「敵、敵の敵、敵の味方」(前編)

龍の国の王は生まれた時から龍の言語でしか喋らない。

喋れない、と言った方が正確だろうか。この国で王は世襲ではない。王は七年で生まれ変わる。

古い王の身体が滅びる晩、空が赤く燃える。そして七晩ののち、王は人の体を持って人の母より生まれ、龍の言語でその存在を示す。騎士たちは龍の言語を使う赤子を国中から探し、転生した王は、七月をかけて以前の体を取り戻す。


そして再び王座につくのだ。


かつて龍は龍の言語で規則を作り、人間と契約した。

それを守る限り龍は人間に加護を与え、龍ではなく王として王国に留まる。

本来、龍は目に映るものをすべて滅ぼす性を持つ生物である。善悪ではなく、本質的に龍は番の相手以外に生き物の存在を許さない。この国は成り立ちからして特異だ。

ともあれ王国に居を構えようというものは皆、宣誓を済ませて住人となる。誰であっても龍との契約を破ることは許されない。違えたものは龍によって追われるのだと聞くが、実際にその例を聞いたことはない。大抵のものは、龍に誓約したことを違える時、同時に死ぬ。


この国が奇妙な、そして興味深い国として有名なのはその誓約によるものだ。


龍の国では誓約の際、二つのことが求められる。

ひとつめに、この国にいる間を相互扶助に努めるという宣誓や、細かい儀式手順の遵守を誓う。たとえば龍の居る場での振舞いについては細則があり、奇妙なものでは「穢れた言葉を発してはいけない」というものや「他人の名を呼んではいけない」などのものがある。もしもメアリ・ハニカムウォーカーが天覧試合に参加した場合には、おそらく「黒角の、夜を這う者」などと呼ばれることになるだろう。


そしてもうひとつが、試技である。

この国に居を構えるには、誓約とともに、一定の武勇や技能を示さなければならない。逆に言うと、龍の国は一定の能力さえあれば他国を追われた者であっても受け入れる。他国で罪人と呼ばれるものであっても、過去だけを理由に排除されることはない。龍の国はどこまでもその能力だけを見る。その意味では、ひとが過去を捨て、その人生をやり直すのに最も向いている国だともいえる。


人は誓約によって加護を得る。加護の内容は人によって違う。まったく新しい能力が発現することもあるし、単に風邪を引きにくくなる程度のこともあるという。加護を与える龍の側が誓約によって何を得ているのかはよく判らないが、誓約を済ませた者が何かを代償に奪われることはないという。


ただ、王である龍、龍である王は人に加護を与え、民を増やすことを好むが、そのすべてを庇護することはなかった。


誓約を済ませたものたちの名簿はあるが、それを閲覧できるのはほんの一握りの人間しかいない。加護の具体的な内容に至っては、本人以外は誰も判らない。さすがに旅人が宮廷に入る際はボディチェックが必要ではあるが、市や、市街への逗留に制限はない。ひとは、市で出会うものがすべて同じ龍の国の住人だろう、と思いながら接する。すなわち、まあまあの武力を持った、対等な同胞。加護を持ち、敬意を払われるべき対象としてお互いを見る。

メアリ・ハニカムウォーカーが見たという、流れ者のオーガの角をへし折って黙らせた町娘というのはおそらく実在するのだろう。残念ながらオーガは龍の国の住人ではないただの旅行者で、娘は住人だった。それは、そういう話なのだ。


龍の治める地であるというだけでなく、その奇妙な入植基準によって、そもそもこの国の住人の平均的な戦闘力は異常に高い。それもあってか、この国の領土を攻めようという国はこれまで存在しなかったし、おそらくはこれからもないだろう。龍の国には領土と呼べる一定のテリトリーはあるが、国境はない。その意味では、「国」と呼ばれるのはおかしいとも言える。


