「悪」(後編)

ラーフラ・ダンバーズは己を呼ぶ声では目覚めなかった。


彼の意識は暗い淵の中にあった。苦痛、孤独、寒さ、そうしたものは彼の最も親しいものだった。世界は“そういうものだ”と彼は思っていた。それにしても味わったことのない感情だった。苦痛の桁も違った。しかし、彼は世界とは“そういうものだ”と思っていた。

彼?

違う。これはわたしの物語。わたしは、どんな悪いことをしたというの?わたしは2時間前のわたしを思い起こす。

普通に生きて、普通に恋をして、普通に家庭を持って生きていくはずだったわたし。龍の国で、良人を見つけて、そして子を為して、増えていくはずだったわたし。かわいそうな、わたし。


ラーフラ・ダンバーズは他人の人生に口を出さない。己の人生についても口を出さない。語るだけの言葉を彼は持っていなかった。

世界は、“そういうものだ”と思っていても彼はそれを告げない。己の声を彼は聞いたことがない。だってそうだ。初めから、己には声などないのだから。

起きてしまったことは悲しく、つらく、やりきれないことだが、己にはもうどうしようもない。

己?

違う。わたし。これはわたしの話だ。わたしは、何も悪くなかった。おいしい食事をご馳走するって言われたから。きみの声が素敵だって、言ってくれたから。他のみんなが、あの人はいい人だって言うし、わたしも同じように思ったから。何より、きっと安全だって思ったから。だって、それは。


唐突な殴打。床に倒れた彼女の、捻りあげられた腕。一番最初に折られたのは左手の小指だった。


誰かの呼ぶ声がする。自分を呼ぶ声ではない。

誰か知らない名前を呼ぶ、聞いたことのない知らない声だ。

ラーフラは自分の名前の意味をずっと考えていた。『悪魔』。その音が意味するものを、初めに教えてくれたのは誰だったか。その時相手がどんな顔をしていたか。彼はもう忘れてしまった。龍の国にくる前に触れた人々は少ない。


ばち、ばちっ、と硬いものを弾くような音が断続的に響いている。

ラーフラはその音をどこかで聞いたことがある。それは、彼が山にあった頃か。骨に響く、嫌な音だ。骨に。響く。


そうだ。


ラーフラ・ダンバーズはゆっくりと思い出す。

それは、骨を噛み砕く音だ。まだ水分の残る骨を獣が噛み砕く時、その音はまるで何かを叩くような音になった。いつだったか、母代わりの狼は、その音を立てて野の獣の脊髄を噛み砕いた。

狼?

違う。わたしは、町に生まれて、学校にも行った。魔法の才能があるって褒めてもらったこともある。他の子と違うとは、ずっと思っていた。龍がわたしを認めてくれた。仲間がここにはいる。手を取って迎えてくれたあの人は。


悲鳴のように、名前を呼ぶ声がする。


「……スカさ…!…………て!」


彼の名前ではない。彼に用事があるのではない。不思議と、もう痛くなかった。夢を見ていたのだ。他人の夢を見ていた。

とても他人事とは思えない、とてもつらく悲しい夢を見ていた。何度も名を呼ばれ、その度にこれが夢ではないと思い知らされる。彼女の名前を呼ぶ妹の悲鳴。ラーフラ。悪魔。おまえさえいなければ。


誰かの悲鳴がうるさい。


わたしの名前は、そんな名前ではない。ラーフラ。知らない。知っている。チェイニー。ここへ何をしに来たの。何を期待していたの。ねえ、アスタミラ。与えてもらうだけの女。ならばわたしが、お前に、与えてやろうじゃないか。


宝石でも、名誉でもない。

もう少しありふれていて、それでいて特別なものでもって、たっぷりとデコレーションした死というものを。


「……フランチェスカさん!……助けて!!」


目覚めたラーフラの耳に届く悲鳴は、相棒を呼ぶ悲鳴だった。


シジマの悲鳴が耳を刺す。彼は体を起こした。

元々声の出せない体だったが、それでも彼は絶句した。悪夢のような光景だった。


「フランチェスカさん!!お願い!起きて!」


シジマの背中には斜めに切り裂かれた傷が走り、フランチェスカは倒れている。彼女は動かない。部屋の中はめちゃくちゃだ。何の魔法の跡か分からないが、燃え滓のようなものが幾つか、燻りながらまだ何かの痕跡を残している。


そして、ムル喰い。


八本脚の獣にはフランチェスカがとどめをさしたはずだった。なのに、どうして今、ムル喰いが暴れているのか。

自分が最後の記憶と状況が何一つ合致しなかった。彼の脳は混乱している。

記憶?

痛み?

