「悪」(中編)

発端はこうだ。

ふと疑問を抱き、その疑問を「試してみたい」という欲望が抑えられなくなることがある。ふと、この縄を切ったらどうなるのだろうかと考えて、その縄のことが頭から離れなくなることがある。

発端は、小さな疑問であった。


龍は、この国の王である。

龍は、人ならぬ身。人語を解するかどうかさえ怪しい。おそらく、人語を使わぬのではなく、人語というものを認識すらしていないのだろう。王は龍の言語を人に与えたが、それはルーンやキリークと違い、それ自体に魔力のあるものではない。ただ、龍と意思疎通するための手段でしかない。龍の言語でだけ発動しうる魔術もあると聞くが、人間の魔素でコントロールできるレベルのものでないことは容易に想像ができる。

龍は、民の個別の事情を頓着しない。訪れるものを選別し、見合うようであればそれぞれに居住する権利と加護を与えるが、人それ自体を慈しむ訳ではない。

龍は、人を、その個体を見ない。ただ、王として国にある。


君臨すれども統治せず、という言葉があるが、王は正確に言えば君臨もしていない。王宮では夜への備えだけが厳重である。人と同じ大きさの王は、太陽のある間だけ戸外に出ることを許される。日没の前に王は王宮に戻る。まるでそれは、見ようによっては王を夜から護るための籠のようとも見える。

王が龍であり、龍が人智を超えた存在であるのは疑うべくもないが、王から夜を遠ざける制約が何のためにあるのか、殆どの民は知らない。大臣達は理由を知っているというが民衆にそれが語られることはない。王国の成立を知る長命の者達は、しばしば龍である王がこの国に降りたことへの感謝を口にしていたが、近年では長命の者たち自体の数も減った。長命の者達はひとり、またひとりと旅に出てしまった。


龍の国では、龍である王との誓約だけが絶対である。

その誓約に沿う限り、出自、素行、過去、主義や信条がどのようなものであっても王は、龍の国の民と認め、ひとしく加護を与え、庇護する。

しかし龍の国は龍のものであると同時に、人の治めるものでもある。龍との誓約のほかに、長命の者達が主となって幾つかの法を作り、遺した。その殆どは、法というよりも戒律であった。戒律の数も多くはない。龍との誓約を下敷きにした戒律は、常に7つである。時代にそぐわないものが廃れ、代わりに新しい戒律が足される。


龍の国の民は、王を国の外に出してはならない。

争いによって領土を広げようとしてはならない。

王の名を騙ってはならない。

王の財宝を盗んではならない。

王と交わした誓約の内容を国外で語ってはならない。

印を偽造してはならない。

龍の国の名を名乗る時に嘘を混ぜてはならない。


これまでの歴史で戒律を破ったものは少ない。そのほとんどが、龍である王の名を騙った罪である。いずれも追放され、あるいは自ら逐電し、龍の国から去って行った。


ふと、考えた者がいる。

龍は強大だが、仕える者達はそのほとんどが定命であり、その数も有限である。

もし、たとえば、万が一。

王に仕える者を皆殺しにした場合、王はそれを不便に思うのだろうか。

龍の言語を知る者を根絶やしにした場合、王たる龍はどのように振る舞うのだろうか。

人間の言葉を喋らない龍を、王宮にたった一人にした場合、必要に駆られて王は人間の言葉を使うだろうか。

龍の肉体が滅びるという龍節の後、世界のどこにも赤子が生まれなかったらどうなるのだろうか。

龍が居なかったとしても、実は、龍の国は変わりなく続いてゆくのではないだろうか?


それらは子供が「洪水で、世界の全てが海になったらどうする?」と尋ねるのと似たような疑問ではあった。

しかし、その一部でも実現することが出来るとしたら?


始まりは、そんな些細な疑問であった。


地下礼拝堂に響く悲鳴は止まない。喉が枯れることも許されず、脳の焼ける強度でラーフラは苦痛と、恐怖と、絶望を最大強度で放射し続けている。

倒れていたシジマの鼻からも、どろっとした血が流れた。意識を失った者の深層にも悲鳴は届き、苦痛を、刻み続けている。痩せた男は時折痙攣している。


唯ひとり立つフランチェスカは垂れた鼻血を拭いもしない。彼女は歯を食いしばったまま、瞬きをしない。彼女の目に映るのは、部屋隅の鏡である。確かにそこには違和感があった。

鏡があること自体は認識できるし、そこに確かに鏡はあるはずなのだが、ディテールがおかしいのだ。解像度が、周囲のものと少しだけ、ズレている。そこだけが、甘いのだ。よく見ると、鏡自体がおかしいのではない。その、あたり一帯がおかしいのだ。

彼女はこみ上げる嘔吐感を呑み下し、もう一歩を進んだ。


不意に、そこに人影が現れた。違和感の塊が、寄り集まって人型の像を結んだ。そんな感覚だった。


(「急に見えるようになった」と思っただろう?)


