「わたしたちは友達が少ない」(後編)


しばらくの沈黙があった。

頬に手を当てて、暗殺者は少し暗い目をしている。

その目線の先に、エルフの美女は映っていない。どこか遠く。おそらくは、ここではない何かを見つめながら彼女は呟く。


「わたしたちは、友達が少ない」

「……」

「わたしの場合、あまりひとところに留まることのない暮らしを続けてきたからというのを言い訳にしているけれど、たぶん、それは本当の理由ではなくて、そもそも、わたしたちは、ひとと付き合えるように出来ていないんだろうね」


ハニカムウォーカーはプラムプラムの倒れているソファーに近づいた。


「迷惑じゃないかなとか、わたしみたいなのと付き合っていると、相手まで何か良くないことが起こるんじゃないかとか、色々思うことはあるよ。でもそれは全部、後付けの理由だ。わたしは、人を本当の意味で好きになるということがないんだ。もう死んでしまったひとを、後になって惜しいと思うことはある。でもたぶん、他人を愛せないんだよ。わかる?」


下向きの胡乱な目つきに、リィンは首を振って答えた。

背もたれに寄りかかり、リラックスした風を装っているが実際は背筋のラインが緊張しているのが見てとれる。ナイフを持ったままの相手が近づいてきているのだ。気にするなという方が難しい。


「分かるはずなんだけどな。おそらく貴女も、友達が少ない。っていうかさ、いないだろ、友達」


ぼそぼそと呟いて、暗殺者はようやくリィンの顔に目を向けた。その表情は、さっきまでと違ってそれほど険しくない。


「ああ、ごめんよ。別に侮辱するつもりじゃないんだ。ただ、わたしは数少ない友人の、この人をさ、とても大事に思ってるって話をしたかったんだ。わたしたちと違ってプラムは、きちんと周りの人を、その人自身を見ている。わたしたちと違ってさ」


ナイフを持っていない方の手で、ハニカムウォーカーは寝ている友人の髪を軽く撫でた。

リィンはそろそろと息を吐くと、テーブルに残った酒に手を伸ばした。く、と一息で空にして彼女は足を組んだ。


「わたくしとあなたを勝手に一緒にしないでくださる?」

「へえ!」


吐き出すような声に暗殺者は心底愉快そうな声を出した。そして自分の角の横で、ひらひらとナイフを振る。


「結構、言う時はしっかり意見を言うんだね。それなりには度胸もある。わたしのこいつにビビって少しは大人しくなるかと思ってた。それとも単にアルコール中毒なのかな」

「見くびらないでいただけるかしら」

「どっちの意味だい。酒乱の話かい。アル中はみんなそう言う。まだ呑めるろぉ、ってさ」


リィンは答えずに酒をなみなみと継ぎ足し、暗殺者は目をくるりと回す。いつのまにかナイフが手元から消えていた。


「プラムへの感謝を忘れないようにね。お嬢様。彼女が、貴女を赦したから貴女はそうやって好きな酒を飲んでいられる。たぶん、プラムが飲まされたのは、眠るだけの無害な毒なんだろう。そこだけは評価するよ。でもわたしはまったく貴女を許していない。今、わたしの友人を欺いて傷つけ、過去、わたしへの依頼に対しても嘘をついた」

「嘘ですって」


リィンの声が一段高くなる。


「わたくしがいつ嘘をついたというの」

「一晩、仕事のためにゆっくり時間をくれるという話だった」

「差し上げましたが」

「邪魔が入ったよ。盛大なやつがね」


リィンは一瞬動きを止め、そしてハニカムウォーカーをきっと睨んだ。


「何を」

「事実さ」

「何ですって」


エルフは一瞬、手元に目をやり、弾かれたように顔をあげる


「あの死体…あなたが持ち込んだのではないというのですか!」


その目には嘘がないように見えた。ハニカムウォーカーはどのように判断したのだろうか。表情のない目がエルフを観察している。


「なんでわたしがあんなとこに死体を持ち込むと思うんだ。酒の飲み過ぎで頭がイカれたのかい」


ハニカムウォーカーは呆れたように低い声を出すが、その実、リィンがそう思うようにグラスホーン達が室内の様子を仕上げていたというのを、当のリィンは知らない。


昨晩、グラスホーンの提案によって、彼を再び縛り上げた暗殺者は、同じく彼のアイデアによって部屋を荒らした。本を引き出し、ばらまき、壁に血文字を描いた。わたし、ほんとは片付けるのが仕事なんだよ、とぶつくさ言いながら作業していたが、最終的には割と楽しんでいたようだった。


リィンが果たして本当に動く死体の刺客と無関係なのか、確かめるためにはこうするのが一番手っ取り早いはずなんだ、とグラスホーンは言った。

時間は巻き戻って今朝の出来事だ。


可哀想なグラスホーン・パトリックノーマンマクヘネシーは、夜明けとともに宮廷会議の手により捕縛された。


リィンの元に彼が自室で殺されているという匿名の通報があったという。当然、本当はそんな通報はない。リィンは自ら差し向けた拷問官の仕事結果を誰よりも早く見たがった。

嘘の通報を受けたことにして、彼女はグラスホーンの部屋に向かった。


宮廷会議第四席であるリィン・スチュワートキャニオンスクラムキルグラスハートヨルスクリームの指揮のもと、急行したロイヤルガードたちが目にしたものは、目隠しに猿轡の状態で椅子に縛られた状態のグラスホーンだった。


