「わたしたちは友達が少ない」(中編)

地下礼拝堂の火事。


聞いたこともない事件だったが、どうして今、不意にその話題が飛び出したのか。この話の流れで脈絡も関連もなく名前が出ることは考えにくい。プラムプラムが知らずとも彼女に関係があるか、あるいは、リィン自身に関係があるかだ。

プラムプラムが空のグラスでエルフを指す。


「地下礼拝堂?お嬢が燃やしたの?」

「まさか。それにわたくしは、炎は好みません」


彼女は静かに微笑んで首を振った。無論プラムプラムにも心当たりはない。地下迷宮に最後に潜ったのはもう何年も前の話だ。どちらにも直接関係ないとしたら、可能性はもう、一つしか残っていない。


先ほどまでいたという赤襟一族の当主、派手好きのザーグ・アンデレックだろう。彼が訪ねてきた用事がそのものずばりだったか、火事にまつわる何かの話をしたのだろう。直後のプラムプラムの不意の訪問を関連付けて考えたということは、おそらく、昨日今日に起きたことと関連している何かだ。


ハニカムウォーカーが彼の息子の生首を宮廷から持ち去ったのも、それをダークエルフに横から攫われたのも昨日のことだ。治安がおかしい龍の国だが、無関係にそんな事件が同時多発するはずはない。

現在、確実に宮廷で何かが起きている。

一月前の地下礼拝堂の火事が、赤襟一族が、宮廷会議の面々が、結びついている。


さっき二人で検分した生首は、赤襟の嫡男、ゲッコのものだ。赤襟と火事に関わりがあるというなら、全ての点と点が繋がりそうで、得体が知れない。

一体、地下礼拝堂の火事が、どうやって線を繋げるというのか。


「火事の話、あたしは知らなかったし、今日は別の用事のつもりだったけど、宮廷でまた何か、起きてるのね」

「まあ、これは、まだ一部のひとにしか知らせられないことなのだけれど」


言いながら彼女は苦いものを飲んだような顔をしたが、それはポーズだ。この長命のエルフは陰謀や争いを、本質では好んでいる。「正義」の側に立って暴力を行使することに愉しみを見出すタイプだ。艶然とした、上品な顔立ちや振る舞いをしているが、その性は決して争いを忌避するタイプではない。むしろ真逆だ。その意味では、リィンは結果だけを見ればトラブルを好むプラムプラムと趣味が似ているとも言えた。


「誰か、死んだの」


プラムプラムの少し掠れた声にエルフは頷く。


「誰?あたしの知ってる人?」


今度は首をかしげる仕草。勿体ぶるエルフに、小さなホビットは両手を挙げた。


「お嬢、あたし、そういうの我慢できないって知ってるでしょ。意地悪しないでってば」

「うふふ、ごめんなさい。そうね。少し、プラムの意見も聞いておきたいと思ったの」


エルフは再び片手を耳の傍に寄せ、人形に追加をオーダーする。彼女は幾分はっきりした声で「濃いめで」と呟いた。それを聞いてプラムプラムの顔がすこし曇る。


「先月、先月のことよ。たしかに、先月だったと思うのだけれど」


うろうろとエルフの視線が中空をさまよう。


「いけないわね、いつ頃に何が起きたか、最近はぼんやりしてしまって。短命種の使うカレンダーに合わせた生活にもだいぶ慣れて来たとは思っていたのだけど、まだまだ、うまくないわねえ」

「歳取りすぎたかお酒の飲みすぎで、ちょっとボケてきてるんじゃないの、いい?ほんと短命種って言い方やめて。次はたぶんあたし、怒るよ」

「あら、ごめんなさいね。悪気はないのだけど」

「知ってるけどさ、ほんとそういうとこ、直した方がいいよ。あっという間にババアになるよ」


人形が代わりの酒を持ってまた部屋に入って来た。グラスだけではない。瓶。アイスペール。瓶は強い蒸留酒だ。


「ていうかお嬢、その、あんまり飲みすぎない方がいいんじゃない」

「もうこの後は、予定もありませんし明日も休みですから」

「だから、ああ。うん。いいや。いい。話の続き聞かせてくれるならもうなんでもいいや。もう飲め飲め。そんなことより続き」


プラムプラムは完全に好奇心に負けた様子だ。


「火事で誰が死んだの」

「それが、わからなかったのです」

「何よそれ」

「本当にわからなかったの。なにも手がかりが残っていなかったのよ。焼けた人だけじゃない。礼拝堂には、ほとんど手がかりが残っていなかったのです」


優美な手がグラスに氷を落とす。かろん、という軽い音。


「その礼拝堂でなんの神を祀っていたものかも存じません。短め…ええと、ヒュームの祀る神はあんまり多くてもはやわたくしには区別がつかないということもありますが、そもそも、祭壇も何も残っておりませんでした」