彼は自分の掌を見る。

己の名前はラーフラ。

アスタミラ・チェイニーではない。チェイニー?誰だ?あそこにいるのはシジマ。そうだ。彼と、フランチェスカの護衛対象だ。


「ラーフラさん!!」


再びのシジマの悲鳴。目の端に映る隠し扉。

彼はようやく現実を取り戻した。全て己のせいだ。思い出した。

己の能力。彼の脳を通り過ぎていったおぞましい記憶。悪意の結晶。脳内で共鳴したそれは、圧倒的な暴力として、彼の生存本能を揺さぶり、テレパス能力の新しい扉を無理やりこじ開けた。


読み取ったすさまじい苦痛を受け止めきれなかった彼の脳は、それを放射することで、圧倒的な質量の苦痛から何とか逃れようとした。彼のそれは、追い詰められて念話による「伝達」という能力を超えた。

記憶や体験を引きずり出し、そして共鳴する能力。直感的に彼は、自分の能力の覚醒を知る。ただ読むだけだった器物に宿る記憶を、今や彼は「使える」ようになっている。


しかし、果たして彼の脳はそれを扱い切れるのか。


彼の傷ついた脳は記憶を、思考を振り絞る。


血塗れのムル喰いの前にシジマが立ちはだかっている。


後姿で判るくらいに息が上がっている。限界が近いのは明らかだった。彼女は六角杖を構え、ムル喰いとフランチェスカの間に立つ。フランチェスカを守りながら彼女は戦っている。

獣の八本脚が断続的に左右から繰り出され、それをシジマは杖でいなす。突き、払う。バチィッという激しい音が時折響いた。

獣の腕を突く六角杖の先端が、インパクトの瞬間に雷鳴のように発光していた。夢の中で聞いていた音だ。一度、二度突いて、三度目に雷鳴。一度、二度、三度目が光らない。エネルギーが尽きかけているのだ。


(シジマちゃん!)


ラーフラは立ち上がった。びく、とシジマは一瞬身を竦ませ、そのせいで獣の腕を受け損なって飛び退いた。


「ラーフラさん!」


シジマの声に安堵が見えたが、獣から距離を置くとむしろ不利になるのが見てとれた。獣は血まみれの腕を高く掲げて、体勢を立て直す。よく見るとシジマの肩口にも血がついている。何度か、受け損なった攻撃があるようだった。


(ムル喰い、とどめを刺したはずだった)

「死霊術なの、ごめんなさい、私が黙っていたせいで」


少ない言葉で、状況の一端が判った。彼の放射した苦痛と絶望が、おそらくフランチェスカの意識を奪ってしまった。シジマはそれに耐え抜いたのか。そして、経緯はわからないが、立ちはだかるのは死霊術で操られた獣だ。動物を操るネクロマンシーというのは聞いたことはなかったが、いまは疑っている場合ではない。


(ぼくはどうしたらいい)

「逃げて!フランチェスカさんを連れて、とにかく外に!」

(バカいうな)


ラーフラは駆け出し、シジマの背後に倒れたままのフランチェスカを抱き起こして揺さぶる。


(フランカ、起きろ、起きろったら)


ムル喰いは攻撃体勢のまま、様子を窺っている。


(ぼくがしくじった、ごめんよ、でも君の出番なんだ、なあ、フランカ、頼むよ)


ラーフラは彼女を揺さぶる。華奢なシルエットからは想像できないくらいに彼女は重い。その血で汚れた頬に、頸にラーフラの指が触れる。


(!!)


流れ込んできたのは、生者の記憶だ。アスタミラ・チェイニーのそれではない。もっと濃密で、現在を生きているフランチェスカ・ピンストライプの記憶だ。

動揺して彼は手を離す。がくん、とフランチェスカの首が垂れた。


彼のサイコメトリー能力もまた、テレパス能力と同じく新しい領域に到達していた。刻まれた情報を無生物だけでなく、生物からも読み取れるようになってしまうなんて。

そして、おそらくは夢を見ている彼女の記憶を、さっき彼は覗いた。罪悪感と、途方もない無力感が彼を包む。しかし、やらなければならない。


(フランカ!)


ラーフラは意を決してもう一度フランチェスカに触れる。流れ込む記憶。揺すぶる。知らない男の顔。剣戟。フランチェスカは答えない。

ムル喰いもまた、動かない。


「……ラーフラ…さん…?」


彼を背に、杖を構えたままのシジマの声に小さな疑念が生まれた。

ラーフラが目を覚ました途端に、念話が途絶えた。それまで、ムル喰いを操りながら執拗に彼女の精神を削っていた死霊術師の念話が途絶えた。そして、時を同じくしてムル喰いも攻撃の手を止めた。


念話能力というのは、そもそもがレアリティの高い能力ではある。シジマは幾つもの国を旅してきたが、龍の国に来るまで、念話能力者と会ったのはたった一度だけだ。念話を受け取るのは比較的誰にでもできるが、送ることは誰にでも使える能力ではない。

死霊術、念話能力、それらは相性の良い能力ではある。見えないものを繋ぐ業。空間を飛び越える能力。過去にシジマが唯一出会った念話能力者は、死霊術師でもあった。


もし、ラーフラが死霊術師そのひとであったとしたら。


芽生えた疑念が、シジマの構えをゆっくりと下げさせた。ムル喰いは動かない。


(フランカ、なあ、フランカ!)