王である龍、龍である王は、人の行動を律する法を作らなかった。

具体的な統治をしない龍に代わって、十人前後の宮廷会議の面々が法に則り、統治をしている。

二年に一度の天覧試合の勝ち負けによって大臣を含む彼らが選出され、そして国を治める。他の国で一般に罪だとされるものは、殆どの場合、他国と同じように法によって咎められる。誓約と違い、龍の作ったものではないため、それらは人の法と呼ばれる。

統治の為、ほとんどが組織されたボランティアや名誉職からなるものではあるが、龍の国にも治安を維持するための部隊がある。大抵の場合、この国の住民たちは当事者同士で解決してしまうし、基本的に罪人は死罪か追放処分であるが、必要に応じ、拘束するための牢だって存在する。


その、あまり使われない牢は、宮廷の地下にあった。

グラスホーン・パトリックノーマンマクヘネシーが現在、うつ伏せで横たわっている牢だ。


「ねえ……新入りだよね」


隣の牢だろうか。細い声が聞こえる。心細そうな、少女のような声だ。

グラスホーンは返事をしなかった。ハニカムウォーカーと遭遇した時と違って、猿轡は咬まされていなかったが、やはり後ろ手に縛られていた。暗殺者が縛ったものとは少し違う、金属素材のその拘束は、牢の扉が開かなくなると同時に外れるという。

看守が去り、まだ枷が外れるまで時間があった。


龍の国の地下牢の仕組みは奇妙だが合理的だ。錠と枷が連動しているのだ。

入牢者が自らの意思で両手の枷を付けたままでいることを選択すると、牢の鍵は開く。牢が開かなくなると枷は外れる。枷が外されると牢は閉じる。

収監される際にのみ、特別な手続きで檻は開く。牢の内部で、当人が拘束されている間に関しては特に牢としての機能を満たさない。


この国において、牢というのは刑罰の為には存在しない。基本的には龍の国に懲役、労役、拘束刑というものは存在しない。龍との誓約の中に、ひとの言葉を喋るものをその意に反して地に繋いではならない、というものがあるためだ。

龍の国では、言葉、というものは重要な概念である。

誓約と矛盾しないようにするため、拘束刑が存在しないこの国では有罪の場合、基本的には死罪だ。

最も、ほとんどの場合揉め事はそこまでこじれることは少なく、その前の段階で当事者同士の示談や決闘が行われる。この国においては、ある程度のところまでは「強さ」で決着がついてしまう。

相手の死罪を望む程の対立でない場合や、決闘で済ませようとするには双方の実力差が著しい場合など、ある程度公平に調整するためにこの国では調停院が存在する。勿論、調停院の調停を担保するものもまた、武力である。


「ねえ……聞こえてるんでしょ…?…返事してよ…」


おそらくは少女の声が、グラスホーンに絡みついてくる。それは少し妖艶といってもよい声だった。グラスホーンは目をつぶった。


この国において牢というのは、基本的には調停院の判断に余るものや、隔離することが必要なものを一時的に「保護」する場所であった。


誓約により、たとえ罪人であっても、肉体的な束縛を与える場合には決して獣のように地に繋いではいけないということになっている。この国に牢を用意するための論理としては、つまり、自由意志による入牢であるという形式を経る必要があった。これが先の牢の仕組みに繋がる話である。

つまり、この牢の中にいる、というのは入牢者の意思である、という理屈が必要なのだ。入牢者は、自らの身体拘束を解くことが、そのまま牢の鍵を閉じることになるという結果を受け入れて、拘束を解き、そして牢の住人となる。牢の鍵は拘束具と連動しているため、牢から出るときには自らの意思で身体拘束を受け入れることになる。

奇妙なところで、この国は個人の自由意志というものを重視する。


グラスホーンが黙っているのは、声の主が誰なのかわからないということもあったが、このシステムのエラーを知っていたからだ。拘束が解けるまでの間、牢の入り口は開いたままである。

聞こえてくる声が、万が一、隣に収監されているものでなかった場合、彼はどうしようもなく無防備な姿を晒すことになってしまう。自身がこの牢に放り込まれることになった経緯を考えれば、彼が警戒するのも無理のない話であった。