念話であった。

人型の像は、まだ輪郭を結ばない。


(フランチェスカ・ピンストライプ。その感覚は、間違いではないよ)


ラーフラが放射している苦痛は止むことがない。左手に食い込むムル喰いの細い何百の牙。悲鳴。出せない声。口中に突っ込まれた金属片。これは、ドアノブだ。記憶は混濁し、様々な苦痛をごちゃ混ぜにして彼女の脳を灼く。妹はどこだ。私の、身体、どうして。


(僕が、いま、相互不可視の術を解いたんだ。僕はずっとここに居たし、今までは僕からも君たちの姿は見えなかった)


念話の声は、涼やかだった。垂れ流されている苦痛の記憶を上書きするような、強い出力だった。この放射されている苦痛と、まったく違うチャンネルにあるように彼女には感じられた。

その声を聞いている間は、ラーフラの念話から護られる、そんな気さえした。悲鳴は続いている。


術の影響か、鳴り止まぬ悲鳴と苦痛のせいか、まだ認識の切り替えがうまくいかない。


人影は今、相互不可視の術と言った。

相互不可視の術というのは「出来損ないの術」だとされている。法術の術理について説明する見本として持ち出されるタイプの術だ。

不可視になる術を追い求める魔道士は多い。ただ、大抵の場合その技術は幾つかの問題点にぶつかって頓挫する。その代表とされているのが、相手の現実認識を狂わせるというアプローチによるものだ。

法術世界においては、様々なものが双方向的に影響を受ける。対価を支払う分だけ恩恵を受けられるとも言える。

制約なしで火の魔法を使おうとするなら、代わりのものを同じだけ冷やさなければならない。相手が自分を認識できないようにする術、というのは、自分も相手を認識できなくなる術でもあるということなのだ。


相互不可視の術は相手を認識できなくなるだけだ。

相手が闇雲に振り回した剣の間合いに入っていれば、術者は当たり前のように斬られる。術者は認識できない剣に斬られて絶命し、次いで術が解けて、単に斬られたという事実だけが残る。もっとも、そんなことはまず起こらない。術が発動したが最後、斬らねばならない相手がいる、ということさえ認識できなくなるのだ。術者自身も、己を斬ろうとしている相手がいることさえ認識できなくなる。

効果自体は有効な術ではあるが、術をかける意味が全くないので、現実的な話として、メリットは低いとされていた。


やめて、やめてやめてやめて、許して、もうこれ以上、痛いことをしないで。フランチェスカの脳内を懇願が駆け巡る。命乞いさえ、拷問者は気にも留めない。現実の彼女の背に脂汗が流れる。自分なのか、ラーフラから放射される記憶なのか、段々区別がつかなくなってくる。何が現実なのかが曖昧になってくる。リアルなのは、ただひたすらに続く切れ目のない苦痛、悲鳴、絶望だけだ。


(しかし、いい加減うるさいな。話ができない)


解像度の低い人影は呟き、フランチェスカの左を無造作に横切ってラーフラの横に向かった。斬れなかった。動けなかった。ふわっ、と香木の香りがした。カメジャコオン。痩せた男と同じ香りだった。


気付くと彼女は膝をついていた。気を失っていたのかもしれない。一瞬の静寂。悲鳴が止んでいた。


振り向くと人影がラーフラをドアノブから引き剥がしているのが見えた。だらんと下がったラーフラの手。人影が襟首を離すと、ラーフラの身体はどさりと崩れ落ちた。丁寧な剥がし方ではなかった。


(殺しておくつもりだったが、この先、彼がどうなるのか見てみたくなった。しばらく生かしておくことにしよう)


念話だ。念話に嘘は混じらないという。思っていることが、思っている通りに放射される。雑念が入るとそれはそのまま出力されるか、ノイズとなってクリアには聞こえなくなる。

つまり、人影は本当にラーフラを殺すつもりだったということだ。

フランチェスカは剣を杖に、立ち上がろうとした。


(面倒な話は抜きにしたい)


人影がフランチェスカに向き直ると不意に圧が来た。体が硬直した。


(彼は邪魔だったんだ。便利な能力だとは思うが、この、武力の国、龍の国にはそぐわない)


ローブのせいではない。顔が、正しく認識できない。フランチェスカは目を強くつぶった。


(過去を読み取る能力なんて、戦いの役には立たないと思っていたのは訂正しなければならない。こんな風に、けたたましいサイレンの代わりに使えるとはね)

