第3話 琴吹洋平
扉の向こうに立っていたのは若い男だった。
背がひょろりと細長く、色素の薄い紙が目に掛かるほど伸びている。
こういうとき、なんと言えばいいのか。必死に言葉を探すわたしをよそに、男は柔和な笑みを浮かべた。
「きみが紺野美瑚ちゃん?」
男は表情を崩さずに語りかけた。声は海の色に似ていた。
「はい、そうです」
わたしはなんとか声を取り戻して答えた。
「待ってたよ、さあ入って」
男は半身をあけて、わたしを中へと招き入れた。
古いが、掃除は行き届いている。中は独特の匂いが立ち込めている。
男は流れるように自然な動作でわたしのスーツケースを受け取り、そのまま中へと入っていく。断る隙もなかった。ぼんやりと浮かぶ男の背中だけを頼りに、奥へと吸い込まれるように歩いた。
この男が、琴吹洋平なのだろうか。
だがこんな若い男に、いたずらに扶養家族を増やす余裕があるとも思えない。別にこの家の主人がいるのだろうか。
この異常に広い家には不思議な静けさが漂っていて、他に人の気配はない。
電気もまともについていない廊下を、ただひたすらに歩いた。
永遠にも感じられた。
――待ってたよ。
そんな言葉をかけられたのは初めてだった。
「本当は港まで迎えに行くべきだったんだろうけど。ごめんね」
男は振り返らずに言う。予想外にも、申し訳なさそうな声色で。
わたしはむしろ、迎えにくるべきだったと彼が思っていることに驚いた。わざわざ歓迎もしていない子供なんかを迎えに来るだなんて、そんな人いなくて当然だと思っていたし、ひとりで港に降り立ったことに、なんの違和感も感じてはいなかった。
「……いえ、そんな」
わたしが精一杯絞り出すことができた言葉は、それだけだった。
一番奥の部屋だけはは、明かりが点いていた。畳敷きの広い和室。さっき通り過ぎたいくつかの部屋も、中を開けてみれば多分こんな感じなのだろう。
部屋にはいい匂いが漂っていた。懐かしいけれど、なんの匂いだったか、うまく思い出せない。
「ミコちゃん、カレーは好き?」
男は初めて振り返り、私の名前を呼んだ。
カレー。
そう言われて初めて、これがカレーの匂いだと思い出した。私の里親は滅多にカレーなんて作らせなかった。いつも気取った料理ばかりで、味なんてこれっぽっちもわからないような。
「はい」
反射的にそう答えた。本当は好きでも嫌いでもなかったけれど。
「そう。俺も好きなんだ」
彼は私に優しく笑うと、わたしに座布団をすすめ、ひとりで奥の台所へと入っていった。ガタガタと音が聞こえ、コンロに火のつく音が響いてくる。
「あの、手伝います」
「いいよ、座ってて。温めなおすだけだから」
わたしが板の間に向かって言うと、扉の陰から頭がひょっこり出てきた。男はにっこり笑うと頭を引っ込めて、また炊事の音が聞こえた。
わたしはどうしようもなくなって、大人しく座布団に腰を下ろした。部屋はがらんとしていた。中心に置かれた座卓の周りに数枚の座布団が無秩序に散りばめられている。
縁側の向こうの景色をぼんやりと眺めた。
山中にぽつんと立っているこの一軒家には、垣根がない。草木は丁寧に刈り取られて、開けた海が見えた。
さっき登ってきた坂の麓には、どこまでも続く真っ暗な海が広がって、いつか島を飲み込んでしまいそうだ。
月がふたつ、地上に星。
「お待たせー」
男はカレーの皿をふたつ持って戻って来た。ひとつをわたしの前に置き、もうひとつを向かいに置き、男は座った。
「どうぞ、お口に合うか分からないけど」
男はまた捉えどころのない笑みを浮かべてわたしを見た。
「いただきます」
手を合わせて、一さじ口に運ぶ。
「……おいしい」
思わず呟くと、男はにこりと微笑んだ。
今まで作業のように食べていた、里親の家の高級な食材だらけの料理よりずっと美味しい。わたしが食べ始めると、男も皿をつつくように食べはじめた。
「あの」
皿が半分くらい空になったとき、わたしは意を決して口を開いた。
「琴吹洋平さんって……」
「ああ」
と男は口の中のカレーを飲み込んだ。
「言ってなかったっけ。もしかして何も聞いてない?」
「はい」
とわたしが言うと、男は苦笑した。
「相沢さんも不親切だなあ」
「改めまして、ぼくが琴吹洋平だよ。今日からミコちゃんの保護者で、きみのお母さんの姉の旦那のいとこの継父の妹の息子」
ほぼ他人だよね、と琴吹さんは笑う。
「ここの家主で、ひとりで住んでる。お金には困ってないつもりだから、必要なものがあれば遠慮せずに言って。よろしくね」
そう言って、彼はまた笑顔を見せた。
わたしも
「小柴美瑚です。東京からきました。よろしくお願いします」
と頭を下げ、またカレーを食べはじめた。
琴吹さんはよく笑った。笑うといってもケラケラと快活なものではなく、へらりとどこかだらしないもの。
だがよく見ればそれは彼の表情ばかりではなく、身なりも同様だった。よれた白いTシャツとジーンズに、中途半端に伸びた髪。おまけに猫背。一体どこに勤めているのか気になったが、いきなりそんな質問をぶつけるのも気が引けてやめた。
きっとどこに勤めているにしても、この狭い島じゃ身なりはそんなに影響しないのかもしれない。そうやって納得しようとしたとき、港のおじいさんの言葉を思い出した。
「気いつけろよ。得体の知れない奴だ。この島一番の変わり者だよ」
そうは言っても彼の身なりは常識の範囲内にはおさまっていたし、彼の挙動も突出しておかしなところがあるわけでもない。何をもってあの老人は、この男を訝しんでいたのだろう――。
そんなことを考えているうち、皿は空になっていた。
「ごちそうさまでした」
わたしが手を合わせると、琴吹さんは返事の代わりにまたへらっと笑顔をみせた。
彼の皿のカレーは半分以上残っていた。
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