グラスホーンは目をつぶったまま、秒数を数えた。

28秒が過ぎた時点で牢の扉が閉まり、彼の身体は再び自由を取り戻した。


物音を立てないように起き上がり、そっとグラスホーンは聞き耳を立てる。

隣の房からはもう何も聞こえてこない。呼び掛ける声も、しばらく彼の返答がなかったせいか止んでいた。


「まだ、居るか?」


声を掛けると、ふっと笑う声がした。


「用心深いんですね」


少女の声ではあったがさっきとは少し違う。若干の悪意か、嘲笑か、とにかく好意的でないものを含んだ声色だった。すぐに返事をしなかったことで気分を害したのか。それとも、"拘束されている自分"に用事があったのか。どちらだろうと考えながらグラスホーンは壁にもたれかかる。


「すまないね。どうも今日ばかりは、周りのものを信用する気になれなくて……。初めて会う相手については特にね」

「ククッ。……そっちも誰かにハメられた口なの?」


可憐な少女の声ではあるが、やはり声色に棘がある。最初に呼び掛けられた時の声には感じられなかったものだ。少し考えたが、話に付き合うことにした。相手が誰だかは判らないが、時間だけはたっぷりあるのだ。

そもそも、説明できるほど自分の状況をしっかり理解していないというのもあったが、それを抜きにしても自分のことを話すのには抵抗があった。素性の分からない相手である。

他人のことを言えない立場だが、牢に入るということは、罪に手を染めていたり、何らかの異常性のある相手であるはずである。


「“そっちも”というと、あなたも何か無実の罪で投獄されているのかな」

「もちろんです!」


「も」を強調してやると、壁の向こうの声が嬉しそうになる。足音。とと、と相手が彼が凭れ掛かっている壁の向こう側に走り寄って来た感覚があった。


エルフ族は長耳のせいもあって気配察知に優れていると言われるが、特に彼は鋭敏な方だった。特に、目が悪いのも影響しているのかもしれない。愛用の眼鏡は入牢時に一旦没収されていた。眼鏡がないと、世界の輪郭がぼやけるせいか言葉尻のひとつひとつに神経が向く。


「あなた、なんて恥ずかしいな。声の感じからするとたぶん、あなたの方が年上でしょ。私はソフィア。ソフィア・ウェステンラ。哲学を愛するようにつけてもらったの。フィリア・フィリオシス・フィリオフィリア。知によって智を愛で、哲学を為すべし。私の好きな言葉なの。ねえ、同じ境遇のよしみじゃない。気軽にソフィって呼んで」

「…あまり、ご婦人をファーストネームで呼ぶのに慣れてないんだ。レディ・ウェステンラとお呼びしても?」


きゃあきゃあ、と壁の向こうで嬌声が聞こえた。


「レディ、なんて言われるの生まれて初めて!嬉しい!紳士の方なのね!」


グラスホーンは、予想外に強い反応にたじろぎながら返事する。酒場の娘の振りまく愛想よりも強い。だが、ここでは自分をおだてても何も出ないはずだ。一足飛びに距離を詰めてくる感じに怯んでしまうのは、臆病なのだろうかということをすこしだけ考える。


「そんなジェントルマンのお名前を伺っても?」

「……ダグラスホーン。家名は、パトリックでもガウェインでも、マクスウェル、マクヘネシー、スタンドリーフ、どれでも構わない。好きに呼んでくれていいよ。昨日までは、ここで契約魔術の研究をしていた。明日からは、うん、どうなるんだろうな」


咄嗟に彼は小さな嘘をついた。自分でも、どうしてそうしたのかは分からない。

ダグラスホーンとは、偽名を使う必要があるときの名前だった。後で訂正が必要になったとき、相手の聞き間違えだろうと言い張れるラインである。

家名については、嘘でもないが本当でもない。それは一部のエルフにとっての合言葉のようなものだ。エルフは本当の家名の他に、通り名を持つ。正式なフルネームを名乗り合うことはよほどあらたまった場でない限り控えるのが習慣なのだ。