出発前にラーフラは言っていた。

念話にはある程度の指向性を持たせることができる。ウィスパー。事実、彼はフランチェスカにだけ伝える念話チャンネルを持っていた。

仮に今、必死で呼びかけているように聞こえるその念話が、フランチェスカではなく、シジマにだけ向けられた声だったとしても、彼女にはそれを看破する術はない。


「ラーフラさん…?」


恐るべき疑念に取りつかれたシジマは、思わず背後に居るはずのラーフラに向き直った。致命的な隙だった。刹那、構えていたムル喰いの前腕が振り抜かれ、シジマは回転しながら倒れた。

声もあげずにシジマは地面に叩きつけられた。インパクトの瞬間、身体がぐにゃりと崩れて、明らかに意識を失ったのが見てとれる。


(シジマちゃん!)


ラーフラは戦闘職ではなかったが、悠長なことを言っていられる状態ではなかった。シジマの肘に裂傷が見えるが、深い傷ではない。それよりはおそらく、倒れた時に頭を打ったようだった。ムル喰いが再度、腕を振り上げる。

彼は、地面を蹴るようにシジマの元へ低く跳び、彼女を抱えて転がった。ムル喰いの追撃が空を切って床を抉る。そのまま部屋の中央、フランチェスカの側まで転がるラーフラ。


ズキン、と触れた肌からシジマの記憶が彼に流れ込んだ。


ズタズタに引き裂かれた女の顔。あがる青白い炎。見たことのない街の風景。ネクロマンサーの声。痩せた男の死。のしかかる白髪の男。立ち上がるムル喰い。雪原の風景。


彼が倒れていた間に起きたことが、体験したことのように理解できた。理解できてしまったとも言える。見ないようにしたつもりが、隙間から流れ込んできてしまった。覚醒したばかりの能力の制御がまだ、追いついていない。漏れ伝わってきたにしては情報量が明らかに多い。しかし大丈夫、まだコントロールできている。己と他人の記憶の区別は、まだ、ついている。


ムル喰いが、死人の不器用な動きで三人に向き直る。

フランチェスカとシジマ、そしてもう居ないアスタミラ・チェイニーの記憶から、色々なことがわかった。ネクロマンサーは、ラーフラを殺そうとしていたということ。フランチェスカを何かの勧誘にきたということ。そして、自分の体験した地獄のような拷問のこと。


どうしてフランチェスカを狙っているのか。そして、どうして自分を殺そうとしたのか。


(ネクロマンシーめ!)


彼は続けて、傍に転がったシジマの杖を引き寄せた。触れた瞬間、今度は杖に宿る記憶が見える。

それは殆どが鍛錬の記憶であった。柄もなく、刃のない武器である杖。シジマがさっきも見せたように、両端を巧みに入れ替え、変幻に、突くように使うのが定石である。


彼は、シジマの杖に宿る記憶を“使って”杖を操る。


まるで人間のように前脚を高く掲げたムル喰いの身体の中心に、低い体勢から杖を突き出す。正中、口にあたる裂け目で、その牙で、ムル喰いは杖を受けた。のしかかろうとしていた自身の勢いも加算された。ずぶ、と杖は獣の口中に刺さる。声を持たぬムル喰いの、苦痛の振動が杖を通してラーフラの掌を揺らした。


もう一度。


ラーフラはシジマの記憶どおりに自身のエネルギーを杖に流し込む。


(ッ!!)


ムル喰いの口中で火花が散るが、同時に焼き切れるような苦痛がラーフラの脳を焼いた。使ったことのない回路のせいだ。右目の視界が真っ赤に染まる。直感的に何度も使っていいものではないことが判るが、今、目の前の死獣を倒さなければ三人とも死ぬしかない。


(もう一度!)


全力で流し込むと、ばちん、とムル喰いが身体を激しく痙攣させたが、ラーフラ自身にも激痛が走って身体が硬直する。杖から手が離れた。両の視界が真っ赤で目が見えない。握り直そうとするが掌は空を切った。杖は、杖はどこだ。


流し込んだエネルギーの手応えは弱かった。決め切れたとは思えなかった。そりゃそうだ、と激痛の中、彼は自嘲のように思う。ぼくは、戦闘職ではないのだから。新しい能力で借り物の技術を使えるようになっても、所詮は時間稼ぎだ。たかが知れてる。このままフランチェスカが目覚めなければ、このパーティは全滅だ。ちくしょう。こんなことなら、向いてないなんて言わずに真剣に武術を身につけておけばよかったな。


(……待てよ)


ラーフラの脳裏に、一つの疑問がよぎる。

じゃあ、なんでネクロマンサーはそんな足手まといの、この弱っちいぼくを“一番最初に”殺そうとしたんだ?


高速で推論が積み上がる。


ラーフラが隠し扉に触れた時、彼が苦痛を撒き散らして部屋の殆どを昏倒させるような事態をネクロマンサーは想定していたわけではなかった。おそらくは、自分が静かに再起不能になることを期待していた。そうだ。邪悪で周到な準備をしてまで。


フランチェスカと交渉する時、あるいは交戦する時に自分が邪魔だったのか?