荒らされた彼の自室にあったのは、床に倒れている身元不明の首無し死体だ。ベッドの横の壁紙には、おそらくは死体の血を使って「falsehood」(偽り)という血文字が残されていた。

死体は宮廷の制鎧を着込んでいたが、ロイヤルガードではない。ロイヤルガードは全員、所在が明らかだった。鎧も盗まれたものだった。首から上もなく、指輪などの装飾品も特徴的な刺青もない。結局どこの誰かは分からなかった。大柄な首無しは、検分の結果、成人したヒュームで生前に無数の傷を受けた跡があることがわかった。腹部には大きな損傷があり、血液の大半と幾つかの臓器が失われていた。逆に言うと、それくらいしか分からなかった。身元不明の死体は「証拠品」として地下の凍結書庫に放り込まれた。


縛られたグラスホーンの服や頬には幾らかの血痕が見られたが、いずれも彼のものではなかった。状況からして置き去りにされた死体のものと思われたが、グラスホーンは昨晩、自らの身に何が起こったのかを頑なに黙秘した。


何度か殴られた跡があったようだが本人が無傷を主張したため、強制的な身体検査も治療も為されなかった。龍の国においては、どんなことであっても本人の同意なしには何も行われない。


グラスホーンは青白い顔のまま、正体不明の賊が部屋を荒らして去っていったと証言したが、その他の一切を黙秘した。尋問の言い淀みにより、少なくとも賊のうち一人が女性であったようだということが推測されたが、一貫して彼は賊の狙いについても「分からない、見当がつかない」と、回答を拒否した。


状況証拠から、リィンは一つの結論に達した。

彼女の送り込んだ掃除屋は彼女の要望を聞き、立派に仕事を果たしたのだ。契約通り、グラスホーンに恥辱と、消えない恐怖を刻み込んだのだ。

他人に語ることすら躊躇するほどの凄惨な体験。血で汚れた顔。服。正体不明の死体から消えた臓器。そこから導き出される結論。

おそらく暗殺者は死体の肉を無理やり喰らわせるという禁忌を行った。エルフ族にとっての絶対のタブーを踏み越えさせたのだ。


支払った報酬の額に見合うだけの残酷な結果を見て、彼女は大いに満足した。考えてみれば、肉体的にダメージを負わせるよりもはるかに深い傷痕を残せる結果だ。


グラスホーンは、この先の何百年も、汚れた屍肉を喰らったエルフとして後ろ指をさされながら生きていくのだ。聖殿にも入れない。森林同盟の参政権も失う。里によっては追放処分だ。


そして今朝。

即座にリィンは、暗い喜びと共に宮廷会議を緊急招集した。

彼女はグラスホーンを、可哀想な被害者という建前の元、彼が賊の手によって屍肉を喰わされたことを「事実」として議事録に書き残した。それは永遠に消えない記録だ。さらに身柄保護の名の下に彼女はグラスホーンを投獄した。議事録だけでなく、投獄の記録を彼の経歴に刻みつける。念の入った悪意であった。


それからの昼がすぎて夜である。

メイド姿の暗殺者の前で長命のエルフは髪に手をやり、苛ついたようにくるくると指に巻きつけている。何かを考えている顔。それは優美な表情ではない。


しばらくがあり、長命のエルフは目醒めたような表情になった。口を開いて、閉じ、諦めたように首を振る。


彼女は今朝、自分がたどり着いた結論が間違っていたことを認めたのだ。

死体は「グラスホーンに食わせる為の屍肉入りのバッグ」として持ち込まれたのではなく、どこかの誰かが横槍として送り込んだ刺客か何かだ。無関係だった。


「てっきりあの無礼者に、不浄なる死骸の肉を無理矢理食わせてやってくれたと思っていましたのに」


落胆した様子のエルフの声に被せるように、暗殺者は肩をすくめた。喰わせてやったよ、と返答をしないことが、リィンの落胆を裏付ける。

本来であれば、刺客が誰の手のものか、誰が血文字を書いたのか、どのような顛末だったのかに興味が行くべきなのだが、そんな些事は、この長命のエルフの心には響かない。盛大なため息をつくエルフは、再び酒を呷る。


「もっと他に気にするとこあると思うけどな」

「わたくしは今、とてもがっかりしています」

「きちんと報酬分の仕事はしたよ」

「何かそれを証明するものは」

「今朝の貴女は、随分はしゃいでいるように見えたけど」

「たった今、ご自分でそれが偽りだとおっしゃったでしょう」


到底満足のいくものではありませんわ、とエルフは顎を上げた。彼女は己の悪意を掘り出し、身に纏った。まるで悪意が、鎧のように自分のペースを取り戻させたようだった。

臨戦の準備がすっかり整った。彼女の身のうちに魔素の奔流は準備され、ゆったりした余裕が彼女を落ち着かせている。エルフは王のように優雅に、グラスを透かした。揺らしていないのに、グラスの中身が波紋を作る。


「あのね、お嬢様」


ハニカムウォーカーはため息をつく。


「事実がどうかは関係なく、貴女の目的は果たされたんじゃないのかな。あの可哀想な男は穢れたエルフの烙印を押された。貴女がそうしたんだろ。それだけじゃあ不満なのかい」