「ダグラスホーンさんね。素敵なお名前。エルフさんなのね」


そして相手もエルフ族の習慣については承知しているようだった。


「わたしは、ヒューマン。ヒューマンのつまらない女よ」


グラスホーンの中で何かが引っかかっていた。ソフィア・ウェステンラ。どこかで聞いたような気もするが思い出せない。


「お言葉に甘えて、マクヘネシーさんってお呼びすることにするわね。……合ってるかしら?」


何気ない声だったが、すこしぎくりとした。名乗った中に、幾つかダミーの名前を混ぜてある。一般に、通名を使うのは社会的にもそれほど無礼なことではなかったが、ぐいっと踏み込まれたような感じがしたのだ。返事できずにいると、ソフィはまた声の調子を変えた。


「マクヘネシーさんは、誰に逆らってここに落とされたの?」


さらに踏み込んだ一歩。


「私はね、あの忌々しい鉄の魔女に罠にかけられたのよ」


ソフィの声が一段低くなった。


話し相手に飢えていたソフィが語ったのは、鉄の魔女との確執であった。

ソフィは、もともと龍の国の住人ではなく、旅の途中に立ち寄っただけなのだという。鉄の魔女との具体的な争いのきっかけには口を濁したが、話を聞く限りはどうもソフィが彼女を糾弾しようとして、逆に投獄されたという経緯のようだった。


グラスホーンも、鉄の魔女、と呼ばれる人物には流石に心当たりがあった。

グラジット・ミームマルゴー。天覧試合を勝ち抜き、宮廷会議の一員として名を連ねることになった魔女である。グラスホーンは直接の面識がある訳ではないが、天覧試合で彼女を見たものは皆、その二つ名を忘れないだろう。

魔術師は皆、鉄を嫌う。それが魔力を散らしてしまう金属だからだ。しかし、彼女は鉄の仮面をつけたまま天覧試合を戦った。明らかに異質な魔女であった。寡黙で、そしてその素顔を見たものはいないという噂だったが、ソフィだけはその素顔を知っているのだという。


「この宮廷で私だけなのよ、あの魔女の正体に気付いてるのは」


壁の向こうで身じろぎする気配。


「ねえ。マクヘネシーさん、彼女の正体、教えてあげましょうか」


ソフィの声が熱を帯び、グラスホーンは咳払いをする。


「……その、気を悪くしないでほしいんだが」


どういえばいいのか暫く悩んだが思い当たらなかったので、なるべくシンプルに返事することにした。


「止めておくよ」

「……どうして?」

「第一に僕は、口が堅い方ではないんだ。自分の誠実さに自信がない。それに、見知らぬ人の秘密を一方的に知ってしまうというのは、フェアではない気がする。彼女も何か理由があって顔を隠しているんだろう」

「その"理由"が、この国の王に仇なすものであっても?」

「仇なすものであっても、だ」


厄介ごとに巻き込まれたくない、というのもあったが、鉄の魔女だって知られたくないだろうなというのも本心だった。グラスホーンはもともと、宮廷の権力闘争には興味がなかった。刺激的なタブロイドや、新聞記事を読むことはあるが、夢中になったことはない。平穏に過ごしたかったし、宮廷の中でも彼の居る回廊は、比較的平穏に過ごせるはずの場所だと思っていたのだ。


今回、暗殺者によって拘束されたままの彼を、改めて投獄しなおすよう指示を出したリィン・スチュワートキャニオンスクラムキルグラスハートヨルスクリームとだって、明確に敵対した記憶はない。正直なところ、どうしてそこまで憎まれているのか今一つ理解できていないのだ。