「一体、彼に、何をしたんだ」

(彼の脳を焼いてやったんだ。たぶん焼けてるだろ)

「何を」

(とある女の子に拷問をして、その記憶を焼き付けてみたんだ。そのドアノブをくわえさせた状態で、一通り思いつくことは全部やってみた。その後、ドアノブはそこの扉に取り付けたって訳さ。その扉だけは用心して、必ず『読もうとする』だろ。サイコメトリストには効果的な対抗策かなと思ってね)


笑い声の概念。純粋に楽しそうな声だった。嘲るでもなく、挑発するでもない。どこまでもフラットな笑い声。


(そうだよ、この部屋は、彼のための部屋さ。赤襟が差し向けるとしたら、君と、彼が来ることは分かっていた。でも最終的な目的は、君だ)

「私」

(そう。君を、スカウトしに来た。赤襟なんかに預けておくのは惜しい)


フランチェスカは相手に悟られないよう、柄を握り直した。

人影は、未だ解像度が低いままだ。

ノイズの混じるフードを被り、そして妖しく彼女の脳内に語りかけている。


(君が、わざわざ赤襟に身を寄せた理由は知っているよ)


女騎士は柄を強く強く握りしめた。

目の前の人影までまだふた間合い。確実に斬るには遠い。

念話はフランチェスカの脳をゆっくりと浸食してくる。耳を塞ごうとしても、塞ぐべき器官が見つからない。それは、まるで自分自身が考えているように、体験したことのように、記憶と現実と情報の境目を侵食しながら脳内に流れ込んでくる。さっきまでの間断ない拷問の記憶のせいで所々穴の開いたような彼女の心を、まるでそっと埋めるような声だ。

拷問の痛みが、記憶の奔流が、まるで上書きされるように消えたようだ。それだけですでに彼女は奇妙な安堵の中にいる。もう二度と追体験したくない苦痛から、ようやく解放されたような感覚の中にいる。それをもたらしてくれたのが、相対する人物であるような錯覚さえもあった。

しかし、違う。

目の前の人物が全ての元凶なのだ。今の告白を思い出せ。彼女は唇を噛む。ラーフラを罠にかけるために、その痛みを記録した罠を作るためだけに無関係の人間を拷問したという、邪悪な告白を忘れるな。

悪。それは彼女が体験したことのない邪悪だった。


全てを振り払うように彼女は強く首を振った。


「私が赤襟に居る理由?……いい加減なことを言うな」

(嘘じゃない。その理由を聞いて、僕だって同情している。赤襟の男たちは、君の事情を知らぬはずのものだって、残らず君に優しかっただろう?僕だけじゃない。皆、知っているんだよ)


また一瞬、フランチェスカの身体が硬直する。挑発だ。乗ってはいけない。


「うるさい。黙れ」

(僕は君の、その過ごし方を責めたりはしない。傷を癒す為には仕方ないことだと思うよ。女性なら尚更だ。だが、いい加減そろそろ立ち上がる時期じゃあないのかね)


フランチェスカは二の腕の布地で鼻血を拭った。頬に赤黒い跡が伸びる。


「関係ない。私は今、私の仕事をするだけだ。お前はここで殺す」

(…仕事!……仕事、ねえ)


念話が一瞬だけ彼女を嘲る調子になった。


(そこでだらしなく寝てる旅行者の護衛なんかが、君の仕事だっていうのか。龍なんかに仕える赤襟の、更にその下請けじゃないか。栄誉ある騎士様が、つまらない仕事だ)

「うるさい」

(ピンストライプの一族を、兄上を、見返してやりたいとは思わないのかね)

「黙れッ!!」


ラーフラから放射された凄絶な苦痛に耐え、自己と、他人の記憶との境目がつかなくなる寸前まで追い込まれながらも踏みとどまったフランチェスカの感情が、自身の兄に言及された瞬間に噴火した。


「死ねッ!」


叫びながら一足の間合いを踏み出し、横薙ぎに払う。感情に任せた荒い剣閃であった。

やはり間合いが遠い。人影は余裕を持ってそれを躱す。フランチェスカは荒い息を吐いて、もう一度構え直した。その目には殺意だけがある。


(やはり、まだ、ちっとも克服していないんじゃないか)


念話が一段トーンを落とした。


(人には皆、急所というものがある。なあ、下がらずのフランチェスカ。君の秘密を知っているものを全員殺したら、君の傷は癒えるのかな?)