違う。

ならば聞かれては困ることがあったのか?

違う。


そうではない。


そうだ。思い出せ。己の能力はなんだ。そうだ。サイコメトリーだ。触れたものの記憶を読み取り、“探索する者”だ。ネクロマンサーがシジマやフランチェスカにしたように念話で語りかけてこないのは、おそらく話すに値しないからではない。ネクロマンサーは、ぼくを、過去を、おそれている。つまり。


(……ネクロマンサーッ!)


振り絞るようにラーフラは叫んだ。

そこに勝算はない。しかし、時間稼ぎが必要ならば、これしか方法はない。彼は記憶にある限り初めて、念話で『嘘』をついた。


(今…ぼくは…ムル喰いを通して…おまえを“視た”ぞ…ッ!)


ムル喰いの追撃が止まっている。

ラーフラは、自分のついた嘘が相手の喉元に届いたことを知った。沈黙が何よりも雄弁な証拠だ。ムル喰いは、死霊術師は、間接的にせよ彼に触れることを恐れている。畳みかけるように彼は続ける。


(シジマちゃんの記憶も、フランカのも覗いた)


目を閉じて、脈打つ痛みを抑え込む。


(そして今、ムル喰い越しに“視た”ぞ)


相手の沈黙が、全て彼の踏むステップが正しいことを示している。


(見くびったな、ぼくを)


圧倒的不利な状況ではあったが、ムル喰いが攻撃を止めたのは、手を止めるだけの理由があったからだ。彼の念話は、ネクロマンサーの疑念に楔を打ち込むだけの効果はあった。


念話で嘘をつく、というのは原理的には不可能ではない。ただ、非常に困難な作業ではある。

念話とは概念そのものを直接送る能力だ。嘘をつこうとした場合、伝える内容とともに「嘘である」という情報自体も相手に送信されてしまう。「冗談」という概念と同じように、そこに誤解が生まれる可能性はない。


ラーフラは、念話の単位を細かく区切ることによって「嘘」をついた。ラーフラがムル喰いを「視た」こと自体は事実であった。拡張された能力の成果か、それともシジマの使う、エネルギーを流し込む術が相手の深部に接続する術だからなのか。いずれにせよ彼は開花した能力によって、杖を通じて死せる獣の過去を「視た」。


そこに見えたものは、具体的ではなかったが薄ぼんやりとした記憶だった。痩せた男に躾けられるムル喰いの記憶。鞭の痛み。途中で取り上げられた餌。直接ネクロマンサーに繋がる記憶はない。もっといえばムル喰い自身が「死んだ」という記憶や「操られている」という自覚も見えることはなかった。


だがしかし、それでも彼はムル喰いを「視た」のだ。


彼は死霊術のことは分からないし試したこともなかったが、それは相手だって同じはずだった。サイコメトリーの能力を持っていない。分からないものを、ひとは恐れる。

ネクロマンサーは警戒するだろう。操作している端末から本体の情報を読み取れるなんてことがあるのだとしたら。


そしてそれができる能力者が相手なのだとしたら。


これ以上傷が広がらない内に、ムル喰いの操作をやめて、手を引っ込めて逃げ帰るしかないのだ。

死霊術師が直ちにそうしないのは、一体どこまで知られているのかを見極めるつもりだ。これまで通り龍の国で息を潜めて生きていられるのか。それとも、すぐに国を出る準備をしなければならないのか。

知られているのは顔だけなのか、名前だけなのか。それとも、それがただのハッタリで、何も知られていないのか。


(しくじったな、死霊術師)


視力が、うっすらと戻ってきた。目の奥も、掌も、ずきずきと痛むが、さっき体験した拷問に比べたらはるかにマシだ。彼は床に転がったシジマの杖ではなく、フランチェスカの細剣を拾った。


(もう、ぼくの能力は、“読む”だけじゃないんだぜ)


念話を発しただけで込み上げる嘔吐感。明らかにキャパシティを超えて、肉体が危険信号を発している。読み取った情報が多すぎる。脳にかかる負荷が尋常ではない。


細剣にもまた、達人であるフランチェスカの記憶が染み付いている。剣先に伝わる、相手の指を落とした感覚。疲労や痛覚がなくなるまで振り続けた稽古の記憶。そして、剣の振り方。綺麗に、線を引くようにまっすぐ振れば、肉や骨、鎧程度ならは断てるのだ。


(このムル喰いを細切れにしてしまえば、もうこの部屋に“使える死体”は残らないだろ)


ラーフラは虚勢を振り絞る。

彼がろくに戦えないということを知られてはいけない。

本来は死霊術師からしてみれば、たとえどんな情報を読まれたとしても、彼がその情報を誰かに伝える前に引き裂いてしまえばいいだけなのである。彼を殺し、そして残りの二人も片付けてしまえばいい。