色々と訳が分からない中で、新しい火種になるかもしれない秘密を追加して抱えるのは賢いとは言えなかった。


「なんだか」


壁の向こうで、少しうっとりしたような声が聞こえた。


「マクヘネシーさん、すごく、思慮深くて素敵な方なのね」

「え?」

「私、いま、自分のことを恥じてます。軽率にあの女の正体を伝えてしまったら、あなたにまで彼女の追手が向いてしまうかもしれないってこと思い当たりもしなかった。とっても浅はかだったわ。これはやっぱり、どうしても王にお伝えしないといけないことよね。私、決めたわ」


そして彼女は宣言した。


「私、脱獄します」

「今、ええと。……何だって?」

「いま、脱獄することに決めたの、私」


グラスホーンは目をつぶって、息をついた。正気じゃない。


「違う。よく聞こえなかったわけじゃない」

「マクヘネシーさん、私、決めたら突き進む女よ。あなたの事情はまだお聞きしていないけど、あなたみたいな立派な方まで投獄されるのは間違ってると思う」

「あの、ちょっと」

「壁から離れていていただける?」


嫌な予感がして、グラスホーンは制止しようとするより先に壁から離れた。

どご、と鈍い音がして壁が揺れた。打点はおそらく、腰の辺りの高さである。


「レディ、ウェステンラ」

「マクヘネシーさん、この牢獄には、致命的な問題があるのよ」

「そうじゃない、君は」

「平和的に解決しようかと思ってたけど、やっぱり間違っているものは間違ってる」


息継ぎの合間に、どご、どご、と音は続く。衝撃を受けて明らかに壁がたわんできた。やめろ、と大きな声を出そうとした刹那、壁に穴が開いた。ごん、と欠片が壁から剥がれ落ちて煙を上げた。


「ごきげんよう、マクヘネシーさん」


絶句しているグラスホーンに構わず、ソフィが穴を壊しながら広げてゆく。打撃音は魔法などではなかった。ソフィはその拳と、脚で壁を破壊しているのだ。やがて人が通れる程度の穴をあけ、ソフィは上半身をのぞかせた。


「初めまして。ソフィアです。マクヘネシーさんは想像してたよりずっとハンサムなのね」


グラスホーンは目を細めた。土煙はそれほどひどくはないが、眼鏡を取り上げられているせいでぼんやりとしか見えなかった。うっすら見えるのは、薄い水色のシルエットだった。

グラスホーンの視力ではその姿をはっきりと認識できていないが、彼女の自己申告通り、ヒューマンの少女だった。少しだぶついたローブを羽織っている。捲った袖から覗く腕は細い。年の頃は20に届くかどうかという頃だろうか。声色ほどその表情は幼くはなかった。

ややうねっているが柔らかそうな長い髪を、指で巻きながら彼女は恥ずかしそうに目を伏せた。


「疲れているし、ろくにお化粧も出来ていないから少し恥ずかしいですけど」


語る通り、化粧っ気は薄かった。顔色もあまりよいようには見えない。色が白く、眼の下には少し隈が強い。見たところ胸も、腕も腰も細くはかなげに見えるが、いきなり素手で牢獄の壁を破壊してのけた相手である。正気かどうかも疑ったほうがよいような気がした。とにかく刺激したくない。強く思いながらグラスホーンは目を擦った。


「その、申し訳ないんだが、目が悪くてね。眼鏡を取り上げられたからあまりよく見えないんだ」

「本当?嬉しい、って言ってしまってはいけないんでしょうけど、ちょっと嬉しい」

「それより、なんて言ったらいいのかな。さっきは、脱獄するつもりだって聞こえたけど」

「そうよ」

「だとしたら、ああ、気を悪くしないでほしいんだが、破る壁を間違えたのでは?」


身体をひっこめた後、がん、とさらにソフィが壁を破壊し、グラスホーンは反射的に身体をすくませた。


「ごめんなさい、驚かせるつもりじゃなかったの。でも、間違えてないわ」

「レディ」

「マクヘネシーさん、私たちは"二人で"脱出するのよ」


グラスホーンは、自分の喉から変な音が出るのを聞いた。


「私も何度か試したんだけど、さすがに龍の国。牢獄自体はすごく頑丈。さすがは契約魔術ね。誓約を組み込まれて、どうやっても物理では逆らえないようにできてる」


すっかり破壊しきった隔壁を乗り越え、ソフィアはもとからグラスホーンの房の住人だったような顔をしている。牢獄とはいえ、宮廷の地下である。破壊さえされていなければ綺麗でそれなりに広い。