「黙らないようなら、すぐに殺してやる」

(いいや、いや。そうじゃないだろう)


怒りに囚われた彼女の意識は、元々の精神攻撃のダメージのせいもあって混濁し始めていた。騎士たれという彼女の精神の鎧はいつのまにか剥がされ、弱い部分が剥き出しになっている。


(フランチェスカ、ああ、かわいそうなチェスカ。実の兄に犯されそうになって実家を出奔したと聞いたが、その様子だと噂話は真実らしいな)


かわいそうなチェスカ。その言い回しを聞いてフランチェスカの顔から表情が消えた。


(いいや、いや)


この念話の声には聞き覚えがあった。この特徴的な否定するときの口癖。


(その反応を見ると、もしかしたら“未遂だった”という部分が嘘だった、ということも、ありうるのかな?)


その言い回しは、彼女の兄のものだった。


執拗な念話が、ついに彼女の精神を決壊させた。念話による「声」は、聞き手の中で如何様にも変換される。ニュアンス、イメージ、記憶の中で結びついたものに紐づけられて、記憶を侵食する。念話は実際の口調を再現するわけではない。

彼女の精神はその挑発と、際限なく繰り返される拷問の強い記憶によって混濁し、ドアノブをくわえさせられた女の自我と一時的に入り混じっている。

念話の声は「彼女の兄」ではない。あやふやだった声が、不意に記憶の中から掘り起こされた兄の声の記憶とリンクし、勝手に彼女の中で焦点を結んだだけだ。しかし、彼女の傷ついた精神はそれを認識できない。


決壊した彼女にはもう、区別がつかない。


「ウワアアアアア!!」


フランチェスカは闇雲に剣を振り回し、届かないと見るや、逆手に構えた剣を人影に投げた。投擲された剣は直線軌道で人影のフードを捉えた。避けようとしない。確かな手応えがあり、そしてフードが解けた。


解像度の低い人影の、被っていたフードが解けたその下の貌。


頬をざっくりと切り裂かれたその顔は、他ならぬ彼女自身の顔だった。たった今彼女の剣がつけた傷だけではない。腫れ上がり、痣と傷だらけで、髪もまだらに抜かれている。眼窩も片方が暗い穴になっている。濁った眼の、げっそりとやつれた死人の顔だ。


「あ、ああ、あ」


フランチェスカは頬を押さえ、膝をついた。


「あああああ…あああ…!」


正確にはそれは、彼女、フランチェスカ・ピンストライプの顔ではなかった。彼女がついさっきまで浴び続けた記憶の主。苛烈な拷問を受け続けたアスタミラ・チェイニーの顔だった。

妹を案じ、左腕をムル喰いに噛み砕かれ、突き刺され、焼かれ、何度も何度も間際の死を、痛みを体験した「わたし」の顔だった。

しかし今の混濁したフランチェスカにはもう、彼女と自分の区別がついていない。無理もないことだった。それほどにも苦痛の記憶の放射は強烈で、そして濃密すぎた。


(かわいそうなチェスカ、かわいそうなチェイニー)


念話の声が歪む。念話の主は、彼女の弱点をついに探り当てた。彼女の心は、ズタズタにされた可哀相なアスタミラ・チェイニーと、ついに同化してしまっている。弱く、耐えるしかなかったかわいそうなチェイニー。耐え切れなかった、怯えて泣くことしか出来なかったチェイニー。


(もう少し、試練を続けようかね、ねえ、チェイニー)


記憶の中の自分の顔と相対したフランチェスカの目から光が消え、両腕がだらんと垂れた。もはや構えるべき剣もない。絶え間ない痛みの追体験に、これは自分の記憶ではないと言い聞かせて最後まで耐えきった強靭な精神が、ついに屈した。


どう、と彼女は、それでも前のめりに倒れた。


フランチェスカが前のめりに倒れ、ぞっとするような静けさが訪れた。誰も動くもののない密室である。


ムル食いの死骸から流れ出た血だまりも乾き始めている。

隠し扉の横では引き剥がされたラーフラが棚にもたれかかるように倒れている。かすかに呼吸はしているようだったが、意識の戻る様子はない。すぐに失神したシジマもうつ伏せに倒れたままだ。痩せた男も、もう動かない。


倒れている四人の中心で、魔力でつなぎ合わされた哀れな女の死骸が立ち尽くしている。その虚ろな眼窩は何も映してはいない。残った瞳にも光はない。ただ、倒れ伏したフランチェスカの背中に向けられている。


(ピンストライプの末娘。もう少し……強靭だと思ったが、見込み違いだったかな)


聞くもののない念話が、静かに漏れていた。


(なるべくなら生かしたまま使いたかったが、こうなったら殺しておいたほうが"使える"かもしれないな)