「不満ですって?」


エルフは心底不満そうな声を上げた。


「わたくしは、わたくしのお支払いした額に見合うだけの働きを見せてくださらない、と申しておるのです。プロフェッショナルというのは、そういうものなのかしら」


ハニカムウォーカーはソファから離れ、入り口の扉を背にして両手を広げる。つま先が丸く、艶のある靴。黒い靴下。アイロンの利いた袖口。


「話題が逸れてるようだから戻すよ」


その仕草はどこか恭しく、服装がそのものずばりだからか、客を典雅に招き入れるメイドにしか見えない。


「まずひとつめ、貴女は約束をひとつ破った。わたしに一晩、きちんと時間を作ってくれるという約束をだ。貴女が日時まで指定するから、わたしは昨日、わざわざお城の舞踏会の予定をキャンセルして、ドブの中やら天井裏やらを通って忍び込んだっていうのに、だよ。だからわたしは怒っている。少なくとも怒っているということを伝えておかなければならない。お膳立ては全て整えてくれるって話だったはずだ。わたしたちの関係は契約。約束を違えるなら、割増分をもらわなければ割に合わない」

「その横槍はわたくしの責任ではありません。それにイレギュラーがあっても仕事をするのがプロというものではないかしら?」

「言うね。でも、肝心の横槍を入れたのが貴女でない証拠は?」

「そんなこと」


リィンは言葉の途中でグラスを口に運ぶ。


「そんなこと、わたくしがする、意味がないでしょう」


その主張は最もなものではあった。

補強するだけの証拠はどこにもないが、言葉のとおりである。彼女の、その加虐心のありようを見れば納得もいく。異常とも言える「必要ないこと」への興味の薄さも、それを裏付けている。

彼女は、誰が邪魔を差し込んだかに興味を持たない。彼女が興味を持っているのは、グラスホーンに対してどれだけ残酷なことが行われたかということだけだ。グラスホーンに何が起こったのか。どの程度の苦痛が支払われたのか。リィンはそこにしか興味がない。


またグラスを空にしたリィンに、暗殺者は嫌そうな顔をした。


「言いたいことはわかるんだけどさ。自身の異常性を、自身の無実の論拠に使うのはどうかと思うよわたしは」

「アサシン、今のは侮辱ですか」


静かな怒気。ハニカムウォーカーは受け流す。


「掃除屋だよ、お嬢様。そして別に侮辱ってわけじゃあない。まあ、確かに事実は貴女の言う通りではあるんだろう。だけど、契約は契約だ。契約違反は、わたしのルールではぶっ殺してもいいことになってる」

「あなたは、じゃあ、わたくしのために何をしてくれたというのですか」


ひゅう、とメイド服の暗殺者は息をつく。


「本当は昨日、得体の知れない闖入者を倒した後にさ。アドリブを利かせてそいつの肝臓をかわいそうなグラスホーンに無理やり食わせてやったんだよ。そうやって答えたら満足してくれるのかな?」


幾分投げやりに肩をすくめる暗殺者。その意識は昨晩の、グラスホーンとのやりとりに遡る。


首を落とされた死体の傍。一緒に逃げようと提案した彼女に対して、もう一度縛られた上でここに残るとグラスホーンは提案し返した。

彼は勇敢にも、リスクを冒しても自分は宮廷の中から調べてみるつもりだと暗殺者に告げた。念のためとはいえ、意地悪な誘いをかけたハニカムウォーカーに対して誠実すぎると言ってもいい返答だった。


ミス・ハニカムウォーカー。これは予想なんだが、リィンお嬢様の性格を考えたら自分の目で僕を見に来るんじゃないだろうか。その時はきっと一人じゃないと思う。このロイヤルガードが彼女の手によるものであろうとなかろうと、貴女を寄越した以上、朝になったら中立のお供を連れて「救助」という体で来るはずだ。建前上、お供の目があるなら、その場で僕を殺すことはできないはずだ。つまり、朝まで生きてさえいれば僕は「救助」され、中に残って陰謀を調べることができる。そうじゃないか?


結果、その彼の予想は、ひとつを除いてすべて当たった。


「死骸の肉を喰わされたことにしよう」と提案したのも、意外にもグラスホーンの方だった。

その発想は、ある意味では尻に焼けた鉄を挿入するよりも猟奇的なものだったが、「死骸の肉を食べさせる」というのはエルフの中では逆に想像しやすいくらいにはポピュラーな「おぞましい行為」なのだという。あのお嬢様には、僕が死体の肉を泣きながら喰べたって伝えてくれないか。その証明のために必要ならば、本当に食べるよ僕は。


グラスホーンは決意の言葉と裏腹に、沈鬱な表情で彼女を見た。平静を装っているが、それなりの覚悟がないと出てこない提案だった。


でも、肉の熟成は随分デリケートな工程だって聞くよ、と昨晩のハニカムウォーカーは答えた。わたしの予想では、ひどくおなかを壊す。やめておいた方がいいね。

青白く、悲壮な顔をしたグラスホーンの頬と口回りに、暗殺者はまるで愛おしく撫でるように死体の血を塗った。


ハニカムウォーカーは彼を縛り上げ、再び完全に拘束してから偽装工作の一環として部屋を荒らした。屋根裏に潜み、追加の刺客に備えた。結局、部屋には誰も訪れなかった。朝になってグラスホーンが「本当のロイヤルガード」に連れられて行くところをハニカムウォーカーは静かに見守った。