そうしない理由は、おそらくは事前の目測を見誤っていたラーフラの新しい能力が果たしてどこまで出来るのかを測っているのだ。


彼がまだ、一方的にムル喰いを炭にするレベルで戦えるのか。あるいは、開花した新しいサイコメトリーによって奪われた情報がどの程度のものなのか。


既にラーフラが死霊術師の正体を喝破していた場合、「遠距離の念話」によってさっさと赤襟の一族の誰かに伝えてしまえばいい筈だった。

ただ実際のところ、ラーフラにその能力はない。原理的に不可能であると聞いたことはなかったが、現実にそれをこなして見せる術者には会ったことがなかった。

能力が目覚めた今、遠距離通信をすることも可能なのかも知れないが、試してみる余裕はない。最後、万策尽きた時には最高出力の念話で一か八か、助けを呼ぶしかないとは思っているが、まだ、その時ではない。


死霊術師は「遠距離の念話」をする能力を持っているのだろうか。

仮に死霊術師が遠隔でムル喰いを操り、遠隔で念話を飛ばしてきているのであれば、同じことをラーフラがするだろうという可能性に気付かぬ筈はない。つまり、死霊術師は「遠距離の念話」自体ができるわけではない。遠距離での死骸の使役や端末化は出来るようだが、そこまでだ。死霊術の達人ではあるようだが、念話に関してはおそらく、ラーフラと同等かそれ以下である。


しかし、それならば尚更、死霊術師がその可能性に思い当たる前に行動を起こさなければならない。ラーフラが時間稼ぎをしていると気付かれた瞬間、彼らの運命は尽きる。


(おまえは、迷った。ここでは、迷ったやつから死ぬんだ)


ラーフラは、細剣を掲げて祈りの仕草をした。フランチェスカの戦闘前のルーチンである。彼女がなぜその姿勢を取るのか、細剣を通じて彼は理解した。


神はいない。


斬れば、斬れるものは斬れるし、斬れなければ、自分が死ぬだけなのだ。そして、彼は死霊術師にこう思わせなければならない。


『ラーフラは遠距離通信ができる』

『遠距離通信をしていない理由は情報を得ていないからだ』

『しかし、もう一度接触すれば情報を得ることができる』

『その準備が整った』

『今すぐ死体を捨てて退散しなければ、本当に危険だ』


(こいつで、完全に暴き切ってやる!)


ラーフラは念話で雄叫びをあげ、細剣を低く構えてムル喰いに突進した。


ごぼ、と水の音がした。


水に落ちた時のように、あたりに流れる時間がゆっくりになった。ラーフラの意識は今、剣とともにあった。人ではない。己は器だ。流れるものを取り込み、ひととき、とどめておくだけの器だ。これ以上他人の記憶を身体に取り込んだら、もう後戻りできなくなる、という予感があったが、自分以外のものに肉体を委ねるのは、恐ろしいというよりも心地よかった。


そして振るう切先に、ラーフラの意識は同化する。


ざぷ、とやはり水の音がする。


水音を立てながらフランチェスカの剣はムル喰いの死骸を切り裂く。まっすぐ、正確に剣を振れば誰が振っても皮や肉、骨程度なら二つに切れるのだ。みち、と両腕が悲鳴をあげている。器が違う。鍛え抜いたフランチェスカと同じように腕が、背筋が、体幹が出来ていない。縦に振り下ろし、そのまま斬りあげ、回転しながら横なぎに振る。ムル喰いの前脚が三本、斬り飛ばされて落ちた。

残りは五本。

考えている暇も、余裕もない。ネクロマンサーの正体に迫ったというのはただのブラフだ。どのみち、ムル喰いを無力化できなければ、全員がここで死ぬしかないのだ。


(おあああああ!!)


叫びながらラーフラはもう一度回転する。体当たりにも似た猛烈な勢いの剣勢。さらに二本の脚を斬り落としてラーフラは止まった。

どう、と音を立ててムル喰いの身体が崩れた。

落とされた脚の多さにバランスを崩したのではない。死骸を支えていた、死霊術の緊張がはっきりと消えていた。ネクロマンサーが、ムル喰いの死骸から去ったのだ。

果たして、彼がそれを理解したのか。誰にもそれは分からない。ムル喰いが崩れるのと同時に、彼の中で決定的な音がした。


ばしゃ、と耳の奥で聞こえたそれは、やはり、水の音をしていた。


(……)


見えるはずのないものが、彼の目には映っていた。そこに立つのは、見たことがないはずの彼の両親であった。闇の中、剣の届かぬ距離、手の届かぬ距離で、若き幻影の夫婦は彼を見つめていた。チェイニーの妹が不安そうに立っている。シジマがかつて殺めた司教がいる。そして、フランチェスカの兄が寝間着のまま、見つめている。


ラーフラの視界はもはや血の赤ではない。暗く、深い帳が彼の視力と意識を奪っていた。剣を下げて立つ彼は、すでに彼であって彼でない。堅く、剣を握る指は血の気を失って白く、ほどけることはない。爪は掌に食い込んでいる。