動く死骸が、己の頬を切り裂いた剣を拾った。その右手は、凄惨な拷問の跡が残る他の部分と比べ、驚くほど綺麗だ。肘から先だけが傷もなく、美しい。彼女に拷問をくわえる際にも右手だけは残されていた。無事の部分を残すことで、他の部位を破壊される恐怖が増した。昨日までの日常と接続されたままの右腕。他のあらゆる部分をゆっくりと破壊されながら、彼女はどんな気持ちでその右手を見ていたのか。

フランチェスカは、ラーフラは、それを体験している。


それは、紛うことなき死霊術であった。


悪意ある声の主は彼女を切り刻み、辱めて殺した後、人形として使役している。死霊術師が右腕を残したもう一つの理由は、こうして死体を再利用して動かす際に、無事な部分がある方がマニュピレーターとして単純に便利という理由だった。


一般に死霊術とは、死体を材料にした自動人形技術としてのアプローチか、不死族のエッセンスを利用した擬似不死であるとされている。

前者は傀儡術に近いものであり、後者は生きている者をゾンビ化させるようなもので、むしろ毒魔法に近い。

いずれにせよ死霊術が忌み嫌われているのは、その冒涜性だけではなく、その利用法が「争い」に特化しすぎているからだ。死なない兵、尊厳の破壊、おぞましい疫病。死体を操って、あるいは死体を増やして行われることは、摂理が許すものではない。


ずたずたになった肉体とまるでちぐはぐな、青ざめた美しい女の腕が剣を取る。


死体は感慨もなくフランチェスカの傍に立ち、刃を下にした剣に体重を乗せてそのまま下げてゆく。目測を誤ったのか、手先以外の部位の損傷が激し過ぎるせいか。おそらくは頸筋を狙った剣先は、外れて女騎士の肩口に、ずぶ、と刺さった。刺さりはしたが軽鎧で止まったようで、深手にはならない。微かな呻き声が漏れる。


かさ、と音が鳴った。


見ると、杖を頼りにシジマがよろよろと立ち上がっていた。気絶している時に流した鼻血が、頬を汚している。その短髪と、気の強そうな目が死体の背中を睨んだ。


(おや。お姫様、ゆっくりしたお目覚めで)


嘲笑を隠さない念話である。死体はフランチェスカから剣を抜き、シジマに向き直った。酷い暴力の跡を残した女の顔を見て、シジマも息を飲んだようだった。僅かな時間ではあったが、彼女も拷問の記憶に曝露されている。それが、その記憶の主の顔であることは認識できた。気絶している間も深く精神に刻み付けられた恐怖が、反射的に身体を竦ませるが、首を振ってそれを振り払う。


「なんてことを」


シジマは息だけで呟き、そして目をつぶった。


(よそ者の、それもアプレンティス風情がこんなに早く起きてくるとは思わなかった。本当に見直したよ。それともローブの丈が足りないだけで、思ったよりも高位だったりするのかな?)


念話はねっとりと挑発する。

彼女は目を瞑ったまま二度、大きく息を吐き、そして何度か爪先を地面に打ち付けた。


「お陰様で貯めてた徳をだいぶ使っちゃったけど、もう大丈夫。戦えます」


彼女は軽やかに六角杖を構えて腰を落とした。


「やっぱり“お前”だったのね」

(まるで僕を知っているような口ぶりだ。どこかでお会いしたことがあったかな)

「いえ、会ったことはないと思いますよ。死霊術師と会ったら必ず殺すことにしてますし」

(殺す!へえ!君、青小鳩の信徒じゃないのかい。…フフフ。穏やかじゃない)

「そうなんです。お陰でどれだけ稼いでも徳がすぐ減る」


シジマの瞳は強く、目の前の動く死体を見つめている。

そう。死霊術なのだ。死体を操って動かせるのは、ネクロマンシーに他ならないのだ。

シジマの中で、ぼんやりした疑惑だったものが確信に変わった。部屋の中に死霊術を想起させるものは何もなかった。だが、そこに感じていたどんよりと感じた邪悪。死霊術師であれば、その正体が誰であれ彼女の敵である。


死霊術は系統立てた学問として確立されているわけではない。特に、死んだ肉体に別の魂を定着させようという試みはほとんどが失敗の、伝説の類だ。死んだ魂を、別の生きた肉体に閉じ込めようとするものも同じだった。喋る死体というのは、聞いたことがない。


だから彼女自身も理解している。


目の前の死体は、死霊術師本人ではない。これはただの死骸。死んだ後まで弄ばれて、尊厳を踏みにじられているだけの、ひとの死骸だ。死霊術師は、どこか遠くから彼女の亡骸を操っている。