誤算はひとつ。

リィンが、ハニカムウォーカーの報告を待たずに、偽装工作の示した結論に即座にたどり着いてしまったことだった。本当はこうして、夜にこっそり報告をするつもりだったのだがやりすぎた。状況証拠を揃えすぎてしまったのだ。かわいそうなグラスホーン・パトリックノーマンマクヘネシーは、「救助」されるのと同時に屍肉食いのエルフの烙印を押されたうえで地下牢獄に「保護」されてしまった。


グラスホーンの提案は、暗殺者がリィンから受けた仕事を完納するための提案だった。ハニカムウォーカーはこの先もリィンと「繋がっている必要がある」と彼は主張した。


僕を利用してくれよ、ミス。僕だってそれなりのリスクは負う。リィンお嬢様と仲良くして、必要な情報を引き出すんだ。


グラスホーンが屍肉喰いの汚名を被ることに決めたのは、二人の新しい目的のためだ。宮廷に潜む「何か」、少年騎士殺しの犯人探しをするために、何が必要なのか。


リィン・スチュワートキャニオンスクラムキルグラスハートヨルスクリームは、揉め事を起こす方として、取り締まる方として、時には両方の立場として、宮廷で起きるほとんど全ての陰謀や争いに関与する女だ。どこかの敵対や誰かの諍いについて情報を得たいなら、リィンとは友好的な関係を築いておく方があらゆる意味で正しく、賢い。


そのためには、グラスホーンは「ハニカムウォーカーの手によって酷い目に遭わなければならなかった」のだ。


しかし今、ハニカムウォーカーは今、ひらひらと腕を振る。彼女の投げやりな目線の先には大分上気した顔のリィンがいる。その脳裏に浮かぶのは、グラスホーンの顔だろうか。


「いや、いやあ、まあ、そうだなあ」


彼女は腰の高い位置に手を当て、逆の手で、ポニーテールに結い上げたうなじを掻いた。彼に屍肉を食わせたのだと嘘をつくのは容易い。そう答えた方が正しい。そのために彼は投獄されたのだ。


「だけど残念ながら、答えは、ノン。彼は無実だ」

「ノン!」


リィンは繰り返して、くつくつと低く笑った。攻撃的な笑い声だった。


「おかしいわ。じゃあやっぱり、契約の不履行は、あなたの方ではなくって?」

「お嬢様。わたしと、彼の名誉のために一応、お伝えしておくよ。ああ、彼にとっては不名誉な記録にはなるのか。ともかくわたしは、わたしの仕事をきちんとこなした。貴女はこれを信じないだろう。多分これは平行線にしかならないけどね」

「証拠は」

「だからさ、証拠はないよ。ただ、わたしは、わたしの仕事をやり切ったんだ。彼は一度、精神的にはきちんと死んだ。チビる寸前まで、約束通り死ぬほど怖い目には遭わせたよ」

「到底、信じられませんね」

「まあ、そう言うよね。わかる。わたしも、信じてもらうためにそれほど努力しようと思わない。これは言い訳したかった訳じゃないんだよ。わたしは、わたしの主観的には、仕事に対して負い目とか引け目とか、そういうものが一切ない状態だってこと、一応伝えておこうと思ってさ」


ハニカムウォーカーの口調は相変わらずではあったが、剣呑な色を帯びてきている。彼女は準備運動のように両手を組んで突き出し、ぐっと伸びをする。足の筋を伸ばし、身体をほぐし始める。


「契約内容は、“彼を死ぬほど怖い目に遭わせる”だったはずだ。約束の分はきちんとこなしたよ。あとはサービスでさ、彼の指で作ったフライドポテトでも持ってきてあげられれば良かったんだけど、途中で邪魔が入ったし、そもそも貴女に対してそこまで尽くしてあげようという気にならなかったんだ。話してみたら、彼の方がいいやつだったしね。ごめんよ」

「嘘をつくだけでなく、わたくしの信頼を、契約を、裏切るのですね」


長命のエルフの周囲の空気がぱきぱきと音を立てて凍り始めた。暗殺者は苦笑いをする。


「貴女もわかんない人だな」


部屋の中に、戦闘の気配が不意に満ちた。

ちり、と鈴の鳴るような音が響き、グラスを持ったリィンの周りの空気が圧搾されて尖った。


ほぼ同時に何かの塊が、さっきまでハニカムウォーカーのいた位置、胸の高さに撃ち込まれる。音とほとんど同時の速さである。扉に、釘を打ったような跡が四つ、残っている。


攻撃を読んでいたのか、もうそこに暗殺者はいない。大きく避けて、低い体勢を取っている。

ゆっくりとリィンの側の酒瓶が倒れ、中身が絨毯に吸い込まれてゆく。とぷとぷとぷ、と、戦闘の幕が開く。


「あーあ。お酒の染みって落とすの大変なんだぞ」


暗殺者は片手を床に置いた姿勢から、もう一度跳んだ。

一瞬遅れて、今度は足元から何かが噴き上がるように絨毯が波打つ。ぼ、ぼ、と絨毯を突き破って何かが今度は、天井に釘穴を開ける。


「なぜ、龍に選ばれた崇高な民の中に、あなたのようなホーンドや、汚れ耳なんかが混じってしまうのかしら!」

「政治的に正しくない発言、いいのかな!でも、それこそが君たちの言う『多様性』ってやつだろ」

「わたくしは、時々、この醜い現実に耐えられなくなります!」


リィンが立ち上がる。

彼女の背後に、冷気が霜を散らしながら渦巻いた。

冷気の渦から暗殺者に向けて何かが次々と射出されてゆく。たんたんたん、とリズミカルに床の穴の数が増える。あっという間に、リィンとハニカムウォーカー、入り口の扉を繋ぐ直線上は床も壁も、ズタズタの荒れ放題だ。