荒く息をつく探索者の目には、何も映ってはいない。

彼の意識は、動くものをすべて斬る、というたったひとつの目的だけを残した。彼の目は、何も写していない。


かつて彼が開けようとした隠し扉のドアノブが回ったのも、正確には、彼には見えていなかった。微かに軋む音をさせながら、扉は部屋の向こう側からゆっくりと開いた。


少し小柄な人影が、ドアを開けて奥の部屋から出てきた。


(ラーフラ、“ギフテッド”、ダンバーズ)


傷だろうか。肩口を押さえながら、人影は呟いた。その念話には、隠しきれない焦燥と、憎しみがあふれていた。


(たしかに、見くびっていたよ…)


チェイニーが纏っていたのと同じローブだ。深く、フードのその奥の容貌を窺わせない。人影はしばらくラーフラを観察して、鋲のようなものをラーフラに放った。

自身の顔めがけて飛翔するそれを、ラーフラは自動的な動きで斬り落とす。彼は今や、ほとんど意識を失っているが、己の剣の範囲に近づくものを全て斬る、剣鬼と化している。

彼の足元には、シジマとフランチェスカが倒れている。どちらも、まだ息がある。


(殺しておくべきだった)


人影は、ぎり、と拳を握った。

死体、という手持ちのカードが尽きたことは間違いない。そして、この限られた時間で三人を片付けてから去るにはあまりにもカードが足りなすぎる。

赤襟一族は、基本的に単独依頼を受けない。傭兵は依頼の達成を何よりも重要視する。特に探索や護衛は、どんなに簡単に見えるものでもバックアップをつけないことなどない。

あまりにも時間をかけすぎると、バックアップ班が駆けつけるはずだ。依頼人であるシジマの保護、そこに赤襟の事務方はどの程度の時間を見込んだのか。

もともとここまで時間をかけるつもりではなかった。誤算が多すぎる。龍の国で雇った下僕は思いのほか役立たずだったし、どうにでもなると思っていたラーフラや、他所者の見習い道士がしぶとかった。

癪だが、自分の準備不足、見通しが甘かったと認めないわけにはいかなかった。


(クソッ。忌々しい、これが龍の国か)


舌打ちを漏らす人影こそが死霊術師、その人であった。

絶望的に思えたシジマの奮闘は、ラーフラたちの手は、死霊術師のすぐ喉元に届いていたのだ。


窺えぬフードの奥、明らかに苛々した調子で死霊術師は数歩、歩き回った。


こちらが位置を変えると、かすかに踏み込みの方向をラーフラのつま先が調整している。自動操縦のゴーレムと同じ、動くものすべてを殺すための予備動作だ。

ラーフラに、まともな意識が残っているようには見えなかった。おそらく、移動を捨て、間合いに入ったものを区別なく撃ち落とす類の構えだろう。

追い詰められた手負いの獣と同じ、単純だが厄介な構えだ。


死霊術師の一際大きな舌打ちが響く。


まったく厄介なことになった。

途中までは概ねうまく行っていたはずだったのにどうしてこうなってしまったのか。


邪魔なラーフラを無力化するために、趣味と実益を兼ねてとびきりの呪物を準備したのはよかった。呪物に記憶を籠める工程にはやたらと手間がかかったが、思った以上の反応が得られたし、かけた時間に十分見合う収穫もあった。パッシブスキルであるサイコメトリー相手に、この手のトラップが効くと確認できたのは大きい。


続くフランチェスカの懐柔には失敗したが、彼女に関しては、思い通り動くようになってくれれば、別に“生きている”必要はないのだ。だからこれも織り込み済みの誤差の範疇だった。それほどの問題ではなかった。


やはり彼女だ。


名前はなんと言ったか。この、見習い司祭が思ったよりもしっかり抵抗してきたのが誤算だった。単なる部外者にすぎないと侮っていた。何よりもまず最初に殺しておくべきだった。もともと始末するつもりではあったが、どうせならラーフラとまとめて、懐柔したフランチェスカにさせようと思って後回しにしたのが間違いだった。不確定要素は、殺せる時に殺しておくべきだったのだ。


(次回への課題だな…)


しかし、今は過ぎたことを悩んでも仕方なかった。

それよりも、もっと差し迫った問題が控えている。

死霊術師はいくつかの可能性を考えては捨て、何度か首を振った。


十中八九、ラーフラが己の正体を突き止めたというのはハッタリだろうという確信はあった。だが同時に、そう断定するには少し材料が足りないとも考えている。死霊術師は追い詰められながらも、きちんと冷静を保っていた。


ラーフラの行動は、明らかな時間稼ぎだった。

彼らは、死霊術師が遠くに居るものだと思い込んでいた。死体から引き剥がせばもう何もできない筈だと思い込んでいた筈だったし、事実、見習い道士はその思い込みを利用して心を折った。