しかし、これは初めてのケースだった。死体の口を通じて、死霊術師が直接語りかけてくるなんて。


「いずれにせよ、死霊術師は見つけたら全員殺します。これは、もう決めたことですから」

(じゃあ、どうするかな。……悪いが、こちらも抵抗させてもらう。それとも、罪もないこの可哀想なチェイニーをもう一度バラバラにしてから、僕を探しにくるかい)


ゆら、と死体が片手で剣を担いだ。

逆の手に満足な指が残っていない以上、必然の構えであった。


シジマは構え、腰を落としたまま相手の動きを見ていた。


死霊術で甦った死骸の全てが、緩慢な動きをするというわけではない。基本的に生前の能力を引き継ぐはずではあったが、これまでの経験上、それでは説明のつかない個体もいた。


死体が剣を担ぐ姿は、得体の知れない圧力があった。


彼女の六角杖は、生命力を流しやすいように作られている。破邪というのは、生命力によって死霊術の戒索を解き、破壊する力である。神や聖霊の力を借りるような、都合の良い力ではない。杖はあくまでも、当てて、生命力を流し込むためのただの管に過ぎない。

堅い素材ではあったが、硬化する力も、光線を出す力もない。木の杖では、斬撃を受けることはできない。


無惨な女の姿は、正視に耐えない。それはこれまでよく相手にしていたような腐乱した死体ではなかった。生々しい傷の跡。無慈悲な暴行が通り過ぎた残骸。死霊術師の道具となるために搾り尽くされた肉体。


「楽にしてあげます、とは言えません」


低くシジマは呟いた。死霊術のもっともおぞましいのはこの点である。

これが、よく見知った近親者だったら。愛した相手だったら。かつて笑い合った仲間だったら。

人間は形を保つものに弱い。それがただの、魂の容れ物でしかないということを認められる人間は居ない。魂が去ってしまったそれを、打ち据えて平気なものなど居ない。


そしてシジマは己の旅の目的を思い出す。


剣を担いだ女の死骸に先んじて六角杖を突く。気合は裂帛である。直線、吸い込まれるように胸郭の中心を突いた杖から確かな肉体破壊の手応えがあり、一瞬の間を置いて彼女は破邪の力を流し込む。彼女の蓄えた「徳」、生命力の爆発が可哀想なチェイニーを内側から焼いてゆく。

肉の焦げる臭いがたちこめ、内側から青白い光を放つ女は声にならない叫びを上げた。肉体を崩壊させながらも死体は担いだ剣を振り下ろす。

貫いた杖で繋がったまま、死体の最後の攻撃をシジマは身をかがめて躱す。死体の手から剣はすっぽ抜け、彼女の髪をかすめて背後に飛んだ。


ぐぶっ、と声がする。


数歩の距離、うつ伏せになっていた痩せた男の脇腹に剣が突き刺さっていた。さっきまでは微かに呼吸していたはずだ。剣の生えた根本から、みるみる血が溢れる。

シジマは目の端でそれを確認して、エネルギーを放出する勢いを強めた。女の死体はもう、半分以上崩れている。破邪の力というのは即座に機能するほど万能ではない。汚された肉体を再び焼くのだ。すべてを焼いて浄化するように、ふいごのようにシジマは己の生命を燃やす。


(浄化の御業……見習神官の身にはすぎた奇跡じゃないか。しかし苦しそうだ、何度も続けて使えるものかな)


ねっとりとした念話がシジマの脳内に響いた。そこに一切の苦しそうな様子もない。死霊術師は消えゆく女の死体にまだ宿っているのか。違う。そうではない。


恐るべき予感がシジマを包む。

これは単なる死霊術ではない。


考えてみればおかしかった。死霊術で操られた死骸が、饒舌に喋ることなどない。たしかに他人の死骸をメッセンジャーのように使役する術は存在する。単純な文章を喋るようにされた死体と戦ったことはある。おぞましい精神攻撃としての死霊術師たちの常套手段だ。おかあさん、と呼びながらナイフを振りかざす娘の死体を前に、対処できる戦士はいない。


ただ、どうしたって死体は死体だ。

憑依する術も見たことがある。しかし、おいそれと身体から身体へと乗り移れるようなものではない。

そんなこと、誰も聞いたことがない。遠隔で、なんの代償もなく、死んだばかりのものに即座に憑依し直すなんて、あるはずがない。


そんな死霊術の運用なんて、聞いたことがない。


痩せた男がゆらりと立ち上がった。

己の背中に刺さった剣をゆっくりと引き抜き、無防備なシジマの背中を見つめる目は暗い。すでに死人の、意思を持たない目だ。


あと少し、あと少し。シジマの額に汗が浮かんだ。


振りかぶった男の死骸は、むしろゆっくりと彼女の背中を斬りつけた。


「ウアアッ!」


悲鳴を上げるシジマ。深傷ではない。肩口から斜めに切り裂かれたローブに血が滲む。ようやく完全に崩れたチェイニーの死体を確認して彼女は杖を振った。回転する身体。血と焼け焦げで汚れた女の衣服の残骸が、痩せた男の視界を遮った。