「乱暴な物言いになったらごめんよ、お嬢様、今夜のわたしは色々なことが一度に起きて、ちょっと情緒が不安定なんだ」


言葉の途中で再び暗殺者が飛び退き、再び深い色の絨毯がめくれる。波打った厚い絨毯が弾け、勢いのついた何かが絨毯を突き破って飛び出す。


「部屋を荒らすのは自由、貴女の屋敷だからね。でも片付けも自分でするのかな。さっきの人形ちゃんが頑張るのかな。部屋の中も折角の調度品なのに、勿体なくない?」

「召使の格好をしているなら召使らしく!おとなしく打擲されるべきなのでは?!」

「メイド服を見ると反射的に鞭を取り出すの、性癖歪んでない?そりゃ人形としか暮らせないわけだよ」


暗殺者は今度は後転しながら点射を避ける。余裕のあるような口ぶりだが、少しずつ息が上がってきているようだ。


「わたしはね、ただ単純に、雇用関係が完結してないというのもあって、どうしたものか躊躇ってるだけさ。残りの半金も頂いてないしね」

「ならば、報酬に見合った仕事をなさい!」

「わたしを穴だらけにしたら、心を入れ替えて働くようになるってマジで思ってんの、ちょっと根深いところがイカれてるんじゃない?」


言葉と裏腹に、ハニカムウォーカーはまだ一度も反撃に転じていない。


「それに、『仕事』って呼べるものかな、あんな善良なやつをさらにかわいそうな目に遭わせるなんてさ。倫理が仕事してないよ」

「ちょこまかと…いい加減、観念なさい!」


フッ、とリィンが冷たい息を吐くとグラスの中身が揺れた。彼女の指先から、唇から、漏れ出す魔素が渦巻いている。


「!!」


瞬間、さっきまでの射撃と比べて、格段に速い何かがメイド服姿の暗殺者の肩口を掠めた。半身を捩りながらも避け損なったハニカムウォーカーが傷口を押さえる。押さえた手を、そろそろと鼻先に持っていって、メイドは心底嫌な顔になった。


「何を撃ってきてるのかと思ってたけど、これ、酒か!」


リィン・スチュワートキャニオンスクラムキルグラスハートヨルスクリームが得意とするのは低温魔法だ。

生命を何より尊いものとするエルフには珍しいタイプの技能ではあるが、考えてみれば膨大な魔素を使役することに長けた種族と、膨大なリソースを要求する低温魔法は相性自体はいい。

彼女の攻撃の正体、それは極低温にした液体を釘状にして撃ち出すという、極めて単純なものだ。アルコールの凝固点は低い。彼女の魔素コントロールの為せるものではあるが、魔素の量さえ確保できれば、単純な分だけそれは応用が効く。


リィンの背後には、いつのまにか氷柱が虚空から出現していた。よく見ればそれは氷柱ではない。無数の、回転する薄い氷板が僅かな隙間をあけて並んでいる。しゃりしゃりと軽い音がするのは、それぞれに回転する氷板の縁が擦れ合い、鋭く研がれてゆく音だ。散った霜は、夢の花のように虚空に消えてゆく。


いつのまにか、メイド姿の暗殺者は追い詰められているようであった。プラムプラムが昏睡しているソファを背負って、エルフが彼女を切り刻むべく氷盤を研いでいる。


ハニカムウォーカーが反撃しないのは、もしかしたらその位置取りのせいかも知れなかった。彼女のナイフ投げの技術は、確かに精緻ではあったが、対角線状に無防備な友人が倒れている状態では制限がかかる。

彼女が何を考えているのかその表情からは窺い知れなかった。負傷した暗殺者は、少しだけ汗をかき、うっすらと笑みを浮かべていた。


「ミオット!」


リィンが大きな声で呼ぶと、すっかり傷だらけの扉が開いて、銀の盆を抱いた先程の給仕人形が姿を見せた。中性的な、表情のない目がハニカムウォーカーを見つめる。見たところ、戦闘向きの人形ではない。


「その、ふざけた格好をした女の動きを止めなさい」

「服の話はするなよ、ちょっと反省してるんだ」

「ミオット!」


人形と目が合って、ハニカムウォーカーは軽く微笑んだ。微笑まれても人形の表情は変わらない。戸惑ったような顔に見えるが、おそらくは照明の加減だ。

打ち消すように首を振って、暗殺者はついにナイフを抜いた。彼女の顔からも笑みが消えた。


「いいかい。さっき、プラムは見逃したけど、わたしはそこまで寛容じゃない。貴女を決して殺さないとは約束していないよ。これは警告だ、お嬢様。その、子供の姿の人形を戦闘に参加させたりしてみろ、ひどいぞ」

