「緊張と弛緩」(前編)
グラスホーン・パトリックノーマンマクヘネシーは、「血の気の引く音」をはっきり聞いた。勿論己のものである。さああ、と耳の奥で血の流れが渦巻く音を聞いた。いやだ、失いたくない。血液の抗議だった。血液には、肉体には、自我などない筈だったが、彼は確かに己の肉体があげる悲鳴を聞いた。
切断される己の九本の手指の、その断面を肉体は予感した。葡萄酒の瓶から零れるように血が失われることを、肉体が予感したのだ。それは濃密な痛みの予感だった。
目の前では、軽装の女性がふんふん鼻歌を歌いながらナイフを研いでいる。脱いだ上着が無造作に腰のところで縛られている。袖のない水着のようなインナーウェアは、深い朱色だった。
彼女はもう、彼に興味を失ったようにこちらを見向きもしない。最後に聞いたつめたい声を思い出した。その表情は逆光でよく見えなかったが、ぞっとするような声だった。
それまでの、親しげで軽妙な口調の全てが地獄に突き落とすための前振りだったのではと思わせるような、つめたい声だった。
彼は後ろ手に縛られている両方の掌を握ったり、開いたりした。親指、人差し指、中指、薬指、小指。まだ、ついている。切り落とされるなんて、信じられない。どうにかして状況を打開する方法はないものか。掌には、じっとりと汗をかいている。
こちらを一瞥もせずに、女が朗らかな声を出した。
「そうそう、皆、そうやって自分の指と最後のお別れを楽しむんだ。ぐ、ぱ、ぐ、ぱ、って。握りこぶしを作れるのもあと何分かだからね」
指を動かすのに、音なんて立たなかった筈だ。
縛られている手は彼の身体の影で、彼女からは見えない筈でもあった。
「ンフ。君が何を考えているか当ててあげようか」
女の声からはさっきの冷たさが消えている。その朗らかさが逆に怖い。
「何を差し出したら助けてもらえるんだろう。この気違い女に言葉は通じるんだろうか。そんなところかな。失礼な話だよな。言葉通じるよ。立場が違うだけの話だ」
作業が終わったのか、彼女は左手にナイフを持ったまま向き直った。
ベッドの上に縛られたまま、彼は改めて女の姿を見る。
窓から差し込む月明りに半分だけ照らされて、彼女は彼を見下ろしている。やや緑がかった髪。肩くらいまであるだろうか。髪飾りのように、頭頂から逆向きに生えている角は黒い。
左目の下に、ふたつ、縦に並んだ黒子がある。下の黒子のほうが少しだけ大きい。つるんとした頬。愛嬌のある顔だが、いまひとつ表情が読めない。
「現実逃避をしているね」
見透かしたように女は口元だけで微笑んだ。魅力的な表情だった。目が合って、彼は自分の運命を理解した。どうやっても避けられない。
彼女は彼のことを、もう人間として見てはいない。これから切り分ける予定の肉塊に向ける目の方がまだ感情を籠めるのではないかというくらい、何も映っていない目だった。そして、そんな彼女に少し見とれてしまう自分がいた。蛙が、蛇を見つめて動かなくなる理由が解った。
途端に鼓動が早くなった。
痛いのは嫌だ、痛いのは嫌だ。喉がカラカラに乾いた。相変わらず浅い呼吸をしながら、自分がまだ生命にしがみ付こうとしているのを不思議に思ったが、一本一本指を落とされる痛みを想像すると同時に吐きそうになった。
「大きな、声を」
彼が絞り出すように話し掛けると、彼女は少し目を丸くした。
「なんだって?」
「大きな声を、出そう、と、思う」
それは意外な言葉だったようで、彼女は少し興味を持ったようだった。
女は、グラスホーンを見下ろしたまま、顔を傾けて肩を竦める。
「どうしてそう思うんだい。理由、ちょっと聞いてみたいな」
「そうしたら、あなたは、大きな声を出す前に、僕を殺すだろ」
切れ切れに、苦しそうに話す彼を前に女は黙っている。
「僕は、痛みに弱い。たぶん、順番に、指を、切り落とされるのに、耐えられない」
女は目をぐるりと回して、口をへの字に曲げる。不満そうな顔ではない。
続きを促す視線に押されるように、彼は続けた。犬の呼吸だ。浅く、一言ずつ区切って、囁くような声で彼は続けた。
「さっき、あなたは、僕を、殺すと、言った。だから、本当は、指を落とすなら、僕を殺してからやってくれ、と、言いたい」