無事な側の壁に凭れ掛かり、グラスホーンは腕組みをしている。

彼の頭にあるのは一点。目の前の女性は、果たして正気なのだろうか、ということである。龍の国においてどこまでを「正気」とするのかは難しい問題ではある。住み着いて随分が経つ彼にとってもどこが常識の中心なのか判らないところがある。喧嘩が始まったことは理解できても、その理由までは理解できない場合が、この国では多い。


入牢して一時間も経っていない。彼がまだ触ってすらいなかった寝台へ腰掛けていた彼女は、自分をじっと見つめる彼の視線を何か誤解したようだった。


「ああ、ごめんなさい。勝手に座ってしまって。でもこんな硬いベッド、一晩だってマクヘネシーさんにはふさわしくないわ」

「いや、そうじゃない。目が悪いから何をしているのかよく見えなくてね」

「これですか?この先、多分必要になるから作っているの」


ソフィアは、隣の部屋から持ってきた自分のシーツを裂いて、何かを作っているようだったが、作業ももう終盤に差し掛かっているようだった。


「しかし不思議な国ね。誓約が何よりも重いって」

「まあ、龍と人が同じ土地に暮らすというのは、きっとそういうことなのだと思う」

「解ります。私だって、神に仕えるものの端くれ。大いなるものは、人の形をとりませんものね」


聖職者なのか。グラスホーンは言葉の端から情報を拾い取り、相手のステータスを更新する。しばらくして作業を終えたソフィアは寝台から降りて、グラスホーンを見つめた。

彼の視力ではその微妙な表情は判然としない。

袖の部分がふくらんだ薄いグレーと水色のローブだ。だらんと前が開いており、中に着ているのは簡素なワンピースのようだった。聖職者というには少し砕けた格好である。ローブが儀礼につかうものなのかどうかは判別できなかったが、丈が短い事もあって、それほどかしこまったものではなさそうだ。


「もう少し、そちらに近づいても?」

「いや、レディ、やめておこう。聖職の方ならばなおさらだ。節度のある距離を」

「フフ」

「あと、誤解されているといけないのだが」


グラスホーンは言葉を切る。

刺激しないように観察していたが、ソフィアが所謂「脅威」に属するのかどうかまだ判断しかねていた。距離の縮め方が激しいのは、おそらく性格と呼べる範疇のものだろうとは思う。その底に悪意は感じない。むしろ、強すぎるくらいの好意を感じるものではある。話している内容も、鉄の魔女について話すときの調子は少し強いものではあったが、そこまで理屈に合わないほどではない。


ただ、いきなり壁を解体するというのは狂気の域と言ってもいいのではないか。龍の国においても「普通」や「無害」ではない。素手で壁を解体するような相手である。彼女を怒らせてしまった場合、自分までが解体される可能性が残っていた。牢獄に看守は常駐していないのだ。


グラスホーンは慎重に言葉を選ぶ。


「あなたも、おそらくは秩序を大事にするタイプだと思うんだ」

「ええ、勿論ですとも」

「僕は、確かに不当にここに叩きこまれたと思っているが、悪法も法、という言葉がある」

「わかるわ」

「特に、これまで契約魔術の研究を仕事にしてきたからね。自分で行った誓約は、破りたくない」

「ええ、ええ」


見たところ、ソフィアはグラスホーンの言葉に納得はしているようだ。本当は、脱獄なんかに巻き込まないでくれと言わなければならないところだったが、直接的にそれを告げて大丈夫かどうかには確信がなかった。