濃い琥珀色の酒を、ひた、ひた、と氷に滑らせてゆく。


「ともあれ、礼拝堂の火事を見つけたのは、赤襟のゲッコ。今年からの宮廷会議の一員の、ああ、彼のことはご存じですわね?」

「……まあ、そりゃ」


一瞬、なんと答えるべきか迷ったがおそらくこれは探りの質問ではない。素直に答えるべきだ。返答がきちんと聞こえているのか、いないのか、満足したようにリィンは軽く目を瞑る。


「立派な方でしたわ。ご自分の仕事だけでなく、いつも職務に向き合われて、龍の国を支えていらした方。ヒュームの方の中にも、たまにはあんな風に立派な方がいらっしゃるのね」

「まあ、その赤襟の若旦那が火事に居合わせたのね。でも、なんで?いまどき地下迷宮なんて、用事ある人の方が少ないでしょ?たまたま?おかしくない?」

「さあ?その辺りは存じませんが、何かご事情があったのでしょう。それより大事なのは、火事が他の区画に燃え広がる前に、未然に消し止められたということなのでは?」

「まあ、そうかもだけど」


プラムプラムは両手を組み合わせ、人形の持ってきた二杯目の酒を舐めた。濃いめのアルコールの味がした。


「まあ、彼が見つけたときにはもうだいぶ火の勢いは強くなっていたみたい。礼拝堂の扉を蹴破って彼が中に入ると、そこには」

「……そこには?」

「……うふん、ごめんなさい。ちょっと調子に乗ってしまったみたい。正確には存じ上げないの。あんまりにも冒険譚みたいなのだもの、見ていたわけではないのに、わくわくしてしまうじゃない?」


リィンは実際、少し楽しそうだ。


「わたくしが知っているのは、そこから何体か、身元のわからない死体が出たということだけ。焼け焦げて、何もかもが分からない死体。一部はバラバラになっていて、証拠も何も残っていない。埋葬しようにも、名前も何も分からないのでは司祭も困ってしまうわね」


くい、とエルフが酒を呷った。


「しかし、ようやくひとり、身元が分かったのです」


エルフが、氷だけになったグラスとテーブルをじっと見つめて呟く低い声。

死体のうち、ひとりの身元をリィンは厳かに告げる。


「あまり、大きな声で言うのは憚られるのですが、いわゆる正規の盗賊ギルドに所属もしない、フリーランスの盗賊、男性」

「盗賊」

「いわゆるコソ泥、という類の方だったみたいですね。調べたら枝の国で2件の前科がありました。龍の国が受け入れる民の出自経歴は一切問わないということ、頭では理解しておりますが、やはりいつまで経っても、これでいいのかしらと思うときがありますね」


プラムプラムは龍の国の盗賊ギルド、“テクニカ連絡会”のことを思い出していた。

そのギルドは、主に、まだどの国にも管理されていない遺跡の盗掘やら、法の穴を突くやり方で稼ぐ方法を追求している者たちの互助会だった。この国においては、龍の国の民同士はお互いの同意なしに争ってはいけないという法の下、基本的に国内での盗掘や脱法活動はしていないことになっている。


名目上は「新技術の情報を共有する連絡会」である。それもあって正確には「盗賊ギルド」ではなく「テクニカ連絡会」と名乗っている筈ではあった。連絡会は誰かをギルド長として統制を取っているというわけではなく、本当に緩い寄合のようなギルドだ。

プラムプラム自身、所属だけは所属していた筈である。

テクニカの中にはそれこそ生粋の技術者もいるし、蘊蓄が語れるだけの詐欺師のような連中も所属している。創設時のギルド長は誰だったか。随分前に引退を表明して、名実ともに空位になっていたような気がする。それで十分成立する、緩いギルドだ。

地下礼拝堂で死んだという盗賊がそこにすら所属していなかったというのは、龍の国に来て間もないか、あるいは何か事情があるのか。


「盗賊の方は、龍の国に来てまだふた月にもなっていない、ニュービーの方だったみたいですね。宮廷の花茶会にも参加した記録がないのです」


入国して間もないほうだった。

龍の国、特にテクニカには勝手のわからない新人を食い物にするような連中も多い。武芸で龍の試練を突破するのでなく、技術で通った者は大抵、最初にテクニカの門を叩き、その洗礼を受ける。気の合う同輩を見つけることもあり、師を得ることもある。そして、食い物にされることも。