自分で言いながら、滅茶苦茶な状況だな、と他人事のように彼は思う。最後に喋ることが、自分に対しての殺し方の注文なんて、数時間前まで思いもしなかった。
「だけど、あなたに、僕の要望を、聞く義理は、ない。だから、あなたが、素早く、僕を、殺さなければ、ならない、状況を」
遮って女が柔らかく笑い出した。
嘲るような笑いではない、親密な、友人同士にかけるような笑い声だった。
「君、矛盾してるよ」
彼女はナイフの柄の、端に近い所を人差し指と中指で掴んだ。弄ぶように切っ先を振る。小さな動作だったが、ひゅ、と風を切る音がした。
「だってさ、そんな手の内を晒してしまったら、わたしは君の喉を裂けばいいだけじゃないか。それは君が息を吸い終わる前に終わる。予告する意味がないよ。痛みがひとつ、増えるだけだ。わざわざわたしに伝える意味がない」
「……それは」
彼は口ごもり、そして息を吐いた。
「それは、なんだい?」
「確かに、そう、だな」
言いながら、急速に瞼が重たくなってくるのを感じた。
相手は、おそらくは達人なのだ。喉を裂かれても、冷静に考えれば即死はしない。殺さず、声だけを奪うのは彼女にとっては造作の無いことだったのだ。人の喉を裂くとどうなるかなんて、考えたことがなかった。
なぜ自分は、わざわざ事前に伝えようとしたのだろう。
それを聞いて、彼女の気が変わることを期待したのだろうか。
言われてみると、あらゆる意味において、無予告で叫んでおくべきだった。億分の一の確率でも、ロイヤルガードが来れば命だけは助かる可能性があった。来なくても、最後の運命は変わらない。殺されるだけだ。ほんの毛筋ほどでも、自分が助かる目があるとしたら、さっき、大声を出しておくことだけが可能性の全てだったのだ。
「あなたの、言う通りだ」
自分が、どれだけ死から遠い人生を送って来たのかを彼は考えた。
目をつぶりたい。倒れて楽になりたい。さっきからどんどん死の予感が濃くなってきていたが、たった今、完全に幕が下りたことを理解した。彼は、自分からその幕を下ろしてしまった。
どうあっても自分は助からない。
確かに女の言う通りだった。咄嗟に、自分の命を人質にして交渉したつもりだったが、そもそも自分には初めから交渉できる材料などなかったのだ。
心が折れる、というのはこういう状況か、と彼は不思議に思った。
これから指を一本ずつ落とされ、苦痛の中、自分は死ぬのだ。
絶望は、眠気に似ていた。もう返事をするのも面倒だった。彼は力なく首を振り、頷いて俯いた。もう、好きなようにやってくれ。
そして彼は、自分の命を完全に諦めた。
目の前が真っ暗になる刹那、ぱん、と女が両手を鳴らした。
彼はその破裂音に、反射的にびくっと体を震わせる。
「いま、わたしは確かに、君の心が折れる音を聞いたよ。ばきーん。わかりやすい音だった」
暗殺者は、メアリ・ハニカムウォーカーは場違いな朗らかさで笑った。唇を噛むような含み笑いではない。朗らかな笑い声だった。
「ただ、思ったよりも、心痛むんだよねこれ」
グラスホーンは生気を失った目で彼女を見る。指を落とす他に、これ以上、どんなろくでもないことを思いついたのか。
無感動に支配された彼の目に感情の色はない。それが自分に向けられた言葉だということは理解しているようだが、もう、脳が生きようとすることを諦めているのだ。聞こえていることに対して、一定の理解をしているように見えても、それは慣性で振る舞っているだけに過ぎない。思考の、その先がないのだ。
人は、自分に必要ないと思うと、色々な機能を手放してしまう。今の彼は、自分にとってコミュニケーションや交渉の余地がないということを実感した結果、相手が「何を言おうとしているのか」ということを考える能力を手放してしまっているのだ。
「でもまあ、これも依頼の内だしね。報告するチャンスがなくても、頼まれた仕事はきちんとこなすべきだとわたしは思う。これは、ルールではない。マナーさ」
言いながら彼女は持っていたナイフを腿の鞘に戻した。
グラスホーンは、まだ彼女の言うことを理解していない。耳は聞こえてはいるので、繰り返せと言われれば繰り返すだろう。しかし、彼の心はここにない。
