、と頭を下げる。ほとんど毒気を抜かれるような素直さと声の調子だが、相手の表情は緩まない。
「嬢ちゃん、田舎から出てきたばかりなのか?」
「確かに実家は南の島ですが、別に都会を知らないわけではないです。学校も出ました」
「じゃあ教えといてやるが、目上の人間にちゃんと謝るときは事情を説明して、相手に納得してもらわなきゃならねえ」
「はい」
「嬢ちゃんの用事が、メチャクチャ急いでるとかさ、おれたちが納得するものなら、ああ仕方ねえな、そりゃぶつかるのも仕方ねえ、ってなる。わかるだろ」
「仕方なければ、許してもらえるんです?」
「ああ、そうだ。でも、別になんの理由もなくぶつかってきたなら、それは、許せんよなあ。だからまずは、これから何するところだったか、おれたちに大きな声で言ってみろって言ってるんだ」
店内、彼らが固まっている奥にあるのは、化粧室、つまり便所である。普通に考えればなんのために急いでいたのかは聞かなくてもわかる。いつのまにか、謝る謝らないという問題は、完全な嫌がらせにシフトしていた。
フード姿が俯き、答えずにいると、男は大きくため息をついた。
「おれたちは、今晩元々あんまり機嫌が良くねえんだ」
「そ、そうなんですか」
「ああ、そうさ。だから、お嬢ちゃんがそのフードを取ってな、おれたちの横に座ってさ、ちょっと愚痴を聞くのに付き合ってくれるなら別に水に流してやったっていいんだぜ。ぶつかるだのぶつからないだのってのは、ほら、些細なことだろ」
きわめて治安が悪い口説き文句だ。脅迫と言った方がすんなり来る。鬱憤をぶつけたいだけなのか、それとも本当に酌婦を現地調達しようとしているのか。その両方なのか。
「ごめんなさい、謝るから許してくれませんか、だって、その」
「なんだよ、聞こえねえ。大きな声で言ってみろって」
最初に立ち上がった男も、その意図に気付いたらしく、彼女の逃げ道を塞ぐように緩やかに立ち位置を変えた。
「あの、悪気はなかったんです」
フード姿は、意を決したように顔を上げた。顔は見えないが、細い顎と、色素の薄い唇が覗く。
「ぶつかった理由を、といわれたら、それは、急いでいたからで」
「だから、な・ん・で・だ…って」
「それはだって、あなたたちが、邪魔だったから…」
思いがけない直球の返事に、全員が息を呑んだ。
フード姿は、少し震えるようにして目の前の集団を順番に窺う。絡んできた男が二人、半分背を向けたリーダー、立たされていたエルフのほかに、まだ積極的には関与しないメンバーが二人。
「ほ、ほらっ、ちゃんと言いました!だからもう通してくれませんか!」
その声色だけを聞けば、酒場でチンピラたちに絡まれた少女が、必死で抵抗しているようにしか聞こえない。
男たちは決めかねていた。これは、口の利き方を知らない少女が追い詰められておかしくなった受け答えなのか、それとも、それを演じた上での丁寧な挑発なのか。
集団がその結論を出すよりも一瞬早く、結論がどうであれ行動に差がないと判断したのだろう。彼女に話しかけていた二番目の男が椅子から降りざま、暴力的に手を伸ばす。
「やっ、やめてっ」
ごとん、と荷物が床に落ち、自由になった少女の両手が男の突きを受けた。触れるか否かで、べぎん、と異質な音がして男の右腕、肘から先があり得ない角度に曲がった。続けて流れるように少女の肘が、男の喉に吸い込まれる。
「やめてって、私言いましたよ!」
男は声も出さず、完全に戦闘力を失って椅子に押し戻されたまま項垂れた。その目は既にどこも見ておらず、口からは血泡が垂れている。一目でわかる、危険な状態だ。
最初の男が、彼の惨状を横目で見ながら、一瞬の間を置いてフード姿の肩口に手を伸ばした。それは敵対行動を認識したというよりは、条件反射的な動きと言えた。
少女は今度は、掴まれるがまま引き寄せられる。自分で引き寄せておいてそのあまりの手応えのなさに、逆に男は対応ができない。怒声すら出せずただ懐に抱き迎える格好となった。
「…ん…っ!」
詰まる声も、まるで強引な客引きに抵抗するような調子だったが、完全に間合いの内側から、伸ばした指が男の喉に刺さった。やはり声を出さずに男が白目を剥く。