ラーフラがどの程度の情報を二人から得たのかは分からないが、ムル喰いをどうにか出来さえすればゴールだと思っていたのは間違いないだろう。


それに、そうでもなければ戦闘職でもない者がムル喰いに立ち向かうのは、傭兵の行動様式からは逸脱しすぎている。傭兵は戦士だが、勇者ではない。傭兵は名誉や仲間のために無駄に命を賭けたりはしない。

傭兵が命を賭けるのは、己や部隊、仲間の生存確率を少しでも上げるためだ。勇猛で鳴らした赤襟一族にだって、完全な敗け戦の戦場に無駄に踏みとどまる者はいない。


それは、単純に「勝算があった」だけなのかもしれない。

実際、その剣の冴えは、死霊術の支配下のムル喰いを圧倒した。ムル喰いを倒す自信があるなら、むざむざ仲間を置いて逃げる手はない。

だが、本当に勝算があったのなら、こちらが油断しているうちに黙って斬ればよかったのだ。

わざわざ雄叫びをあげたのには、必ず理由があるはずだった。


(もう“読む”だけじゃない)


たしかにラーフラは、そう言った。

状況からしても、事前の調査からも、もともと隠していた能力だというのは考えにくい。

彼はこの短時間で、記憶を“読む”だけでなく、おそらくは“使える”ようになった。

武器を取り、その記憶を読み取ることで持ち主の腕前を再現できる能力と解釈していいだろう。

単純ながら、恐るべき能力だと言っていい。

そして、それがたった今開花したのだとしたら、同じようにサイコメトリー能力の他の面が強化されたという可能性も、ゼロではない。


(ムル喰いを通して、お前を“視た”)


ラーフラは確かに念話でそう言った。死霊術師の知識と体験では、念話で嘘をつくことはできない筈だった。つまり、死体を通じて操作者に迫る能力が目覚めたというのは、まるきりの嘘ではない。嘘ではない筈なのだ。

だから、万が一を考えてムル喰いの死体から離れた。


では、しかし、どこまで知られたのか。それが分からなかった。見る限り、どこかに記録したり伝えたりしたような様子はない。

そこまでだった。死霊術師の持っているカードでは、どう考えてもその答えが出ない。確実には、ラーフラを始末しておくべきではあるが、今の彼はムル喰いを両断可能な剣鬼と化している。


しかもその上、そろそろタイムリミットが迫っていた。

こればかりは推測することしかできない。赤襟の任務には必ずバックアップがある。任務失敗と判断されると次の矢が飛んでくる。つまり、ここに居られる時間は限られている。

護衛任務の場合は、何らかの定時連絡をとっているのか、それとも帰還時間を設定しているだけなのか。後者ならまだ余裕があったが、前者ならそろそろ猶予はない。


剣を構えるラーフラは、見るからに消耗が激しい。

相応にリスクのある能力なのだろう。部屋にあるものを使って消耗戦を仕掛ければ体力を使い果たすかもしれなかったが、逆に一か八かと、受けの姿勢を解いて斬りかかってこられたら面倒だった。

増援が到着するまでに間に合っても、戦闘の余波で床の2人が目を覚ます可能性だってある。フランチェスカが戦闘可能な状態で目覚めた場合、最悪、己が安全にこの場を離れる障害になる可能性だってあった。


死霊術師は、大きくため息をついた。


やはり、今夜は思い通りにはいきそうにない。欲張りすぎてはいけないのだ。


死霊術師が、ラーフラの背後に向けてランタンを投げた。

彼のつま先がランタンを追尾して向きを変える。床に落ちたランタンが砕けた。


ほとんど同時に、ばん、と勢いをつけて奥の扉が開いた。開いたのは死霊術師ではない。

予期せぬ状況変化にラーフラの反応が一瞬遅れる。室内の空気のすべてが、ひと呼吸ぶん、ぎゅ、と奥の部屋に吸い込まれた。

そしてまるで奥の部屋自体が呼吸したかのように、隠し扉から吹き出したオレンジ色の塊が天井を焦がした。


炎だった。


奥の部屋で育った炎が、さらなる薪を求めていた。死霊術師が、奥から出る際に放火していたのだ。ラーフラにとっては最悪の、死霊術師にとっては最高のタイミングだった。


そしてそれは、その狙いがわかっていたとしても、対応できるものではなかった。


虚をつかれたラーフラの、がら空きの脇腹。

ランタン投擲と同時に死霊術師は予備動作に入っていた。その袖先から一直線に二本の鋲が尾を引いて伸びる。ラーフラは片方を肘で受けたが、そこまでだった。もう片方の鋲が軽鎧を貫通した。ぞぶ、というその音は炎の勢いにかき消されている。剣鬼は、がくりと体制を崩した。


炎に次いで、黒い煙が咳き込むように吐き出された。

死霊術師は摺足で後退りながら、膝をついたラーフラの反応を窺う。明らかに先程までの剣鬼としての圧が消えていた。


(なんだ、“こっち”は不発か)


死霊術師が放った鋲の先に仕込まれていたのは、楓の国の死刑台に使われていた釘である。これがサイコメトリストに本当に効くかどうかは当て推量の、半分賭けのようなものだった。