「いいかい、グラスホーン・パトリックノーマンマクヘネシー。人生というのはマナーを守ってエレガントに送らなければならない。その意味では君は命よりもマナーを重要視した。なかなかできることではない。ああ、これはさっきの、大声についての話だよ。わたしは、そのことを理解してくれる人と出会えて、とっても嬉しい」
ぱちん、とナイフの鞘に留金をかける乾いた音。
ナイフの刃先が見えなくなって、少しだけ生命に執着が戻って来たようだった。グラスホーンは彼女の顔を見る。そこに敵意のないことが、まだ彼を混乱させているようだった。
さっきも、彼女は親し気に、実に楽しそうな調子で彼を絶望の底に突き落とした。
「お。ようやく話を聞いてくれる気になったのかな。佳き佳き。あのね、よく聞いて。そしてもう一度わたしに理性的な返事をしてほしい」
彼女は言葉を切る。
「いいかい、わたしは別に君の指なんて持って行くつもりはないんだよ」
その意味が、グラスホーンの意識に浸透するのには時間がかかった。もっとも正確には、まだ彼はその意味を理解していない。ただ、本能に近いものが、彼に「人間らしさ」を取り戻すために動き始めた。
「指なんて食べられるものじゃあない。そもそも肉も少ない、持ち運ぼうとしたら汁も垂れる。くれるって言われても困るだろ。切られる方だって痛いだけだ。人の指を切り落とすなんて、いい事なんてなにもない。誰も得しないことをするのは駄目だとわたしは思う。ぜんぜん生産的じゃないよ。それに、思い出してごらん。わたしの仕事はなんだい」
うたうような調子の声が徐々にしみ込んでゆくが、まだ自体が呑み込めない。ようやくグラスホーンは返事をした。
「……掃…除?」
「違う違う、いや、違わないけど、遡りすぎだよ。そうじゃない。もうちょっと頑張って人間らしさを取り戻せって。わたしがリィンお嬢様から受けた依頼の話さ。確か、ちゃんと伝えたと思うよ。わたしは何を頼まれたんだっけ?」
グラスホーンはゆっくり首を振った。指の話が信用できないのではない、相変わらず殴られたように頭が痺れているのだ。掃除屋は頬を膨らませて腰に手を当てた。
「もう、仕方ないな。もう一度言うよ。"死ぬほどこわい目"に遭わせる、だよ」
ンフフ、と彼女は笑った。何拍か置いて、グラスホーンの目に生気が戻って来た。
「な、“死ぬほど”、こわかったろ?」
メアリ・ハニカムウォーカーの悪戯っぽい笑みは、あまり長く保たなかった。きらきらと微笑んだ口元が、少しだけ所在なさげにもごもごとうごめき、そしてへの字に曲がった。少し生気が戻って来たとはいえ、グラスホーンの目は死んだままである。
「まあ……そうなるよな」
落胆したような、微妙な口調に、縛られたままのグラスホーンはまだ状況を理解できずにいる。
「わたしは、その、説明が難しいんだけどね。きちんと仕事をするというのはとても大事なことだと思っているんだ」
胸を張って彼女は宣言し、そしてすぐさま自分の過去を思い出したらしい。
「いや、まあ、確かに故郷のギルドに居た頃は褒められる仕事ぶりではなかった。ただ、あれはわたしを指名した仕事ではなかったんだ。どうでもいい仕事、誰も笑顔にならない仕事、惰性のような殺し合いの連鎖、暇つぶしのような権力闘争、いや、言い訳は止めよう。たしかにあの頃のわたしは言い訳の仕様もなく、仕事に対して不真面目だった。不真面目というか、逆に、今よりももっと、わたしの中の倫理に対しては真摯だったといえるかもしれないけど、職業人としては、まあ、失格だったよ。オーケー、認めよう。わたしはあんまり仕事について胸を張って語れる立場にはない」
彼女は手ぶりを交えながら自己完結し、そして肩を落とした。声のトーンはさらに一段落ちた。
「ただ、その過去の反省を踏まえてね。フリーランスになった今はもう少し、頼まれたことはきちんとこなすようにしようと思っているんだよ」
「僕は……」
「悪かった、グラスホーン・パトリックノーマンマクヘネシー。ひとつはっきりさせておこう。わたしは今夜、決して君を殺さない。約束するよ。これを最初にきちんと伝えないと安心して話が出来ないよね」