「乱暴、やめてください…っ」
声と、状況がまるでちぐはぐだった。
体を入れ替え、少女が伸ばした指先を引き抜くと一瞬置いて、まるで栓を開けたようにぼたぼたぼた、と大量の血が垂れる。ぐらり後ろに倒れる大きな身体を先程のエルフが慌てて手を出したが支えきれず、巻き添えになってその大きな身体に半分つぶされそうになっている。
離れたところにいるバーテンからは、小競り合いや、客同士の軽い衝突程度にしか見えていないが、既に二人が瞬時に、音もなく静かに、完全な戦闘不能に追い込まれている。
異常事態であった。
「いい加減にしてくれないと、私、怒りますよ…!」
エルフに支えられた男の服で手の血を拭いて、フード姿が少し強い声を出した。男の陰にいるエルフは何もできないままだ。押し殺した声だが、初めて少女の声に敵意が生まれていた。
そんな少女への返答がわり、半分背を向けていたリーダーが振り向きざまに短剣を放った。カウンターに置かれていたものだ。いつのまにか武器封が解かれている。殺意を込めて頭部を狙ったそれを少女はしゃがんで躱すが、一瞬遅れてフードが持って行かれた。
はらり、とその顔が露わになる。
化粧っ気のない青白い頬、上目遣い。汗ばんで、かすかにうねる細い髪。怯えたような目をした少女。
ソフィア・ウェステンラであった。
彼女が宮廷の地下牢獄からグラスホーン・パトリックノーマンマクヘネシーを拉致・脱獄してしばらくが経っている。市中に姿を見せた彼女のそばには、しかし、不運なエルフの姿はない。
そして、少女のかなり後方では別の騒ぎが起こっていた。
フードを裂いて直進した短剣は、まったく関係ない長身の有角人の戦士の背中に突き刺さった。一拍置いて、野太く盛大な悲鳴が響き渡る。
刺された戦士の連れは、さっきから小競り合いをしていた近くのグループの仕業だと誤認して、いきなり手近な相手に斬りかかった。斬り上げた剣が鮮やかにきらめき、ビールジョッキの上半分とともに指が3本、宙に舞う。
斬られた男と、周りの客が再びの悲鳴。
両断されたジョッキがくるくると飛んで、また別のグループの、軽装の魔術師の脳天に落ちた。がちゃん、音とともに砕けて派手な流血、三度目の悲鳴。
大声が響くたび、悲鳴と怒号、流血の範囲が増してゆく。
てめえ、だれだ、さっきから、女の顔だぞ、やめろ、いてえ、ころしてやる、そっちが先に、冗談じゃない、やめろって、誰だ。
様々な怒声が酒場に渦巻く。誰も事態を把握できていない。そこにはただ狂騒と敵意、害意だけが爆発的に発生していた。
人は、自分から仕掛けることを躊躇うタイプでも、それが「反撃」にあたると自覚した瞬間に暴力へのハードルが著しく下がる。戦闘を始めた三つのグループは、それぞれが自身を被害者だと信じて疑わない。おれたちは、何もしていないのに理不尽な攻撃を受けた。自分の身は自分で守らなければならない。先に手を出したやつが悪いのだ。報いを、受けさせねば。これは正当な権利だ。やられたままでは居られない。
積極的に喧嘩に参加しようという者、巻き込まれまいと慌てて這うように入り口に向かう者、事態を鎮静化させようと、必死で止めようとする者。騒ぎの発端を求めて三様の騒動が拡大してゆくが、誰も酒場奥の、ソフィアたちには目を向けない。酒場中央での騒ぎは瞬間的に、そしてあまりにも大きくなりすぎている。
フードを取られ、その顔をあらわにしたソフィアは背後の様子を振り返り、そして憤慨したような声を出した。
「あなた、公共心というものがないんですか!酒場で、人がいる方に向かって刃物を投げるなんて」
「おまえが…それを言うかね」
「私は何も、恥ずかしいことなんてしてません。私、悪くないですから」
「こういうオカシイのがゴロゴロしてるんだよな。怖いねえ、龍の国ってのは」
リーダーはうっそりと返事をしているが、その身のこなしに隙はない。戦闘力の高そうな風体だ。慎重にソフィアから距離を取っている。体術の恐ろしい威力はすでに見た。残りの二人も戦闘態勢には入っている。
椅子の男の口から新しい血泡はもう止まっていた。呼吸自体をしていない。