「なんで、そんな来たばっかりの人だって特定できたの」


それなのですよ、とエルフはまた酒を呷る。プラムプラムは次の一口にどうしても手が伸びない。まだ正気で居られる酒量ではあったが、酒乱のエルフのペースに巻き込まれそうで怖かった。彼女はあまり酒に強くない。


「生贄か捧げものだったのかしらね。礼拝所に南方の動物の死骸があって、その線から洗ったの。この盗賊の方に、生きたままのその動物を売ったという証言が取れたのです」

「ペット?」

「愛玩用と呼ぶには些か、大きくて危ない獣ですわね」

「虎とか?」

「ランガンキャッチャーです」


ふえ、とプラムプラムの喉から変な声が漏れる。

ランガンキャッチャー、それは俗に「ムル喰い」と呼ばれる猛獣だった。密林にあって、目立つ白い毛皮、八本脚で頭のない獣だ。生粋の捕食者で、その名の通り密林に住むムル蝶を喰らうことのできる唯一の動物だ。体温があって動くものならなんでも襲い、有機物なら大抵噛み砕いて餌にする。


「ムル喰いを、売った?そんな業者がいるの?マジで?自分で捕まえてきたの?アレ、捕まえられるもんなの?ていうか街中に持ち込んでいい動物なわけ?」

「まったく、この国には本当に色々な仕事の方がいらっしゃいますわよね」


すこし得意げに澄ました様子を見るに、その手がかりから盗賊にたどり着いたのはリィンの手柄なのだろう。実際彼女の交友は広い。花茶会、というのは新しく龍の国に来た新人たちに龍の国の作法を教えるという名目で定期的に開かれる茶会だ。近年は主にリィンが取り仕切っている。

花茶会で築かれたネットワークは存外馬鹿にできない。ひとは、初めて触れたものをスタンダードだと信じる傾向にある。長命のエルフは、多くの新規入国者にとっての「ポータル」なのだ。彼女が声をかけることで動く民は思ったよりも多い。


「で、そのせっかく買ったムル喰いを生贄に」

「ええ、どうせいかがわしい邪宗の類でしょうとわたくしは思っていますわ。動物には、酷く傷つけられた痕があったみたい。骨まで届くような傷がたくさん。可哀想なことだわ」

「ちょっと待って。情報が急にお腹いっぱい」


プラムプラムが上を向くと、エルフは満足そうに笑った。


「整理させて。地下礼拝所が邪教の館だったのは間違いないとして、そこが火事になって、現場から出た複数の死体のうち、ひとりの身元がわかった。コソ泥」

「ええ」

「ここまでは分かったけど、なんで赤襟が出てくるの?あの人たち、なんか邪教とか信じてたっけ。ただの第一発見者なんでしょ?」


誰もいないのにエルフは声をひそめた。


「その火事の翌日から、ゲッコーポイント・アンデレックが行方不明なのです。父親のザーグからは、どんな些細なことでもいいから手がかりがあったら報せてほしいと」


プラムプラムの喉から再び、ひゅっ、と息が漏れた。

長い沈黙があった。


「その、さ」


プラムプラムがおずおずとその沈黙を破る。


「さっきまでここに居たっていう赤襟の大将は、その情報を聞いて、どんな顔した訳?」

「笑顔でしたよ。ついでにささやかなお礼を頂きました。その後は、今すぐ調べに行くって」

「今、まだ夜だけど」

「あら、わたくしも同じことを申し上げましたわ」

「そしたら、なんて?」


リィンは肩を竦める。


「“昼に行くより、家に居る可能性が高い筈だ”って」

「蛮族のひとたち、そういうとこあるよね」


ムル喰いを売った業者か、テクニカのアジトか。いずれにせよ襲撃するなら夜のうちに、ということなのだろう。想像すると、なんだかやけっぱちな気分になってきた。プラムプラムは目を瞑り、ぐっとグラスを空にする。

まるでそのタイミングを狙っていたようにリィンが質問を差し込む。


「それでプラム。火事の話じゃないなら、あなたの別の用事っていったい何だったんです?」


思わず噎せそうになったがなんとか堪えた。

話題のゲッコの首を切り落として帰って来た友人がいて、しかもぼっとしていたらその首を盗賊に盗まれた、なんてことを告白できる雰囲気ではない。彼女はつくづく、開口一番にゲッコの話をしないで良かった、と思っている。

