#9

 玲が気がついたときには、倉橋はすでに逃げた後だった。何時間もその場に泣き伏せていたようだ。よろよろと立ち上がると、暗闇に向かい歩き出す。

 夜にはもう朝の気配が混じり始めていた。黎明を告げる冷たい風が玲の泣きぬれた顔に吹き付ける。

 玲の頭の中を占めているのは、泣き虫で、お人よしで、優しすぎる、あの名前の無い幽霊の事だけだった。瞼の底が熱くなると、また涙が頬を濡らす。

 新聞をいっぱいに積んだ自転車が走りぬける。交差点ではヘッドライトを点けた自動車が信号を待っている。街は、新たな一日に向けて胎動を始めていた。

 玲は何度も手の甲で涙を拭う。こんな姿を誰かに見られたくなかった。それでも、どこから湧いてくるのか涙は止まらなかった。こみ上げてくる熱い息を詰めて一言だけ呟く。

「お姉ちゃん…………!」

 また、悲しみの波に襲われ、嗚咽を殺した。

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