新入りエルフに支えられていたもう一人の男の体からも力が失われ、新入りエルフは重さを増した死体から逃れようともがいている。元々戦力になるとは思っていなかったが、盾程度にも使えそうになかった。
残る仲間とどう連携を組むのが正しいのか。それとも無駄な損耗を避けるため、これ以上の戦闘は回避すべきなのか。
戦闘職としての算段を窺わせない、眠たそうな口調である。
「おうおう、見事に、殺しちまって、まあ」
その声色は落ち着き、目の前で仲間を殺されたものとは思えない。
無駄口の裏で、彼の中ではある程度の結論が出ていた。実際ところ一団の付き合いはそれほど深くなかった。仕事のために集まった急拵えのパーティだ。死んだメンバーは今日が初対面だったしそれに、そもそも仲間が死んだり殺されたりすることを日常の仕事にしている一団である。
ここは、これ以上争っても益になることはない。騒ぎに便乗して殺しておいた方が後腐れはないだろうが、果たして残った三人でリスクなしに殺せるだろうか。
考えれば考えるほど、答はノーだ。
「しかし嬢ちゃん…見たことがあるぞ、おまえ」
和解の糸口を探すためか、交渉を優位に進めようと煙に巻くためか、迂闊に呟いたそれが彼の死因だった。
その言葉を聞いた瞬間、ソフィアが消えた。まるで瞬間移動のような猛烈な速度で距離を詰め、足を掬う。リーダーが半回転して倒れるのと、その喉にソフィアの踵が突き刺さるのは同時だった。男を踏み殺しながら上体を捻り、ソフィアは再びフードを目深にかぶる。
彼女は、乱闘の喧騒を背景にして、静かに尋ねた。
「ほかに、私の顔を見た方、います?」
その場に残っているのは二人。
*
同じ頃。
メアリ・ハニカムウォーカーが目覚めたのは、墓所のような牢獄だった。墓所のような、というのは少し過ぎた表現かもしれない。地下ではあるのだろうが適度に明るく清潔で、そこに死の臭いはない。墓所と似ているのは、そのぞっとするまでの静けさと、流れない空気の埃くささだ。
酒乱エルフとの、屋敷での争い。プラムプラムを庇って魔酒の弾丸を無数に撃ち込まれ、彼女の意識は一度、完全に途切れた。
完全なる敗北と言ってもよかったが、まだ命が残っている。二度と目覚めなくなることがなければ、それはまだ巻き返すチャンスがあるということだ。
彼女は不意に目を覚ましたが、目を開かない。用心しているのだ。周囲に人の気配がある。人数はわからないが、とにかく誰かが彼女を、視ている。
目を瞑ったまましばらく時間をかけて、彼女は自分の状態を確認する。着衣をどうにかされた形跡はないが、最低限の傷の手当と身体検査はされたようだ。仕込んだナイフだけでなくメイド服に縫い込んであった工具までもがなくなっている。
身体の拘束はなさそうで、しかし、痺れ薬の影響はまだ続いているようだった。
寝台に寝かされているのか、別の何かか。彼女が横たわっているのは、とにかく布地の上だ。少なくとも拷問台ではなさそうだった。体温の奪われ方からして、地べたではない。横たわった感触は決して悪くはない。
と、なると、ここはリィンお嬢様の屋敷の地下にあるという噂の、私設拷問部屋ではなさそうだと彼女は考える。自分が殺されておらず、そして周囲にプラムプラムの気配もないとすれば、放り込まれた場所がどこなのかという可能性はだいぶ絞られてくる。誰だか分からない監視者は、自分と同じく身じろぎする気配すらない。
このまま寝たふりをしていても、得られるものはなさそうだった。
まるで、たった今目覚めたように彼女は声を上げる。
「う……ん」
身体を伸ばし、目を擦って身体を起こすと、感じていた視線の元がわかった。左手にまだ、少し痺れが残る。
部屋自体は、独房なのだろう。寝かされていた簡素なベッド、洗面台。部屋の隅の、衝立の裏にはおそらく便所があるのだろう。入り口の扉は見るからに堅固で、破壊しようという気すら起きそうにない。そして部屋の中のどこにも、人の気配はない。
部屋の中に気配はなかったが、どこから視られているのかはすぐにわかった。
視線は、「穴」の奥から彼女を観察していた。
穴というよりも正確には、「裂け目」である。奇妙なことに、独房の入り口から見て左の壁の中央が大きく崩れている。人が一人、通り抜けられるくらいに大きな穴だ。これでは「独房」とは呼べない。見る限り、その奥は暗い。目が慣れないがその暗がりに、誰かが居る。