メアリ・ハニカムウォーカーは控えめに、何も持っていないことを示すように両手を上げた。
「わたしは、君を”死ぬほどこわい目”に遭わせるために、この宮廷への潜入に便宜を図ってもらった。誰にって?そりゃリィンお嬢様に決まっている。彼女は腐っても、この、龍の王に傅く第一権力、宮廷会議の一員だ。侵入者を手引きするために、警備を誤魔化すことくらいは造作もないらしい。まあ、権力者のひとりがそんなあけすけに不正を働く姿勢というのは問題だと思うけど、わたしには好都合だった」
ひらり、と手を振ると、何も持っていなかった筈の彼女の左手に、魔法のようにナイフが現れた。
「わたしはね、君に会いに来たんだ。グラスホーン。わたしみたいなタイプには、自分が行動を起こすために言い訳とか儀式とかが必要なんだよ」
一歩、彼女が近付くと反射的にグラスホーンは体をよじった。死と暴力の匂いを感じた、肉体の反射だ。ただ、暗殺者は特に気に留めた様子もない。
「初めから整理してみよう。わたしはここに、依頼を受けて君を脅かすためにやってきた。その目的は今、果たされたね。君は漏らす寸前までビビり、明日の朝には白髪が増えていることに気付くだろう」
彼女はナイフを持っていない方の手で、髪をかきあげて耳にかける。
「しかし、その過程でわたしはひとつミスを犯した。よりにもよって、依頼人の名前を君に教えてしまったんだ。リィン・スチュワートキャニオンスクラムキルグラスハートヨルスクリーム。ああ、これ覚えるのほんと大変だったよ。貴族制はクソだね。まあいいや。ともあれ、とっくに抜けた身ではあるけど、わたしがギルドの流儀に沿うならば、依頼人への守秘義務によって君のことを殺してしまわなければならない」
縛り上げられた彼の隣、ベッドの端に腰掛けた彼女の、肩から腰へのラインが月光に映える。
「しかし、ここにひとつ、ルールの衝突が生まれる。人間の作ったルールは、複雑に組み合わされるほど、おかしなことになる話はしたよね。つまり、この場合は君がわたしに何か依頼をすれば、その瞬間から君はわたしにとっては依頼主になるってことだ。わたしがその依頼を解決し、わたしたちが無関係の他人に戻るまでは、わたしには、依頼主である君を殺してはいけないというルールが発生する」
半身をよじって、肩越しにメアリ・ハニカムウォーカーはグラスホーンの目を見つめた。
「勿論、矛盾関係にある、達成不能な依頼を同時に受けてはいけない、というルールもあるんだけど、今やわたしはリィンお嬢様からの依頼は達成している。仮にまだ済ませていなかったとしても、君からの依頼を受けること自体には問題はないはずだ。だってわたしが受けた依頼は、君を死ぬほどこわい目に遭わせてやれ、というだけだからね。焼鏝を君のケツに、失礼、その、お尻に突っ込むというのはプランとしてはオファーされたけど、金額を伝えたら取り下げられた」
くるくるとナイフを弄びながら、彼女は伸びをした。
「それが『たのむ、殺さないでくれ』だとしても、わたしの仕事と矛盾はしないわけだから、受けてもよかったんだよ。君、何で命乞いをしなかったんだい」
話の着地点が今ひとつ見えてこないが、今は何かの解説のパートに入ったらしい、ということをグラスホーンは理解した。今までに彼女が語った事は、とりとめもないようにみえてそうではなかったようだということを理解した。散りばめられたヒントから正解を選べば、おそらく自分は本当に殺されずに済むかもしれない。
ごくりと唾を飲んで、なるべく優雅に聞こえるようにグラスホーンは尋ねた。
「もう、ある程度、息を深く吸っても、構わないかな?」
口をとがらせて暗殺者は笑った。
「君の、さっきの申し出は面白かった。あの、”大声を出そうと思う”ってやつ。ちょっとシビれたよ。あんな追い詰められた状況であんなことを言えるのって、育ちがいいのかな、個人的には割と無条件で信用していいと感じている。君もわたしの腕についてはそれなりに信用してくれているみたいだし、お互い敬意を持った話し合いが出来そうじゃないか」
「答えは?」
「もちろんイエスさ。脅かしてすまなかった。もう胸いっぱいに深呼吸をして貰って構わないよ」