しかし、それでも理解してもらわなければならない。


「確かに、永遠にここに住みたいと思ってるわけじゃあないが、僕は今のところここから、今すぐに、乱暴な方法で出るつもりはないんだ」

「あら!まあ!」


ソフィアが大きな声を出し、グラスホーンは反射的に身を竦めた。ソフィアはころころと笑った。


「心配しないで、大丈夫よ。罪は全部私が被るわ。私があなたを攫う、って形をとるんだもの」


話がどんどん不穏になってきた。


「ちょっと整理しよう」


近づこうとするソフィアを手で制止して、グラスホーンは大きく息をついた。


「レディ、ウェスンテンラ。あなたは、無実の罪で投獄されたと聞いたけれど」

「そうよ」

「同じ立場の僕が言うのもなんだけれど、人の法であってもそうそう捨てたものではないよ。本当に無実なのであれば、必ず助けてくれる人がいる。何なら、僕がここを出た時にはその役をしてもいい。僕で力が足りなければ、知人の弁護人も紹介する」

「それはとても素敵なお申し出ね」

「ありがとう。だから、陳腐な言い方になってしまうが、罪を重ねることはないと思うんだ。ええと、元々のが無実の罪ではあるんだろうけど、脱獄というのは明らかな罪だ。ゼロが、1になる。ゼロと1は大きな違いだよ」

「ええ、通常であればそうでしょうね」


ソフィアの声は拒絶に満ちている訳ではないが、本質的なところで全く届いていないという実感があった。彼女は、何がきっかけでそう思うようになったのか判らないが、すでに脱獄を"検討している"という段階を過ぎてしまっている。


「この、壁について」


確かにここまで壁を破壊してしまった後である。後に引けないのは理解できるが、しかし、まだ引き返せる場所にいるのではないか。引き返すべきではないのか。


「なんとかして言い訳をしよう。僕はそのくらいの片棒なら担ぐよ。たとえば、僕が持病の発作で苦しんでいて、助けを求めていて、それをどうにかするために壊したとか」

「マクヘネシーさん、ご病気なの?」

「いいや、その……違う。すまない。健康体だ。だけど」

「大いなるものにかけて。嘘を吐くのはよくないわ」


半分、膝が崩れそうになる。決定的に、何かが違うのだ。グラスホーンの言葉は彼女に届かない。眉をしかめて、彼はせめて威厳のある表情を保とうとした。


「大体、この房を繋げてどうするつもりだったんだ。扉は破れないって今、自分でも言っていたじゃないか」

「そう、そうなの。"扉は破れない"のよ」


まるでその質問を待っていたようにグラスホーンを遮って、ソフィアはポケットからカフスを取り出した。グラスホーンを拘束していたものと同じ、金属製の魔道具である。


「これで、身体を拘束すれば、開くのだけどね」


にっこりと笑うソフィアを見て、グラスホーンは彼女の言っている意味を理解した。

確かに、これは設計上の欠陥だ。

ただ、誰が壁を破壊する入牢者を想像するだろうか。そして、複数の入牢者が共謀して、脱獄を図るということを想像するだろうか。そして、おそらくは彼が理解したということを、彼女も理解した。


「理解して頂けたかしら」


つまり、この後はおそらく、グラスホーンが拘束具をもう一度身につけることになる。

彼の拘束完了をトリガーとして開く、彼の房の扉からソフィアは出てゆくつもりなのだ。そして、非常にまずいことに、彼はここに"置いて行かれる"のではない。"連れて行かれる"のだ。


「さっき裂いていたシーツは、僕が抵抗した時のためかな」

「まさか!」


ソフィアは心外だという風に首を振った。


「ここから出た後のためよ。地下を通るし、けっこう、ハードな工程になりそうだから」


グラスホーンは最後に見た、メアリ・ハニカムウォーカーのジェスチャーを思いだした。

彼がこの牢に連れていかれる通路の途中。声の届かない距離。彼にしか見えない位置から顔をのぞかせた彼女は片目をつぶり、片手で手刀を作って口をパクパク動かした。


『 む・か・え・に・い・く 』


彼女はそう口を動かした。

しかし、彼が彼女を待つことはできそうになかった。

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