ここがどこか、確定させるには情報が足りなかったが、おそらくは龍の宮廷の、地下牢獄だ。
もし彼女の推論通りだとすれば、そのどこかには昨晩別れたグラスホーンが収監されているはずだった。そして、ここが本当に地下牢獄だとすれば、裂け目の奥は出口なんかではなく、「隣の房」でしかないはずだ。外に通じているはずがない。幾らなんでもこんな大きな、それこそ文字通りのセキュリティホールを残したまま人を収監するはずがない。もっとも、隣の房への穴だとしてもそんな穴を残しておく慣習も聞いたことはなかった。
「初めて牢屋というものに入ったけど、わたしの見たことのある“サイテーの部屋”を更新するほどじゃないね。思ってたよりも全然綺麗だ」
朗らかに、ハニカムウォーカーは天井を見た。独り言にも聞こえるし、自分を視ている相手に語りかけているようにも聞こえる。
「壁のど真ん中にヘンテコな穴がぶち開けられていること以外は、ちょっとしたアパートと比べてもいい線行くんじゃないかな。さすが龍の国だ。声の反響具合から察するに、ここは地下かな?窓がないから空が見えなくて、隣人がどんな人なのか分からないのはちょっとしたストレスになりそうだけどさ。そこにさえ目を瞑れば、ここに住みたいって人も出てくるんじゃないかな」
話しながら、徐々に裂け目に顔を向ける。最後は、明らかに穴の奥に語りかける調子だった。
「わたしたち、仲良くやれるかな。仲良くできそうだといいな」
返事を待っていると、低い咳払いが聞こえた。
「40秒」
「ん?」
「貴女が、目を覚ましてから動き出すまで、寝たふりをしていた時間だ。私は観察し、数えていた」
若い女性の声だった。
あまり友好的な声ではない。押し殺したような、不機嫌そうな声だ。
肩をすくめて、ハニカムウォーカーは座り直す。40秒、という時間は概ね彼女が自覚していたのと同じ時間だ。彼女もまた、相手がどうやって自分を観察しているのかを「観察」していた。お互い、なかなかの精度ということになる。
そこには得体の知れない気味悪さがあったが、気にしていない風に彼女は続ける。
「ごめんね、なかなか起きられなくてさ。別に極端な夜型ってわけじゃないんだけど、このところずっと夜続きだから二度寝が癖になってるんだ。そっちは?」
「私のことはいい」
「そういうわけにもいかないだろ。お互い、すぐにでも退屈で死にそうになるに決まってる。牢獄の夜は長いと聞くよ。もうガールという歳でもないけど、恋の話とかさ、お喋りするにはお互いのことを知って、仲良くしておいたほうがあらゆる意味でお得だ。何なら親睦を深めるためにしりとりでもするかい?わたしはメアリ。メアリ・ハニカムウォーカーだ。ああ、もうすでにご存知かな」
無言の肯定。
「そりゃそうだよね。こんなバカみたいな穴が空いてるんじゃ、実質、シェアハウスみたいなものだ。先にぶち込まれてたにしろ、たまたま同時に放り込まれたにしろ、ルームメイトの名前くらいはそれぞれに教えておくのが自然だ。貴女がわたしの名前を既に知っていてもなんの不思議もない」
ハニカムウォーカーはベットの上にあぐらをかいた。
「でもおかしいな、だとするとわたしにも事前に貴女の名前を教えてくれたっていいようなものだ。どこかに手紙が…おっ、あった。どれどれ」
芝居かかった仕草。彼女は枕元を漁って何かの紙片を取り出した。穴の奥では、少しだけ動揺した気配。
「そんな」
「“そんなはずはない”?」
含み笑いをしてハニカムウォーカーは手元で紙片を広げる。
「でも、ちゃんとここに書いてある。ほら。こっち来て読んでみる?」
「……嘘だ、芝居だ」
「芝居なもんか」
ンフフ、と彼女は壁の穴に顔を向けた。まるで暗闇をすっかり見通しているような目。
ハニカムウォーカーは真顔になった。
「ねえ、フランチェスカ・ピンストライプ。わたしたちは確か、以前に一度、どこかで会ったことがあったっけね」
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