暗殺者に促されてグラスホーンは口を閉じ、そして、しばらくぶりに大きく息を吸おうとしてせき込んだ。まだ肉体は恐怖から抜け出せていない。肺と肋骨が、痙攣するようにひくひくと動いた。噎せて、あえぐように息を吸いこむ。平気かい、と暗殺者が背中をさすった。その手は思ったよりも冷たく、しかし優しかった。
「まあ、あえて命乞いをしない理由も解るよ。強盗みたいに、向こうから金を出せとか指輪を外せとか、親切に要求してくれるならどうしようかってものだけど、わたしみたいに特に何にも要求しないと、逆にまったく助けてもらえる気がしないとは思う。よく言われるよ」
「それに、口を塞がれていたから」
「ンフ!確かに!」
暗殺者は愉快そうに笑い、そして、首を振った。
「でも今は猿轡も取ったし、わたしは命乞いをして欲しいわけじゃない。本題に入ろう」
言いながら暗殺者は、彼の頬に手を伸ばし、親し気にぴとぴと叩いた。そしてまるで抱擁するように彼女の頬が近づいた。身構えそうになったが、近づいた髪からふわっと甘いような香りがして思わず力が抜けた。
同時に、後ろ手の拘束が解かれたのを感じて息を飲む。それはまったく意外な感触だった。きつく縛られた両手の行き場がなくなる。反射的に両手を動かすと、はらはらと肩に掛けられた縄も落ちた。
「ンフフ。わたしはね、仕事と同じくらいマナーも大事だと思っているんだ」
じゃあん、と身体を離した彼女は、両手をあげてひらひらと振った。縄を切ったはずのナイフは、またどこかへ消えていた。
「わたしたちは、もしかしたらこれから雇用主と労働者になるかもしれない訳だ。その契約を結ぶにあたって、雇われる側が自由で、雇う側がギチギチに縛られてるっていうのはちょっと歪だとわたしは思う。資本主義の構造と対立しちゃうよね」
「信用してもらえてうれしい、と言うべきなのかな。ええと」
「別に好きに呼んでもらって構わないよ。この国では、メアリさん、と呼ばれることが多いかな」
「ミス、ミス・ハニカムウォーカー」
グラスホーンは痺れた両手を揉みながら、暗殺者を見た。彼女は目を丸くして、少し恥ずかしそうな表情になった。
「僕は、あなたの考えていることがよく判らない」
「キミ、でいいよ」
「僕は、どこかであなたに何かをしただろうか。その、恨みを買うようなことを」
「ノン」
「では、逆に好感を持ってもらえるようなことを?」
「……ノン」
答えるまでに少しだけ間があったが、その間が何なのかもグラスホーンには分からない。まだ思考力が戻って来ていないというより、本当に判らないのだ。会話の内容を遡って、彼は考える。
縛りあげられてから耳にしたこと、ルール、マナー、掃除、リィン嬢の事、暴力について、そして、殺された少年騎士のこと。彼は腕組みをして、彼女を観る。暗殺者は、何の表情も浮かべずに見つめ返す。
「彼の、近衛騎士の子のことなんだね」
声に出すと、それは答えのように思えた。理由は判らないが、答えに辿り着いた確信だけがあった。
「僕は、彼を確かに知っていた。真面目な子だったよ」
グラスホーンは呟きながら、少年の姿を思い出した。直接、護衛関係にある騎士ではなかったが、着任した日、律儀に回廊の研究室を挨拶に回っている姿を覚えている。まだ傷一つない、ぴかぴかした軽鎧に着られているような初々しい姿だった。この建物の警護を仰せつかりました!と胸を張る少年。
回廊は危険の多い場所ではない。仮にも龍の宮廷の一角である。賊が押し入るなんてことは殆ど考えられないのだ。つまり、そこの警護というのは実質閑職である。つまらなそうな仕事にも腐らず、きらきらした目をした新人騎士を、彼は珍しく思った。
後日、幼く見えたがハーフリングではなく、本当に年若いヒューマンなのだと聞いてたいそう驚いた。試験を通過した正規の騎士だと聞いてさらに驚いた覚えがある。中庭に変死体が見つかったと聞いた日は、それが彼のことだとは知らされなかった。数日後にそれが彼のことだと、人づてに聞いた。結局、別れの挨拶は出来なかった。
「僕は、彼を殺した犯人についての情報は持ってない。信じてもらうしかないが、本当に知らないんだ。あなたの求める情報を、僕は提供することが出来ない」