サイコメトリーは、どの程度”直接的でないもの”まで読み取るのか。死人の着ていた服はどうか。処刑に使われた槍はどうか。槍に宿るのは、処刑される罪人の記憶なのか、それともそれを突く処刑人のそれなのか。槍の記憶が脳を灼くなら、その記憶が宿るのは穂先だけなのか、柄でもいいのか。尖らせるために表面を削ってしまったら、残る記憶は失われるのか。失われるとしたらそれは全部なのか、一部なのか。


いずれにせよ、呪物として使われる部分であれば何らかの効果はあるだろうと死刑台の釘を用意したが、これを対サイコメトリーの切札と頼むほど死霊術師は楽観的ではなかった。そのためにあんなに手間暇をかけて、より確度の高い呪物をわざわざ用意したのだ。


(さっきみたいな、濃密な感想をぜひ聞かせてもらいたかったんだけどね)


最初の、隠し扉を開こうとしたラーフラの絶叫と苦痛の放射は、隣室にいた死霊術師本体の肉体にも、当然届いていた。

世界には、あらかじめ共感能力の欠如した人間が一定数、存在するという。共感能力が著しく低いというのは、痛覚が著しく鈍いのと似ている。他人の苦痛に無頓着でなければ、ラーフラのために人をひとり、責め殺して呪物を作ろうなどという発想には至らないだろう。

しかしいずれにせよ死霊術師は、あれだけの濃密な思念投射に晒されながら、平静に死体を操ってみせた。それは一般の術師に可能な芸当ではない。邪法といえ、ひとつの達人の業であった。


ラーフラの手から、構えていた剣が落ちていた。

傷の痛みが覚醒させたのか女騎士の剣を手放したからか、彼はもはや剣鬼ではない。ラーフラ自身に戻っている。自由になった手で軽鎧の留金を外そうとしているが、堅く握りすぎた手指が痺れているのか、その指先が何度も空を切る。目は閉じられたままだったが、そもそもが炎のせいで視界は急激に悪くなっている。


(少しは効いているのかな、ただ痛いだけかな)


死霊術師の嘲るような念話は彼に届いているのか、いないのか。鋲は、鎧の外から引き抜くことができない程度に潜り込んでいる。シジマとフランチェスカは倒れたまま動かない。

奥の部屋の炎は勢いを増し、隠し扉に燃え移っている。黒い煙が天井を覆い始めていた。逆の隅では、割れたランタンから、ちろちろと新しい火種も上がっている。息苦しさと熱が部屋を充たしてゆく。


実のところ、ラーフラの脇腹に突き刺さった鋲は、死霊術師の期待した以上の効果を発揮していた。呪物に宿る記憶は身体の内側から、まるで刃物のようにラーフラの脳を再びかき回していた。

しかし、彼はその苦痛を己の頭蓋から出そうとしなかった。

荒れ狂い、脳を焼く苦痛を、彼は声を出さずに耐えていた。内側に封じ込めていた。さっきのように苦痛に身体を明け渡したとして、事態が好転する可能性はない。


ラーフラは己の軽鎧をどうにかすることを諦めた。

代わりに彼は血の滲む両手で、フランチェスカを抱き起こそうとした。鋭敏になったサイコメトリー能力が、死刑台に宿る記憶が、剥き出しの神経を削るように苛んでいる。突き立つ刃物の感触、世界を呪う声。繰り返される死。押さえつける腕。

ラーフラは声のない喉で、相棒の名を呼ぼうとした。

フランチェスカの、肩当てに彼の血の痕がつく。脳裏にフラッシュバックする彼女の記憶。己の顔、野営地の風景。


(フランカ…!)


絞り出すように、ラーフラの念話が響いた。


(…フラン…カ……ッ!)


彼女と2人だけのチャンネルの、その念話には、ラーフラの内側で暴れ狂う苦痛と痛みの色はない。彼は意思を振り絞って痛みを抑え、相棒だけを呼んだ。フランチェスカは応えなかった。


じりじりと後退っていた死霊術師の後手に、部屋の出入り口のノブが触れた。


(なにも収穫できなかったのは残念だが、時間切れだ)


死霊術師は扉を開き、暗い下水道に滑り出た。


(ああ、ああ、チェスカ。そういえば勝手に入られたくないなら、鍵をかけろって言っていたね)


扉を閉める前、フードの奥から死霊術師は、倒れたままの女騎士と、彼女を抱く探索士と、その傍らの見習い道士を見つめた。


(ご忠告ありがとう、これからは、必ずそうするよ)


炎が周りつつある部屋の、出入口の扉が乱暴に閉まった。死霊術師は錠をかけた。ぱちぱちという炎の音も扉が塞いだ。

水路は静かだ。壁一枚の向こうにあった死闘の影はもはやどこにもない。死霊術師は鍵を投げた。とぷん、と魚が跳ねるような音がして、着水し、沈んでゆく。


あたりに誰も居なくなると死霊術師は深く被っていたフードを脱ぎ、まるで清々したかのように地下水路を駆け出していった。

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