リィンが、彼女と赤襟の当主と、どちらをより重要に思っているかというのは判らない。ただ、彼女が確実に友人や交友の中に「序列」をつけるタイプということだけは判っていた。果たして、プラムプラムはリィンの中での価値がザーグよりも「上」なのか、「下」なのか。


「ちょっと待って。その前に、なんであたしの用事がその地下の火事のことだって思ったの」

「それは…」


時間稼ぎのつもりだったが、意外な反応だった。

プラムプラムは言い淀むエルフを追う。


「まだなんか隠してるでしょ」

「隠しているわけではないのですけれど…」

「何よ」


彼女の手元のグラスと、彼女の顔色を見てリィンは軽く決心したように座り直した。


「ランガンキャッチャーを扱った業者というのは、あなたに、関わりの深い者なのです。ジャングルに住む生き物だけでなく、多種多様な生物から畜肉まで」

「何、それ、シャオヘイのとこなの?!」


シャオヘイ、とは、プラムプラムが店で出すためのヘビを仕入れている商人である。確かに、怪しい連中と関わりが深いとも聞く。死番蜥蜴の一族、リザードマン然とした風貌から、そもそも怪しいといえば怪しい。リィンが快く思わないのも理解できる。シャオヘイは欲深いところも多いが、しかし、本質は誠実な商人だと彼女は思っている。


「てっきり、あの爬虫類に頼まれてわたくしに口止めを頼みにきたんだとばかり思っていました。ランガンキャッチャーの件、ザーグに伝えるのをやめてほしい、と」

「ちょっと」

「ごめんなさいね、プラムプラム。あなたを疑っていた訳ではないのだけど、今は、誰であってもザーグの邪魔をしてほしくないの」


リィンの言葉が終わるか終わらないか、不意に両腕腕に力が入らなくなった。かくん、とプラムプラムは椅子の背もたれに沈み込む。


「お、おりょう」


リィンを呼んだつもりが呂律も回らない。思い当たることはひとつだ。酒に何か、混ぜられていたのか。彼女は咄嗟に自分が何杯飲んでしまったのか考えようとした。

意識が拡散してゆく。一呼吸ごとに、体が重くなってゆく。まさか焚かれている香も、なにかの効果のあるものだったのか。

相変わらずリィンは悲しそうな顔でプラムプラムを眺めている。


「プラムプラム。悪気はないのよ。わかって」

「おりょう、あんら」

「死ぬ毒ではないわ。無関係だったとしたら、ごめんなさい。その場合は、わたくし、あなたのお願いとやら、必ず叶えて差し上げるから、どうか許してね」

「友達らと、思っれたろに」


致命的に舌が動かない。

リィンは、眉だけを悲しそうに作った。


「ええ、わたくしも、そう思っていましたよ」


静寂が部屋を満たした。

氷の溶ける音すら聞こえるような無音の室内だ。


少しだけ悲しそうな顔をして、リィンはプラムプラムをじっと見ている。そこに言葉はなかった。

心臓の打つ音を数えるような時間が続き、ことん、とプラムプラムの意識は途切れた。すう、と寝息が漏れ、力をなくしたその掌から何かが転がり出る。親指よりも小さな装置だ。リィンはゆっくり近寄り、それを拾い上げる。ボタンがひとつ、ついているだけの、小さな装置だった。


「何かしら」


エルフが無造作に操作すると入り口の扉の方で、ブブ、と微かな振動が聞こえた。瞬時に中指に魔力の輝きを込め、戦闘態勢で向き直ったエルフのさらに背後、完全な死角から低い声がする。


「お嬢様、そのまま。動かないよ」


放射可能な魔力を込めた指先が動かせない。振動の聞こえた方にはおそらく、何もない。誰かがそこに装置の対応機を仕掛けたのだ。おそらくは、今、声をかけた誰か。

声以外には何もないが濃密な暴力の気配が彼女の背筋を貫いている。誰も居なかったはずの部屋で、死角から、エルフは狙われている。弓か、刃物か。投擲武器がひとつなら対応出来るかもしれないが、ふたつでは間に合わない。魔法の一番の弱点は、準備の整わない近距離遭遇戦だ。


エルフの背後の暗がりには、召使の服を纏った何かが居た。

動けないままのエルフの背後で、ゆっくりとそれは立ち上がる。無音だった室内に衣ずれの、しゅる、という音が生まれた。

機能的ではあるが、やや華美で貴族趣味のスカート。後ろでまとめた暗い緑の髪。髪飾りのような二本の黒角の間にヘッドドレスまでつけた暗殺者が、そこに控えていた。開いた胸元、左の鎖骨の辺りから古い傷跡が縦に走っているのが見える。