「楽に死にたいなら、動かないことです」

「だから、嫌だって。死にたいやつは、きっと貴女のところにだけは来ない。お嬢様ってほんと、人の気持ちが分かんないよね」


じり、と銀盤を抱えた人形が姿勢を下げて近づく。


「見たところ、自動人形だけどそれなりに意思疎通はできるんだろ」


暗殺者は、無造作にナイフを下げたまま一歩、人形に近寄った。エルフが頬を拭うような素振りを見せる。アルコールが回ってきたのか、ほんのり顔が赤い。

ハニカムウォーカーが親しげに人形に話しかける。


「ミオット、といったね。やめておいた方がいい。わたしはそもそも知らない子どもに抱きつかれるのが嫌いだし、今、ちょっと取り込み中なんだ。君のマスターはひどく酔っ払っている。ああ、それはいつものことかな」


自動人形は刃物を恐れない。無機質な目が、単純に指示を乞うように、リィンに向く。


「その者は客ではありません。命令を聞く必要はありませんよ、ミオット」

「これは命令じゃない。君のために言っているんだよ。あの頭のおかしい女のことは一旦忘れるんだ。いいかい。キッチンに行って、グラスを拭く仕事に戻れ」


言い切って、ハニカムウォーカーは改めてリィンに向き直った。人形は綺麗に相反する指示を出されて、どうしたらいいのか分からないようだ。


「荒っぽい交渉も嫌いじゃないけど、こういうのはあんまり趣味がよくないな。お嬢様。わたしは今夜、残りのお給金を貰うためにここに来た。ただ、最初から全額貰えるだろうとは思ってないし、貰おうともしてないよ。わたしにも落ち度があったのは認める。誠実に仕事はしたけど、確かに多少のズルもした。だけどそっちにも落ち度がある訳だし、契約云々の話をするなら、ちゃんとお互いが納得する落とし所を探るべきだと思うんだよ」

「ハニカムウォーカー、わたくしの主張は変わりません。交渉の余地もありません。あなたも誇り高い龍の国の民ならば、契約通り、最善の仕事をなさい」

「龍の国の民!ねえ!」


呆れた口調で暗殺者は腕を広げる。


「あのね、もうこの際、契約の内容がドブ底のヘドロみたいだって話は置いておこう。そもそもはわたしも、その人でなしの仕事を半金手付で受けたわけだしね。だけどさ」


ため息。リィンはまるで応えていない風に目を瞑って首を振る。


「お嬢様、確かにわたしはこの国で、腕を示せっていわれたから龍の試しもやったよ。終わった後は龍との誓約も済ませた。でも、それは“貴女と”じゃない。貴女は、龍じゃない」

「何ですって」

「わたしが言いたいのはとってもシンプルなことさ。都合のいいとこだけ、龍の名前を出すなってこと。所詮みんな流れ者だ。貴女だって、この国で生まれた訳じゃないだろ?龍の国に身を寄せたけど、元はといえば同じ、何者でもない同士じゃないか。そうやって権威を借りる姿勢を、わたしは美しいとは思わないし、そもそも、龍が聞いたら怒るんじゃないかなと思う。だって、まるでザコのやる仕草だよ、それ」

「ミオット!!」


女主人の怒声に、人形は即座に銀盤を捨てた。たわんたわん、と空虚な音がする。表情のない人形に怯えた風はないが、緊急の命令だと解釈したのだろう。

勢いよく人形がメイドに飛びついた。メイド姿の暗殺者は小さく舌打ちをしてナイフを隠し、人形の左手を逆手に捻る。


「恥知らずのホーンド風情が!」


同時にリィンの背後で、縁を研がれてレンズのようになった氷の円盤が展開された。孔雀が羽根を広げたように、死の円盤が、部屋の暗い灯りを反射してオレンジに煌めく。


「やめろって言ったのに」


ハニカムウォーカーは聞こえないくらいにつぶやいて、掴んだ人形の腕の付け根、左手に自分の足をかけた。鞭を振るように彼女が息を吐くと、べぎん、と濁った音がして人形の左腕が外れ、その胴体は地に倒れる。悲鳴はない。

メイドは飛来する三枚の円盤を、もぎ取った人形の腕で叩き落とし、二つを受け止める。パンケーキくらいの直径、半ばまで人形の腕にずっぷり刺さった円盤は生身には十分すぎる殺傷力だ。


「あのさ。やり直したいの、殺したいだけなの、どっちなの」


ハニカムウォーカーの声が冷えている。人形の腕をだらんと下げ、半身でエルフを睨む姿は、モノトーンの衣装であることもあって妙な迫力があった。

残る円盤は、八つ。

黒い頭角の付け根あたりを掻いて、暗殺者は口の端を歪める。


「嫌になっちゃうよな、あんなにダサいと思ってた君たちと、結局同じことをしている。殺し合いをする前に挑発したり、もう止めろよって言ってみたり」


深い、深いため息をついて、彼女は床の自動人形を見下ろした。

人形の頬に、血が跳ねたようにぶどう酒が飛んでいる。人形は瞼も閉じず、起き上がりもしない。主人の命令がないからか、腕を捥がれたダメージが深いのか。


「できないことに挑戦するのは常に美徳ではないよ、か」


もう一度の長いため息は、最後、ほんの少しだけ震えた。


「……なんか、だんだん腹が立ってきたぞ。わたしはやめろって言ったのにさ。警告したよな。わたしは確かに言ったんだ。やめろ、って」


人形でもない、床でもない。遠くを見ながら彼女は低く、呪うような声を絞り出す。俯いた頬に、影が落ちる。


「もうやめだ。予定変更」


吹っ切れたようにハニカムウォーカーは顔を上げ、再びリィンを睨んだ。下げた人形の腕を振ると、突き刺さったレンズが床に落ちた。彼女は、噛み付くような表情をしている。


「契約はもう終わり。わたしは前金だけで満足したことにして、後金を要求しない。なんか聞きたいこととかもあった気がするけど、もう沢山。それなら文句ないよな。わたしはプラムを連れて帰る。クソ喰らえだ。とんだ無駄足だった」