男がそれを振り払うのを待たず、シジマは発光しながら三度、六角杖を突く。襤褸越しに男の腕、胸、喉を砕いた音がする。

一拍置いて、じゅう、と音がしたのは、彼女が生命力で己の背中の傷を焼く音だ。歯を食いしばってシジマはもう一度打ち据える。男の死体が膝をついた。

シジマは血で汚れた顔を歪め、雄叫びを上げた。膝をついた男の斜め上から杖を突き下ろし、もう一度生命力を流し込む。


誰も声を立てない部屋に、彼女の声だけが、がらんと響く。


(その力、龍以外の加護を見るのは初めてだが)


死霊術師は焼かれてゆく男の肉体からシジマに語りかける。


(「徳」…だったっけ。せっかく貯めたのにいいのかい。そんなにたくさん使ってしまっても)


念話を無視して、彼女は再び出力を上げる。背中の傷からも光として生命が漏れ出す。備蓄したエネルギーも、加護も、とうに使い果たしていた。

甚大な精神ダメージからの強制復帰、哀れなチェイニーの火葬、それに続けて、斬られた自身への治癒促進はエネルギーを使いすぎる。諦めて傷は治すのではなく焼いた。

最後、力を振り絞っての攻撃である。


(僕は…空気を読んで苦しんでいるふりをすれば良いのかな。つらいのはこの肉体で、僕ではないのだけど)


痩せた男の肉体が青白い炎とともに消滅してゆく。他人事のような呟きが彼女の怒りに火をつける。


「いつか、この耳でお前の命乞いを聞いてやる!」

(鳩の使徒は品がないな。仮にも神に仕えるものなら、もう少し生命には敬意を払わ)


話の途中で念話は不意に途切れた。シジマの手応えからも、抵抗が消える。死霊術師が哀れな死骸を手放した証拠だ。戒索をうまく切断できたのか、それとも自ら手放したのか、判断はつかなかったが彼女はゆっくりと出力を抑え、荒い息をついた。

襤褸を被せられたままの痩せた男の死体はもう動く様子がない。横目で確認するとフランチェスカの背中はまだ、微かに上下している。ラーフラもまだ、生きているようだ。


手放した杖が、かろん、と軽い音を立てた。

音のない地下室に、それは寒々と響いた。


座り込みながら、彼女は二人に対して祈るような気持ちになった。完全に自分の事情に巻き込んでしまった。初めから死霊術師が絡んでいると告げていれば、もしかしたらこうはならなかったかもしれない。

告げるのを躊躇った自分の責任だった。龍の国は武の国だと聞いていた。身内に、死霊術師が居るのではと告げられることを快く思わないのではないかと思っての配慮だった。仮に死霊術師が絡んでいるとしても、背後のサポートさえあれば自分一人で対処できると思ってしまった。


危険を伴う仕事の依頼だというのに、相手を信用しなかったのだ。自分の責任だった。ごめんなさい、と彼女は呟き、懐中から護符を取り出した。破邪法によって滅した肉体の、最後の仕上げだ。


立ち上がると、ずきんと背中が痛んだ。

しかし、早く済ませなければならない。死霊術師が痩せた男の体から立ち去ったのには、何か理由があるはずだった。増援を連れてくるつもりなのかもしれない。

本体が来るのであれば返り討ちにするチャンスではあったが、状況はそう甘くはない。自身を危険にさらさないからこその死霊術である。増援はどうせ動く死体の群れだ。


交差させた護符で、シジマは二体の死体を浄めてゆく。


混乱した記憶の中で彼女は、気絶する寸前のフランチェスカの姿を思い出した。実の兄に乱暴されそうになって家を出た、と、確かに念話は言った。

ラーフラの悲鳴が止んだ後、シジマはそれまでに貯めた徳を消費して目覚めた。それは半分自動的ともいっていい覚醒だった。加護によって意識を取り戻し、動かない身体に無理やりエネルギーを流し込みながら彼女はその念話を受信していた。


シジマはフランチェスカの境遇について少しだけ思った。そして、記憶の中に混濁して残るチェイニーのことを思った。あまりにリアルすぎる体験、ごちゃ混ぜになった痛みや悲しみを脳に直接叩き込まれてシジマは倒れた。どれが自分の本当の体験で、どれが投射された記憶なのか、息をつくことで少しずつ切り分けられてゆく。

これは他人の記憶、これは自分の記憶。まるでそれはあまりにも現実的な悪夢を見た時に似ていた。


のろのろとシジマはラーフラの元に向かった。

とにかく今はこの、おぞましい部屋から二人を連れて脱出しなければならない。

サイコメトリスト。皮膚から器物の記憶を読み取る能力者。概要は知っていたはずだった。念のため、素肌に触れないようにして助け起こそうとすると、大きな声が響く。


(アプレンティス!見習い僧侶の君!)