グラスホーンは喋りながら、考える。
彼は宮廷会議の下にある研究院の、戦闘とは無縁の魔術師であった。専門は契約魔術の研究、拘束術式の開発、古代語の翻訳である。出身地である西方列島の言語を使えるものが龍の国では少ないため、重用されてはいたが、そうそう要職という訳でもない。彼がこなしてきたのは、契約内容の記録や、複数のルールのチェック、ほとんどは事務と研究だ。殺し合いだけでなく、捜査や推理も本職の仕事ではない。
「近衛を動かして、捜査を進める権限だって僕にはない」
言いながら彼は、自分が少年騎士の死の真相を探るためには何の役にも立たないということを改めて意識したが、暗殺者は別段落胆した様子も、予想外だという表情もしていなかった。
暗殺者が考えているのは、少年騎士、ヴァレイの事であることは間違いない。その死の真相を知りたい、復讐をしたいという言葉に偽りはないだろう。だが、その為のピースとして彼が協力できることは一体何だろうか。
おそらく、彼女が求めているのは「そうではない」のだ。彼女は、彼に何かをさせようとしているのではないのだ。グラスホーンは直感的にそれに気付いているが、うまく言語化出来ずにいる。
「しかしあなたは、あの子の仇を討ちたがっている。だってわざわざ僕に、その話を」
グラスホーンは、今自分が知っている情報を呟き、声に出すことで、ようやくたどり着いた。彼は息を飲み、そして顔を上げた。
「ミス・ハニカムウォーカー、もし、見当違いなことを言っていたらすまない。あなたは、依頼されない限り”掃除”をしない。そういう信条を持っているのかな」
暗殺者は表情を変えないまま、息だけでひゅう、と音を立てた。
「失礼な。わたしの部屋は、常に片付いているよ。掃除は実益を兼ねた趣味、わたしの生きがいといってもいい」
「すまない。回りくどい言い方だった。掃除じゃない。"殺し"だ」
「……そっちに関しても、半分は趣味みたいなものかな。さっきも言った通り、わたしは自主的にやるときはやる。やりたくないときはやらない」
意地悪を言っているようではなかった。言葉遊びではあるが、はぐらかしているようでもない。
「言い訳や儀式が必要、とあなたは言ったね」
慎重に言葉を選び、腕組みをして彼は暗殺者の腿に留められたホルスターを見つめた。
「つまり、あなたは復讐がしたい。しかし、自主的に始めるには、何かが邪魔をしているんだね。おそらくそれは、そう、後悔だ。あなたは自分を許せずにいる」
返事はなかった。
「彼が騎士になるのを、自分の介入が後押ししてしまったのを、後悔しているんだ。きっと、あなたは自分を責めているんだ。自分にそんな、正義の味方みたいなことをいう資格があるのかって」
少し長い沈黙。核心を突いた感触があった。
「だから、あなたは誰かにそれを命じてもらいたかった。自分が動く理由が欲しかったんだ」
「待った。グラスホーン。君は、その」
さえぎって暗殺者は彼に指を突き付ける。さっきまでは見せなかった、名状し難い表情をしている。
「悪いけどさ、君、ぜんっぜんモテないだろ!」
「失礼な。あなたが儀式や言い訳が必要だって言ったんだ。僕はそのリクエストに応えているだけで」
「違う、そうじゃない、なんて言ったらいいんだ。君は、その……性格が悪いな!」
「仕事が丁寧だと言ってほしいな。僕にとっても重要な場面なんだ。誤解や、勝手な推測で話を進めたくはない。もし仮に間違った理解であなたに依頼をするとなると」
「判った、判ったよ。いい。わたしが悪かった。わたしが悪いんだ。でも……その、あんまりいじめないでほしい」
グラスホーンは、表情を見られたくない、とそっぽを向いた彼女を見て思わず笑ってしまった。自分についてだって、少し前まで死の恐怖におびえていたとは思えない。自分の情緒の振れ幅にも笑ってしまう。
「ミス・ハニカムウォーカー。僕は、何故だかあなたのことが嫌いになれないよ」
「わたしは嫌いになりそうだ」
「結構。僕があなたにする依頼の内容は決まった。そう理解してもらっていいと思う」
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