落ちたレンズを踏み砕き、メイドが一歩前進する。


「その前に、契約満了の念書を書くから検印として判子を頂戴できるかな、お嬢様。ああ、でも朱肉もインクも品切れだ。こいつは困ったな。でもそうだ」


芝居がかった仕草で彼女はぐるんと腕を回した。


「高貴なエルフ様の血は蒼いんだっけ?ならこの際、蒼でもいいや。その鼻、へし折ってインクの代わりにしてあげようね」


拳を構えて凄む暗殺者をエルフが鼻で笑った。8枚のレンズが位置を変え、彼女のガード範囲、顔を守るようにしゅるしゅると回転しながら威嚇する。


「あら、ついに本性が出たわね。賤しく、野蛮な、ホーンドの顔。気に入らないことがあるとすぐ腕力に訴えようなんて。恥を知りなさい」


エルフは一歩も引かない。むしろ、支配者のように一歩を踏み出す。


「恥知らず、って、自分で言ってて嫌にならないの?」

「お黙りなさい」

「その鼻、へし折った後に教えてあげようか?貴女に友達ができない理」


一瞬の隙だった。

挑発を遮って、リィンが言い返そうと口を開いた刹那だ。彼女が息を吸おうとするタイミングを狙って、ハニカムウォーカーはボロボロになった絨毯を勢いよく足で引き寄せる。鼻、鼻と、完全に、上半身に注意を向けてからの不意打ちだった。リィンは足元を掬われて仰向けに倒れ、背中を強く打ち付けた。僅かに残った息をさらに吐きだして肺は空っぽだ。レンズは中空を漂ったまま、不意打ちに対応できていない。浮遊するレンズは少なくとも自動制御ではない。


リィンを仰向けに倒すのと同時に暗殺者は距離を詰めている。足をばたつかせるのを器用に避けて、馬乗りになった彼女は宣言通りその顔面に拳を叩き込んだ。

ただ、それは鼻柱には命中しない。エルフは顔を逸らして、頬骨で受けているがダメージは通った。中空のレンズがエルフのダメージにシンクロしてぐらつく。


ハニカムウォーカーが、より完全なマウントを取るべく体勢を立て直そうとするのに合わせて、その背中に氷弾が撃ち込まれる。二発。勢いが弱い。一瞬動きが止まるが、体勢をひっくり返すところまでは辿り着かない。膝で体を制して、完全な馬乗りの体勢になった。

無表情にエルフを見下ろした暗殺者は大きく右手を振りかぶる。


「寝てろ」


右手が振り下ろされるのに合わせて再び、リィンが首を振って避けようとする。しかし、その動きを読んでいたのか、直撃したのは左拳だった。回避に合わせてショートレンジのパンチが綺麗に正面に決まった。ぐらつくレンズ。制御を失って一つが地に落ちた。涙目になったエルフは、しかしまだ鼻血を流すには至っていない。


「ほら、左、右、右、違う違う、左、右、そら、左が来るぞ」


ハニカムウォーカーが淡々と読み上げながら拳を振るう。声と、エルフの顔にヒットする拳の左右は全く対応していない。まるで稽古のような、ひたすらに淡々とした口調だ。


「君たちの大好きな宣言と予告だよ、楽しいね」


侮辱のようだが嘲る口調ではない。返り血がメイド服の袖に跳ねた。

氷の弾が、今度は酒の染み込んだ付近の絨毯から生成されてたびたび撃ち込まれるが、やはり勢いが弱い。暗殺者は被弾しながらも殴るのをやめない。


「お嬢様、ひたすら殴られる方の気分はどうだい。たまには、いい気分転換になるだろ」

「ホーンド…風情が…」


為す術もなく殴られ続けたエルフの目はまだ、闘志を失っていなかった。無駄口の隙にハニカムウォーカーの左手を掴み、じりじりと押し返す。


「ねえ、お嬢様。ぶっ殺してあげたいけど、プラムの頼みだから仕方ない。でもさ、今夜のことを、きっと忘れられないようにしてあげようね」


喋りながら暗殺者のこめかみからも、頬に向けてひと筋、血が流れる。冷たい目だ。エルフが声を上げると、離れたところで自動人形が片腕で起き上がろうともがき始めた。


「わたしは、彼を巻き込むなって言ったんだ。覚えてるかい」

「ミオット!」

「だから、いい加減にしろよな」


暗殺者の声がまた冷えた。ぎり、と音が聞こえるくらいに右拳に力が入る。


「!?」


振り下ろされる寸前、冷たい瞳が驚愕の色に染まる。高く構えていた右手から、不意に感覚が消えた。がくん、と、まるで人形のそれのように右手が力を失って垂れる。

一瞬前までは完全に有利な体勢だったが、暗殺者は掴まれた左手を振りほどき、まるで跳ねるようにエルフの上から飛びのいた。

だらんとした右腕を押さえてエルフを見る姿は、一瞬の間に冷や汗をかいている。


「ようやく」


リィンはしばらく倒れたままだったが、自動人形に手を借りてゆっくりと起き上がる。


「ようやく、"効いてきた"ようですね」


エルフの端正な顔は、何度も殴られてあちこちに血の跡がついている。口の端が切れて腫れあがり、しかし、それでもそこには凄惨な美しさがあった。人形から差し出されたハンカチで頬の血を拭い、彼女は乱れた髪を軽く直した。