念話だった。

反射的に伸ばしかけた手を引っ込め、シジマは飛び退いてラーフラの身体から距離を取った。一瞬、誤解してしまったが、念話はラーフラからではなかった。


(気分はどうだい?!)


溌剌とした声だった。彼女の記憶の中にある、苦い思い出の声だった。それがただの思い込みであることは理解している。

出発前にラーフラから教えてもらったことだ。ぼくの声は君にはどんな風に聞こえるんだい、と彼は、郷里にいるはずのシジマの兄の声で喋った。念話の声は、直感的な記憶の声や、発話者のイメージ、伝えようとする内容によっていつも変わって聞こえる。

仮にぼくの声が親しい誰かの声に聞こえたとしても、それは君の脳が作り出した幻なんだよ、そう、ラーフラは言った。


「ネクロマンサーかッ!!」


シジマは転がり、杖を拾って叫ぶ。浄めた二つの死体、フランチェスカとラーフラを素早く確認したが、どれにも変化はない。どこから語りかけているのか。


(そうだよ、おれさ)


念話は、嬉しくてたまらないという風だった。


(思い込みは良くないよ、なァ、子猫ちゃん)


その声は、かつてその手で殺したはずの仇敵の声だった。教義に背き、憎しみにかられて殺生したことで、彼女の司祭への道は閉ざされた。そのこと自体に後悔はない。

ただ、この期に及んでその男が自分の記憶の中に潜んでいたことを腹立たしく思った。あの男が蘇ったのかと疑うほど、混濁はしていない。


(気力の糸というものは、一旦途切れると弱いよなァ。ほら、今、このおれを退けられたと安心したろ?)


悔しいが死霊術師の言う通りだった。


(断言しよう。“お前はもう頑張れない”よ、子猫ちゃん)


びくっとシジマが身をすくませた。

“お前はもう頑張れない”

記憶の中の鍵だ。死霊術師はどこまで自分のことを知っているのか。どこかで読み取られたのか。そんなはずはない。自分の脳が勝手に、思い出したくない記憶を掘り出しているだけだ。しかし。本当にそうだろうか。高速でシジマの思考は可能性を巡る。


「私は、まだやれる」

(ここは、龍の国だぜ。そんなこと出来っこないと、おれを甘く見ていると、“そうなる”)


記憶通りの声。その声質にではない。死霊術師が語る言葉の可能性に思い当たって、シジマの髪がぞわっと逆立った。


この死霊術は何かがおかしかった。死体の目を借りて死霊術師はこちらを見ていた。さらに、最初の身体が焼かれそうになると間髪を入れず次の死体を作り、そしてまるで乗り移ったように彼女を襲った。そしてまた、どこからか彼女を“視ている”。


死霊術は「死体を動かす」技術だ。魂のないものを魂のあるように見せる。見せかけだけの邪法だ。少なくともこれまで彼女が出会った死霊術は、全てが誤魔化しだった。

さらに死体を動かすには準備や代償が要る。魔力、契約、触媒、生贄。姿を隠す術師には相応の理由がある。術師が姿を隠していることがそのまま弱点のはずだった。死霊術の弱点である状況即応能力の脆さ。遠隔操作であるから精密な動作はできず、魔力も届かない。操る死体の数を増やせばそれぞれが脆くなる。


それが目の前の状況はどうだ。


死体から死体にリスクもなく、自由にひょいひょいと乗り移るなんていうことが可能なのか。さらに乗り移る先がなくとも「魂」の状態でその場にとどまることができるとしたら。

もしそんな死霊術が完成していたとしたら、それは、死体が量産される合戦場では無敵の技術となってしまう。

そんなことはあってはいけない。

そんな筈が。

あっては。


(サプラアアイズ!)


彼女はゆっくりと振り向く。

血溜まりの中、ムル喰いの死骸がゆっくりとその前脚をもたげるところだった。


(動物の死体は動かせないなんて、いったい誰が決めたんだ?)


シジマは血の気の引いた顔で堅く杖を握りしめた。





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