「君たちの話が友好的に進みそうなら、笑ってもらえるかと思って用意したんだけどね、こういう結果に終わるとは思っていなかった。だから、なんだかおちょくるような形になってしまって申し訳ないな、とは思っている」


メイド服姿のメアリ・ハニカムウォーカーは大きく伸びをして首を回し、ぽきぽきと背中を鳴らした。


「じっとしているのも仕事のうちだからね。待つのは苦じゃないが、少々疲れたよ」

「……その声は」

「そう、わたしだよ。あなたの暮らしに彩りを。拭き掃除から要人警護、はては陰謀の解体まで。最近、請け負う仕事の枠を広げたハニカムウォーカー家政婦紹介所さ、おっと」


安心したのか、魔力を解いて振り返ろうとしたエルフを牽制するようにナイフが飛んだ。下ろそうとした手を掠め、カッ、と硬い音がして扉にナイフが突き刺さる。エルフは身動きをせず、剣呑な目をして壁に生えたそれを睨む。


「わたしは、動くな、と言ったんだ。お嬢様。まだ話は終わっていないどころか始まってもいないよ。君たちの悪い癖だ。全部他人が自分の思い通りになると思っている」

「……アサシン」

「違う。ハニカムウォーカーだ。呼びにくければメアリさん、って呼んでもいいよ。どうしても呼び捨てにしたいならハニカムウォーカーだ。わたしは貴女に敬意を払って、お嬢様、と呼んでいるだろ。誰であっても、フェアでなければならない。一方的なのはどうかとわたしは思うんだよ」

「……わたくしは、あなたの雇い主だったはずですけれど」

「そうだね。わたしは先日、貴女が床に投げた前金を拾い、そして今、残りのお給金を頂くため、あらためて傅きにあがった」

「いくつかお尋ねしたいことはありますが、ここはわたくしの屋敷です。自分の椅子に戻っても?」


ハニカムウォーカーは、無理矢理笑うような声を上げた。


「ンッフ!いいとも!わたしも貴女がどんな顔をしているのか見てみたい」


振り返ったリィンは、一瞬だけメイド姿の暗殺者に眉を顰めたが、昏睡したプラムプラムを眺めていたのと同じ、何の表情もない顔に戻った。その整った表情のまま、ゆっくりと、さっきまで座っていた椅子に腰かけて髪を触る。

ハニカムウォーカーは露骨に嫌そうな顔になった。


「ハニカムウォーカー。そんなふざけた格好をして、いつからそこに潜んでいたのかしら」

「格好については先に謝ったよ。それよりお嬢様、先にわたしの話をしてもいいかな」

「……どうぞ」


エルフが不満そうにしながらも肩を竦めたのは、暗殺者の手にひらりとナイフが現れたからかもしれない。先程の殺気は失せていたが、それなりの圧はある。


「そこで寝ている子はさ、わたしの友達なんだ」


暗殺者はナイフで寝ているプラムプラムを指す。エルフは彼女と暗殺者を見比べて一瞬だけ、眉を上げるが口を開かない。


「今まで、何でも自分でやるからいいよって言ってたのに今夜、初めてわたしに依頼をしてくれたから、友達というだけでなく依頼主でもある。いいかい、リィンお嬢様。わたしは今から貴女にひとつ、強制するよ。貴女には、プラムプラムに感謝して欲しいんだ」

「どういうことだか、さっぱり話が分かりませんね」

「貴女が今、そうやってゆったり椅子に座っていられるのは彼女のお蔭なんだよ」

「?」


暗殺者は、目で彼女の手を指す。まだリィンの左手にある小さな装置。


「それは合図の道具だったんだ。わたしと彼女の契約はね、身の危険を感じたらそのボタンを押すこと。そうしたらわたしは必ず助けに入るよ、と約束してあった。傍に居るとは思ってたろうけど、彼女も、わたしがここに潜んでいることを知らなかったんじゃないかな」


暗殺者は少しだけ声を低くする。


「さっき、眠ってしまう前にね、プラムはそれを押すことが出来た筈だ。でも、押さなかったんだよ」


押さなかったんだ、と彼女は繰り返した。押してくれたら、貴女の背中にナイフをぶっ刺してやろうと思ってずっと待ってたんだけどさ。


「わたしは彼女の意思を、尊重するよ。リィンお嬢様」

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