「凍らせて撃ち込むと、融けて身体に回るまで、思ったより時間がかかる」


それは、プラムプラムを昏睡に至らしめた毒酒だった。エルフの魔弾は、すでに何発も暗殺者に撃ち込まれている。まだ動く方の腕でハニカムウォーカーはヘッドドレスをむしり取った。少し、息が上がっている。最初に被弾した分が効いてきたのであれば、今、殴っている時に被弾した分はいつ頃効果を発揮するのか。


「ああ、そういうことか」


ハニカムウォーカーは荒く息をついて、一度だけ深く目をつぶった。


「急に気絶すると具合が悪いから、一応、先に伝えておくよ、お嬢様。わたしはともかくとして、今夜、プラムが無事に帰らないと貴女にはすごく都合の悪いことが起きる」

「そんなことが遺言でいいのかしら」

「いいかい、ベティ・モーだ。あのちっちゃい暴力が問答無用で貴女を襲うよ。彼女がどれだけ話を聞かないやつかは知ってるだろ。無策でここに来るほどわたしは楽観的じゃない。いくつか保険は掛けてある」

「脅せばわたくしが動揺するとでも?」


すっかりリィンは平常の声色を取り戻していた。彼女もまた、喋りながら顔をしかめる。口の中に切傷ができているようだ。


「すでに貴女の中には疑惑が生まれている。それで十分さ。こいつ、一体どこまでモーに事情を話しているんだろう。モーとの契約のトリガーはプラムプラムの無事だけなんだろうか。本当にわたしに関しては殺してしまっても大丈夫なんだろうか。待てよ、ことによってはモーの口封じも必要なんじゃないか」


喋りながら、ハニカムウォーカーの体が小刻みに震え始めた。


「さすが、運動すると回りが早いね…。まさか毒の酒を撃ち込まれてるんだとは思わなかった」

「しばらくは動けないでしょうが、後遺症が残ることはないはずです」

「いい手だよ。勇んで種明かしをしなければ、わたしはもうちょっと困っていたはずだしね」


意識を保つためか、強く顔を振る。主人の横を離れた自動人形がのろのろと自分の腕を拾った。その腕、すまないね、とメイドが声をかけるが返事はない。


「まあ、しばらくわたしを殺さずにいておいてくれるであろうことに感謝して、貴女に友達が出来ない理由を教えておくよ。さっきは話が途中だった。約束を反故にするのは据わりが悪い」

「殺さないとは、特に申し上げておりませんが」

「フフ…殺さないさ。貴女は少なくとも今夜、わたしを殺さない」


ハニカムウォーカーは何度か息をしてから、まっすぐに立ち方を直した。


「それに知りたいはずだよ。どうして自分には、プラムみたいにたくさんの友達ができないんだろうって。人知れず悩んでるんじゃないのかい」


リィンをしっかりと見つめるその目には憎しみも、蔑みもない。


「貴女にはさ、他人を大切にしようって気持ちがないんだ。誰のことも大事に思ってない」


一秒ごとに毒が回る。また一歩、よろめくように体勢を変えて、彼女はスカートの裾に左手を添わせた。


「そう、わたしも結局のところ同じさ。放っておくと他人を粗末に扱ってしまう。根本的に価値を感じてないんだね。でも、価値ってのはさ、自分で決めるもんなんだよ。大事にするかしないか、自分で決められないと、貴女みたいになってしまう。わたしは」


大きく息を吸ってスカートをまくると、太もものナイフホルダーが見えた。


「わたしみたいなのに付き合ってくれる友人は、きちんと大事にしようって決めてるんだ。それを証明する手段が、なんていうのかな」


ハニカムウォーカーはゆっくりとナイフを抜く。


「自己満足的で、そして、あんまりエレガントじゃなくってもさ」


ゆっくりと振りかぶった彼女に、間髪を入れずに氷弾が撃ち込まれた。衝撃に一歩、後退したその頬に乱れた髪が垂れる。ナイフを持った手もまた、力なく下がった。握力も消え、からんと音を立ててナイフが地面に落ちる。


「フフ…ほらな……そういう、とこだよ」


暗殺者の瞳が、ぼんやりと焦点を結ばなくなってきている。見るからに限界が近い。両手をだらりと垂らしたまま、彼女は呟いた。


「この程度、わたしは避けようと思えば、まだ避けられた。ンフ。負け惜しみに聞こえるだろ」


ハニカムウォーカーは膝をつき、最後にリィンに指をさした。


「わたしは避けなかった。貴女は気にせず撃った。この差なんだよ」


呟くようにして、どう、と倒れた彼女の背後には、ソファに倒れて寝息を立てるプラムプラムの姿があった。ハニカムウォーカーが避けていたとしたら、氷弾はおそらく彼女に突き刺さったことだろう。


悪徳のエルフはしばらく声を出さずに二人を見つめていたが、最後に一度だけ、悲しそうに首を振った。

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